P2-45 絡む糸への手ほどき 3
何が起こるとも思っていなかった。何も起こるはずがなかった。
絶対に何が起こっていいはずもなかった――そんなことを口にすれば確実に嘘になる。
けれどまさかここまで一気に、事態が唸りをあげて彼にひと息に襲いかかるなどとはさすがに、カリアにも予測できなかった。ここまで何もしない/何も手出しのできないまますべての状態が急変するなど、考えられなかった。
どこかでそんな可能性を、無意識にも意識的にも排斥していたのかもしれなかった。
酷薄なまでに冷徹な、思考の一部が彼女へ囁く。彼という存在に関して事態が一気に動くことを、その可能性をあなたは確かに知っていたはずでしょう、だからこそ彼という異端を、誰かが何かが決定的に厭う可能性も十分に予測できていたはずでしょう――と。
だから今、カリアはこの場に居た。
いまさら何を話したらいいのか、何を彼が求めているのか、そもそもカリアという存在をまだ、信じてくれるのか。そんな根本からして分かってはいないのに、それでも動かないではいられなかった。
今ここに彼女が存在することで、危うくなるものがある。揺らぎかねない、守るべきものが多く在る。
けれどそれでも、動かないで状況を静観するという選択肢などカリアは自分に用意できなかった。むしろそんな選択肢が選べるくらいなら、もっと「器用」な生き方をこれまでだって、きっとこれからだってしていけるはずだった。
そうでないからこそ結局は自分なのだと、分かっている。
だからこそ思考を働かせなければならないことを、冴え渡らせねばならない意識の中ではっきりと自覚している。
何を誰へ連ねてみたところで今更、何であろうと言い訳にしかならないのはあまりに明白だった。彼という個の存在に対し、自身が行ったことになったすべてのおぞましさが、ほんとうに今更がりがりと身を削ってくる。
こちらの理由と事情がどうあれ、もたらされた情報がその意味が何であれ。
結果的に彼女らが彼を利用し、最後には全てが巡り巡って彼の身へ災厄として降りかかってしまったことには、何の変化ももたらせはしない。
「……」
わずかな驚愕を宿した二対の視線を感じながら、静かにひとつカリアは息を吐く。
考える。「彼女」が勝手に動き理不尽に彼の名を口にしたと聞いたとき、最初に感じたのは何だっただろうか、と。
それが衝撃であったのは、たしかに違えようもない。あまりに予想外な事実への衝撃に、一瞬返す言葉さえ忘れて頭が真っ白になる感覚をカリアは味わった。
だがその衝撃が一体何のもので、どこに向かってのものか。
改めて問われればきっと、カリアは返答に窮してしまう。答えなど混沌する胸中には少なくとも今は――見つけられそうに、ない。
答えられない、何も言えないと言えば、あのときのリョウに対してもそうだった。
エネフに無茶を言われた。当てずっぽうの推論を、けれど少し糸を組みかえれば確かに完全に筋の通ってしまう言葉の数々を、聞いていられなくて少しでも否定して欲しくて、けれどそのすべてを口に出すことはアノイから直々に禁じられ、もう一転回にあいつも付き合ってもらう、そんなひどすぎる一言とともに、魔術まで用いられてカリアは拘束されていた。
けれど、それでも彼女は止めたかった。いくらめぼしい情報がかけらも見つからないままこの王都にレジュナ【傀儡】が増殖し、先だってのアイネミア病の真実を知りうる人物の数が減っていっているだけという現実を前にしても、それでも他の誰でもなく、あの黒を使うなど絶対に嫌だった。
止められない、止めることを禁じられた現実にそれでも何とか、少しでも抗いたかった。
彼の身に迫る、迫っているのに防ぐことをアノイから厳重に禁じられた事実には絶望しか感じられなかった。彼がそんな人間なのは、知っていた。けれどあいつを信じてやれ、そんなにあいつはやわじゃない。ひどく軽薄に笑ったアノイの顔が、あれほど憎らしく見えたのも初めてだったかもしれない。
あの夜の自分は、後から考えてみてもただ怪しいだけ、胡散臭いだけだったろうとカリア自身思う。
だって、何も言えなかった、何も答えられなかった。あのときのカリアは結局何の力もない愚かな小娘でしかなく、ただリョウのそばにいるだけで、何もできない、どうしようもないくらいにその事実がただカリアの中でだけ悔しい、心底からつまらないくだらない存在でしかなかった。
だからリョウもきっとあのとき、カリアの言葉に頷いてくれなかったのだろう。
肯定も否定もなくただ沈黙だけをリョウが返してきたのは、おそらくカリアの言動のどれもが空々しい、実体の伴わないただのカリア自身の願いだけで動いているものでしかなかったからだ。悔しいのに、声を、言葉を紡ぎたいのにすべては強制的にせき止められていたからだ。
思えばひどく滑稽で、虚しい以外の何でもない事実にカリアは小さく胸中でだけ苦笑した。
どうしてだろう。昔よりずっと、この手には確かな力があるはずなのに。少しは上手く立ち回れるようになったと、本当にほんの少しくらい、思えるようになりたいのに。
それなのに結局、今でもカリアは確かに「どこか」にある事態の急変を異常転回を止められない。何も止められない。超高速で目前から引き離されていく事実に、必死に追いすがることすらできているのかわからない。
まだとりあえずは取り戻せる範囲に、彼は存在ると言われたところで。
そんな言葉は当然ながら、欠片もカリアにとっての慰めには、ならない。
「いらっしゃるだろうとは思っていました。カリア様」
いつも通りの態度を取り戻したエネフが、感情の見えない薄い笑みを向けてくる。
そのすぐ傍らにクレイトーン・オルヴァがいることに関しては、今更カリアは不思議にも思わなかった。なぜなら彼はリョウの友人であり、アノイ側の目としてマリアを見張っていた人間だからだ。マオシェ【影鳥】の目に加えてアノイ本人から直々にも告げられたそれは、非常に彼らしい策であると、最初に聞いた時にはカリアは思ったものだ。
彼が果たして、どこから何までをあの酷い王に伝えられていたのかは知らない、けれど。
どうしてカリアがあえて今ここに、「犯罪者」であるという烙印を半ば押されたも同然の人物の元へ単身駆けつけたのか、カリアスリュート・ラピリシアという人間の立場的な観点からだけ見れば俄かには理解できないままでいるの、だろうけれど。
「……」
どこかひどく、いたたまれないような光をその目に浮かべて彼はこちらへと首を垂れている。きっと最終的には君主の意図するがままに完璧にその役割をこなしたのだろう彼は果たして今、何を思ってこの場に存在しているのだろう。
彼らがリョウをこの国から、すべてから排除するために動くとするなら、確実にマリア・エルテーシアを使うであろうというアノイの読みは的中した。
いやしかしそこにレジュナ【傀儡】まで絡んでくるとは俺だってさすがに思ってなかったぞ、全く困ってなどいなさそうな顔で嘯いた王に、半ば無意識でカリアのてのひらから爆発した焔は一瞬で彼の手によって消しされられてしまった。感情のままに誰かに魔術をぶつけたのなど久しぶりだった。容赦などかけらも、思考の端にすら浮かばなかった。
胸が、ただ、ひどくどうしようもないまでに痛かった。
呼吸が上手くできなくて、脈打つ心臓が一拍一拍いちいち鈍さと痛みを訴えて泣けば楽になるのだろうけれど、今一番泣きたいのはどう考えたってカリアではない。ぐっと両手の拳を握れば、王へ焔を向けたにも関わらず、眉一つ動かさなかったアノイの補佐官のうちひとりが淡々とこちらに告げた言葉がよみがえる。
わずかにアノイの「影」が察知したという魔力の残滓、さらに「無魔のみ」が感じることがあるというレジュナ【傀儡】の「崩壊」寸前の感触をこの無魔の騎士、クレイトーン・オルヴァが捉えていたということ。
さらにターシャル家の使用人たちによく話を聞いてみれば、半月ほど前なぜか二日ほど無断欠勤をし、そして今日、まるで事件と示し合わせたかのようなタイミングで存在を消した人間が、ひとり。もうひとつ加えて、ケントレイ・ターシャルが幾重にも鍵と封印をかけて保管していたという、いくつもの以前の事件に関する覚書や証書の数々。
それらはカリアたちの追う「他」の事件と本質的には今回のそれがまったく同一のものであるという、ほとんど誰にも理解などできないだろうわずかな、しかし確かな証左だった。
随分追うのに楽な取っ掛かりが多く今回だけで挙がっているのはおそらく、半分以上はあちら側からの仕掛けだ。もう半分は――彼らから向けられるリョウという異端への「興味」、とでも名づけておけばいいのか。
あぁしかしまったく、本当に最低だ。笑うしかないくらいに気分も状況も彼との関係性も、カリア自身の立ち回りも何もかも後手後手な現在もひっくるめてしみじみ最悪だ。
何もかも放り出して彼を今彼を軟禁する部屋から出すことができるような世界だったなら、どんなにこの国は全てのものは、もっと今より生きるのに楽な場所だったことだろう。
「そう。それなら話は早いわ」
薄く笑ってこちらを見据えるエネフに、同じように淡く笑い返してカリアは声を発する。
そんな情報の複数と引き換えに、本来何の関係もないはずだった彼が窮地に陥った。――いや、カリアたちが陥らせた。
止められなかった/おそらく、アノイは半分以上は分かっていて敢えて止めなかった。
カリア自身もどこかでひどく嫌な気配など分かり切っていてその上で、結局は動くことができないまま今まで来てしまった。
「……カリア様」
わずかに困ったような表情をその目にエネフがよぎらせたのは、今のカリアの行動それ自体が、この国の筆頭貴族の一たるラピリシアの当主としてはあまりに無茶なものであるせいか。
しかしもう、カリアたちには――否、リョウにはほとんど時間が残されていない。さらに一時でもこちらが手をこまねくようなことがあれば、おそらくまたあちら側はさらなる、リョウを消し去るための一手を容赦なく打ってくる。
それこそ既に「彼ら」は、「すべての根源」たるレジュナリア【傀儡師】とリョウを一気にこちらに片付けさせてしまう腹積もりであるはずだ。
もしも彼らがレジュナリア【傀儡師】をまだ使うつもりがあるなら、とうにあの、一番「そう」であるという疑いの強いひとりの女を、マオシェ【影鳥】やアノイの「影」の眼すら欺き、雲隠れさせることも彼らなら不可能ではないとカリアは知っている。未だに彼女がカリアたちの認知が至る範囲に留まっているということは、裏を返してみれば結局は、彼らというものからすればそんなどうしようもないような意味でしかない。
時間がない。こちらが誰を、何を手にし何を捨て去るか。今回彼らが試そうとしているのはきっと、カリアにとっての「そういうもの」なのだろう。
無論ただ楽な道を行こうとするなら、リョウとあのレジュナリア【傀儡師】である疑いが非常に強いというひとり、そのいずれもを切り捨ててしまえばいい話だ。ある程度相手の策略に乗ればいい。今回に限っては相手の思うがままになろうと、末端をわずかに表向きにならば、削ることも不可能ではないとカリアは気づいている。
だが、何を知っていようと何を「わかる」ことができようとそれは絶対に、無理だ。断言できてしまう。今でさえ何もかもが苦しくてたまらないのに、これ以上何を積み重ねることだってできるはずがない。
未来を遠く見据えたうえで、アノイは彼らの策に乗らない道を拓こうとしているのだろうが。
カリアが今ここにいるのはただ、あの黒が自分の目の前から去ってしまうのが嫌だという、それだけのためだった。もうこれ以上彼の、彼らの描く脚本に沿って、道化師になるしかない自分に耐え切れなくなったからだった。
彼女の表情や立ち姿から何を見たのか、わずかにエネフはカリアに首をかしげた。
「貴方様の来訪ならば、無論私はいつでも歓迎する腹積もりではありますが。……しかし今のカリア様のお目当ては、私たちのいずれでもないようだ」
「ええ」
飄々と綱渡りをするような口調のエネフに、少しでも声が揺れないことを願いつつカリアは応じた。
どうしても震えそうになるのは、今ここにいるカリア自身の何もかもが無茶だからだった。あのときリョウに何も伝えられなかった、どころか結局不審だけ煽って、半ば拒絶に近い態度を取られた自分。そうされるような言動しか、結局自分自身に許せなかった弱くて、どうしようもない存在。
そんなカリアには本当なら今、こんなところにいる道理などない、のだろう。感情的にならずにもっと理路整然と、彼に差し迫った危険について遠まわしにでも伝えることができていたなら、ここまでひどい事態にはならなかったのかもしれない。
でも一体、どうすればよかったというのだろう。どう動けば、何を伝えれば、何を預けて、どんな力を使えばこんな事態は起こさず済んだのだろう。
彼を無理やりにどこか部屋に、閉じ込めてどこにも出られないようにして、誰にも疑われようもない状況に置いておけばよかったのか。あの黒の色彩をカリアだけのためにどこかひどく狭い場所へ囲い込んで、籠の鳥にしてしまえばよかったとでも言うのか。
――無理だ。答えは一瞬にしてカリアの内側にて弾き出された。
自分でない誰かのために動くこと、それだけに懸命になるリョウに対してそんなこと、できるはずがないと、分かっている。
「リョウは、どこ? あのひとに、伝えなければならない話があるの」
だからこそ今、カリアは声を上げるしかない。
あの時のカリアが、リョウから受けたのは生易しい受容などではなかった。
返される沈黙の中で、ただ相手の鼓動、呼吸、ぬくもりだけを一方的にカリアが感じていた、それだけ。きっとリョウは、安らぎなど欠片も受け取ってはくれなかっただろう。ただ胡散臭さだけを、どの方向に向ければいいのかも分からないままに募らせたのだろう。
分かっている。だから今、一枚の平静の薄皮の下でばくばくと動悸がしていた。ひどいまでの恐怖があった。正しさなど分からなかった。今ここに自分がいることの正当化など、カリア自身の手だけではできようはずもない。
それでもなおこうして実際動いてしまっているのは、カリアにはわかっているからだ。結局は彼がそのような、あくまで「個人」の視点からこちらを拒絶し得る人間であるからこそ、カリアという存在すら受け容れて友人と呼んでくれたのだと知っているからだ。
それは単純な善し悪し、ではない。彼が決して、すべてにおいて「正しい」とも限らない。
どうして彼がレジュナリア【傀儡師】などと接触することになってしまったのか、レジュナリア【傀儡師】などに自分への協力を要請し、それが受け容れられてしまったのかもわからない。
結局ただ、彼はだまされているのかも知れない。相手側が意図的に「自身」に関する情報を隠していたのだろう、或いは彼を隠れ蓑として使おうとしたのかもしれないという思いは、何一つ確かめることはできないまま今も、カリアの胸中にある。
怖い。わからない。指先が震える。
それでもどうしても伝えたい、伝えなければならない言葉がいくつも、ある。
「それで良いのですか? カリア様」
カリアが今からしようとしている選択の意味を、エネフも、そしてやはり、黙って場を見据えるクレイもおそらく既に理解していた。
だからこそエネフはカリアに問い、一方のクレイはひたすらに沈黙を守るのだ。カリアにとっての選択の場面は、今。ここでリョウという存在を切り捨てれば、アノイはともかくカリアは、一時しのぎの楽な道に流れることができる。この国にとっての異物を切り捨てる、そんな選択だけを指先で下してしまいさえすれば、すべては終わる。
けれどそれでは、今まで必死に足掻いてもがいて、力を求め続けてきた意味がなにもない。
何もかもを守れるような、そんな一人にはおおよそ過ぎるような強大な力を望んだからこそカリアは過去から今まで、ずっと血を吐くような鍛錬を自分から望んで、続けてきたのだから。
「あなたが今更、それを問うの?」
だからカリアは、彼の問いに今度こそはっきりと笑った。
鎖は解かれた。自由意志は漸く戻った。だからもうカリアとて容赦はしない、抗う。どんな手を使ってでも、正攻法から正面突破で彼を助けてみせる――たとえ、彼を証拠を揃えるための、道具のように使ってしまったカリアをリョウが許してくれなくても。もうカリアを以前のようにまっすぐ、見てくれなかったとしても。
それが所詮カリア一人の、今更な自己満足に過ぎないというなら笑えばいい。下らないと罵るならそれでいい。動かないまま何の言葉をあれきり交わすこともできないまま彼という存在を失って、どうしようもない後悔に延々と苛まれるよりもずっと、そのほうがいい。
リョウの声が、聞きたいと思った。
カリアを拒絶した彼の思考を、たとえもう同調することはできなくとも少しでも知りたいと改めて思う。怖いけれど、もう一度の拒絶を受ける可能性の冷たさに背筋が凍りそうになるけれど、それでも今更止める足はどこにもない。
彼から多く、罵倒を受けるだろう。彼を逆にカリアが罵倒もするだろう。けんかになるかもしれない、けんかにすらならない平行線を辿るのかもしれない。
でも、きっとそれでいいのだ。ただお互いの思考にはいはいと追従するだけなら、ふたりが互いに違う人間である必要などない。
ちがうということに驚き、笑って、今回のように理不尽に傷つけられたり無意識で傷つけたり。
互いの痛みを謝ったり、受け容れたり拒絶したりするからこそ、きっとふたりは、ふたりなのだ。
「……カリア様」
また少し驚いたように彼女の名を呼ぶエネフに、無言でカリアは小さく微笑んで見せる。
あまりの計算ずくの急展開に対して、応えるという過程において王の指先に多少の火傷くらいの報復はできたのではないかと思うが。最終的に少しでも、頭を抱えさせてやりたいとも思うが。
しかしたったそれだけで、何が、足りる、わけもない。
「……参りましたね、まったく」
無言の睨み合い、とも言える視線の攻防はそう長くは続かなかった。相手であるエネフが割合すぐに、そんな言葉とともにあっさりと白旗をあげてしまったからだ。
決して短くない彼との付き合いの中でも、ほとんど見たことがなかった類の表情に少しだけカリアは驚く。まるで何か眩しいものを見るかのような、静かに見守るようなまなざしを今のエネフはカリアへ向けていた。
クレイトーン、彼のすぐ傍らにずっと黙って腰掛けていた青年の名をエネフは呼ぶ。
全てを心得たように、静かにひとつ彼は、エネフへと向かって深く頷いて見せた。




