P2-52 軋む音はやさしい幻
最初は何を、するつもりなのかと思った。ぱっと見は決して悪くはないが、少し変わった色の髪と瞳をしているだけの若い男だった。
もしもあの時あの場所で、売れもしない人形を拡げてなどいなかったら。
明らかに何もかもが奇妙な、こんな軌跡を己へと呼び込むこともきっと、なかったのだろうと、思う。
「随分と古い骨董品を、いまだに使っているんだな、ここは」
本来引き出せるはずもない情報を延々と吐き出し続ける魔具を眺めながら、ひどくのんびりとした調子でリーは言った。
対するヘイは無言であるが、無言のうちにあるのは間違いなく彼女の言葉への肯定である。それほどまでに今、彼女らが目の前にする魔具は古かった。異常としか形容のしようがないほどに古かった。このエクストリー王国ではあまり魔具が発達していないことを抜きにしても、だ。
ここが国境であることを考えればあまりにそれ、識別機と呼ばれる特殊な大型の魔具は不自然に古かった。少しでも魔具を知るものならば、誰もが故意だと断言するほどに古かった。
その名の通り、人間および品物の真贋を見定めるべく使用されるのが識別機である。
しかし今彼女らが見ている識別機は、おおよそ高性能という言葉とは無縁の、最新型と比較すれば五十、六十年といった単位で古い代物だった。物理的および魔術的な改ざんに対する一切の対策もなければ同時複数記録もできない、検査項目としてあげるべきものに対する詳細な設定も不可能という、非常に不便な、初期の識別機だった。
識別機が、真実を紙上へ次から次へと吐き出してゆく。真実しか記録することのできないよう特殊な加工を幾重にも施した用紙の上に、その「内側」にのみ存在していた事実を、淡々と紡いでゆく。
現在リーたちが勝手に情報を引き出せてしまうことからも分かるように、このポンコツの識別機は、禁止項目の設定も非常に曖昧だ。完全な旧型であるからこそ多くの抜け道が既に存在するこれが今更、国境を通り国へ入ろうとする人間の識別に果たして、どれほどの役に立っているというのか。
小さくため息をついたとき、不意に傍らのヘイが口を開いた。
「だからこそテメエが今、この国なんぞにいるんだろォよ」
「……そうだな。その通りだ」
それが先ほどの己の言葉に対するものであると、気づくまでに少しだけ時間を要した。ガタガタという音を立て、一切の精査が行われていない「正確な」情報を吐き出し続ける識別機を眺めながらリーは頷く。
この魔具の無能っぷりは、レジュナリア【傀儡師】であるリーのような人間を当然のように国内へと通してしまったというだけでも容易く知れようものだ。この地域を治める貴族はどうやら現国王とはそう仲が良い訳ではないというから、今彼女らが手にしている情報は或いは、別の方向にも働くものであるのかもしれない。
まあ実際にその情報が動く様子を、リーが目にすることはほぼ確実にないのだろうが。
あらためて考えるとしみじみ様々な面においておかしすぎる状況に、小さくリーは笑ってしまった。
「ンだよ」
「いや。今更ながら、本当に妙なことになったと思ってな」
自身が不正による密入国者であるという証拠を、延々と魔具に吐き出させながらリーはまた笑う。
どうしてこんなことになったのだろうと、今更だとは分かっているのにどうにも、しみじみ思ってしまうのだ。確かにもう今年で自分も三十になる、そろそろ終わりを受け容れる頃合いかもしれないと、そんなことをここ最近、薄々思い始めていたのも事実ではあった。
破滅への願望は年々、罪科を重ね命を永らえるたびに増大する一方だ。生命は殺せてもレジュナリア【傀儡師】としての呪いを葬り去ることはできないリーには、あてもないただ自分が「死ぬ」場所と方法を見つけるためだけに命をつなぐ行為は、ただ無為で無感動で、しかも不可欠であるというどうしようもないものでしかなかった。
この国を訪れた原因も、結局はそんな、くだらないものもひとつでしかなかったのだ。初めに彼女が受けたのは、ただの、いつもの仕事でしかなかった。いつも通りの展開の上に、存在した必然でしかなかった。
それまで潜んでいた居場所を暴かれ、大量の注文を受けることを余儀なくされた。己が手の生んだ人形が、そう思い入れもなかった潜伏先の中枢を掻き回す様子を特に興味もなく、ただ諦念と倦厭をもって、リーはぼんやりと眺めていた。
もう一つの依頼が彼女へ舞い込んだのは、そろそろ国を移そうかと、やはりここにも何の手がかりもありはしないと、リーが腰を上げようとした直後だった。
多少の金とある程度の安全を引き替えに、国を移り多くのレジュナ【傀儡】を作れと、それらをこの、エクストリーの闇へと流し込めと彼女は命じられたのだ。それ故にリーは、このエクストリー王国という国へと足を踏み入れた。
ただそれだけの、はずだった。
本当にそれだけの、はずだった。
「……妙なものだよ、ほんとうに」
依頼を断ることは、おそらくできたと思う。その裏のみならず表在化して鼻につく、依頼に対する異様なまでの胡散臭さも最初からリーは承知していた。
それでも依頼を受けたのは、この依頼が自分を終わらせるかもしれないという珍妙奇天烈な、根拠も何もない予感があったからだ。そしてそんな妙な予感に、別に従ってやってもいいかと、もういい加減自分を、この存在を消そうと結果として刺青が残ったとしても、ある程度常闇の中で自分はもがいた、足掻いた。だからもうさすがに誰も怒りはしないだろうと、そんなことを思ったからでもある。
無論いい加減な人間に、いい加減に利己的に今更殺されてやる道理などリーにはない。
それほどに多くの命をこれまで、リーの制作物たちは当然のように奪ってきた。奪った命に連なるさらに多くの人間を、不幸のどん底へと当然のように容赦なく叩きこんできた。
だからこそ、エクストリー王国に入ってすぐのリーは若干、落胆にも似た感情を味わったのだ。
結局はこの国も、同じではないかと。
若く優秀な人物がその頭に冠を戴くというこの国も、結局は今まで見てきた、多くの国と何も変わらないではないか、と。
「ハッ。テメエがムチャクチャなコトになったのは、結局は全部、リョウのせいだろ」
「ああ。そのことに関してはまったく否定の余地がないな」
ヘイの言葉に、小さく笑う。リーという存在を変えたのは、結局は国でも、依頼でも何でもなかった。
ぼんやりとそれまでと同じように、闇に沈んでいたリーの手を引いたのは一人の青年だった。表向きには何の力も持たない、何の地位もない、金もない魔力すらない、一見しただけではただの、少し変わった色をしているだけのどこにでもいそうな青年だった。
しかし平凡を装いながら、リーと出会った当初から彼は凡庸とは無縁だった。
成人した男性でありながら、彼は当初から人形に純粋な「興味」を示した。その精巧さを、人間のそれと酷似した動きを見せることを、ただ創作物としてのリーの人形を大袈裟なまでに彼は、褒めた。
最初は本当に、心底から訳が分からなかった。
姿や立ち居振る舞いを見る限り、リーをレジュナリア【傀儡師】と知って彼女の露店へ出向いた人間とは、到底思えなかった。
「リョウ君、か」
笑う。笑う、笑ってしまう。
そのとき彼が探していたのは、傀儡を作るものとしてのリーではなかった。
人間の「腕」をふたたび創ることのできる、一度は腕を失った人間が元いた場所に戻るための、一助としての偽の腕、義手を。それを創り出す事のできる人間を、彼は探していた。
しかも自分のためではなく、血族や特別親しい人間だというわけでもない赤の他人のために、だ。
決して少なくない数の人間に罵倒され店から放り出されたと、であったときの彼は苦笑して頭をかいていた。しかしそれでも諦めることをせずにあちこちを歩き回っていた、その結果としてリーを見つけ出したのだと。
こちらが承諾を申し出たときの、彼の驚愕を思い出す。
子供のように目を見開き、もはや言葉もなくまじまじと、まっすぐにリーを見つめてきた黒い目を、思い出す。
「なあ、ヘイ」
「あァ?」
全てを吐き出し終えた魔具が、いつの間にか沈黙していた。
吐き出された全てを手に取り懐に入れると、リーは四つの黒いものを己の袖口から取り出した。ギシリと、二人分の結界が容赦なく軋む音が聞こえる。
たかが魔具師にすべての情報を奪われるような時分になってようやく侵入者に気づくとは、どうやら相当にここ周囲の人間は平和ボケしていたらしい。それとも「平和」であることが当然と思い込んで疑おうともしなかったからこそ、当然のようにこの場所をこんなポンコツを放置し続けていたのか。
既にこの識別機を使用して今日、エクストリー王国に不正に入国しようとしていた人間たちは全員ヘイとリーの魔具で拘束されている。現在の二人の行動は逐一この仕事の「依頼主」に報告されているはずだから、そろそろ彼らもまた王都から遣わされた何ものかによって、どうにかこうにかされている頃合だろう。
ぽいと四つの黒を床へと向かって放れば、床との衝突と同時にそれらは具現化する。
ほとんど音もなく現れた無骨な姿の無表情な黒人形四つを眺めながら、さらにさらにと軋り続ける結界の音を聞きながらリーはまた笑った。
「私は物心ついてからずっと、自分が死ねばいいと思い続けていた」
「あー。だろーなァ」
「この手が作り出すのは結局、人間を破滅に追い込むものだけでしかない。ひとの贋物など所詮、人間の持つ暗き欲望を果たすための道具としかなりえないと、ずっとそう思っていた」
「あァ」
「なのに、な」
笑う。笑う。衝動は押さえきれない、本当に笑うしかない。
今傍らに立つヘイが、結局は自身の「同類」でしかない人間であるということも加わってだろう。本当におかしいと、思う。己の直接の意思は抜くにしても結局は生きるために多くの命を人間を犠牲にしてきた自分たちが、たった一人の人間を助けるためにこんな面倒に、自分から望んで首を突っ込んでいるなんて。
リーたちに「条件」を突き付けたあのニースという男は、成功および失敗は抜きに、規定期日以内に戻らなければリョウの命は保証しないと言った。
ヘイはまずそんなことは無理だと言い切ったが、しかしあの男の目は確実に本気だった。そもそも本腰を入れていたわけではないとはいえヘイとリーの設置した結界を易々と突破してみせた人間を相手に、逃亡など簡単にできようはずもない。
それにあの男は、リョウという存在が本人の意図はさておき、結果としてリーに、そしてヘイにもたらした影響を全く理解していない。
リョウがリーたちに与えたものが、どんなに探しがたく見つけがたく。
手放しがたい「道」への可能性であるかなど一切、彼は分かってなどいないのだ。
「なのに、なんだろうな。それなのにな」
――腕をなくした、人がいるんだ。
そんな言葉を向けられたのは、三十年に近くなってきた人生から鑑みれば随分と最近のことだ。ほんの数日前のことでしかないのにこれほど妙な懐かしさももってその時間軸が思い出されるのは、もう二度とその場所には戻れないと、しかしいくら戻ったところで、同じ選択しかしないだろう自分を分かりきってしまっているからか。
別に理由は何でもいい。何であっても、差異はない。
発端そして事象と結果。結びついて自分の先は、果たして破滅か、死か、それとも。
「今更、こんな年になって夢など見ることになるとは」
リーは、笑った。笑うしかなかった。
奪って、ばかりの人生だった。ただそれだけの、誰にも感謝などされない、されることを望むべくもないくだらないどうしようもない人生だった。
面白みなどひとつもない言葉だけでつづられるはずだった彼女の命に、リョウという存在が落としたのは残酷なまでに鮮やかな人間の希望であり願いであり、他者からの純粋な感謝であり歓喜であり未来への果てない展望だった。触れられるはずもないものを、気がついたときには、受けていた。
存在が軋んだ。胸が痛かった。その裏で穢れたままの指は他者を殺す人形を造り続けている。奴らに彼らを、彼を気取られないためにも、ただリーができるのはそれまで通りに供給者であり続けること、それしかなかった。
咎めない瞳が、痛かった。
とうに擦り切れてしまったはずの、罪悪感が再度胸によみがえるくらいには、疼いた。
「無知ってェのは、怖ェよなァ? まったくよ」
ククッと、ヘイが喉を鳴らして笑う。
何もかも分かられているらしいその言葉に、今更の反論もあろうはずもない。くだらないだけのリーの人生を、一切何も知らなかった彼という存在はいったい、何だと言うのか。
分かっている。勿論彼は何も悪くなどない。――いや、或いは多少は悪いのかもしれないが。思う。
なぜなら世界に現存するレジュナリア【傀儡師】の中でも、とりわけて性質の悪いひとり、
【誘滅の狂踊師】などにきれいな夢幻を見せつけるなど、普通なら誰だってやろうとも、決してするはずがないのだから。
「ああ。まったくだ」
だからリーはただ一言、ヘイに向かって頷いた。
初めてだった。自身の創作物に対して笑顔を向けられたのも、ありがとうと、感謝の言葉を感情を衒いなく真摯に向けられたのも、リーにとっては完全なる未知の経験だった。
飾りない言葉が感情が、ほんとうに嬉しいものなのだと初めて、リーは知った。自身の手で創り出したものが、泣き顔でなく絶望の表情でもなく、笑顔を作り出すことができる。それは幼いころには幾度も夢見ながら、結局は叶うはずもないととうの昔に諦めたはずの幻想、遠すぎる届かない夢幻だった。
しかしリョウはその夢幻を、現実へと変えてしまう手段をリーへと提供したのだ。
きっとすぐに壊れてしまうと、どこかで確かに、分かっていた。
いくら夢を見てみたところで、所詮は自分がレジュナリア【傀儡師】であることに変わりはないのだと知っていた。
この指がこの国へ放ったレジュナ【傀儡】の数は、既に三桁にもほど近い。そんな事実が露見するだけでも、容易くリーは極刑に処されてこの世界から消えて失せる。
彼はきっと、未だに満足には何も知らない。この身、この存在、リシア・プロシェスという人間に連なる後ろ暗い、誰に見せることも厭う全てをおそらく、ほとんど何も知らない。
彼らに腕を提供しようとする傍らで、己の命とわずかな金と引き換えに、リーがこの国の闇へ提供することになったレジュナ【傀儡】の数など彼らには知る由もない。彼らの裏で蠢かせていたおぞましい指の存在を、何も、何も、知らせなかった、知らせたいとも思わなかった、関係など永久になければいいと愚かにも願った。
たった一度の、夢だった。
代償はおそらく彼女自身の命となるであろう、それほどに大きく分不相応な綺麗な、かなしいほどに優しい、この国で彼女が目にしたのは幻だった。
「見ない方が幸せだと、結局は分かっているのに、なあ」
バキリと何かが、割れた音がした。また二つ三つ、どちらかの、或いはどちらもの魔具が壊れたのだろうことは今更疑いようもなかった。
一瞬見えた相手の数は、おおよそ三十から五十と言ったところだろうか。目前に迫った危機を身をもって感じながら、それでも意識の端に蘇ってくるのはくだらない些細な光景ばかりだった。
彼が勤める酒場に足を運んだこと、彼の友人だという男と言葉を交わしたこと。
なぜかヘイなどと再会してしまったこと、義手を創りあげるために試行錯誤を続けたこと。こまごまと様子を見に来てはお茶やら食べ物やらを出してくれるリョウを、ヘイと組んで二人がかりでからかってみたりしたこと。
光と笑顔と希望とに溢れたそれらの光景は、今更この身に受けるには眩しすぎる、黄泉への土産とするには十分すぎるほどにきれいなたのしい記憶だった。
不意に強く、非常に強く、傍らの男が心底から羨ましいとリーは思った。
ヘイは至極当然のように、この場を生きようとしていた。この場を切り抜け、改竄前の資料をあの男へと渡した後にもあの黒の、リョウという異端の存在の傍らで生き続けようと当然のように足掻いていた。
そして次にはそんな自分に、まだ生き続けたいと思っているらしい自分の存在にその強さに若干ならず、リーは驚いた。
「……はは」
まさか他の誰でもなく彼を羨ましいと思うような日が来るなど、誰が予想できただろう。
それは色恋などではない、親愛の情ですらない打算と、自己愛に満ちた感情に依る下らない自己中心的な感情だ。研究者、創作者、モノの創り手としての原始的な欲求に起因するものだ。
けれど、それでも。
それでも或いは、彼ならば、
「下らねェコト考えてる暇ァあんなら、もうちったァ目の前に集中しろや、リー」
――だから何だと一言で、明るく笑い飛ばしてくれるのかもしれない。
全ての結界が砕け散ると同時、飛来した相手方の短剣がヘイの放った魔具の中心を過たず貫く。バチリと雷音、反射的に目を瞑れば、次にはいくつもの落雷が地面へと容赦なく落下した。
容赦のない威力に苦笑しながら、瞼の裏にちらつく落雷の余韻を感じつつパチンと小さく、指を鳴らす。
常人には聞こえるはずもないその合図を、人間でない人形たちが違えるはずもなかった。
「【討て。……向かい来る全てを、残らずだ】」
ぽつりとどこか独り言めいた、彼女の絶対の命令を。
人形たちは過たず、即座に実行へと、移した。




