P2-50 黒き指針の指す先へ
少しは休憩した方がいい、無理をしても体に負担がかかるだけだから。
重ねられたそんな言葉に、半ば押し切られるようにして、部屋へ戻ったジュペスが目にしたのは一本の腕だった。
ごろりとひどく無造作にベッドの上に転がされたそれは、少し見ただけでは本物の人の腕と見紛うほどに精巧だ。前に目にしたときにはジュペスのそれとは微妙に違っていた肌の色は、一体どのような修正を加えたのだろうか、利き腕である左と比べてもまったく同じ色彩をもってそこにある。
しかしベッドの上に腕が一本という光景は、ただ淡々と受け入れるにはあまりにも奇怪で意味が分からなかった。
細部に渡る精緻さやジュペスとまったく同じ肌の色からしても、今彼の目の前にあるそれが、今日彼らがもう一度ここへ持ってくると言ったジュペスの新しい「腕」であろうことは容易に想像がつく。分かるからこそ分からないのは、どうして誰一人としてこの場に来ることなしに、腕だけが無造作にジュペスの目の前に放り出されているのかということだ。
ジュペス一人の理解を越えた事態に、思わず眉をひそめつつもう一歩、二歩とその腕へとジュペスは近づき。
腕の下に埋もれるようにして、一枚の紙切れが同じくベッドの上に載っているのを彼は発見した。
「……え?」
何の気なしに紙切れを手に取り、読み始めてすぐにジュペスは顔色をなくした。
クセのある若干角ばった字で綴られたそれは、ジュペスたちの想像だにしない己の現状を知らせるリョウからのものだった。
「リョウ、さん?」
至極簡潔に記され、とりあえず心配しないでほしいという一言で結ばれているそれ。
決して長くない彼の感情の方向性が見えない短い手紙は、何度読み返してみたところで、疑念しか浮かんでは来なかった。確かに彼はひどく常識はずれなことをジュペスのためにしてくれている。だがそれが何なのだ、なぜ彼より「選択肢」を示され最終的に自発的にそうされることを望んだ自分ではなく、あの彼にそんな無茶苦茶な異常事態が降りかかっているのだ?
なぜ、どうして。
一体何があって彼が、何をどうまかり間違ったところで殺人など犯すとは到底思えない彼が。
呆然と紙切れを見つめることしかできずに、果たしてどれほど時間が経ったのか、或いはそう大した時間ではなかったのか。
不意に聞こえたノックの音に、はっとジュペスは我に返った。
「ジュペスさん」
ドアの外からの呼び声は、ここ数日ですっかり耳慣れたピアのものだ。
わずかの逡巡ののち、腕を掛け布の下へと押しやってからジュペスはドアへと足を向けた。いくら祈道士とはいえうら若き女性に、作りものとはいえど腕が一本テーブルの上に転がっている光景などというのはまず、見せたいようなものではない。
そうしてドアを開いたその先には、何とも不安定な表情をしたピアが待っている。
「……どうか、されたのですか?」
どことなく頼りなげにも見える彼女の表情に、わずかに首をかしげてジュペスは問いかけた。彼女は表情を変えないまま、ええ、とひとつ小さく頷く。
その傍らにはいつものように、ピアの護衛役であるリベルトの姿もあった。彼もまた何とも形容のしがたい表情を浮かべていることに気づき、ジュペスは怪訝に目を細める。
さらに言うならどことなく、この屋敷全体が騒がしいようにもジュペスには見受けられた。決して活気がないというわけではなく、無駄口や無駄な行動を是としない当主の意向を反映してのある程度のおだやかな静寂が保たれているこの屋敷には、幾分珍しい賑わい方のように思われる。
どうにも増えていくばかりのジュペスの疑念に、一応の終止符を打ったのは一人の男だった。
奥から姿を現した他のどの騎士より良く知る人物の姿に、ジュペスは思わず両目を見開いた。
「クレイトーン様?」
知らず口から零れたその名に、はっとピアたちが後方を振り返る。「兄」の姿を目にして、わずかに二人の眼差しが緩むのをジュペスは見た。
ピアが首をかしげ、彼へと問う。
「兄様、ご用は終えられたのですか?」
「一応のところは、だがな。……しばらく顔も出さずにすまない。元気そうで何よりだ、ジュペス」
そう言って一見穏やかに笑うクレイの緑の瞳は、どこか疲弊しているようにも何かに燃えているようにも見えた。
これ以上の立ち話もどうかとも思い彼ら三人を室内へと引き入れつつ、まずは差し障りのないところからジュペスは彼へと問うた。
「こんなに急に、どうなされたのですか? いったい何が」
起こったのですか、と。
そう問いかけたジュペスの言葉は、バタンと閉じたドアの音と、真剣そのものであるクレイの眼差しに途切れた。わずかに彼が首を振る、全員が椅子へ腰掛けたのを確認したのち、ふっとひとつクレイは息をつく。
手の中にあった紙切れを、ぐしゃりと無意識にジュペスは握りしめた。
まるで冗談としか思えないようなそれの内容と、まったく違わぬものを淡々と彼は、紡ぐ。
「今現在、ある貴族に対する殺人の疑いでリョウがある場所に勾留されている」
――どうして。
二度目の驚愕には、もはや言葉すらなかった。
クレイが唐突に告げたそれは、今しがたジュペスの読んだ紙切れに書かれていた内容とまったく同じだった。不解と疑念だけが際限なく、彼の中で膨れ上がっていた物事そのものだった。
一体何の冗談を、誰が何のためにやっているのかと真面目に問い詰めたくなるようなそれは言葉だ。目の前にいる上司が真面目な人間であり、紙面上で情報を遣ってきたリョウもまたそういった類の冗談は言わない人間だと知っていなければ、まず取り合おうとすら思わないような内容だった。
俄かには本当に理解に苦しむ内容に、完全なる沈黙と空白が場に落ちる。
数字を三つほど数えた頃合いでそして、ピアとリベルトの二人はようやく、クレイが今ジュペスたちに何を告げたのかを理解したらしかった。
「え、……ええええええっ!?」
愕然と目を見開き、半ばリベルトは絶叫する。信じられないというのは、まったくもって現時点のジュペスにしても同じことだ。
ピアに至っては言葉すら発せず、わずかに震える両手で口許を覆っていた。どうして? ありえない。この場の誰にしてみても、確実に脳内に巡るのは同じ言葉ばかりだろう。
たかが騎士見習い一人の再起のために必死になってくれるような人間が、ジュペス一人にここまで打ち込んでくれるような男が、殺人を犯すなど到底ジュペスには考えられなかった。もしリョウがそんなに簡単に自分の感情を感覚を偽れてしまうような人間だとしたら、ほぼ確実に深刻な、人間不信に自分は陥ることになるだろうと思う。
どこかひどく嫌そうな顔で、またひとつクレイがため息を吐いた。
「おまえたちが言いたいことは、分かる。あいつが人殺しなど、有り得ない」
「……ええ。リョウさんを知る人間ならば確実に、誰であろうとそう言うと思います」
「そもそもリョウ本人は、殺されたその貴族の名前すら知らなかったくらいだからな。これは間違いなく、ただの下らん冤罪だ」
どこかひどく苦い口調で、そんな言葉をクレイは口にする。
しかし先ほどから同意しか得られないからこそ、余計にジュペスたちには状況の理解ができない。かたりと震える手を握りしめて、今度口を開いたのはピアだった。
「名前すら知らない、って、……そんな、兄様。それならどうしてリョウさまが、殺人の容疑者として名を挙げられたりしたのですか!?」
その言葉になぜか、確かな答えを持っているはずのクレイはわずかに沈黙した。
それなりに見慣れているはずの彼の緑の目に、どこか冷たいひやりとした光を瞬間、垣間見たような気がなぜかジュペスにはした。
ややあって再度口を開いたクレイは、ぽつりとどこか、落とすように言葉を発する。
「事件の目撃者が、おまえたちのよく知る人間だったからだ」
それは決して大声の言葉でもなければ、何をどう特定する類の言葉でもなかったはずだった。
しかし何を明確にされたわけでもないというのに、奇妙に冷たいものが背筋を落下していく感覚をそのときのジュペスは抱いた。ジュペス、ピア、リベルトの三人を繋げ得る人間など、リョウとクレイを除いてしまえば、たった一人しか居はしない。
あのとき垣間見た狂気の瞳は、今思い出してもぞっとする。神霊術ではジュペスを治せない。
そんなリョウの言葉に逆上し、結果として死すら生ぬるいとさえ思うような苦痛を、ジュペスへと与えた、祈道士。
「……マリア・エルテーシア?」
「ああ」
ジュペスがこの場所に身を寄せる、直接の原因となった人物の名を上げればすぐさまの肯定が返ってくる。ジュペスへ頷くクレイの声は、どこまでもひどくため息じみていた。
しかしなぜ今、ここであえて彼女の名などが上がらねばならないのだろうか。どうしてリョウを窮地に陥れるような存在として、彼女の名が浮かびあがってくるのか。
そもそも彼女は確かあの一件を受け、一カ月の謹慎に処されたのではなかったのか。あれからまだ一カ月どころかようやく半月が経とうかというところであるというのに、一体誰が、何をどう血迷ったとでも言うのだろうか。
思わずごくりと唾を呑む音が、奇妙に大きく耳に響くような気がした。
俄かに、動悸が激しくなる。リョウの寄越した最後の一文、心配するなという言葉にまったく信憑性を持てなくなっていくままジュペスは、口を開いた。
「リョウさんは、……誰かの手によって、嵌められた、と?」
「ああ。そうだ」
「彼が、殺人を犯していないという証拠はないんですか? その時間に誰かと一緒にいたとか、そういうことは」
半ば反射的に口にしてしまった言葉を、しかし最後まで言い切る前にジュペスは悟ってしまった。
昨日一日中、降り続いた雨。あまりにひどい天気なので、今日はちょっと様子見に行けないよと、リョウからそんな連絡があったのは昨日の朝がたのことだ。
ジュペスの感覚の正しさを裏付けるように、小さくクレイは苦笑した。
「昨日が雨でなかったら、おそらくおまえたちがその類の人間となっていたんだろうがな」
だが。逆接しか語尾につかぬ言葉に、思わずジュペスは眉を寄せる。
同じように眉を寄せたリベルトが、言った。
「……今現在、リョウ兄を無罪だと断言できる証拠は誰も何もない、ってことですか、それ」
「端的に言うなら、そういうことだ」
不快極まりない話だがな。半ば吐き捨てるように、クレイはリベルトを肯定した。
なぜか奇妙に、口がかわく。他の誰でもない彼に殺人容疑? そんな馬鹿な。どうしてそんな下らないうえに、つまらない冗談なんて。
ジュペスたちにしてみればそれはただ、笑い飛ばすしかない戯言だ。リョウ本人からの手紙を見たところで、俄かにはとても信じる気にはなれなかった事柄だ。
しかしそれは急速に、ジュペスの中へ、真実味を帯びた現実として零下の低温をもって浸透していく。
「……」
僕に関わったことが、もしかするとその切欠になったりしたのだろうか、と。
ふとそんなことを思ったとき、この部屋を出る前には存在していなかったもうひとつのものについて、ジュペスは改めて思い出した。言葉が喉を突く。
「あのひとたちが腕だけを僕に届けてきたのも、それに関係する話なのでしょうか」
「ジュペス?」
怪訝そうに彼を呼ぶクレイの声と、三人分の視線を感じつつジュペスは椅子から立ち上がった。
「それ」を見つけたベッドの方へと、再度彼は足を向ける。腕を覆った掛け布へと、ジュペスはすいと手を伸ばした。
ばさりと一気に手前へ引けば、即座に異端は彼らの目前へと現れる。
声もなく目を見開いた三人へと、静かにただ事実をジュペスは告げた。
「僕がここに戻ったときには、ベッドの上にはこれが転がっていました」
そこにあるのは、腕だった。
リョウの知り合いであるふたりの魔具師のうち、どちらが来るのでもなく、ただ腕の一本だけがごろりと無造作にベッドの上には転がっていた。
今も手にあるリョウからの手紙には、この腕については「少し届けるのが遅くなるかもしれない」などと書かれていた。彼の身柄は現在、その巡りがどこから何に影響してのものかはわからないがジュペスの上司によって確保されているという。よってあの魔具師たち二人と、リョウがまともに連絡が取れるような状況にないことはジュペスにも推して知れた。
腕だけがあるという現在の事象が、果たして、だから、なのかしかし、なのかは分からない。
辛うじて分かることはといえば、そんな音信不通の結果として、彼女らはジュペスにこの腕を送ってきたのだろう、ということだけだ。あくまでリョウという人間を介してしかあの男女を知らないジュペスたちには、その事実を確かめる即座の明確な術もない。
若干複雑な表情で目を細めたクレイが、口を開いた。
「それはリョウの言っていた、おまえの新しい「腕」か?」
「ほぼ確実に、そうであると思います。そのことについては、何もお聞きになってはいらっしゃらないのですか?」
「……ああ。申し訳ないが俺は、リョウ本人のことについてしか詳細を知らない」
ほんのわずかの間だが、確かにそのとき彼が奇妙に言い淀んだのをジュペスは見逃さなかった。
そのよどみが何を示しているのか、ジュペスは知らない。すぐさま問うてしまいたい気持ちもあったが、この場には彼の妹であるピアもいる。何かすぐには口に出しづらい理由もあるのかもしれないと、とりあえずは置いておくことにしてジュペスは「腕」をひょいと左手で持ちあげた。
肌を通して感じる質感だけでなく、感覚として伝わってくるその重さもまた実際の人間の「腕」をひどく彷彿とさせた。先日装着したものより確実にそれが重くなっているのは、下手に軽すぎても左右の重量の差異から、平衡感覚が逆にうまくとれないのではというリョウの言葉を受けての改良なのだろう。
拾い上げてそのまま、己の右上腕へとジュペスは義手の接合部を寄せた。
花弁のように、あるいはあぎとを開く獣の口内のような形をした接合部へと、ぐっと押し込むようにして己の腕の端を嵌めこむ。ガチンという小さな音とともに、一瞬にして開いていた全ての接合部品が閉じた。
わずかな痛みを感じるが、その痛みにしても先日のそれより随分、軽いものだ。
「……っ」
義手全体へと魔力を通し、指が動くよう軽く、ジュペスは念じてみる。
ほぼ念じたその瞬間にぴくりと動いた指先に、実際の「腕」を初めて目にしたクレイのみならず、ジュペスも含んだその場の全員が驚愕した。
「少し見たくらいじゃ全く作りものには見えないよな、それ……」
「よくよく観察しなければ、本物とまったく見わけがつかないものね」
感嘆と驚愕の声を、リベルトとピアが上げる。ジュペスはもはや言葉もなく、一度は失った自分の腕が再び戻ってきたかのような感覚に浸っていた。
無論本来のそれを真似た疑似的な魔具であるこの「腕」は、魔力を通さなければ指先一本たりとも動くことはない。
左手ならば感じることのできる温冷覚、痛覚、触覚はないし、わずかでも気を抜けば奇妙に右腕はすぐに脱力してしまう。ヘタに腕を他人に晒せば、確実に左右の差は誰にでも明確な形となって現れるだろう。
分かっていても、己の両腕が現実として目の前にまた「ある」という感動はやはり、本当に筆舌に尽くしがたかった。
ぐっと改めて新たな右手を握り込み拳を作ってから、ジュペスは己の指導役であるクレイへと視線を向けた。動かしようもない事実に対し、今の自分ができる限りと決めた事柄がある。
改めてそれを口にしようと向き直った先で、予想外になぜか険しい光を宿したクレイの瞳を見つけ、わずかにジュペスは瞠目した。
「クレイトーン様?」
「!」
声をかけた瞬間のクレイの反応は、他人の声により意識を目前へと戻した人間のそれに酷似していた。
しかし即座にその動揺を隠し、なんだと問うてくる彼に、ひとつ深呼吸してからジュペスは口を開いた。
「御覧の通り、リョウさんの尽力と魔具師の方々の協力あって、僕はもう一度、右腕を手に入れることができました」
「ああ」
「ですから明日、いえ、今すぐにでも僕は団に戻ります。……戻らせて下さい。命の恩人がそこまでの窮地に追い込まれているというのに、何もしないでただ状況を看過するだけなど、騎士の風上にもおけぬ愚行だとは思いませんか?」
「……ジュペス」
わずかに眉をひそめジュペスの名を呼んだクレイの目には、どこか躊躇いめいたものが見受けられる。
実直で真面目な彼はおそらく、片腕を落とすというあの壮絶な施術の日からそう長く経っているわけでもないジュペスがまだ、本調子であるかどうかも分からないなどと気にしてくれているのだろう。他人の存在を無碍に排除し、卑下しあげつらうような低俗な人間では彼はない。
だからこそ、ジュペスは深々とクレイへ向かい頭を下げた。希う。
「無理を承知でお願いいたします、クレイトーン様。今のあなたがリョウさんの救済のため動いているというなら、どうかあなたの手の一つとして、僕を加えて下さい」
「しかし、」
クレイが明らかに動揺しているのが分かるが、騎士として人間として、ジュペス・アイオードとして、さらには過去に封じた或る名をもつ者として、ここで引き下がるわけにはいかない。不可解な点も多くこちらに見せながらも、確かな再起への道を示し導いてくれたのはあの、リョウ・ミナセという不思議な青年なのだ。
肯定の返事がもらえるまでは上げないつもりでいた頭を、しかし次の瞬間ジュペスは上げることになった。
まったく彼の予想外な声が、不意に涼やかに場に凛と響いたからだ。
「わたしからもお願い申し上げます、兄様」
「ピア、さん?」
思わず顔を上げてしまった先の、彼女の碧眼は揺らがぬ意志を湛えてとても綺麗だった。
少女というよりどこか武人のそれに近い強い瞳は、にっこりとジュペスとクレイを見て笑う。誰に頼まれたのでもなく強制されるのでもなく、ただ彼女自身のまっすぐな意思によって。
「ジュペスさんの体調については、わたしとリベルトの神霊術で、完全に良くなったとリョウさまからのお墨付きもいただいています。それにここ最近のジュペスさんは、一刻も早く団に復帰できるようにと、自主的な鍛錬を日々欠かさず行っていらしたんです」
「絶対きついはずなのに、ものすごく、いつもがんばってるんですよ。ジュペスは。……ただの下っ端の祈道士でしかない俺たちは、リョウさんのために直接何をすることもできません。けれど、ジュペスなら違うんじゃないですか? クレイ兄上」
「……おまえたち」
「リョウさまを助けたいと思っているのは、兄様だけではありませんよ、兄様」
まるでダメ押しのように、もう一度ピアはふわりと笑った。リベルトもその傍らでどこか似た笑みを浮かべている、眉間にしわを寄せたクレイは、大きくひとつ息を吐くとともに額に手を当て、俯いた。
しばしの沈黙が、場に満ちる。
ややあって顔を上げたクレイは、ぐるりと三人の顔を改めて見まわしたあとにふと苦笑して口を開いた。
「……分かった。上に受理してもらえるかどうかは分からないが、とりあえずこの後、一緒に副長のところへ行くぞ、ジュペス」
「!」
やはり彼につくと決めた、あのときの自分の勘は間違っていなかったのだと今更ながらに思う。
元よりクレイに、自身の指導役としての立場を望んだことを後悔したことなど一度もない。後悔どころか折に触れて、彼という存在の稀有さを得難さをしみじみ、ジュペスは思うのだ。
同じ騎士見習いの者たちには、なぜ敢えて無魔など選んだのかと、入団当初から非常に奇怪な目で彼は見られていた。
無駄な仕事も多くて大変だろうと、厭味なのかいたわりか同情か何のつもりなのか、まったく分からないような下らない言葉をかけられることも決して少なくなかった。
だがジュペスからすれば彼らこそが、無駄なこと以外の何もしていないように見えた。
有象無象を幾つ手繰るよりも、彼のような人間一人をこちらが見いだし師事を願える方がよほど有意義なのだ。決して長くない十五年という時間の中で、ジュペスは身にしみてその事実を知っていた。
しかし非常に残念なことに、少なくともジュペスの知る限りの騎士見習いたちはまったく、そのことを分かっていない。低きに、楽に流れようとしているのが見ているだけで分かる、不快には思わないがくだらないと思う。
ジュペスの思考など知らず、クレイは静かに言葉を彼へと続けてきた。
「返答は?」
「……っ、はい!」
そもそも言いだしたのはジュペスだ。問いに返すべき言葉など、一つしかあろうはずもない。
ジュペスが団を離れていた時間はそう長くはないことを考えても、おそらくクレイがほぼ単独で膨大な調査を取り仕切り自分でも行っているのだろうことは明白だった。
だからこそなおのこと、ジュペスは己の復帰を望んだ。団長に関してはのちのちに何かしらの手順を踏みさえすれば何とかなるとして、問題となる可能性があるのは第八騎士団の副長、エネフレク・テレパストに対し、どうやって、何から何までを説明すべきかというところだろう。
クレイの言をまるで我がことのように喜び、おめでとうと言葉をくれる二人に笑顔で応じながら、ジュペスは思考を始める。
確実にまだ勘は鈍ったこの身体で、作りもので慣れてもいないこの「腕」を携え。
果たして自分は彼のため、これから、なにができるのだろう、と。




