人が焦ったとき
伝崎の足首をつかむ張本人である傭兵LV56。
その名はエイジという。
「根性ぉおお」
ただの洞窟。
傭兵エイジは死にかけの状態のせいか時間がゆっくりと流れるように感じていた。
熱血漢そのものである彼が走馬灯のように過去のことを思い出していたのである。
『最後は根性だよな』
エイジは10歳にも満たない年で、そう実感を持って語った。
『根性なんかで何ができるの?』
友達の素朴な問いかけだった。
少年エイジは立ち止まってしまった。
何も言えなかった。拳を握ることしかできなかった。
それに対する答えとしてエイジは傭兵となり、冒険を始めた。
今ただの洞窟に至り、心の中で叫ぶ。
(現に俺は100回とも根性で乗り切ってきただろうがっ)
何度も死にかけた。
数え切れないほどの冒険を乗り切った。
戦場で包囲されたこともあった。1200人近くの相手を6人で突破したこともある。
揺るぎない自信は、豊富な経験によって裏打ちされていた。
何か特別なスキルを使っているのかと何度も聞かれた。
そのたびに何度でも拳を握って答えた。
――何も使ってねぇ。根性で乗り切ってきたんだ!
それは決してスキルではなかった。
傭兵エイジを突き動かしていたのは卓越した信念だけだったのである!
「根性だろうがぁあ」
ときに信念が人の精神を燃え上がらせることがあるように、アウラの輝きを増させる。
アウラはその人の精神の投影でもあるからである。
エイジは、とげとげしいほどにたぎる赤いアウラを背中から激しく放っている。
そのアウラを原動力にして、伝崎の足首をぎりぎりと折れるんじゃないかと思うぐらいに強く握り続ける。
その気迫で頭のハチマキが揺れるほどだった。
(ちなみに頭に巻いているのは根性ハチマキだった。ちょっとだけ根性が上がったような気分になる)
その眼には信じられないほどの力があった。
出血多量で死んでいてもおかしくないほどの血を流しながら意識を保っていたのである。
規格外の根性だった。
それは伝崎の常識を覆し、驚嘆させるだけの出来事だったのである。
伝崎は計算など通用しない現実に唾を吐き捨てたくなった。
「っ、くそが」
頭脳では測れない世界があるとして。
伝崎が足首をつかまれ、両手でその場でもがいているとき。
傭兵と押し問答を繰り広げる中。
女強戦士と、金髪軍曹が一体一で向き合っていた。
その瞬間、伝崎は最高レベルで焦った。
(やばい!)
焦りに焦った理由があった。
その理由は。
軍曹は鉄の兜をつけて、ちょっとした皮鎧を着て、鉄槍を装備しているだけなのである。
レベルもまだまだであり、身体能力もやっと人間の一兵卒になったぐらい。
どれだけレベルを上げても、やはりゾンビなのだ。
軍曹は、そろーっと鉄の槍を構えなおす。
「ここから先はぁ、くわぁくわぁし」
それに対して、女強戦士は見たこともない上質なユニーク装備をいくつも身に着けている。
その双剣の扱い方、身のこなし、何よりもレベルが50台に達しており、二回り以上の実力差があったのだ。
女強戦士は、血払いするために竜巻のように双剣を振るい直す。
その動きが早すぎた。風が周りに起きるほどだった。
「死にたいわけだ」
一騎打ちになれば、瞬殺されるのがオチ。
伝崎は焦った。
強戦士と軍曹が向き合っただけでどうしようもないぐらいに慌てた。
(軍曹がっ)
伝崎は、両手をじたばたさせる。
体中から汗が噴出した。
どうにかしないと、と本気で思った。
自分でも信じられないぐらい冷静さを失っていた。
軍曹が女戦士を真正面に見据えて、貧相な鉄槍を差し向けて言う。
「やりますかぁあ」
伝崎は頭の中で無意識に叫ぶ。一瞬。
――やっちゃだめだ! いいから隠れろ!
伝崎は歯を食いしばり、とっさに体中からそのアウラを解き放っていたのである。
どれだけのリスクがあろうと、この事態を全力で打開する。
どんな手を使ってでも、どんなことをしてでも。
心の奥底から湧いてくる決意が、そうさせた。
伝崎は何か計り知れないズレのようなものを感じながら真っ黒なアウラを体外に解き放つ。
ろうそくに火が灯ったようにそのアウラが体から立ち上ると、足首をつかんでいた傭兵LV56の男が頭をのけぞらせた。
足首をぎりぎりとつかんでいた、骨ばったたくましい手。
いくつもの大きな古傷がある手が。
雄姿が刻まれている勇ましい傭兵の手が。
ふわりと、ほどけた。
傭兵は、あっけにとられた様子で目を見開く。
つかもうとしているのにつかめない現実に、足首を二度見してから伝崎の顔を見上げた。
伝崎が足首をねじると、手からこぼれた。
傭兵は力が無くなったように、悪い意味で腑抜けになったように表情をゆるめる。一粒の汗が頬を走り、あきらめにも似たような表情になった。
伝崎の真っ黒なアウラは、ただの洞窟中に広がっていく。
女戦士は異変に気付いたのか、びくりと立ち止まる。
しかし、首を振ってすぐさま軍曹の方に向き直した。
伝崎と女戦士の距離、6メートルほど。
軍曹と女戦士の距離、2メートルほど。
どう考えてもこちらが間に合う距離ではなく、彼女の前進力によって二つの剣の方が先に軍曹の首を捉えるだろう。
そのとき。
伝崎は解放された右足を使って魚が飛び跳ねるように進んでおり、右手でセシルズナイフを即座に拾って、転ぶようにして立ち上がりながら口走った。
風の靴といえども間に合わず、絶望的な「一瞬」しかなかった。
双剣と鉄槍がかち当たるときだった。
「ちょ、待てよ」
女戦士は背中に鳥肌が立つのを感じながらゆっくりと振り返った。
「えっ?」
ダンジョン内で人の声がして、それが自分に話しかけてきたことをいぶかしがるようだった。
ただの洞窟の中の空気が完全に止まっているのが分かった。
「ちょ、待てって」
人間が本気で焦ったら自然と出る言葉なのだろう。
何の意図もなく、ほとんど無意識に伝崎はその言葉を口走っていた。
かつてのイケメンの代名詞であるアイドルだけが発することを許された言葉だというのに、それを伝崎が焦りのあまり素で口走ってしまったというべきだろうか。
そう。
しまった、のだ。
伝崎は冷や汗を体中にかいており、右頬を大胆不敵にあげる。
「いいから俺と戦ろうや」
無茶苦茶な提案だった。
果たして、異世界でもこのノリが通用するのか。
伝崎のアウラは女強戦士に追いすがるように向かっていた。
それはほとんどとっさだった。意味があるのかも考えていなかった。
改めて時間が進み始める。
すでに後ろからは炎球が迫っていた。
傭兵は開いてしまった自分の手のひらに疑問を抱く。
(おお……??)
その身に起こったことはあまりにも衝撃だった。
(あれは……)
全力を込めていた手から、いろいろなものが一気に抜けた。
足首をつかんでいた手。それに黒いアウラが触れたと思った瞬間。
体中の赤いアウラがぶっこ抜かれると同時に。
――絶対に。
初めて垣間見てしまった。
――根性では……無理だと思った。
黒服の男が放ったどす黒いアウラに自信という自信を吸い取られてしまった。
傭兵は止まった時間の中で寒々としながら考える。
――どんな経験を積み重ねてきたんだろう……?
――何を見てしまったんだろう……?
どんな精神なら。
――このアウラを生み出してしまったものはいったいなんだってんだ?
黒いアウラに触れた瞬間に感じたもの。
何があれば人はここまで。
――こんなのを放てる人間なんか。
人は「壊れてしまえるのだろうか」と思った。
その壊れた存在と出会った時に実感したのは、体力1で開けてはならない宝箱を開けてしまったときのような。滅びかけの国が何百年と死に物狂いで守られてきた封印を解いてしまったような。
確かな絶望感だった。
傭兵エイジは老衰したような表情で、しわくちゃの顔になりながら。
黒服の男のほっそりとした背中を見つめ、その頭頂部に立ち上っていく国を亡ぼすほどの迫力がある闇夜のアウラを見上げていた。
しかし、そんなアウラを放つ男が突然口走った言葉に、もんどりうちそうになった。
「ちょ、待てよ」
(なんだ……?)
「ちょ、待てって」
(なんなんだ……?)
突然上げた奇怪な呼びかけに、洞窟内のモンスターも冒険者もみんな騒然とした。
傭兵はあっけにとられながら、じわじわと力が無くなって意識が途絶えていくのを感じる。
その後ろ姿を見て頭の上に「!」を立て、はたと気づいて口を動かすこともできずに女強戦士に心の中で訴える。
(頼むから根性を忘れてくれ……! 俺が間違ってた……)
「いいから俺と戦ろうや」
(逃げてくれ……!)
(そいつは魔王ですらない……俺たちが触れてはいけない異世界の何かだ……!)
女強戦士の背中にアメーバ状のように迫る伝崎の真っ黒なアウラ。
伝崎の呼びかけと傭兵の心の中の訴えに対して、女強戦士が取った行動は。