P2-46 絡む糸への手ほどき 4
自分のものが何もない部屋は、ひどく静かで奇妙に空白めいていた。
何しろ確認のためという名目で、現在の椋は完全な手ぶら、亜空間バッグも取り上げられてしまっているのである。結果として何もすることがない椋は、だらしなくベッドへ身を投げて、ぼんやりと天井を見上げていた。
椋がこの世界に放り出される前、大学生としてごく普通な生活を送っていた部屋や現在、ヘイに借りている部屋には及びもつかないほど、見まわす室内は広いし天井は高い。壁は綺麗でベッドはふかふかだし、こまごまとした飾りや本棚にきちんと整頓された本は背表紙も綺麗、床はちりひとつなく磨きあげられマットも絨毯もテーブルも何もかも清潔だったが、それらはしかし結局のところ、今は椋を捕らえる「箱」を形作る一角でしかなかった。
嵌め殺し式の窓に、外からカギをかけられたドア。異様なまでに室内が静かなのは、おそらく何らかの魔術がかけられているせいなのだろう。
物理的にも精神的な面の問題で考えてみても、現在の椋がこの場所から出られる方法など、皆無だった。どうにかして勝手に外に出たところで、今のままでは余計に自分が危なくなるだけだと何度も言われた。
理性では納得することもできる。ただ理不尽の続くがまま椋に有無を言わせず、この部屋に放り込まれたというわけでも、ない。
ない。ない。ないのだが。
しかし何がどこでどう間違って、こんな、軟禁状態になったのだろうと改めて、思う。
「……う、」
頭痛めいた眩暈を覚える。全ての発端は結局のところ、どこかで強いて思い出さないようにしていた、おそらく椋が生まれて初めて目の当たりにした狂気の光景だった。
マリア・エルテーシアという、祈道士であり、おそらくかなりディープなメルヴェ教徒であり、……不用意に椋が口にしてしまった言葉に怒り狂い、結果としてジュペスを殺しかけた少女の、光景だった。
謹慎が解けていないにもかかわらず、マリアは友人の誘いに乗って外に出たのだという。そもそも謹慎という処罰それ自体を全く納得していなかったらしいマリアにしてみれば、それもまた「当然」のことだったのだろうとクレイは言っていた。
そして出向いた先の家で、彼女はひとつの殺人をおそらく、目の当たりにした。
さらにはなぜかその場所で、或いは彼女なりの「理由」は存在しているのか、
ケントレイ・ターシャル殺害の犯人の名として彼女は椋の名を甲高く、誰にも聞こえるような大声で、叫んだ。
「……冗談じゃない」
そんな言葉は、口にはすれど苦笑もできない。圧倒的な恐怖に今でも身が凍る光景に、そしてあの事件が連鎖して引き起こしたという今回の事態に、椋の口の端はわずかにぴくりと引き攣っただけだった。
あの時のジュペスの身を引き絞られるような絶叫は、今でも椋の意識の根底にこびりついている。決してはなれない。容易に離れてくれるとも今更思っていない。おまえの知識が引き起こし得る事態っていうのは、結局はこういうことなんだ――ヨルドの諭す言葉とともに、思い出すたびに背筋を凍らせる巨大な暗がりとして常に、意識のどこかに存在している。
思わず頭を抱えた。知っている、分かっているはずだ、それがただ自分個人の感覚で何をどういったところで簡単に変化するような簡単な問題でないことも、宗教というものが、一概にただ「害悪」しかもたらさない訳では、決してないということも。
宗教というものを須らく、諸悪の根源、滅するべきものと即座に断定するような思考の幅がない、視野の狭小な人間ではありたくなかった。
すべてを理解などできずとも、抜粋すれば名言以外の何でもない言葉も数多く、それぞれの宗教の経典には存在しているはずだ。そもそも宗教の戒律というのは、その宗教の生まれたそれぞれの土地を生き抜くための教え、命を守り財を守り、子孫の繁栄を願うが故のものとしての一面も持っていると、どこかで聞いたこともあった。
理屈ではそうと、理解できる部分はある。それでも今くらいは許されるだろうか。底無しの恐ろしさしか、この国の宗教というものに対して感じることができないという椋の内心も。
アルセラの椋への態度から考えても、マリアはほんとうに極端な例なのだと、分かる。分かるけれど、救えなかったかもしれない命ひとつというのはあまりに、椋には一人で抱えるには未だに重すぎた。
自分の言葉が、人を殺しかけた。
それは所詮青二才のひよっこでしかない椋が経験するには、あまりに壮絶で凄絶で、正直なところ理解したくもない純粋に酷過ぎる体験でしかなかった。
「……っ」
逃げていた。今更ながらに実感する、ひぅ、とひどく不気味な音とともに喉が鳴る。
だからこそ椋は、本当に勝手にジュペスの回復を願ったのだ。彼の回復と復帰を、椋が失わせた腕も含めて何とか、もう一度立ち上がって欲しかった。
本当に考えれば考えるほど、自分のことしか思っていない事実にはしみじみ落胆するしかない。「主人公」として設定されていた人物だから失わせるわけにはいかないと思った、そんな身勝手も含めて、なんだかもう心底、自分が嫌な人間にしか思えなくなってくる。
太古の昔、医療と呪術、シャーマニズムはほとんど同義だったという。
医療という語源も元を辿れば、そのあたりの言葉に行きつくのだという話をどこかで聞いた。もうそんな記憶が随分、ひどく昔のものであるように思えた。
いったいどこから、椋の知る椋がいたあの場所ではそれら呪いと医術は分かれ、さらにどうやって医術は宗教とも分離して、最終的に椋の知る、過去から見上げれば確実にとんでもないまでの進歩を遂げたのだろう。
俺はこれから、何をすればいい。こんなどこまでも中途半端で、実際の力も持たない、
ちっぽけで弱い二本の腕で、これから俺は、何ができる――?
「ん?」
コツン、と。
小さな、よくよく耳を澄まさねば聞こえないような音がした気がしたのは、そのときだった。
ふと部屋に備え付けの時計に目線をやれば、時刻はとうに午前一時を回っている。今更誰か用でもあるのかとも思ったが、それならそれで、もっと明確にノックがあるかノックの音とともに勝手に中に入って来られるか、おそらくそのどちらかであるはずだ。
聞こえた、ただ一度の小さな音。むくりとベッドから起き上がり、じっと耳をそばだてて椋はただひとつのこの部屋の出入り口、椋の側からは決して開くことのできないドアを見つめた。
しかし続く音はなく、空耳かと椋が首をひねりかけた、頃合いだった。
「……あ」
コンコン、と。
やはり決して強くはない、しかし確かに先ほどのそれが椋の幻聴ではないのだと示すようなノック音がした。
一言椋がうるさいと言えば、すぐにでも消えてしまいそうなか弱い音だ。それはなぜか、椋のものと比べれば随分小さく華奢で、よく見ればかなり傷だらけの彼女の手を椋に連想させた。
椋を軟禁するこの室内からは、外の様子を窺い知ることはできない。従って椋は現在このドアをノックする人間が、果たしてだれであるのか推測することしかできない。
しかしあえかなノック音に、その叩き方に半ば勝手に、脳裏に浮かんでくるのは銀と金の色彩だった。
明確な感情が浮かばなければ、どこか宝石のような硬質さを感じさせるその綺麗なかおに、
意識に浮かんで見えているのが、あのときの傷ついたような表情であることを少し悲しくももったいなくも、残念にも椋はやや自分勝手に、思った。
「……」
ゆっくりと、ベッドから両足を下ろした。決して強くはならず、しかし鳴りやむこともないノックの音へと椋は己の足を向けた。
これで勘違いだったら、相当恥ずかしいな、などと頭の端で思いつつ。
わずかにそれまでより強いノックの音が鳴った刹那、ひとりの少女の名前を椋はぽつりと、口にした。
「……カリア?」
途端にぴたりと、止まった音に。
やっぱりそこにいるのかと、何とも形容しがたい感覚にわずかに胸が痛みめいて軋むのを、感じた。




