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未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
第二節 転機の出現/見霽の青年
92/189

P2-47 絡む糸への手ほどき 5



「……カリア?」


 さらりとこの名を呼び捨てる声を、もう随分久しぶりに聞いたような奇妙な錯覚に。

 それまでドアを叩いていた、こぶしが勝手に、ぴたりと、止まった。





「カリア、なんだな?」


 止まってしまったノックの音に向かって、もう一度椋は呼びかける。扉を隔てた向こうに立つ、相手の名をゆっくりと口にした。

 何と言えばいいのか。とりあえずは非常に予想外であるような、しかし同時にとても、彼女らしい行動であるような気も、した。

 そんなことを思う原因は、あのとき椋が示した彼女への間接的な拒絶にも近いものでもあれば、結局何も教えてはくれないまま、気が付けばこんな場所にまで来てしまったという、状況への憤りめいたものでもあった。

 そして何につけてもあまりにまっすぐすぎて、自分を取り巻く種々の事態も含めて軽く受け流すことなどできない、良くも悪くも直情で嘘のひどく苦手な彼女を、色々な意味で椋が「知って」いるからだった。

 しかし後者を知ってはいても、前者の一過性の感情はあまりにベクトルがとげとげしく、大きい。ガス抜きなど未だにまともにできているはずもないそれは、ヘタに口を開けば妙な言葉を、今更口にしたところで仕方ないようなものを際限なくぶちまけかねなかった。

 ひとつ、ふたつと椋は深呼吸する。

 彼女と話すべきことは、ある。話したいと思うこと、それこそ訊ねたいことも山のようにある。

 しかし伝えられなかった事実、起こってしまった事件、かぶせられた無実の罪、現在の自身の状態。

 すべてがあまりに混沌としてしまい、結果としてどれもがうまく言葉にはならずに、結果として椋はただ扉向こうの相手の反応を待つことしかできなかった。

 そもそもどんな顔で、何を考えここにカリアは来たのだろう。現在の椋には、分かりようもなかった。

 ややあって、向こう側から声がした。


「リョウ」


 椋の名を呼ぶカリアの声は、どこか小さく、頼りなく震えているような気がした。コツン、コツンともう二度何かが扉に当たる音がしたのは、彼女がその両手をこの扉に押し当てでもしたのだろうか。

 距離にすればわずかであるのに、今椋たちの目の前にある扉一枚という隔ては絶対だった。揺るがせることのできない、現在の椋たちの距離だった。

 何となく居心地の悪さや歯がゆさのようなものを感じるのは、互いの存在を肌で感じることもできるような距離で、しかし決して顔を見ることができないからなのだろうか。開かない扉は声を直接相手に届けることも、相手の表情を見ることも不可能にする。

 ゆっくりひとつ深呼吸をして、今は決して顔を見ることのできない相手へと椋は口を、開いた。


「声、震えてるぞ。カリア」

「……っ、」


 できるだけ静かに、責めるのでも咎めるのでもない八つ当たりするのでもない、ただ相手へ軽く呼びかけるだけの口調で椋は声を発した。

 そんな椋の言葉にも小さくカリアが息を呑むのが聞こえたが、残念なことに今は椋にもそう余裕がない。謂れのない殺人の罪を着せられ、どこの誰の仕業とも知れない冤罪を被らされる。そんな現実は容赦なく、椋の精神を摩耗させていた。

 明確な返答を返しては来ないカリアの名を、再度椋は呼んだ。


「カリア」


 なぜ、彼女は今ここにいるのだろうともう一度、思う。

 クレイの場合は任務でもあったらしいから、まだ分かる。けれどカリアに関しては、ただ個人としてこの場に踏み込んでいるような気しかしない。

 真実はどうあれ、現在の椋は一時的な軟禁を余儀なくされていることからも分かるように、殺人の容疑者なのだ。そんな人間に自分から会いに行くなど、自身の体面を何より気にするイメージの強い貴族にとってみれば、とんでもないを通り越して言語道断であるような気がする。

 なにしろカリアは、現在椋が容疑をかけられている殺人には何ひとつとして関与してはいない、少なくとも表層では何も関わってはいないのだ。そんな人間が不用意に容疑者と接触などしようものなら、即座にあらぬ目を他人から向けられようことは、椋にも想像がつく。

 そもそもカリアはこんな状況に、椋が陥ることまで知っていたのだろうか。

 知っていたから、あのときのあんな態度、だったのか。

 しかしそうだというなら、なぜ今更自分のところになどカリアはおそらく単身でやってきてなどいるのだろう。状況は最低で、正直なところ椋の気分も最低に近い状態で、……今更な謝罪のひとつでも、こっちに向けてくれようとしてくれているのだろうか、と。

 しばしの沈黙が、扉を隔てたふたりの空間に落ちた。

 やがてぽつりと空間を揺らしたのは、カリアからのまたの小さな呼び声だった。


「リョウ」

「ん?」

「そ、の……っ、」


 響くのは、笑おうとしながら泣いているような震えた声だった。

 何に対して、震えているのかは知らない。異常事態に磨耗した精神は、ふつうに相槌を打ってやることすら容易ではない。すぐに来ない言葉に対してぐらりと勝手に沸き立ちかけた腹の底を、咎めることはおそらく誰にもできないと思う。

 震える彼女の吐息が、扉越しにわずかに聞こえた。

 その内側にきっと存在しているのだろう続きの言葉を待つこと以外、結局は何も椋にはできなかった。

 また、コツンと小さな音がする。


「正直、色んなことがまだ信じられないの。……ううん、こんなこと、一番言いたいのはあなたよね。わけ、わかんないのだって、何にも納得できないのも、信じられないのも、全部」


 カリアは言った。言葉を、続けた。

 先ほどより少し声が近くなったような気がするのは、さっきのコツンという音が、カリアが額を扉に当てたゆえの音だったからなのか。


「あなたの存在が、あちらに知られてしまったこと。多分それが、こんなことになった原因の、さいしょなの」

「……え、」


 だからきっと敢えて、最後にする事件に彼女を使ったの。

 半ば呟くようなカリアの言葉に、一瞬の思考停滞の後、何かがすとんと椋の中で奇妙にスムーズに落ちた。

 「あちらに知られた」「それが全ての、最初の原因」。――あぁ、俺はカリアたちの「敵」に邪魔者と認識されたのか、と。

 納得はできるはずもないが、なぜ自分なのかという点についてだけは多少の理解をもたらしてくれる言葉に、どこかひどく遠い思考がぼんやりとそんなことを考えた。

 彼女にそしてアノイに「敵」として相手取らねばならない存在があることは、以前カリアの家に招待された際に聞いて知っている。

 彼女の叔父であるというその人は、決して未熟なままのカリアを認めない。彼らが不定期に何のきっかけも前兆もなしに起こしてみせる事件は、そのひとつひとつで彼らの考える「及第点」に至らなければ即ち、彼女の負けなのだと聞いた。

 そして今、そんな人物に椋の存在が知られた。だから、……潰しに、かかってきた。

 俺が、何をしたって言うんだ。

 さらに思考に混沌ばかりが淀む椋に、カリアは続けてきた。


「あなたというひとの情報が、どこから漏れてしまったのかは分からないわ。でもきっとこの国には既に、あなたを、特異点に行きあたるための方法なんて星の数ほどある」

「……」

「すべて総合した結果として、あなたを危険だと、計画のなにもかもを想定外に破綻させうる存在だとあちら側は見なした。――実際にあなたは何人も、あちら側に殺されるはずだった命を救ってる。誰も解明できなかったものを、貴方一人の力で暴いてしまってる」

「……アイネミア病の、あれ、?」

「分かりやすいものなら、そうね。……でも、あのことがなくてもきっと、あなたのことが知られるのは時間の問題だとは、思ってた。こんな手の打ち方をしてくるなんて、しかも、私が何も動けなくなる、なんて、……全然、考えてもなかったんだけど」


 ひどく苦い、後悔の深く滲む声で、カリアは椋へ向かって言葉を紡いでくる。

 動けなくなる。相手の苦い言葉を舌の上で転がしてみる。それに連鎖するように浮かんでくるどうしようもなく男前に完璧に整ったアノイの顔を、とりあえずは少なくとも五発くらいは、これが片付いたら真正面から殴ってやることに決めた。

 何も言わなかった理由についてはもう少し詳しく聞かなければ分からないが、この国ではかなり偉い立場にあるらしいカリアに何かを強制できそうな人間がそれくらいしか思い浮かばないのだ。それにあの何を考えているか基本的に他人に悟らせないよう創られている男は、平気でカリアのようなやつにも、本来ならできないようなことをやれと言い切るようなひどいやつだ。

 何もかもが、積み重なった結果。

 どこまでがカリアの意志でありどこまでがその意にそぐわぬ強制であるのかは、椋にはわからない。


「……」


 だからこそ少し、椋は困ってもいる。

 感情を、激昂の波を扱いかねている。――ことカリアについては、この何とも何処にも向けづらいむちゃくちゃな感覚を、一体どうやってこれからどこに収束させて向けてやればいいのだろう。

 そもそも何でこんなに無茶苦茶なところまで来てるんだかな俺は、とも椋は思う。

 アノイには勝手を許された。しかし椋には力がない。自衛の力など、特に今回のような「権力」を前にしては皆無に等しい。

 帰りたいよ、と今更強く願った。

 自分のできる限りのことをと足掻けば、その結果が廻り廻って椋自身の首を、絞めてくる。


「リョウ。あなたに今まで、言えなかったことがすごくたくさんある」

「……ん」

「ひとつ、仕掛けられていることがあって、防がなければならないことがあって」

「……うん」

「だから私たちは、……結果的に、あちらがわの情報を引き出すために、あなたをこんな場所に閉じ込めた――」


 ふざけるな、と。

 言いかけて、どこかむなしくなって止めた。カリアに向かってそう叫べるなら、一時的には非常に楽になることは想像に易い。

 だが叫んだところで何になる? そもそもこちらに向けられる、彼女の声には後悔しかない。苦しさしかない。

 そもそも、謝って欲しいわけでもない。謝罪の言葉はむしろこの憤りをさらにあおるだけだ、すぐに許せるような簡単な問題でもない。

 それぞれ譲れないこと、動かせないこと、どうしようもないことがあって、結果として今、こうして隔てられている。

 それだけだ。一番状況を簡潔にまとめてしまおうとするなら、それだけだ。

 思考すれども消えない憤りは口を開けば棘でしかない言葉を吐いてしまいそうで、嘆息とともに沈黙するしかない椋へとさらに、カリアは続けてきた。


「これも含めて解決しなければ、きっとあなたを外に出すことはできないと思うから伝えておくわ。あちらが今、この王都で行っていると思われることについて」

「……どういう、?」

「自殺あるいは自然死としか思えないような死に方でここ半月くらい、アイネミア病に関わった疑いが濃厚な人間が立て続けに亡くなっているのよ」

「!?」


 告げられる言葉に、目を開く。感情と理性が奇妙な相反する波になって思考の内側で、ぶつかる。

 半月という期間は、アノイの帰還によって断ち切られたアイネミア病、そしてオルグヴァル【崩都】級の王都襲来という脅威からすぐに数えるには少し短い。もしも最初からあの病を王都に蔓延させ、魔物を孵化させる過程に何かしら関わった人間を片づけるつもりであったなら、その始まりは確実に「遅い」のだ。

 しかし、今から大体一カ月前。その中には椋がカリアの家に呼ばれアノイと初めて会った、あの日――地図を、返した日が存在している。アイネミア病のカラクリを、結果的に椋が暴いてしまった日ともいえる刻が。

 さすがに最初はあちらも半信半疑だったんでしょうけどね。カリアがまた口を開いた。


「その「粛清」は私たちが、あなたという存在によってあの病の事実を知ったあとから徐々に始まった。あんな特殊すぎる呪い、呪術がそう盛んなわけでもないこの国ではまずカラクリの分からないはずの代物だったから」

「……」

「現に、あなたが殺した容疑をかけられているケントレイ・ターシャルって男もね。表向きには勿論隠されているけれど、確実にオルグヴァル【崩都】級の卵および、私とあなたがあの日に遭遇した魔物、アルナフィア【滅師】級の亜種の売買に関わっていた人間の一人だったの」


 淡々と、淡々と。感情のこもらぬ声でカリアはただ彼女の知る「事実」らしい言葉だけを椋へと向かって口にする。

 少しでも患者のためになるならと作った地図は、いつの間にか椋の手を離れて、少しの時間をかけて廻り廻ってとてつもない大事になっていた、らしい。ひとりでも多くの人間に早く回復して欲しくて駆けずり回った結果が、国家そのものを相手取って暗躍するような人物に繋がっていった。――俄かには、正気の沙汰とは全く思えない、事実、らしい。

 しかしまぁ要するに、だ。冷静な思考の端が笑う。あのとき椋が決めた覚悟というのはまったく、こんな結果を予測するためのものとしては不足してあまりあるものだったわけだ。

 こんな想像しろと言う方が無理だと投げてしまうのは簡単だが、今更そんな馬鹿な弱音を誰に吐いたところで現実は変わらない。

 思わずまたひとつ大きく息を吐いた椋に、少しだけまた苦笑してカリアが言葉を向けてくる。


「あちら側は、私たちがその「殺人」の足跡を辿り、すべてを詳らかにしようとしていることにも確実に気づいているわ。……きっとそろそろ潮時だとでも思ったんでしょうね。あの奇怪な病のカラクリを暴いたあなたと彼ら側のそれの係累、二つを一気に片付けてしまおうとしているのだと、私たちは思っているわ」

「……そんな」


 彼女の連ねる言葉たちに、まともな返答など全くできない。自分が過去に行ったことの、意識などしようもなかった途轍もない大きさを思った。分からなかった。

 しかしそんな不可解の中で、自分が果たして何に巻き込まれて行っているのか、自分の意図した、或いは想像した場所とは異なるどんな場所へ連れて行かれようとしているのかと椋は思う。

 そして椋の知る少女、カリアは果たして何を用いてどこに誰と、どのように進んでいこうとしているのだろう。


「……はは」


 ややあって椋の口をついたのは、乾き切った面白くもなんともない引き攣った笑いだった。

 今の自分がどんな顔をしているのかなど椋は知る由もないが、正直この顔は絶対に見たくはないなとどこかで、考えた。


「無茶、言うなよ。……とんでもなさすぎるだろう、そんなの」


 結局あのときの椋はただ、少しでも医者のまねごとがしてみたかっただけだ。

 中途半端な自分が持っている唯一のもの、医学の知識がそのために少しでも役立つならと。そう思って動き続けた結果として、なぜかこんなことが起きている。

 外のカリアが、ちいさく苦笑する声が聞こえた。

 そうね、と。

 同意の言葉を、静かに彼女は返してきた。


「あの方々は、あなたがアイネミア病のカラクリを暴いたことを、そして更にはマリア・エルテーシアが、あなたを自分の患者を“奪った”愚かな人間であると認識していることを何らかの手段を用いて知った。だから謹慎中であるはずの彼女を、敢えて表舞台に引き出して使ったんだと思う」

「……俺の名前を、彼女に出させるために?」

「おそらくはね」


 静かに告げられる肯定に、椋はわずかに眉をひそめた。口内に広がる苦さはもう、本当にどうしようもない。

 思考がまた、さきほどまでと同じようなところをループするのが分かる。どうしてこんなことになるのだろう。最初にただ黙って状況を見ているだけの自分が嫌だと思った、そして次には一人の人間を、ジュペスを死なせたくないと思った。それだけなのに。

 正しい、或いは間違っている。

 つまるところそんな簡単な杓子定規では既に、状況は何一つ、判断することができなくなっているのかもしれない。


「あなたは社会的地位を持たない一般市民でしかないことも、証拠などやろうと思いさえすればいくらでも後から挙げられることも。全て計算したうえであの方々は、あなたを消し、さらに自分たちの係累を消し去るために動いたんでしょうね」


 淡々と積み重ねられるカリアの言葉に、ぞくりと奇妙な鳥肌が瞬間、立った。

 わずかに恐怖めいた感情が、改めて心中に蠢いたのを確かにそのとき椋は、感じた。


「……そ、うか」


 震えそうになる声に、苦笑した。当然のように恐ろしい言葉を綴り続けるカリアを、わずかにでも怖いと思ったのは今日が初めてだった。

 だが。今こうして扉越しの声を聞いているだけでも、自身の感覚として椋は同時に、確信する。もうひとつ、苦笑する。カリアは変わっていない。変わらない、と。

 だって、そうだろう。黙ってさえいれば、使い捨てるつもりでさえいればいくらでもごまかしなど効くだろう事実を、バカ正直なまでにまっすぐにこうして、囚われた直後に駆けつけ伝えてくる理由なんて普通ない。容赦ない罵倒の言葉しか向けられないかもしれない、異常事態に混乱する相手の元に、状況を結果的には作った一人であるというカリアに、自らこの場所に向かう理由など何もありはしないのだ。

 謝罪の言葉もあるだろう、逆にみすみすつかまった椋を、罵倒する声も山のようにあるだろう。

 状況が分からないで混乱しているのは彼女も同じで、しかしそれらの言葉はすべて呑み込んで、ただ真摯に椋と向き合おうと必死になっている。

 嘘をつくことがきらいで、根っこは素直で多少の意地っ張りな性格はよく、知っている。

 どことなく無機質に鉱石めいた鋭角的な美貌の、それでいて笑うとどこか幼い、やわらかさの垣間見える少女であることを、椋は知っている。

 そんな人間で、ひとであれと、礼人に望まれたからこその、カリアだ。たとえそれぞれの根底の差異によって意識が食い違うことがあっても、彼女をカリアとするためその存在に込められた思いと願いは、変わることはない。

 ヒロインはやっぱり、俺と、あとついでにおまえの好みに沿わせなきゃ書いてても楽しくないからな、と。

 いつだったか二人で酒を飲みつつ、礼人がこぼした言葉がふと椋の脳裏に、蘇った。


「リョウ?」

「ああ、うん。……正直、全然納得はできない。カリアには悪いけど、今ここで、そういうことがあったからって、俺がこうなってることに関しても許すとか、そういう言葉も言えない」

「……うん」

「でも、もう少しだけおかげで、わかった」


 少しだけ無理に、椋は笑う。

 わかった。もう今更時間は止められない。たとえば戻したところで同じ行動を繰り返すだけなのは分かりきっているから、それならば変えられるのは、まだ確定していない自分たちの先、未来だけだ。

 どうにかして、動かなければならないらしいと改めて椋は思った。今現在のようにただ一方的に、終わってしまったすべてのことを知らされるだけの自分など、何というか男として人間として、情けなさすぎて本当にやっていられない気分になってくる。

 もしここでリョウ・ミナセという人間が有罪判決を受けて処刑されたら、元の世界に戻れるのかとも実は、少しだけ椋は考えた。

 しかしそれを考えるたび、辿りつく結論はひとつしかなかった。可能性としては確かになくもないかもしれないが、敢えて試してみるには賭けなければならないのが自身の命。あまりに、リスクが大きすぎる。

 どうして自分が今ここにいるのかと自問することはままあっても、自分から死にたいと思ったことは、幸か不幸か、一度も椋にはないのだ。

 それに今こうして言葉を向けてくれるカリアにしてもクレイにしても、まだ何もかもが中途半端で止まってしまっているジュペスたちやリーのこと、きっと悪態をつきながらも心配してくれているヘイにしても。このままここまで後味悪くぐちゃぐちゃに終わるのは、他の誰でもない椋が嫌だった。

 とりあえずはあのバッグ、返してもらうところからか、と。

 明日の朝にでも早速、エネフに交渉してみようと考えたところでまた向こう側から声がした。


「……リョウ」 

「ん?」


 それは再度のカリアからの、椋の呼び声だった。

 決して大きな声ではなかったが、常に前を向いている彼女の声はいつも、まっすぐに椋へと届く。決して高すぎず低くもないその声が口にする名は、確かな響きを持って椋という存在に呼びかけてくる。

 呼ばれる名前に応じれば、またほんの少しの沈黙があった。

 そして何かを決めたような、息がわずかに、吐かれる気配。


「――――今度こそ絶対、守るから」


 そうして紡がれた一言は、どこか宣誓のように椋の耳に届いた。

 たとえ声は小さくとも、もうその言葉は最初のように揺れては、いなかった。


「だから、」


 だから、どうか、願って。信じて。

 続いて聞こえた気がしたその一言は、しかし実際には椋の鼓膜をふるわせることはなく曖昧な沈黙の間にわずかに漂い、消えた。

 わずかに上ずりまた震えを宿す彼女の声には、どこかあの後味の悪い別れと同じような、泣きそうな気配があるような気が椋にはした。

 そしてそんな自分の「気」は、そう的外れというわけでもないのだろうと、椋は思う。本当にこの子は仕方がない。同じような言葉をこっちに向けて一度は拒絶されているのに、それでもまた、そんなことを口にできるこの直情とごまかしのきかなさ、感情の波はいったい、どこから湧いて来るものなのだろう。

 口にはされずに消えた言葉を、静かに手繰るように。

 静かに相手の名前を、椋は呼んだ。


「カリア」


 きっとこの場所に来るまで、いやもしかすれば今でもずっと、椋と同じく相手からの拒絶や無関心の恐怖を抱えていたのだろう彼女に、呼びかける。

 言葉の代わりに、彼女から返ってきたのは椋を待つ小さな吐息だった。

 小さくふっと苦笑して、椋もまたコツンと、わずかに音を立てて扉に己の額をつけた。


「わかった。信じる」

「……!」


 息を呑む音が、聞こえた。きっと扉の向こうには、零れ落ちそうなほどにきれいな金色の目を見開いたカリアの姿があるのだろうと何となく椋は、思った。

 しかしさすがの椋であっても、信じるには一つだけ、条件がある。

 ただし、同じ調子のまま椋は言葉を続けた。


「俺は死にたくないし、医者っていう目標を捨てるつもりもない」

「うん」

「アノイならまだ殴ればいいけど、いや、そもそもそれだって正直まっぴらごめんなんだけど」

「うん、」

「カリアにまで俺使われたら、俺、確実に死ぬからな?」

「……リョウ」


 暗にもう、二度とは同じ事はしないでくれと。

 そう、伝えたつもりだった。アノイはどうせ、この国の王様だ。陰謀策略の内側で、これからも何度だろうと、椋が帰らない限りは椋をなにかに使い続けようとするのだろう。

 なにより先に「国」を考え行動することが求められる王としては、おそらくある意味では理想の姿なのだろうとも思う。椋個人としては非常にイライラするが、私情私腹に走る下種よりはまだ随分とマシ……なのだろう。それと怒らない、抗わないというのは全く別の話だが。

 しかし、カリアは。

 彼女にまで使われるというのは、……さて、なんと言うべき、か。


「しないわよ、そんなこと言われなくたってこんなこと、二度と」

「ホントかぁ?」

「……今の私があなたに何を言っても、結局説得力なんてない、わよね」

「そうだね」

「でも、……むね、いたい」

「カリア?」

「だってもう、やだ、」


 落ち着きかけていた声が、また不意にふわりと揺れて響いた。泣きたいのはむしろこちらの方なのに、ある意味ひどいものである。

 本当に、カリアが泣いているのかどうかは知らない。俺だって嫌だ、と思う、何をすればいいのかの見当もつかない。

 それでも最終的なところで、彼女を拒絶する気にはどうにも、なれないのは。


「……嫌だもの、こんなの、絶対、絶対……っ!」


 何にもあまりに必死すぎて、どうしても放っておけないからだ。

 ふとした瞬間、何かの弾みで切れてしまいそうな線の細さが、やわらかくもろく傷つきやすい部分が、垣間見えるからだ。

 この世界にとって「異物」の椋は、結局は彼女には必要のない人間なのかもしれない。そもそも本来必要となど、されるはずもなかった人間なのだから。

 それでも放っておけない、必死に伸ばされてくる手を離すという選択肢が浮かばないのだから仕方がない。

 今はただ、状況が隔てがひどく歯がゆかった。

 何もかもを打開する、力を、術を、ただ、願った。



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