P2-40 やみゆきのひ 6
どこか、椋には及びもつかぬ場所へと強制的に連行される最中。椋へと同行を強いた彼らが、椋に傘を差しかけてくれることなどなかった。
椋が現在居候する王都の東は、全体的に多くの細道が入り組んだ迷いやすい構造になっている。店も民家も多い慣れれば面白くもある地域だが、今は少しだけそんな地形を彼は恨んだ。
なぜなら魔術で当然のように雨を弾くことができる騎士たちとは違い、椋には朝から降り続く雨の一粒一粒がモロに降り注ぐのだ。
およそ三分もしないうちに、椋は芯までびしょ濡れになってしまっていた。
「足を止めるな、早くしろ!」
しかし、勿論、というべきか。そんな椋に対して目の前の騎士たちは誰一人として頓着しない。
むしろあの場へと入り込んで来た時から椋を見下していた四人など、濡れ鼠になった椋をどこか、滑稽な見世物でも眺めるかのような蔑みと嗜虐の目でニヤニヤと時折視線をやってくるのだ。徐々に骨の芯まで冷えていくような感覚のする、指先や足先の冷たさと気持ち悪さに自ずと鈍る彼の歩みを容赦なく罵倒しながら。
どうしてこんなことに、と思った。
俺がいったい、いつ、誰に何をしたというのか。わからない。
「……あと少し辛抱しろ」
少しでも雨が目に入らないよう俯いて歩いていると、起伏の少ない声が不意に椋の耳朶を打った。
反射的に上げた視線の先には、無論誰もいない。しかしすぐに椋は気づいた。他の四人とは違う非常に事務的で淡々とした感情のない視線が、じっと椋を見据えていた。
その間にも容赦なく降り続ける雨に、髪を伝ってあるいは直接垂れてくる雫を指で払いつつ椋は瞬きをした。視線がかち合う、確かに目が合ったその一瞬だけ、彼、クリーゼの瞳にどこか後ろめたそうな光を見たような気が椋にはした。
後ろめたいようなことがあるなら最初からやるなよ、とも思うのだが口にはしない。明らかにこの場においては無駄口以外の何でもない上に、降りしきる椋を更に更にと濡らし続ける雨は、少しでも口を開けば容赦なく雨水が口の中に流れ込んできそうなほどだからだ。
濡れ雑巾もかくや、服は勿論身体を絞っても水が出てきそうな勢いで雨に降られつつ前へと進む。
一歩足を踏み出すごとに、既に水だらけの靴は水に溢れる道とぐしゃり、ぐしょりと非常に不快な音と感覚とを椋にもたらした。
「…っくしゅっ!」
はっきりした四季のあるエクストリー王国の、現在の季節は初夏。晴れていれば非常にさわやかな風の吹く、過ごしやすい気候と青空が眩しいほど良い季節である。
しかしそんな、決して暑くはない季節の夜に、土砂降りの雨の下で濡れ鼠になるなど正気の沙汰ではない。
先ほどから堪え切れないくしゃみを、何度も必死で椋は噛み殺そうとして失敗していた。もし彼らの言う目的地に着いてもまともなタオルひとつもらえなかったら、確実にこれは風邪ひくなとぼんやり、考える。
容赦なく全身を濡らし、重力に従って落下していく雨水に体温を奪われる身体は非常に寒い。
そんな雨と夜ゆえに、知っている顔に出会わないのは、果たして良いのか悪いのか、いや確実に悪いのだろうと椋は思う。こんな雨だから客足はいつもより鈍いかもしれないが、あんな騒ぎになり、椋含め誰も状況が何も分からず、そのまま椋はただ連れて行かれ――。
なんで、ホント、こんなことに。
雨の中を傘もささず、それでもどこも濡れた様子はなく平然として歩みを止めない騎士たち。
彼らの後ろについて歩いていると、むしろ当然であるはずの濡れ鼠になっている自分が非常にみじめなものに思えてくる。はあっと改めてひとつ大きくため息をついて、また微妙に開き始めてしまった彼らとの距離を必死に、椋は詰めた。
「止まれ」
それからまたしばらく椋の状態など一切考慮されずに道を歩き続け、そして不意に彼らは足を止め椋にもそれに倣うよう命じた。
おとなしくその声に従って、その場に止まった椋の目に入ったのは一見、何の変哲もない民家だった。薄暗い景色の中、至極当然のようにそこに停止した彼らの意図がさっぱり分からず、勢い変わらず容赦なく襲ってくる雨粒に体温を相変わらず奪われるまま、ぼんやりと目の前のそれを椋は見やる。
しかし明るさの足りない中で上から下までどう見ても、彼の眼にはそれがごく普通の、前後左右にも同じように並ぶ民家の一つにしか見えなかった。
ほんの少しでも他と違うところといえば、この家のドアに飾ってある小さな星のような飾り、だろうか。まあそれも本当に敢えて言うならば、という範囲での他との差異でしかないのだが。
この国では常のものとして、玄関先やドアにリースや置物を置いたり、現在椋たちの目前にある家のように何らかの飾りをつけることもさして珍しくない。それぞれに色々と意味があるらしいのだが、さすがにその細かいところまではまだ椋は知らない。
と。
「【其の道を今、我らが眼前へと繋げ開き通せ】」
その星の飾りに向かって手の中の何かをかざした騎士の一人が、何かつらりと一言言った。
言葉が終わったその瞬間、星の飾りの中央に紫めいた深い赤の光が灯る。ちかちかと点滅し出すそれに、目を見開いたのは当然か椋ひとりだけだった。
しだいに早まっていく点滅の間隔が、椋の感覚で言うストロボ写真のそれくらいになったとき、ゆっくりとまた別の一人がそのドアへと手をかける。
鍵も使っていないのに、当然のようにあっさりとドアは椋たちの目の前で、ひらいた。
「……え」
俄かには、その瞬間目前に広がったものを椋は理解することができなかった。
ドアを開いた先にあったのは、一言で言うなら「混沌」だった。
とりあえず言うなら、黒か灰色か。そのあたりの似たような色がしかし混じり合わずに、コーヒーにミルクを垂らしたときのように互いが、互いの色彩へと奇妙にからんで、何とも言えない珍妙な渦を創り上げている。
しかも決してどの色がどこに一定することもなく、ぐにゃぐにゃとどの色も回転し、浸食し、浸食され絶え間なく動いているのだ。どうして何の変哲もないはずのドアを開いたらこんな光景が当然のように広がっているのか、五人の騎士たちは一体これで何をしようとしているのか。椋にはもはや想像もつかなかった。
ひたすらに唖然とその場で、相変わらず雨に打たれつつ目前のその渦を見ているしかできない椋にあの無表情の騎士、クリーゼがわずかに眉をひそめた。
「何をぼさっとしている。早くしろ」
「……は?」
これまた俄かには相手の言葉が理解できず、我ながら非常に間抜けな声と表情を椋はクリーゼへと向けてしまった。
訳が分からずに途方に暮れる椋の何が気に入らなかったのか何もかも気に入らないのか、別の一人があからさまに怒った声をあげる。
「不抜けた下らぬ顔を向けるな! 前へ進めと言っておろうが!」
「……はい?」
結局それも魔術なのか、強い雨の、雨音が耳障りな中でも騎士たちの言葉は淀みなく椋に届く。届くからこそ理解を瞬間的に拒否したくもなるのかもしれない。
しかし周囲の五人誰を見てみても、それがさも当然とでも言わんばかりに、四人は相変わらず汚らわしいものを見下す目で椋を見ているだけ、無表情のクリーゼもただ腕を組んで同じくじっと椋を見ているだけだ。彼らの表情と目前の異様な何種類もの無彩色がごちゃまぜになったマーブル模様を見比べ、ごくりと思わず固唾を呑む。
見ているとどうにも不安しか呼び起こさない渦を眺めるうち、非常に嫌な考えまで椋の思考には浮かんできた。
もしかするとこのドアの先、一歩踏み出した先にはもう何もないんじゃないだろうか――。
「早くしろと言っているだろうが! これ以上我々を苛立たせるな愚民!!」
「ぅわっ!!」
一人で色々と、考えていられたのもそこまでだった。
ドンッと非常に強い力で、椋に対しての何一つの配慮もなく騎士たちが彼の背中を押したのだ。まさかそんな展開を想像だにしていなかった椋がその場に踏みとどまれるわけもなく、目の前の不気味な渦へと彼は押し出されてしまう。
踏み出してしまった先にはしかも、本当になにも感覚がなかった。
ひっとほぼ反射的に悲鳴めいた声が喉をつく、瞬間に椋は言葉通りその場から一気に落下した。
果たしてどれほどの時間、落下は続いたのか。
ほんのわずかな時間でしかなかったような気もすれば、信じられないほどに長い時間だったような気もした。歪にぐにゃぐにゃしたマーブル模様を無数に突き抜けていく中で、椋が感じていたのはただ、落下特有の胃袋が強制的に持ちあがるあの感覚、無茶苦茶な方向になびく髪やら服やら、そして雨によって濡れ鼠にされた自分の身体の冷たさと、水っぽい気持ちの悪さだけだった。
基本的に占いには興味のない椋だが、今日に限ってはきっと、どんな占いでも最悪の結果が出ていたに違いない。
理不尽に理解不能な事態ばかりに苛まれながら、うんざりと何度目とも知れないため息を椋は吐いた。慌てるという選択肢は、こんないかにも魔術めいた空間の中では無駄だろうとしか考えられなかったので放置した。
なに俺、こんなところでこんな訳分からないままに死ぬの?
半分ほどやけくそでそんなことを考えたとき、不意に視界が極彩色に音もなく一気に、開けた。
「っ!」
びしゃっ、と。
水気をたっぷり含んだ何かを、勢いよく床に叩きつけたような音がした。
勿論それは言うまでもなく、ずぶ濡れの椋がまともな受け身も取れずに全身を床に叩きつけられた音だった。うつぶせのような姿勢でまともに腹から床にぶつかった身体に伝わった振動と痛みは半端ではなく、みっともなく声が出そうになるのを必死に、歯を食いしばって椋はこらえた。
痛みと衝撃、理不尽さと現在の自分のみっともなさに震える。唯一の救いというならば、椋が落下した場所には毛足の長い、ふかふかした絨毯が敷かれていたことだろうか。
見る間に彼の全身からしみ出した雨水が絨毯を濡らしていくのを感じつつ、まだ引かない痛みにさらに歯を食いしばりつつ、何とか椋は身体を起こそうとした。
大きなため息の音が聞こえたのは、震える両腕でようやく上半身を持ち上げることに椋が成功した頃合いだった。
「おいおい。冗談もほどほどにしろよ。……一体なんなんだ、彼のこの様は」
心底呆れかえったようなその声音に、何とか持ちあげた上半身をそのままに椋は視線を向けた。
そこにいたのは、紫めいた赤色の目をした、どこか妙に軽そうな印象を抱かせる男だった。
年はおおよそ、ニースと同じくらいだろうか。赤紫というには赤味の強い気がするその両目は今、ひどく不満げに細められて椋を見据えている。
誰に向かって何を言っているのか理解できずぽかんとする椋をさておき、彼は言葉を続けた。
「確かに俺は、重要参考人であるリョウ・ミナセを連れて来いとは言った。だがなあ、いったい誰がこんな夜の雨の中、傘も差さずに歩かせて全身ずぶ濡れにしろと言ったんだ」
不意に後方からコツンと、五つ分の足音がした。
彼の言葉に即座に応じるようにして返った言葉に、今しがたのこの男の言葉は、あの五人へ向けての言葉だったのだと椋は知った。
「しかし副長、こいつは平民です」
「そもそも副長が仰ったのではないですか。こいつが、ケントレイ・ターシャル殿を殺害した最重要参考人であり、捕らえる必要のあるものであると」
冤罪だ。
のっけから椋をその、誰とも知らない男、それとも女を殺した犯人と断言し疑わない騎士たちの言葉に少しでも何か口にしようとして、しかし落下の衝撃から回復しきらない身体は言葉を紡ぐことを拒絶した。痛みをこらえつつ、どうしてこんな不条理に、当然のように無茶苦茶な扱いを受けなきゃならないんだと椋は思う。
せめて姿勢くらいはと、何とかもう少し腕に力を入れ、椋がその場に立ち上がろうとしたとき。
またあからさまに呆れた男の声が、椋の頭上からひょいと降った。
「だから? 何なんだ」
明らかな不快を隠そうともしない、妙に威圧感のある彼の言葉に、まだ何か続けようとしていたらしい騎士たちが押し黙った。
先ほどのやりとりからも分かっていたことだが、どうやらこの場にいる人間の中で、一番偉いのはこの紫がかった赤目の男らしい。第八騎士団の団服を着た彼らに副長、と呼ばれていたところから考えると、彼はクレイにとってもまた上司にあたる、第八騎士団の副団長なのだろうか。
とりあえず少なくともこの後ろの五人よりは、まともに話を聞いてもらえそうな人間の出現に内心椋は少しだけほっとした。
物凄い勢いで殺人の冤罪をかけられているらしい事態にはまだ何も変わりはないが、この彼にであればちゃんと話をすれば、自分の無実を理解してもらえる、かもしれない。
「まったく。ここに来るまでにこんなにずぶ濡れになられちゃ、あとあと風邪引かれたって俺らは文句言えないじゃないか」
ぶつぶつと不平を口にする彼は、もうおまえたちは良いから戻れ、と、騎士たちに向かってひらひらと片手を振った。
背を向けた騎士らが去っていくのを眺める彼の傍ら、ぐっと両腕に、改めて力を椋は込めた。ただでさえ全身が水を吸って重いうえ、床に叩きつけられた衝撃も消えないままの状態で立ち上がるのにはそれなりの気力が要ったが、それでもその場にゆっくりと椋は立ち上がる。
一瞬ぐらりと足元が揺らいだ気がしたが、気のせいだと自分を誤魔化した。
ふっと不意に、楽しげに彼は笑った。
「ようこそ、我が屋敷へ……って、まあ正直色んな意味で歓待できるような状況じゃあないんだがな」
「……」
どこか軽薄なその言葉に、椋はただ沈黙で応じた。
何と返すべきか分からなかったからでもあり、未だに状況が良く分からない現在の自分に関する情報を、もう少し相手に示してもらいたいと思ったからでもある。
しかし多少に恰好つけて、その場に黙って立っていられたのも少しの間だけだった。
「……っぐ、っくしゅっ!!」
多少を絨毯に吸われたとはいえ、相変わらず全身に張りつく水気は容赦なく椋にくしゃみを誘発した。
噛み殺せなかったそれにわずかにぽかんとした表情を目の前の男は浮かべ、ややあってぷっと、しごく楽しげに椋に向かって彼は噴出した。
「とりあえずは湯でも浴びて、そのボロ雑巾みたいな服を着替えるところからだな」
「……」
現在までの諸々において、決して椋には何の落ち度もないはずなのだが。妙に非常にいたたまれない気分になる。そして地味に寒い。
その居た堪れなさのままぐずっと鼻をすすりながら、際限なくテンションが落下していくのを椋は感じた。別に常に誰に対しても恰好をつけたいとは思わないが、ここまで見事に体裁がつくろえないのも若干悲しいものがあると思う。
男はそんな椋の内心も察してか、またどこか楽しげに笑った。
「色々聞きたいこともあるだろうしこっちにもあるんだが、まずはその恰好を何とかしてからだ」
そしてそんな言葉を口にするや否や、ぱちんとひとつ軽快に彼は指を鳴らす。
即座にその音に応じて現れた使用人たちの姿に、今更ながらにここが異世界でありこれこそが彼らにとっての「当然」であることを感じずにはいられない椋であった。




