P2-44 絡む糸への手ほどき 2
「……多少の読み違えは、否定はしないんだがな」
目の前に散らばった手紙であった灰のかけらと、火傷した指先を眺めつつ王は妙に楽しげに笑った。
異邦の黒を部屋へと戻したあと、場に残されたのは何とも形容のしがたい沈黙だった。
騎士団におけるほぼ唯一と言っても大した相違はあるまい上司を前に、果たして何から話すべきなのだろうかとクレイは考えていた。そもそもこの副長、エネフレク・テレパストは一体、リョウに関する事柄をどこまでどの程度に知っているのか、彼には分からなかった。
そんな逡巡は或いは、両肘をついて顎の下で手を組み、黙ってクレイを眺めているエネフにしても同じようなことだったのかもしれない。
決して短くない黙考の後、最初に口を開いたのはクレイの方だった。
「……副長は、」
「なあ、クレイトーン」
しかしまるで、そんなクレイの出鼻をくじくようなタイミングでエネフもまた口を開く。副長は、何をどこまでご存じなのですか――口をついて出かけた問いは、結局言葉にされることはないまま中空に中途半端に霧散して消えた。
口を閉じたクレイに、非常に静かな調子で淡々とエネフが続けてくる。
「おまえはこの事件のことについて、誰の命で誰から何を聞いてどこまで何を知っているんだ?」
「それは、」
「俺より位が上の人間から、今のおまえが直々に命を受けて動いているんだろうことは勿論分かってるさ。……だからせめて、ひとつだけ答えろクレイトーン」
クレイを問い詰めるエネフの視線は、今朝がたクレイを見据えたそれとよく似ている。状況もこれから問われるであろう内容もほぼ同じなのだから、まあ当たり前と言えば当たり前だろう。
ひとつ小さく息をついたエネフが、問うた。
「おまえに指示を与えた人物は、今のこの国に与する人間か?」
現国王の即位より、七年。
アノイの即位前後に起こった表立った動乱は現在はなりを潜めているが、しかし今も決してこの国が完全なる一枚岩ではないことを、クレイは知っていた。
先王弟派と呼ばれる一派が、この国には存在する。現国王のアノイを正式な王と認めず、先王の弟、現国王アノイにとっては叔父にあたる人物であるラズクリフ・オークレイス・フェイターレンこそが、この国の王たるべきと主張する者たちの総称だ。
七年前にアノイへ一度は王座を譲るも、アノイを王にという託宣を受けた巫女を殺し、現国王に対するいくつもの反乱のはるか遠い黒幕とも囁かれているのがラズクリフである。現在の彼が対外的には隠居するユヴェント領は、彼の手腕もあり非常に良心的な経営がなされているというが、何がどこまで真実なのかはおそらく、この国のほとんど誰も正確には理解していない。
従ってエネフは今、クレイが誰の命に沿って動いているのか改めて確認しようとしているのだ。
国、ひいては国王陛下へと忠誠を誓う王宮直属騎士団の騎士である以上、本来ならばそのような確認などする必要はないのだろうが、…残念ながらそのような問いが折に触れて未だ必要であるのが、このエクストリー王国という国の現在だ。
別にエネフ個人に対してであれば、ある程度の事柄は話しても構わない、と。
事の顛末を伝えたクレイへ返った、アノイからの言葉を脳裏で反芻しながら彼は頷く。
「はい」
「……そうか」
少しほっとしたような表情を、瞬間エネフは浮かべた。
本当にこの上司こそ一体、何をどこまで知っているのだろうと改めてクレイは思う。しかし残念なことに彼のクレイへの質問は未だ終わってはいなかったらしく、また真面目な表情を作ったエネフはさらに口を開いてきた。
「それならもうひとつ問うぞ、クレイトーン。あのリョウ・ミナセという人物は一体何者なんだ。どうして流れの魔具師なんてものまで巻き込んで、おまえの言うところによればジュペスの腕を落とさせたりした?」
どこか紫を帯びた赤の瞳が問うてくる。彼が告げてきたそれは、質問の内容としてはクレイにもまた予想はできたものだった。
しかし同時にその問いは、全ての中心であるリョウ抜きで話をするには、特に後者に関しては結局「関係者の一人」でしかないクレイには荷が重すぎる。それになぜ、この副長はリーの存在を知っているのか、何を、どこまで知っているのか。クレイには分かろうはずもない。
しかし流れの魔具師、随分と響きの悪い言葉である。
リョウが信じているからこそ、クレイは決して信じてはならないのだろう人物の姿がぼんやりと脳裏に、浮かんだ。
「クレイトーン。まだ、これに関しては答えられないのか?」
「いえ、……ですがそれは私に訊ねるよりも奴に、リョウに直接問いただしたほうが良いのではないかと思います」
「ふむ。魔具師のことも含んで、か?」
「彼女については、私も一度しか直接には会ったことがありません。私が奴から聞いたのは、やっとジュペスの腕を託せる人間が見つかったということだけです。その一度において特に何か変わったところなどと言われても、私にはなにも」
リョウに呼ばれたので店へ来てみたという、その魔具師は何とも不思議な人物だった。その外見に声も相まってぱっと見には少年にしか見えない彼女は、しかし話してみるとその言葉の一つ一つに、不思議な深さのようなものを感じる気がした。
打ち解けた様子で楽しげに彼女と会話するリョウに、つられるようにしてクレイもまた魔具師とぽつぽつと言葉を交わした。
決して短くない年数私は魔具師を続けているけれど、まさか人の腕の代替を作ってくれなどと頼まれる日が来るとは思わなかったよ、と。
心の底から嬉しそうに、誇らしげに笑って話していた彼女の声がぼんやりと意識に蘇る。あんな声で、絶対に金になどならないリョウの頼みなどを聞いてやろうとする奇怪でお人よしとすら形容できそうな雰囲気を纏いながら、同時にどこかその片目は暗かった。
曖昧なクレイの言葉に、エネフは苦笑した。
「全身をマントとフードで覆い隠した、ぱっと見では男とも女ともつかない人物が、か?」
「副長?」
「なあ、クレイトーン。おまえがその人物を知っているというなら、余計に話半分に聞いてほしいんだが」
「……は、」
「今はまだ、正確な裏が取れたわけじゃあない、噂にすぎない話なんだがな。今この王都の闇市場に、かなり精巧なレジュナ【傀儡】が結構な数、流れ込んでるらしい」
「レジュナ【傀儡】……!?」
唐突に大した前振りもなく持ちかけられた話に、驚愕する。レジュナ【傀儡】とは、レジュナリア【傀儡師】と呼ばれる一部の人間だけが作り出すことのできる、どのような人物の傀儡ともなり得る恐ろしい虚の器のことだ。
あまりの危険性から、取引は全面的に禁止されているはずのそれ。一般市井の人々はおそらくその実在すら知らぬだろう、決して闇のうちにしか蠢くことのない狂った人形。
それがなぜか今この国の闇で蠢き出しているのだと、いう。さらにエネフは続けてくる。苦笑の表情のままで。
「ついでに言うならレジュナ【傀儡】が裏での流通を開始したとされる時期は、魔具師レンシア・フロースなる人物がこのエクストリー王国に入った時期とほぼ一致するんだそうだ」
「……っ」
ただ淡々と起伏少なく、事実だけを述べるエネフの声に眩暈のようなものすら刹那、覚えた。
またしても即座に言葉を返せぬ自分に、苦笑する気概すらない。一体俺は何に動揺しているのか、と思った。ただ一度しか会ったことのない魔具師に、クレイは決して心を許していたわけではない、はずだ。
しかしリョウと楽しげに話をする、生き生きとリョウから受けた依頼についての抱負を口にしその語気に闘気めいたものを上らせる彼女の様子にどうやら、クレイはどこかで「彼女がこの国に仇なすような人間ではない」ことを願ってしまっていたらしい。
静かに何かが音もなく、自分の中でゆっくり、崩れはじめるのを感じる。
己の未熟に恥じ入る心と、彼女にまるで裏切られたかのような感覚、その二つが混在する不快感にクレイはわずかに眉を寄せた。そんな彼の表情を何と取ったのか、ふっとエネフがクレイへと苦笑する。
「なんでいちいち俺がおまえに、その動きが自分の意思なのか訊ねたか考えなかったのか?」
「……」
この場合の沈黙が肯定以外の何でもないことは知っていたが、このときのクレイにはやはり、沈黙以外に選べるものはなかった。
未だ幼く、未熟な己を改めてクレイは思った。一体何をどこまで見とおすことができれば、決して多くはないはずの、己の守りたいと思うものをこの腕だけでも守り通せるのだろうか。
己を語らぬ女。くらい瞳を見せる、顔貌は片一方のみのどこかひどく異様な、正体の知れぬ女。
全てはまだ確定したわけではない。しかしどうやら忘れ去らねばならなくなったらしい、その可能性が極めて高いというあの時の酒場の光景をもう一度だけ、クレイは思い返した。
本当に楽しそうに見え、聞こえた彼女のすべては、一概に嘘だったとその言葉だけで片付けてしまうには、どうしても生き生きと楽しそうなものでありすぎたような気がする。どうしてここに来た、そう問うたクレイに、自分が自分で在り続けるため、そう小さく笑ってあのときの彼女は答えた。
けれど彼女は、リョウとはまた異なった意味での、この国に害悪為す異質であるかもしれぬとクレイの目の前の上司は言うのだ。
同姓同名の別人ではなく、クレイの知るリョウが連れてきたどこの誰とも知れぬ魔具師たる彼女こそが、大陸的に禁止された道具を闇に売りさばき歩く死の商人、滅びを誘うレジュナリア【傀儡師】であるかもしれない、のだと。
「あのリョウ・ミナセという男は、カリア様ともかかわりがあるんだろう?」
「……はい」
不意にまた、エネフがふと口を開く。
知らず下げてしまっていた視線を上げて頷けば、彼は肩をすくめてちらりとこちらへ笑って見せた。
「正直なところ本人を目にするまで、俺はおまえたち、より正確に言えばジュペスの名を隠れ蓑に、彼が一連の傀儡の流通に関わってるんじゃないかと思ってたんだ」
「は?」
どこかひょうきんめいても見えるその笑みに、わずかにクレイは目を見開く。
カリア様にこれを伝えたら、血相変えて部屋を出て行かれてしまったよ、と。そう続いた言葉にはもはや、ただただ驚愕をもって返すことしかできなかった。
それなりの時間を使って言葉の意味がすべて理解できた瞬間、クレイは思わず苦笑してしまった。ありえない。ありうるはずがない。そもそもリョウはレジュナ【傀儡】など、存在どころかその名前すら知っているとは思えない。
何とも見当違いではあるが、確かにそう捉えることも不可能ではないだろう種々の「事実」について思考しながらクレイは口を開いた。
「あいつの顔を見れば、一瞬でそのような考えは消えたのではないですか」
「ああ。あんな目をした人間には、後ろ暗いコトなんてまず、できないな」
応じるエネフは、なぜかまたどこか楽しそうだった。エネフの言葉の通りだと、クレイもまた思う。
何しろリョウという男は、先ほどクレイがリョウ本人も交えてエネフに告げた通り、誰かの命を守るため必死になることはあっても、逆の方向にはおそらく絶対に動かない男だ。
自分と気が合いさえすればどんな人間も当然のように友達と呼んで、気さくに話しかけてくるような、根本的に気の抜けた、絶対的に常に緊張感と自身の異質への自覚が足りない人間なのだ。
リョウがそんな奴でなければ、クレイとてここまで動こうなどとは思わない。客観的に見れば、相当に面倒な窮地に追い込まれた人間を表立って庇おうとは普通ならそう、強くは思えない。
現在のリョウが置かれている立場は、最悪とは言えないものの決して「良い」とは言い難い。何しろいくらリョウが自分は無実だと主張してみたところで、実際に彼と顔を合わせたマリア・エルテーシアがケントレイ殺しの犯人はリョウだと断じてしまえば、一巻の終わりなのだ。
現在の彼女は一時的に多少の精神的な錯乱を来しているとして、ケントレイの妻であるディーナともども王都のメルヴェ教会本部に預けられている。
彼女が一時的に立ち直り「犯人」との顔合わせが可能になる前に、客観的に誰が見ても、犯人がリョウではない証拠を集め、提示せねばならないのだ。そうできなければマリアにはリョウに対する因縁もある、確実に彼女はリョウを犯人であるともう一度高らかに言い放つだろう。
やれやれとひとつ息を吐くクレイに対し、またひとつエネフが笑って言った。
「あの顔でレジュナ【傀儡】なんてえげつない目的にしか使用できないモンを闇に流してるなんてことになったら、間違いなく俺は人間不信に陥るぞ」
「まったく同感です、副長」
苦笑して同意を返しながら、どこか薄暗くクレイは思考する。
或いは既に自分の「下」より離れた王の影は捕獲のため動いているかもしれない、たった一度顔を合わせ、わずかに会話を交わしただけの相手。関わりらしい関わりと言えば本当にそれだけの相手に、どこかでひどく釈然としないものをクレイは覚えていた。
ただそういうものだと割り切れない理由など、クレイ自身が一番分からなかった。現在の状況はただ多くの仮定が積み重なっているだけだ。クレイ自身の手でも、もう一度彼女を「そう」と半ば断定するだけのものの有無を改めて確かめる必要は、あるだろう。
しかしエネフの口調からして、おそらく彼女、リーがレジュナ【傀儡】とつながる――否、その作り手であるレジュナリア【傀儡師】だという仮定は、ほぼ「事実」にも近いことなのだ。この副長は、少なくとも自身らの任務に関わることについては決して偽りを口にしない。ただの冷酷な事実として、クレイはそれを知っている。
彼女がレジュナ【傀儡】をこの国の闇市場に流しているというのもやはり事実に非常に近い「仮定」であり、近いうちにクレイたちはその傀儡の山を根絶すべく、大々的に動かねばならなくなるのだろう。
分かっている。冷静な思考もできる。
おそらく彼女を切り捨てねば、一時期だけでも関係していたという真実すべてを隠蔽しなければ不要な余罪をリョウが被る結果にしかならないと理解している。
しかし、それでも。
どこか滑稽なまでに反駁の言葉を探そうとするのは、ジュペスの腕が作ってやれると笑っていたリョウがあまりに嬉しそうだったからなのか、そんな奇妙でメルヴェの教えにも抵触しかねないような依頼を受けたリーが本当に純粋に楽しそうだったからなのか。それが普通なら絶対にあり得ないジュペスへの「再起」への道であると、そのためにはおそらくこの人物の手が必要なのだと、どこかでクレイもまた奇妙に確信めいたものを抱いてしまっていたから、だったのか。
わからない。考えようとすればするほど、ひたすらにわからなくなっていく。
エネフがまた、クレイの顔を見て面白そうに笑った。声をかけてくる。
「なあ、クレイトーン」
「はい」
「本当に何者なんだ? あのリョウ・ミナセは」
「なぜです?」
また問いかけをされたかと思えば、その内容は先ほどとまったく変わらなかった。
しかし改めて問いかけられて、そういえば先ほど問われた際にはそちらに、まともな答えを返してはいなかったことにクレイは気づく。彼が唯一、当然のように友人と言い切ることのできる男。クレイより三つも年上であるくせに、子どものようにくるくる表情を変え、こと治癒に関する事柄にだけは異様な知識と集中力、そして意志の強さを垣間見せる不思議な奴だ。
何となく眉を寄せたクレイに、エネフは言葉を続けてくる。
「外見だけに関して言えば、別に不細工ってわけじゃあないが、偉丈夫というにも今一歩ってところじゃないか? 彼は。頭の回転はそれなりに早い部類かもしれないが、正直なところ俺には、そうあからさまに切れ者なようにも見えないぞ。むしろ妙なところで変なドンくささがありそうだ」
「……」
「なのにカリア様もおまえも、あいつに関してだけ目の色を変える。しかも無意識で、当然のようにだ」
「……」
また、改めて他人から指摘されてみれば確かに、と思う。
なぜと自問してみても、相手がリョウだから、という答えしか自身から返っては来ない。もしも立場が逆になれば、リョウなら当然のようにやろうとするだろうことを今はクレイがやっているだけのこと。結局それだけなのだ。
おそらく自分は、クレイトーン・オルヴァという人間はそれでいいのだと思う。たった今エネフがクレイと並列して口にしたもうお一方についてはクレイには分からないが、彼女にしても少なくとも、感情面ではそうクレイと大差ないのではないだろうか。
なにしろ、リョウという男は。
相手がだれであっても最終的には彼自身を貫いてしまう、どこまでも常識も何もかもを破壊して平然としているような奴、なのだから――
「――――仕方ないじゃない。だって、リョウは異者だもの」
どこか少し困ったような、苦笑めいた声が聞こえたのは、丁度そんなことをクレイが考えた頃合いだった。
確かな覚えのある通りの良い声に、瞬間クレイとエネフは改めて顔を上げた。どうも雨のせいか室内が湿気ていて気味が悪い、防音の魔術はかけておくからと、リョウがこの場を出て行ってから開きっぱなしになっていた扉のすぐそばに、その声の主、細身の少女の姿はあった。
驚いたように両目を開いたエネフは、しかし割合すぐにその表情を笑顔へ変えた。
半ば扉に寄りかかるようにして立っている金と銀色の少女へ、困ったお方ですね、と、そんな言葉を向ける。
「ノックもなしに入室とは、ニースに嘆かれますよ、カリア様」
エネフの口にする軽口に、わずかに彼女、カリアはその金の瞳を眇めて笑った。
明りの下で光る金色を眺めながら、一方のクレイはやはり、奴に対してはそのような形容にしかならないのか、などとどこかぼんやりと考えていた。




