P2-49 その色彩は深遠に落ちる
「簡単なことです。――条件がある」
裏に蠢く思惑を、彼はまだ何も知らぬまま。
「……ぁ?」
ふわりとその紙片が手の内に飛び込んできたのは、時間の経過で何も変わらない景色にいい加減、ヘイが飽き飽きし始めた頃合いだった。
自分以外には一人しか使うはずもない「それ」の、差出人は今更推測するまでもなかった。畳まれたそれを開いてみれば、やや角ばった特徴的な文体で綴られた文章が目の前には現れる。
決して長くはないそれを、しかしヘイは平然と読み進めることはできなかった。
冤罪で捕まった。身に覚えのない殺人事件の、容疑者に俺がされている。
そんなとんでもない言葉から始まっている紙片は、なぜかといえば。
「……はッ」
ぐしゃりと手元の紙切れを思わず握りつぶしながら、片頬だけを上げて奇妙に引き攣った笑みをヘイは漏らした。
その様子が異様にでも見えたか、ひどく怪訝な表情でリーが顔を上げた。
「ヘイ?」
ガタガタと揺れる広くなどない空間の中で、互いの視線が交錯する。
ちなみに現在のヘイたちは、一見すれば何の変哲もない幌馬車の中にいた。実はその御者や馬はおろか幌すらただの幻でしかなく、実在するのは馬車としての「枠組み」のみであるというそれは、どんな移動手段より確実だとリーが言い切った、彼女愛用の魔具のひとつらしい。
生憎彼女の視線に乗ってやるような気分でもなかったので、他人からすれば明らかに凶暴に過ぎる表情のままヘイは口を開いた。
「現状報告、だとよ。リョウからのな」
「……ああ」
小さくリーが、ちらりと笑った。本当にこいつはあからさまに、隠そうともせずにリョウが関係するときにだけ楽しそうな顔をする。
ぐしゃぐしゃに丸めてしまった手の内の紙くずをどうすべきか若干迷っていると、まるでその腹のうちを見透かしたかのような間合いでリーがさらに声をかけてきた。
「リョウ君は、元気か?」
「知りたきゃ読め」
馬鹿馬鹿しい紙くずをぽいと無造作に放る。何ともイラつく紙切れをがさがさと彼女は広げ、黙って目を通し始めた。
最初はどこか不思議そうな顔をしつつ紙切れへ目線を落としていたリーの表情は、しかし読み進んでいくにつれ確実に笑みめいたものへと変わっていく。
おそらく最後の一文まで読んだところで、ぷっと堪え切れなくなったように彼女は噴出した。
「半分くらい、君の心配じゃないか」
「だっから、ざっけンなっつってんだ、アイツはっ」
どこの誰とも知れない中級か下級の貴族の殺人事件を受け、重要参考人として騎士に強制連行された顛末から始まるそれ。
下手な場所にいては危ないからと、現在はなぜか第八騎士団の副長の屋敷で軟禁状態にあるリョウの手紙は、それら一連のできごとをさらりと綴ったあと、食料の場所はどこだのちゃんと時間を見て休憩を入れろだの、まるで母親か世話役か何かのような細かさで、しごく日常的な些事が延々と書き連ねてあった。
なんかいろいろヤバいけど、多分なんとかするから、と。
見栄か虚勢か知らないが、本当に馬鹿馬鹿しいとしか言いようもないほどにリョウらしい内容に、妙に腹が立つ。
「こっちの気ィも状況も知らねーで、なァにやってんだかなァ、あいつはよ」
リーもまた読み終えたらしい紙切れをひょいとその手から掬いあげ、ごそりとポケットを探った先の点火器で火をつける。端に着火したと思った瞬間、ぽっというわずかな音とともに、跡形もなく紙切れは空中で焼け落ちた。
この国の人間が見ればほぼ確実に驚くであろう光景に、しかしリーが驚愕を示すことはない。
わずかな残滓が灰として風に流されていくのをぼんやりと眺めつつ、淡々と彼女はヘイへと問いかけてくる。
「君こそ彼に伝えなくていいのか? あの黒眼鏡の執事に取引を持ちかけられ、私たちがそれに乗ったことを」
「ハッ、言ったところで何になるよ? 面倒の恨み辛みなんざ、アイツがちゃァんと戻ってきてから死ぬほど言ってやりゃイイ話だ」
問いには肩をすくめて応じた。現在のヘイたちの状況を同じ手段を以てリョウに伝えてみたところで、無駄にヤツが混乱するだけであろうことは想像がつく。
簡単なことだと、男は言った。その顔が笑ってなどいないことは、あまりに明確に過ぎて正直吐き気がした。
明らかに不公平な取引をヘイたちへと持ちかけた、執事服の眼鏡男はニースと己の名を名乗った。その名と外見を聞いてしまえば、ヘイの記憶のうちだけにあるリョウの語りと、現実とを統合してしまうのは容易かった。
やろうと思いさえすれば、あの場においてもヘイたち二人が「逃げられる」可能性は決してゼロではなかっただろう。それを敢えて真っ向から受けて立ったのは、どうやら「ニース」の主である大貴族サマ、カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシアがきちんと、リョウのために動こうとしていると分かったからだった。
そもそも何を持ちかけられずとも、結局ヘイたちが行おうとすることには何も変わりはなかったのだ。
下手に自分たちだけで動くよりも、貴族サマとの繋がりを、やり方が不本意極まりない上明らかにこちらが下に見られている当然を受け容れてでも、作ってから身勝手にする方がよほど。
色々な意味で道中も、道の後も楽になるだろうと、そう考えたからだ。
「……俄かには、君とは思えない発言だな」
不意にぽつりと、感慨とでも言えそうな何かを含んだ口調でそんな言葉をリーが落とした。
彼女がそう言う理由も分からなくはないゆえに、ヘイは思い切り顔をしかめた。
「あァ? そもそもテメエと別れてから何年経ってっと思ってンだ」
「それもそうか。人相は悪くなったが、随分と丸くなったんだな、君は」
「はァ? 何をどう見てンな言葉が出て来ンだ、テメエは――」
まだもう少し続くはずだった罵倒の言葉は、その半ばで中途半端に空気に浮き落下した。
バキリと非常に騒々しい音とともに、耳元、および目前で砕ける魔具とそれが張っていた結界の残骸にまともに意識をやる時間はない。先ほど火をつけてそのまま手にしていた点火器にヘイは手をかける、その上部を半周ねじってから勢いよく「火」をつければ、ヘイたちを中心に同心円状に、ひと息に周囲に火の手が上がった。
立ち上る焔に、わずかにヘイは目を細める。確かに全てはただの偽装でしかなく、動力源はリーの手の内にあるアンビュラック鉱、本体が壊れないよう多重に防護の結界を張った偽幌車は非常に色々が楽だ。
なにしろ誰に何を見られることも懸念せず、ただこちらを始末しようとかかってくる者の排除にだけ力を注げば、良い。
「……!?」
その高熱ゆえに既に赤ではなく青色をした炎は、ヘイたちへと向けて飛来するあらゆる危険物を瞬時に燃やし尽くす。相手側の動揺の気配がわずかに伝わってくる、フッとどこか皮肉げにヘイは口の端をつり上げた。
矢やら暗器の数々をただの焔で消し去るなど、ヘイ個人の魔力では逆立ちしたって不可能な芸当だ。いや、そもそもヘイでなくとも、金属すら一瞬で昇華させてしまうような焔はおいそれと創り出せるような代物ではない。
まあ生憎ヘイは、ただの魔術師ではない。
ちらりと炎の揺らぎの狭間で垣間見た相手は、ぼろのようなみすぼらしい服を纏った、一見すれば浮浪者じみた外見の目だけが確実に他者の死に濁った男だった。やれやれとひとつ息を吐きつつ、ヘイは傍らの彼女の名を呼ぶ。
「リー」
至極平板に、声が響く。
執事服のあの男は、貴族たちのリーへと向かう動き、そのすべてを彼らの側で押さえこんで見せると当然のように豪語した。なるほどその程度すら守れないというなら、ラピリシアにも将来はないと笑ってやろうと思った口約束だった。
そしておそらく少なくとも、現在までに至っては彼はその約束を確かにどういう方法を用いてか果たしている。
今この瞬間にヘイたちを狙っている刃の持ち主は確実に「そちら」ではない。あんな誰に牙をむくかも分からぬような顔をした人間を、まっとうなお貴族サマごときが普通に雇えるとは思えない。
彼の呼び声に、ごく自然に彼女は首をかしげて応じた。
「なんだ?」
「テメエの客だ、テメエで片づけろ」
「敢えて言われずとも、造作もないことだ」
ぞっとするほど軽口めいたヘイの言葉に、当然のように同じ調子の声が返る。
二人を目がけ無数に飛び交う、まともな術などほとんどかけられてはいないらしい矢や刃などまるで歯牙にもかけずリーが笑った。笑ったかと思えばその次には、どこからともなく引きだした八つの何かを、勢いよく中空へとリーは放る。
一体何事かとわずかに相手側の攻め手が弛んだ瞬間、淡々と残酷な命令をひとつ、眉ひとつ動かすこともせずに彼女は「それら」へと命じた。
「【其の絶対の、主より命ずる。――凡て殲滅・圧壊せよ】」
呪言が空気を揺らしたほぼその刹那、骨の砕ける鈍い音と、その内側に存在していた多くの水分を含むモノが路上にぶちまけられる音が同時に響く。
悲鳴を上げる暇すら与えられずにさらにもう二つ右、さらにひとつ左、さらに前方に後方に三。何とも形容しがたい胸糞の悪いその騒音をだいたい十五くらい数えたところで、それ以上が面倒になってヘイはまたやれやれと息を吐いた。
ゆっくりともうひと呼吸する頃合いには、二人へ襲い来ようとしていた人間は一人の例外もなく、その頭蓋の内を道端にぶちまけていた。
そのえげつなさと容赦のなさ、さらには純粋な傀儡、殺戮人形としての力。
全てが記憶にあるより威力を増しているように思えるのはおそらく、ヘイの気のせいというわけではないのだろう。
「……まァ恨むんなら俺らじゃなく、テメエらのバカな上司を恨めや」
ぼそりと一言そう言って、半目で状況をただ眺めるだけのヘイに。
この陰惨な現状を、引き起こした側であるはずのリーが小さく苦笑した。
「そこまで無反応でいられると、逆に若干後ろめたくなるんだが。ヘイ」
「知るか。どうせ俺がやったトコで大して結果が変わるワケでもねーだろォが」
こんなものよりもっと残忍で、どうしようもない光景であろうとそれこそ山のように目の当たりにし、自分の手でつくり出しても来ただろう女に肩をすくめる。そもそも無反応なのは、全ての発端であり今「客」をあっという間に片づけてしまったリーにしても、何も変わらないことではないか。
ガタガタとふたりを揺らして進む、偽りの幌馬車は止まらない。
彼女の手元へと戻ってきた人形八体のそれぞれに塗れた血糊を拭き取りながら、何とも微妙な表情でリーがため息をついた。
「争い事は、好きではないんだがな」
「ハッ、奇遇だな。俺もちィっとも好きじゃねェよ」
「あんなものを創った君が、……いや、創ったからこそ、か」
「知らねェよ」
ぐにゃりと胸中で歪む封印した光景に、さらに一言吐き捨てる。歪む光景が確かにあるからこそ、魔具師としての己は、半ば死んだものとしてヘイはこのエクストリー王国で生きてきた。
皮肉なことに金だけは、腐ってもまだ余りすぎるほどに常に手元にあった。だから、ただただ適当に自堕落に何一つなすこともせずに、中途半端で遊びの用途にしか使えないようなものを手慰み程度に作り売っていく暮らしも、当然のように続けることができた。
そうして徐々に確実に、指の先からヘイルハウト・ベルドレッタという存在が朽ちて乾涸び、欠けて砕けて失われていけばいいと。
黒い異端を気分で拾った、あの日までは確かにそう、ヘイは思っていたはずだった。
「……しかし、な」
「ァんだよ」
「今あの少年が何をしているかは分からないが、己の部屋に戻った時、彼の「腕」だけが部屋に転がっている光景に果たして、何を思うんだろうな」
目の前でリーにしても、リシア・プロシェスという存在を守るためであれば、誰の前であろうと即座に逃げおおせてきたのが今までの彼女だったはずだ。
少なくともヘイの知る限りの彼女は、自分という存在の保守を常に第一に考え、そのためであれば多少ならぬ犠牲も決して厭うことのない人間だった。そうでなければ生きられないうえ、逃れられぬ種々のものに常に、精神を圧壊され続けていたのがこの女だった。
そんな彼女の当然を、変えてしまったのもまた、リョウなのだ。
その身に巣喰う呪いにより、相手が誰であろうと死しか与えることのできなかったはずのリーに。
人の再起という夢を現実とするため、足場を作ってほしいと当然のように頼んだのがリョウであり、彼の突拍子もない思考をその相手、ジュペス・アイオードという少年もまたリーの創作物を受け容れたのだから。
「あのボウズの反応は知らねェがな。ま、まず間違いなくリョウなら悪趣味だっつって俺たちを怒るんだろォよ」
だからこそ下らない戯言にも、ヘイは敢えて応じてやった。「取引」、いや半ば以上、一方的な強制命令により動かざるを得なくなったヘイたちは、今日の昼までかかってひととおり完成させたジュペスの「腕」を、魔具を用いてルルド邸のジュペスへ宛がわれたあの部屋へと放ったのだ。
果たしてどこに腕が転がるのかはヘイたちの知る範囲をおおよそ越えているが、明らかにそれが異常な光景であることには反論のしようもない。
ホント悪趣味にもほどがあるぞ、ホラー小説か何かかよこれは!?
聞こえるはずもない声が聞こえたような気がして、またわずかにヘイは口の端をふっとつり上げた。
「そうだな。リョウ君ならそうだろうな」
その声を聞いたのはどうやらリーも同じだったらしく、ふと、小さく楽しそうに口元に手を当てて彼女も笑う。
ひょいと仰ぐ先の空は、昨日の雨とは打って変わった青空だ。この空の下には確かにいながら、十分にこの青を眺めることもできないんだろう居候をぼんやりと思いつつヘイは呟いた。
「魔具師が満足もしねェうちに、確かに安全に使えるからッつーだけで創った魔具を手放してやる有難さを知れってンだ、アイツは」
その声に対してはリーはふと、小さく笑っただけだった。
彼女もまたどこか遠くをぼんやり眺めたまま、その笑みを崩すことはせずにぽつりと言葉を落とす。
「願わくばあと一週間、……いや一日だけでも、あの幻想が続いて欲しかったと思う私を、君はおかしいと思うか?」
「さァな」
リーをおかしいと断じるのは、ヘイが自身をイカれていると断じるのにほぼ等しい。
だからこそ彼もまた笑い、晴れ渡る空へと視線をやったまま肩をすくめる。まァ、と。
「その一件に関しちゃァ、イカレてんのは俺らじゃなく間違いなくリョウだ。イカレた奴の考えることに有り得ねェ夢を見たところで、だれの責任でもねェよ」
それが良いか悪いかは、おそらく誰にも分からない。今更悪いと誰に断言されたところで、一度見てしまった、目の当たりにしてしまった夢がもう露と消え失せてくれるわけでもない。
責任は取ってもらわねェと、なァ?
ここにはいないリョウへと向けた声にはしない言葉に、またリーは黄緑と刺青の藍の目を細めてふわりと笑った。
「本当に変わったな、君は」
「そうかよ」
もう否定するのも面倒になって、適当に応じれば彼女からの応えはなかった。
変わった変わらないなどどうでもいいが、確かなのは以前ならば、決してやろうとも思わなかっただろう大それた事柄に現在のヘイが手を出しかけていることだ。まだ大々的に首を突っ込んだ訳ではないが、そう暢気に言っていられる時間もおそらく、もうあとわずかしかない。
どうでもいいけどな、と笑う。
良くも悪くも退屈しない、異世界の馬鹿を最初に手に入れたのは他の誰でもない、ヘイ自身なのだから。




