P2-48 哂い影双つ
カチリカチリと進む時計の針が、今日はいやに耳障りに耳朶を打ってくる。
既に朝にも近い時刻に、しかしヘイ宅の明りが消えることは変わらず、なかった。イライラする。生ぬるく全身がじりじり焼かれているかのような感覚が不快である。――こんな精神状態で仮にベッドに向かってみたところで、余計に棘だらけの気分だけが募って終わりだ。
半ば以上八つ当たりのようにヘイは、彼の目前で己の手元、より正確に言うなら自身の右手の甲あたりに視線を落としたままのリーを見やる。
ほとんど微動だにしないままただ俯いているその様子はまるで己を悔いているかのようで、さらなる不快を容赦なく煽られたヘイはぽいとばかりに、たまたま手元にあった適当な小ささの失敗作を彼女へと投げつけた。
まともに当たったところでさして痛いはずもないそれが、彼女の肩先へと当たって床へと落下する。
カツンと響いたつまらない音に、またひとつ鬱積と苛立ちを覚えてひどくげんなりした。
「……ものを粗末にするな、ヘイ」
そうしてようやくヘイの方を向いたリーの、瞳には光がなかった。
当たり前ながら、覇気もない。鬱陶しい。発端が何かも全部既に分かってしまっている癖になんて面倒な。
とりあえず現状における何もかもが気に入らずにぎろりときつく彼女を睨めば、どこかひどく疲れたようなため息をひとつ、リーは吐いた。
「状況はひととおり、分かったろう。……リョウ君が連行されたのは、彼のかたちをした私のレジュナ【傀儡】が原因となっている」
そしてぽつりと落ちたのは、この場にリョウがいたならばおそらく、色々な意味で絶対にリーは口にしないであろう言葉だった。
つい先ほどまでリーはヘイに、彼女のレジュナ【傀儡】のうちのひとつが辿った顛末を克明なまでにはっきりと彼らへ見せていた。自分の造ったものの目は、一定期間は残すことにしている、らしい。
理由など分かり切っているからこそ、ヘイは面白くもないのに盛大に笑ってやった。
なぜならそれこそレジュナリア【傀儡師】らしい、誰であろうと破滅への道筋を描いてやるものの普段通りの姿だと心底から思ったからだ。
刺青だらけで不気味なだけのリーの手が、創り出すものは遍く人間に対する死への誘いである。或いは死より甘く最低最悪なそれは、決して生への、未来への希望を描くためのものではありえなかった。
そう、絶対にそんなものとは彼女は無縁だった。かつてのヘイと全く同様の理由によって彼女はただひたすらに死ぬまでレジュナ【傀儡】という、本人としては本当に造りたいと思っているのかも知らないものに縛られてつまらない人生を終えるだけの存在だった。
少なくともただ本当にそれだけである、はず、だったのだ。
「……さすがにこれは、俄かには信じたくないな」
空ろな目をしてうすら寒く笑う、彼女の表情はヘイにとって非常に鬱陶しかった。
信じたくないことを現実にしたのは、結局はテメエだろうが、と思った。別にリーが今さらこの国の何に巻き込まれて勝手に不幸になったとしてもヘイの知ったことではないが、それにあいつを巻き込むなと言いたい。
リーが誰であり何であるかなど一切知らずに、レジュナリア【傀儡師】という職の存在を知る誰もが、暗黙の了解とするような事項をあまりにあっさりひっくり返した、黒。無知という絶対の武器を手に、他のどんな職の人間より精巧にヒトの模造品を作ることができる人間として、失ったものを再生させる人間としてリョウは、リーという存在を見出した。
そして何をトチ狂ってか、いや元からある意味リョウはどうしようもなく狂っているからヤツから影響された可能性も大いにあるが。
この数日、過去から現在に至るまでのいつと比べても一番楽しそうな、充実した生き生きとした表情をリーが浮かべていた。
「血塗れ、か。結局は」
ぽつりとさらに、リーは声を落下させる。ぐっと握り締めた拳が、白く色を失っていく。
リシア・プロシェスという人間が、決して冷血な冷徹無比の守銭奴ではないことを昔からヘイは知っていた。
自分の手が創り出すものが、須らく人殺しの道具にしかならないことを常に、ヘイの知る限りでこの女はいつだって嘆いていた。だがそれを創り続けなければ、供給者であり続けねば結局、彼女の身を隠すための「闇」すら存在しなくなることも同時に、リーは知ってしまっていた。
だからこそリーは、リョウの申し出を受けたのだろう。おそらくただの手慰み、冗談のようなただのバカの一環として、それがめぐり巡って何を己にもたらすのかもどこかで感覚として少なくとも欠片くらいは察知しながら。
あれがほとんど無報酬、どころか確実に全体で見ればリーの損失にしかならないような依頼でしかないのは、リョウも自覚していたらしいが誰にでも明白だった。
結局この仕方のない【誘滅の狂踊師】も、少し前までのヘイと同じことだったのだ。それまで自分が身を置いていた、身を置かざるを得なかった場所からは程遠い、真逆の方向を見据えたあの黒い目に気づけば、何とも変な方向に引っ張りあげられていた。
ヘイという抜け殻の存在に、再度リョウが息を吹きこんだように。
リーという殺しの道具しか作れなかった存在に、誰かの再起の助けとなる道具を創る。
そんな願いを祈りを光を、残酷なまでに眩しく抗いがたいものを幾つも、リョウは呼び込んでしまったのだ。
「あァ、そうかい」
それらが分かっているからこそ、「本来」のリーの職と依頼に関することなど本来ならまったく、ヘイは興味がなかった。
上層に位置するどこの誰がどんな風にいつ何人死のうと、別にどうでもいい。国が大荒れし暮らしに滅茶苦茶な制限がかかるというのでもなければ正直、ヘイのような人間には超上層の人間がどう七転八倒したところで何の関係もないのだから。
至極投げやりに適当で平坦なヘイの返答に、わずかに驚いたようにひょいとリーは片眉をあげた。
「やはり君は、驚きも怒りもしないんだな」
「俺たちにゃァ随分ご高名な【誘滅の狂踊師】サマがわざわざこんな国に来る理由なんぞ、ソウイウモン以外に一体何があるってンだよ。……で? 俺が聞きたいのはそこじゃねェんだよ、リー」
そう、誰がリーの人形の餌食となって死んだところでヘイには基本的に、関係がない。
人殺ししかできない殺戮人形など、作り手も作り手だが買い手側も買い手側で本当にどうしようもないからだ。しかしあの真っ黒な居候が、何がどうしてかそのど真ん中に関わってしまっているというのなら話は別である。
折角あの義手に動作の効率化は無論のこと面白い機能もそれなりに盛り込めるメドが立ってきたというのに、それを見せる奴がいなければヘイにとってはまったくもって何の意味がない。あれを見せて確実に、誰よりも驚嘆し瞳を輝かせる人間がいなければ、どんな精巧緻密に唯一無二な大発明であっても、面白くも何ともあるはずがないではないか。
ヘイの言葉に、苦笑してリーは首を横に振った。
「おそらく今回の依頼主は、私という人間を使い捨て、己が引き起こした殺人のすべての咎を私に着せて殺すつもりだ。よくある話だよ」
「あーァ。まったくもって陳腐な話だァな。……で? だからなんでそれに、アイツが巻き込まれてやがんだ」
「私とは別の面、別の意味において、彼が邪魔だと依頼主が判断したんだろう」
「……ほーォ?」
「細かい部分はむしろ、彼と接してきた時間の長い君の方がよく知っているはずじゃないのか。ヘイ」
白すぎるほど白い左半分と、刺青に隅々までを覆い尽くされた右半分が同時にヘイを見据える。要するにこの滅茶苦茶なまでの呪い、リーを人形師たらしめる刺青は、その呪縛の触手を理由はどうあれ、リョウにまで伸ばしたと。そういうことなのか。
元来持ち合わせている滅茶苦茶かつ一方向性に膨大な知識に加え、現在のリョウが保持しているのはこの世界には存在しないはずの「治癒魔術」の魔具である。
まああのトンデモのぶっ飛んだ具合を考えれば、今のようにのんびりのらくらしていられるのも、もうそう長くは続かなかろうと実はヘイは思っていた。が、さすがにこんな珍妙な展開は、ヘイも予想してはいなかった。
まさかリーを、レジュナリア【傀儡師】を自分の望みのために引き込み、そして彼女を片づけようとする「依頼主」の策略に彼女もろとも嵌められるなど。
正直、ふざけているとしか言いようがない。若干ならずげんなりして、ヘイは深々と息を吐き出した。
「本当になァにしてやがンだか、アイツは」
「まったくだな」
そんなヘイに対しリーが返したのは、また苦笑だった。
奴に向けてやりたい罵倒などそれこそ山のように浮かんではくるが、それを向けるべき人物がここにいない以上言葉を考えてみたところで労力の無駄だ。何はともあれまずはヤツの状況をこちらが把握し、助けてやらなければ文句の一つも言えない。
ふと窓の外を見やれば、先ほどまでは確かに真っ暗だったはずの空がいつの間にか白んでいる。当然ながらリョウがおらずとも、時間は過ぎるし、朝は来る。
ひどく味気なくつまらない上に、空腹を満たすための手段をわざわざ自分で考えなければならない、何につけても七面倒くさいまったく面白くない朝が、だが。
「確実なのは、彼が私という存在の「清算」に巻き込まれたということ、それだけだよ」
やはり私には結局のところ、闇から闇を渡り歩くしか生き延びる方法はないようだ。
暗い、ある意味ではこの昔馴染みらしいとも言える目で、リーはどこかうっそりと苦笑する。今更ながらに哀れな奴だと不意に思い、そんな余裕かつ上から目線の思考が可能になってしまっている自分はヘイからすれば、非常に奇妙だった。
従って自他双方へと向けて、ハッと鼻でヘイはひとつ笑って見せる。
本当に何を、こんな今更と思う。それに。
「ンなこと、アイツが知るわけねーだろ」
脅威というものを身にしみて知らない、ぬくぬくなものすごい温室どころかある意味離宮の最奥レベルな育ちのリョウには、ヘイやリーへの恐怖というものがまるでない。
そうでなければ今もまだ、知り合いも随分増えたというのに敢えてヘイのような人間と関わり続けるはずがない。誰に尋ねたところで変人と言われる。ヘイ自身それを否定するつもりはないし、興味のない人間にはどこまでも適当なあしらいしか、これまでしてはこなかったしこれからもしてやるつもりはさらさらない。
そもそもリョウは、なぜこの国に魔具師が少ないのかという理由を表向きにしか知らない。一度この国が(一応言ってはおくが、ヘイたちとは特に関係のない)レジュナリア【傀儡師】ともうひとりの魔具師によって、滅びる寸前にまで陥ったことを知らないのだ。
まあ今から軽く百年は前のことだから、知らずとも当然ではあるのかもしれない。面と向かってリョウにあえて、そんな情報を与える人間がいるような気もしない。
しかし恐怖は、身に血に沁みて後世にまで語り継がれ、残る。その意味で魔具師はこの国において、少なくともどうしようもない、積極的に志すのは奇妙な職であり、そんな人間はまず「普通」とは言い難い。
それらを一切、リョウは知らないのだ。知らせていないのもあるが、結局はヤツが自分で調べようとしないのが悪いと、ヘイは思っている。
そもそも驚くべきことにヤツは、人間というものは基本的に平等であるものだと思っているのだ。そうあることを、呼吸と同等に自他に見境なく望んでいる。
そんな人間がどうしてリー個人のつまらない事情程度で、彼女の腕を引っ張ることを止めたりなどするものか。リーに声をかけた当時は勿論として、実際につくりものの腕が動く様を目にしてしまった今になれば、尚更だ。
しかしそんなリョウの奇妙な意固地を知らないリーは、もうひとつ苦笑して肩をすくめた。
「私がこの仕事を受けさえしなければ、彼はこんなことにはならなかったんだろうな」
「さァ、どうかね」
「え?」
ざっくりと返したヘイの言葉は、おそらく予想外だったのだろう。きょとんとリーが目を見開く。刺青のせいで色まで違って見える黄緑の双眸が、ヘイを見据える。
クッと、喉奥で一度ヘイは笑った。
「確かにこの展開は俺にとっちゃ予想外だがな、正直アイツの猶予時間は、テメエの存在を抜いたところでそう大した長さは残ってなかっただろーよ」
「それは、どういう意味だ?」
「どうもこうも、そのまンまの意味だ。どうせあいつァどこでどう足掻いたって、ワケわからん異者だってことに変わりはねェんだからな」
「……」
ただただつらりと事実を述べて見せたヘイに、何とも複雑な色をその目に浮かべ眉を寄せてリーは沈黙した。
しかしリーが何を言ったところで、結局それが真実なのだから仕方がない。ついでにリョウ自身が何を言ったところでこれも無駄だ。ヤツの一番悪いところは、いつまでたっても自分が何をしているのか、さっぱり分かっていないところだとヘイは思う。
そんな珍妙なヤツでなければ、今更助けてやろうなんて殊勝な考えは欠片も浮かびはしないのだろうが。
目前にいないということに奇妙な「欠け」めいたものを覚える黒の色彩に、やれやれとひとつ笑って息をついてヘイは腕組みをした。
「で? リー、テメエはどうすんだ」
「どうするんだ、とは?」
「今のテメエがどういう状況に置かれてンのかは知らねェがな、どうすんだよこれから? 大人しく引き出されて殺されてやンのか」
「まさか」
おおよそ返答を承知しながら口にした言葉に、返ってきたのはヘイの予測通りのあっさりした否定だった。
むしろどこか困ったように苦笑して、リーはわずかに肩をすくめる。なぜ今更そんな愚問を、とでも言いたげな顔だった。
さらにはしれっと、こんな言葉を彼女は続けてくる。
「私は一度任された仕事は、最後までやり抜かなければ気が済まない人間だ。それはヘイ、君も知っているだろう?」
「ほーォ。そうだったッけなァ」
「それに今更ひとつの連続殺人なぞに、くれてやるような命でもないんだ、これは」
「で?」
「依頼主がいなければ、仕事は完遂などできない。そういうことだよ」
「へェ」
今更ひとつの連続殺人なぞに、くれてやるような命でもない。
その点に関しては正直なところ、ヘイにしてもまったく同じだ。二人の首はどちらとも、今更贖罪と称して差しだせるような軽いものではない。
まあ正直なことを言ってしまえば、別にそんな面倒な過去や隠し話は、現在の話の焦点であるリョウにはまったく何も関係のない話なのだが。
それはそれ、これはこれだ。つらつら考えている間に、リーはさらに言葉を続けてきた。
「リョウ君の知り合いには、この国の大貴族がいると確か君は言っていたな」
「あァ、三人ほどな。ついでに言やァ国王陛下もいるぞ、ヤツの知り合いにはな」
「……ヘイ。本当に今更だと思うが、彼は一体何者なんだ?」
「だからさっき言ったろォが、ヤツは異者だってよ」
「いや、しかし、……まあいいか」
わずかに頭が痛そうな表情をリーは浮かべたが、事実はあくまでも事実である。まったく表情を変えることなくヘイが彼女を眺めていれば、割合すぐに彼女は何か諦めたようにひとつ深く息をついた。
さてはて一体誰に対して、何をどうしようとこの女は考えているのか、と。
わずかに口の端をつり上げたヘイに、再度顔をあげたリーはさらりと告げた。
「私という存在をこの国へすり抜けさせたことを、彼らに後悔させてやることは即ちリョウ君のためにもなるのではないかと私は思うんだが、どうだろう」
ごく当然のように彼女が口にした言葉は、普通ならばおおよそやろうとも思わないような事柄だった。
そんな内容であるからこそ、ヘイはリーの提案に思いきり吹いた。随分鬱屈した心情に、一瞬バキリと愉快な亀裂が走る。
昔の記憶と何も変わらず、当然のように奇妙に壊れた彼女が愉快だった。笑う。笑ってやる。頷く。
「さりげなくえげつねェのも昔から変わってねェのな、リーよ。……いいぜ、乗ってやろうじゃねェかその提案」
組んでいた腕を解き、その手で一度バシンと強く壁をヘイは叩いた。
そもそもヘイの感覚からすれば、あんな面白い底知れない奇天烈なものを勝手に取り上げようとするような輩に、一切の遠慮などしてやる筋合いはまったくない。
貴族どもの行動そのものには興味はないが、結果的にその策略とやらがこちらの領域を荒らす結果を導き得るというのなら話は別である。それなりの居心地の良さから住みついた国ではあるが、だからといって何に敢えての情け容赦をかけてやるつもりもヘイには皆無である。
しごく楽しげなヘイの反応に、どこか満足げにリーもまた笑い。
そして、
「――――それは、非常に興味深いですね」
「!?」
何の前触れもなくその場にさらりと響いた二人のどちらでもない声に、どこか和やかですらあった空気は一瞬で吹き飛んだ。
全ての扉と窓を閉め切った現在のこの家ではまずあり得ないはずの事態に、愕然とヘイは目を見開く。反射的に視線をやった先に立っていたのは、黒基調の執事服に身を包んだ黒ぶち眼鏡の男だった。
一見すれば柔和な表情を、男はヘイたちに向かって浮かべている。しかし眼鏡の奥にある深海色をした瞳はまったく笑ってなどおらず、明らかにヘイたちを見定めようとするひどく傲慢な思考が、その目に透けて見えるような気がした。
わずかに不快げな表情を、傍らのリーが浮かべる。しかしただの魔術師としては並の腕しかないうえ魔具の持ち合わせもないヘイとリーが、もはや無駄としか思えないまでに高性能に仕上げたはずの多くの魔具の「目」を、容易くかどうかは知らないが初見で掻い潜ったこの男に敵うとは残念ながらまったく考えられないのだ。
いったいいつからこの男は、俺たちの会話を聞いていた?
背筋にうすら寒いものを感じながら、ぎろりと執事姿のその男をヘイはまっすぐに睨み据えた。




