魔王
「私のダンジョンをAランクにしてほしい!」
黒いローブを身にまとう魔王と思しき女が突然やってきた。
角を生やしている。
うちの居酒屋のカウンターに座るそのシュールな光景に目を疑ったし、疲れ目を通り越しているだろと思った。
彼女が突然、現れた経緯について。
本当にいつもの日常だったんだ。
昨日は飲みすぎたか。ビール三本も開けたからな。
しかし、急に冷え込んだせいもあるだろう。
伝崎 真は居酒屋チェーン店の一雇われ店長でありながら、若くして商才を発揮し、着実に客を増やしていった。
仕入れ市場には安くて良い素材をと自分で足を運んだし、店員たちには基本的な笑顔の練習から発声まで徹底させた。
基本的なことを積み重ねて、数か月前には他の店長の罵倒を浴びながらも月に二千万円もの売り上げをあげるようになった。
それからというもの、なぜか幽霊やUFOが見えるようになり、ある朝起きたら河童がキュウリを震える手で差し出してきたこともある。
枕元で、だ。枕元で、だぞ。
ハードワーカーは辛い。
店内のトイレは改装中だった。
伝崎はカウンター越しに、もじもじと腰をくねらせながら、バイトの子たちに叱咤激励を浴びせ、確固たる決意を元に旅に出ることにした。
「ちょ、二十分任せる」
片手を立てながら感謝と依頼の気持ちを表し、バイトの子のフレッシュな笑顔を背に地球上でもっとも基本的かつ下劣な行為を繰り広げに行くのだ。
隣のコンビニのトイレは掃除中だった。
隣の隣の牛丼店は使用中だった。
他にも、何件かここぞとばかりに空いていなかった。
冷や汗をにじませながら、ほおを震わせ、怒る。
――何のためのトイレだ!
このとき、この瞬間のためにしか存在しねぇだろうが。
二十分という時間は、かくも淡く過ぎ去るのか。
時計を見ると、約束の時間になっている。
もう一度、時間の猶予をもらおうと店内に戻る。
バイトの子が当然のごとく、ひとりの奇妙な客をカウンターに招き入れていた。
一本の角を頭に生やしている女が座っている。
異様なほど真っ白な肌といい、だぶだぶの真っ黒なローブ越しからでもわかる豊満な胸といい。
その整った顔立ちからは、異世界ファンタジーも真っ青な雰囲気を感じ取ると同時に、伝崎は背を向けようとする。
「店長! ここにいらっしゃるお客さまが御用とのことですよ!」
教育したとおりの、はきはき声で呼び止められる。
まさか、自分が今まで教えてきたことがこんなときに裏目に出ることになるとは。
そのコスプレしているとしか思えない美しくも奇妙な女性は、キリっと。
本当にキリっとこっちを見る。
――だから、新客は一番良い席である奥の個室に案内しろっていっただろうが!
心の中で、ほえたける。
今は、そういう商売としてのマナーのレベルではなく、単純にエゴでしかない叱咤だった。
本能的な心の叫びに近かった。
その美しい女性は目を輝かせ、飛びついてくる。
肛門括約筋が、ぷるっと震える。
みんなも体験したことがあるであろう。
何事もなかったかのように、そのリビドーがなくなる時間がある。
寄せては返す波のように今は、冷静な肛門さんが戻ってきた。
しかし、その波が帰ってきたときの衝撃は半端ない。
急がなければならなかった。
「何かご所用ですか?」
伝崎は紳士ぶって、とても涼しげな顔で、その抱きついた女性の肩を離す。
ぶっきらぼうに魔王のごとき女性は言う。
「カリスマ店長がここにいると聞いてきたのだ」
「それはそれは、光栄なことで」
奥の個室に素早く案内しながら、あくまでも涼しげに店員に指示を出していく。
時間がなかった。
早く要件を述べて欲しかった。
「私は魔王だ。お前に頼みたいことがある!」
「なるほど、分かりました。おっしゃってください」
コスプレだろうが魔王だろうが何だろうが、今はこの肛門の屁の役には立たない。
トイレという聖域だけが必要なのだ。
ローブ姿の女性は、その豊満な胸をテーブルに押し付けながら。
「私のダンジョンは、すっごいさびれてて冒険者も月に二、三人しか来ない有り様なのだ。
しかししかし、噂に聞くところによると異世界にものすっごい商才の持ち主がいると聞くではないか。
来てみたら、案の定。
私のダンジョンを、このような居酒屋にしたいのだ」
店内は、常に満員だった。
「私のダンジョンをAランクにして欲しい!」
Aランクホテルみたいに言うな、と内心ツッコミながらも。
腰の奥深くに異変が起きていた。
――戦士たちが帰ってきた!
伝崎は全力で耐える。耐えて耐えて、歯を食いしばって。
この店内で、その二字を告白することがどれほどの重みを持つのか。
カリスマ店長こと、伝崎真が理解していないわけがなかった。
ただ、それだけのことが、これほどの禁忌に触れるのかと。
食欲を減退させるだけのことが、だ。
もちろんのこと、それが多量の水分を含んだものであり、決して詳細に語れないことはいうまでもない。
バイトどもが盗み聞いて噂を流す可能性を否定できない以上、こと飲食業界ではその二字を口にすることはカリスマ店長としての死を意味していた。
クソ。
クソがしたい。
伝崎は手のひらを向け、客に対して片言になる。
「話は聞く。す、こし、まて」
「さては逃げる気だな!」
「ちがう、必ず戻る。お客さん」
――ぴぃいいいいい。
お腹が絶叫する。
しかし、お腹の音など自分自身にははっきりと聞こえても目の前の人間に聞こえないことが多い。
ましてや、店内の喧騒がその声を連れ去ってしまっていた。
伝崎は対話をあきらめ立ち上がり、ボディブロウを喰らったかのような引け腰で席をはずそうとする。
「逃がさんぞ!」
魔王を自称する女性は、人差し指を立てる。
奇怪な言語を一言つぶやくとガンっという音がなり、部屋の出入り口と窓にはコンクリートじこみの壁が出現する。
伝崎は力もまともに入らない手で壁をなぐりつけ、おずおずと座り込み、孤高に震える。
完全無欠の、陸の孤島。
脱出不可能。
八割方、心が砕けていた。
伝崎は半笑いで尻を指差し、口ずさむ。
「ク、ク、ク……トイ、トイ、トイトイ、トイトイトイ」
奇策だった。
察してもらうということである。
「やる気か!」
もはや魔王としか説明がつかない女性は、なぜか身構えて詠唱を始める。
対魔法とおぼしき半透明の結界を自分自身の周りに何重にももうけていく。
目の前のショックで肛門の門番を四、五人はもうすでに殴り殺されただろうか。
ここでこの魔法の言葉を口にできれば、狂戦士を解き放つことができるだろう。
しかし、やはり、それはカリスマ店長伝崎真の死を意味していた。
プライドが完全に落ちることを許さなかった。
あの独特の強烈な圧迫感が、肛門に襲ってくる。もんどりうって、肛門をおさえたくなるような感覚である。
あと、一、二分で脱糞するだろう。
もう九割九分、カリスマ店長伝崎真は死んだに等しかった。
絶体絶命、伝崎真はどうやってこの状況を打開するのか?