想定外
賢者ユクテスは背筋をピンと正しながら言う。
「わたくしめの予想ですが、まずはあの無職が先制攻撃を当てまして頭蓋骨を怯ませるかと」
ナコ姫は肩辺りのドレスを整えながら冷静な表情を崩さずに反論する。
「あの無職は、攻撃を効かせられぬ」
大賢者シシリは だらしなく片手をあげて。
「毒を一滴でも肌に浴びてしまったらさぁー、あの無職の負けだと思うんだ」
闘技場の観客席には、人が満ち満ちていた。
何万という人の視線が中央に注がれていくだけでその熱気が異様なほど高まっていく。
二人の男が相対している。
観客たちは席に座りながらも体を横に向けたりして、隣の家族や友人たちと話し合っている。
「そもそもあの鱗が固すぎるだろ」
「ソードマスターの最高の剣でも折れたんだぜ」
「あんなナイフでやれんのか」
「あの無職に勝ち目なんてあんのか?」
様々な予想がささやかれる中。
強戦士ストロガノフは二つの席につまらなそうに全身を預けて、鼻くそをほじっていた。
頭蓋骨は闘技場の中央で両腕を組んで立っていた。
戦いの合図が下りているにも関わらず、まったく動かなかった。
――防御力に対する絶対的な自信のために。
その鱗のひとつひとつ。
拳大ぐらいの楕円形をしていて、その表面のなめらかさから漆黒の光沢を放つ。
硬さをにじませている。
きっと鋼鉄よりも固い。おそらくは現代技術の超合金よりも不可侵。
それがすべての肌に、鎖帷子のように密集している。
中山服の下にも……それこそどこにも隙間が見られない。
その密集は、竜のごとく伸びるあごの下部分でさえも確固たるものにしている。
その姿。
体全体は、鋭利なぐらいにほっそりとしていて人間のような立ち姿だった。
目は黄金のように黄色くなっていた。
鱗のせいで全身を羽で覆われる鳥のようだった。
頭蓋骨は両腕を組みながら竜顔をゆがませて考える。
(真正面からぶつかり合うと言ってもだ。まずはそのナイフを欠けさせて……そこから絶望で震えてるところをブシュブシュと)
頭蓋骨は鱗の位置を無理やり変えながら笑い、体中の鱗をギシリギシリと動かしていく。
闘技場には、片付けきれなかった瓦礫の石ころがそこかしこに転がっている。
ほとんどが塵や砂みたいなもので気にならなかったが、明らかにひとつだけ目立つ石があった。
それは、丸い丸い石だった。
手に乗るぐらいの丸い石だった。
頭蓋骨の足元から三メートル半付近に落ちていた。
どう考えてもなんかのフラグになりそうな石だな、と伝崎は思った。
「なに見てんだよ、早く来いよ」
そう言われて、鱗をギシギシいわせる頭蓋骨に視線を戻した。
頭蓋骨は相変わらず両腕を組んだまま動かない。
その場で動こうとしない。
伝崎は、観客席の賑わいぶりを肌に感じる。
「あいつなんかに勝てるわけないって」
「あんな無職が参加すること自体止める奴いなかったのか?」
「誰か教えてやれよ、ちゃちなナイフなんかじゃやれないって」
そのほとんど九割方が伝崎の敗北を予想していた。
がやがやうるせえよ、と伝崎は口走る。
そうして、右手で懐のセシルズナイフをつかみながら笑う。
「最高じゃんか、オッサン。このアウェー、クソみたいな予想の嵐」
夜色のアウラを凝縮して懐剣術D+を発動。
腰を低く落として、風の靴にガントレットの手をすえる。
敏捷S++。
このスピード、いまだに全力を出して体験したことが無い。
もしも、今の自分が全力を出したらどうなるのだろう。
――やってやる!
伝崎は、怒りにも似た表情で顔を引き締める。
引き締めて引き締めて。
口を真一文字に引き締めて。
――太ももに力を込める。
黒服の足部分が肌に張り付いて、太ももの筋肉の張りを明白にする。
レベルを上げたおかげで付いた筋肉は、常人のそれよりもはるかに太くなっており、裏太ももの棒のようになっている部分が風船のように、あるいは力こぶのように曲げれば曲げるほど盛り上がっていく。
ミシミシと音を立てて黒服の繊維の糸をわずかにちぎりながら、足の血管が網目模様に浮かび上がる。
――両足に風が渦巻く。
エメラルドに近い緑色の風の靴から、浅い緑の風が解き放たれている。
その風は靴についている白い羽をなでて、一種の円形を描き、二つの足から闘技場の地面に伝わっていく。
やがては、さっきの戦闘で生まれた粉々の瓦礫ひとつひとつ、塵ひとつひとつに触れる。
そうして、巻き上げていく。
力強い風が足下から、太ももに巻き上がったときに浮遊感が生まれる。
宇宙の無重力感にも似た不安定な、しかし自由になっているその感覚。
まるで雲を踏むような、あまりにも武道的な。
その特別な、足裏が溶けるような快感。
それを得たとき。
はじめて。
伝崎は全力で、体を一気に倒す。
前へ。
気づいたら。
伝崎は頭蓋骨のはるか遠く後ろに背面で立っていた。
足には今もなお風が螺旋状に渦巻き、前方へ導き続ける。
バランスを崩しそうになりながら、セシルズナイフを振るった片手をあげて、こけないように足を継ぎ足していく。
真紅のセシルズナイフの先に夜色のアウラが、ロウソクの炎のように尾を引いていく。
一歩、二歩、後傾気味に空を仰ぎながら進んで、数メートル近く離れていく。
それは、すれ違う形だった。
頭蓋骨の横腹から、すごい勢いで緑色の血が噴き出していく。
毒々しい、サイケデリックな原色の一つに似た血の色だった。
肝臓などから出てくるような黒めの血が混じりながらドバドバとあふれて、闘技場の大理石の一点を濃い緑に染めて徐々に汚していく。
どかんと観客席で歓声が上がる。
観客すべてが立ち上がった。ナコ姫という例外を除いて。
頭蓋骨は、呆然自失。
驚きの表情で顔に真っ黒な影を落としながら、おもむろにその傷口を見つめようとする。
痛みを覚えたのか、右肩をガクンっと傾けて、両手でそこを押さえる。
とっさに筋肉を締めるが。
「血が、止まんねぇ!」
滝のように血が流れ出している。
一枚の鱗が屠られ、その楕円形を崩し、めくり上げられていた。
見るからに傷口が斜め上に深く開いていて、そこから血を吐き出し続ける。
頭蓋骨が傷口を見ながら、さらに力を込めて気合を掛ける。
「らぁあ」
ぐん、と鱗が盛り上がる。
しかし、まだ血の勢いが衰えない。
「うぉお」
さらに、ぐん、と鱗ごと胴体が二倍近くに膨れ上がる。
やっとのことで血の勢いが衰えて、だらだらと流れ出すにとどまる。
しかし、あまりにも傷口が深すぎるのか、完全に血を止めることができていなかった。
頭蓋骨は、スローモーションで振り返る。
「おい……なんで」
伝崎は楽しそうに、しかしどこか悪だくみをしているかのように右頬をあげて笑っている。
「なんで……俺の鱗をやれた?」
頭蓋骨はおろおろとしながら両手を前に出して赤子のように近づいてくる。
「ああー、このナイフさ。殺した数で威力の上がり方が決まんだよ」
頭蓋骨の鱗の下にある表情が青白くなっていく。
「スライムを分裂して殺しまくったらさ、こうなったんだ」
妖精のオッサンが黒服のポケットから顔を出して、両腕を組みながら誇らしげに胸を張っている。
すげぇだろぉ?と言わんばかりに。
伝崎はさっきの感覚を確かめる。
頭蓋骨の耐久はSS。
このナイフ。
その強皮を滞ることなく簡単に切り抜けた。
もう、この世界に切れないものはないんじゃないかと思えるほどの手ごたえの無さだった。
――気持ちいい。
頭蓋骨は、体中から血の気が引いていくかのように、その場に立ち止まっていった。
その表情が変わっていく。
最初は爬虫類のような黄色い目を見張り、驚きの表情だった。
しかし、肩が上がり、息が浅くなって、目を細めて遠くを見つめながら、どんどんとその頬が落ちそうになっていく。
「そんなナイフあるわけが……」
伝崎は問答無用で踏み込む。
刹那。
――風がほとばしる。
すでに、伝崎は側を通り過ぎていた。
その手でセシルズナイフが前に振り抜かれていた。
頭蓋骨の左肩から血が噴き出していく。
立っている位置はすでに三メートル以上離れており、噴き出す血は届かなかった。
「あるんだよな、これが」
頭蓋骨は三十歳くらい老いたかのように頬がこけて、痩せこけて、死にそうな顔になっている。
自分の敏捷はS++。
この足。
風になれる。
世界を跳躍してしまえるんじゃないかと思えるスピード感。
――半端なく楽しい。
伝崎は、子供みたいに無邪気な笑みを自然とこぼしてしまう。
異世界に来てよかったと心底思えるくらいの気持ち良さ。
スピードを出すたびに、風になれる爽快感が体中を駆け巡っていくのを感じていた。
想定外だった。
ただただ想定外だった。
それはすべての人間にとってそうだった。
思ったよりも。
(いける……)
伝崎自身ですら、自己を推し量ることのできないくらいに成長していた。
頭蓋骨がまたゆっくりと振り返ろうとしている。
闘技場の中央付近には、丸い石が落ちていた。
それはそれは丸い石だった。
どっからどう見ても、その石を踏んづけたら転んでしまうだろというような。
そんな石が。
今は、伝崎の足元近くにあった。
伝崎はそれに気づくと、即座に丸い石を蹴飛ばした。
「こんなのに引っかかるかよ」
その丸い石は、そのまま飛んでいって闘技場の場外に消えた。
今の伝崎は周りがよく見えており、信じられないぐらいに集中力が上がっていた。
――ラッキーひとつで覆ってしまうからな。
だからこその十全な対応だった。
もはや、運命すら超克してしまえそうなくらいに調子が良かった。
伝崎はまた前に体を倒す。
伝崎が動くたびに、またドカンと観客席で歓声が上がる。
闘技場中全体が揺れている。
何万人もの興奮が、赤い赤いエネルギーの束となって空に向かって解き放たれていく。
澄み切った青空を覆い尽くすほどの熱狂だった。
「すげぇ!」「どうなってんだよ」
「やれぇー」「あの無職がやりやがった」
みな両手をあげて、伝崎を応援するように声を掛けていた。
その中で観客席から顔を出すようにして。
「あいつと今すぐやらせろ!」
強戦士ストロガノフが片腕をぐるぐると振り回して叫ぶ。
「これはこれは、面白いことになりましたな」
賢者ユクテスは、特等席で賢者独特の平静さを保ちながらも楽しそうに言った。
ナコ姫は戦いを見るにつれて、いつもつまらなそうにしている口元を変化させた。
見る見るうちに、口元が「へ」に変わった。
伝崎がまた動くと、「ノ」に変わった。
ナコ姫の口から自然と言葉があふれ出た。
「あの無職はずるい」
「はい?」
「自由すぎる……」
ナコ姫は無意識に唇を強く噛む。
強く強く。
青白い唇が血で赤くなって、まるで口紅みたいになる。
今まで彼女になかった赤い感情があふれる。
うらやましさみたいなもので全身が張り裂けそうになっていた。
会場中の者が席からどれだけ立ち上がろうが、ドレスの裾を握って自分だけは席から立ち上がるまいと決意していた。
ある意味で無職が自由なのは三千世界パラレルすべての宇宙共通の原理だった。
しかし、伝崎の本当のクラスは無職ではなく、無だった。
無だった。
大賢者シシリは「面白い事になったね」と前置きした上で、長らく闘技場ファンを続けてきた人間として付け加えた。
「これからだよ」
その銀髪を会場の熱気でなびかせながら期待に満ちた顔で笑った。