P2-37 やみゆきのひ 3
罪人は踊る、業を抱き咎を背負って踊る。
それらの振りまく罪咎が、導く波紋を知りつつ、躍る――。
その日は朝から、ひどく天気が悪かった。
窓を叩き屋根を叩く雨粒の音は、丁寧な設えの高級な室内にあってもなお鼓膜を打ってくる。ただでさえ沈みがちな気分をさらに低下させようとするかのような薄暗い灰色の雨天に、小さくマリアはため息をついた。
現在のマリアは、古くからの友人の家、より正確に言うならばその友人が嫁いだ家に招かれていた。
幼少のみぎりより交流の続く彼女、ディーナに今、マリアは現在の己が受けているいわれのない屈辱について話していた。
「まあ…なんてひどい」
ふっくらとやわらかな丸みを帯びたディーナの頬が、心底からのマリアへの同意と憤りとを示すように持ちあがる。その性格と同じくふっくらとした彼女の体型が以前よりもう少しふくよかにも見えるのは、今の彼女の胎内に、新たな命が宿っているからなのだそうだ。
そんな彼女が当然のように、現在のマリアの置かれている状況に対し憤懣をあらわにしてくれる状況に少しだけマリアは力を得る。そうでしょう? 心もちマリアを見上げるようにして目線を合わせてくるディーナのつぶらな瞳に、マリアはさらに言葉を続けた。
「わたしは祈道士の誇りを以て、メルヴェの使徒たるべく患者へ誠心誠意の治療を行っただけなのよ。それなのに」
それなのに。
正しいことをしたはずのマリアに下された命は、一カ月というあまりに長い期間の自宅での謹慎だった。一連のことは決して他言してはならぬとも、いったいどうしてか何度も念を押された。
あの時を起点として起きたすべてのことは、あまりに、マリアにとって理不尽以外の何物でもなかった。エルテーシア家の誰もがマリアへ下された処罰に目を瞠り、マリア自身から事情を耳にすれば心から同情してくれた。
しかし処罰の張本人であるマリアを含め、エルテーシアの誰がこの不当な懲罰を即刻取り消すべく意見書を提出しても、一体誰がどうやってか、上にまともに声として届く前にそのことごとくが潰された。
よって今でもマリアは謹慎を解かれることはなく、祈道士としての職務はおろか、自宅から出ることすら容易ではない。
あまりの不条理と悔しさに、ぎゅっと思わずテーブルの上で握った手のひらにディーナのそれが重なった。
ふわりと砂糖菓子のように柔らかいそれに思わず顔をあげれば、まるでマリアの痛みをそのまま写し取って感じているかのようなディーナの表情が目の前にはあった。
「あなたがだれより立派な祈道士であることは、幼馴染であり親友である私がいちばんよく知っているわ、マリア」
「ディーナ」
「不器用で、すぐに何でもないことで怪我をする私をいつも治してくれたのは、だって、マリア。いつだってあなただったもの」
柔らかく包み込むようなディーナの声に、不覚にも目の前がわずかに滲むのをマリアは感じた。思わず俯き息を止めたマリアに、小さくいたわるように彼女は微笑う。
周囲の誰もが分かってくれるのに、どうして私は今祈道士であることが許されないのかと彼女は思う。私は何も間違ってはいない、間違っているのはあの場に乱入し意味の分からない言葉を当然のようにほざき、さらにはマリアのものであるはずの功労を掠め取っていったものたちだ。
他の誰でもないマリアが神霊術を使ってやったというのに、礼の一つも言いはせず、ただ治癒に伴う痛みに絶叫だけしていた患者。正しいことをしただけのマリアを理不尽に詰った、同期の祈道士二人。
無表情な目で無意味に馬鹿馬鹿しく、あのときマリアを拘束した騎士。まるで何か可哀想なものを見下すかのような目で、マリアを見ていた下らぬ職の人間――貴族でありながら無意味の職に今でも就き続ける意味不明の男。
そしてマリアがこんな状況に陥る、陥ってしまうすべての原因を創り出した最低最悪の存在。
愚かにも涜神めいた口にするどころか思い返すことさえおぞましい言葉を繰り返し、人を助けようとするマリアを無意味に止めようとしていた、ひどく汚らわしい黒を体に宿した、あの男。
「私には難しいことは何も分からないけれど、でも、ひとつだけ分かることがあるわ」
決して揺らがない自信に満ちた声で、マリアという存在すべてを包み込むようにディーナは続ける。相変わらずにマリアの拳を包み込んだままの彼女の手は、柔らかく本当にあたたかい。
思わずぎゅっと、強くマリアは両目を閉じた。そうでもしないと、今にもみっともなく泣き出してしまいそうだった。
さらに少し、マリアの手を包み込むディーナの両手がその強さを増した。彼女はこんなにも強かっただろうか、たくましい人間だっただろうかと、ふと思う。
「あなたが、マリア・エルテーシアが絶対に私の夫たる方、ケントレイ・ターシャル様のご不調を治してくれることよ」
「……ディーナ、」
「ケントレイ様は、とても真面目な方でいらっしゃるから。きっと日ごろからのご無理が、たたられてしまったのではないかと思っているの」
柔らかく微笑んで己の夫の話をする、ディーナの表情は本当に優しい。貴族の多くがそうであるように政略結婚によって現在の夫と結ばれた彼女であるが、時折交わす手紙や現在目の前にいるディーナの様子を見る限り、夫婦仲は非常に円満と言ってよいようだ。
そしてディーナの言葉に改めて、マリアは今日ここに自分が来た理由を思い出す。いつも通りに変わらぬ文言の後、控えめに付け加えてあった一文を。
もしも時間があるのなら、最近どうしてか伏せりがちの夫の様子を見てほしい。
それが、ディーナからマリアへ向けられたひとつの依頼だった。
「ね。そうでしょう、マリア」
ディーナの声が、まるで胸の奥深くにまでしみ込んでいくかのようだ。
またわずかに滲んでくる目許を誤魔化すように指で払って、朗らかに和やかに、昔からまったく変わらぬ笑みを向けてくれる幼馴染へとマリアもまた笑った。
「ええ。もちろんよ。ディーナ」
そうだ、自分は何も悪くない。彼女へと笑み返しながらマリアは改めて強く思う。
なにも誰にもやってはいないからこそ、正しく神に仕えるがための行いしか常に為してはいないからこそ、今マリアはこの場所にいるのだ。謹慎などといういわれのない、馬鹿げた判決にここ数日付き合ってやっていたのは、自分たちへ仇なそうとする存在の改めての確認と、実際にその不条理に、マリアが体調を崩してしまったからに他ならない。
だからこそマリアは今日、ここで証明するのだ。やさしい幼馴染の信頼という力を借り、己の正しさ、そしてマリアを使わずに、謹慎などということをさせた下賤のものたちの救いのないほどの愚かしさを示すのだ。
ディーナは確実に、そんなある意味狂おしいほどのマリアの意図と希求とを分かっていてそれでもこちらに手を伸ばしている。それはディーナがマリアを信じてくれているからであり、そのような信頼を置かれた以上、マリアとて最善を尽くさぬ道理などどこにも存在しない。
優しい笑みのまま頷いて、ディーナがその場に立ち上がる。
彼女にすぐさま続くように、マリアもまた座り続けていた椅子からゆっくりと腰を上げた。
きちんとしつけられた侍女の先導のもと、患者のいる部屋へ向かうべく長い廊下を歩く。
決して華美とは言えないが、明るく柔らかい光が隅々まで照らすこの屋敷は、とてもディーナらしいものだとマリアは思う。彼女という存在を当然のようにここまで反映できる程度には、やはり彼女とその夫たるケントレイ・ターシャルの夫婦仲は良好であるようだ。
だからこそ一刻も早くマリアは、ケントレイをその原因不明の不調から回復させなければならない。自分の祈道士としての誇りにかけて、完璧に、だ。
上より理不尽に蔑まれたマリアを、昔と変わらず当然のように信じ切ってくれるディーナの幸福を続かせるためにも、何としても。
「ここよ、マリア」
しばらく真っ直ぐな廊下を進んだのち、角部屋に当たる場所にてマリアの先導をする二人の足が止まった。
確かに目の前にあるドアは、その作りからして他のものとは明らかな一線を画していた。どっしりと重厚な構えや造形から細かな装飾や彫刻に至るまで、主の部屋たるに相応しい品格を醸し出している。
そっとドアへと近づいたディーナが、二度ほどドアをノックする。
中から誰何の応答はマリアには聞こえなかったが、ディーナはややあってどこかほっとしたような表情を浮かべた。体力の落ちた病人に対しては魔術での意思疎通の方が簡便な例もある、おそらくディーナは、魔術によって中の主人の状態を確認したのだろう。
にっこりと、何を言うでもなくディーナはマリアへと笑う。
静かにただ主の僕たるべく傍近くに控えていた侍女にディーナがひとつ頷いて見せれば、侍女はすぐさま音もなくすらりとそのドアをマリアたちの前に開いた。
「さあ、どうぞ中へ、マリア」
「ええ」
開かれたドアから中へと入る。広々と天井も高く作られた、磨き抜かれた柱や窓枠の木目も美しい、扉と同じく重厚感のある深い赤の絨毯に室内の床はほぼ覆われた部屋だ。
今日が晴れであったなら午後の日差しが心地よく差し込むのであろう窓は、しかし今は鬱陶しいほどの強さで降り続く雨の灰色をガラス越しに映すだけだ。天より降り注ぐ水しぶきの鬱陶しさを改めて感じながら、ディーナに導かれるがままマリアは、室内の中央に置かれたキングサイズのベッドへと進む。
ベッドの上で半身を起こすケントレイは、どちらかといえば細面の、いかにも誠実そうな男だった。
すっとマリアが首を垂れれば、体調の不良のせいであろう、どこかやつれた彼の顔が穏やかに笑んだ。
「ディーナから、話は聞いています。あなたがマリアさんですね」
「はい。本日はお招きにあずかりまして、誠にありがとうございます」
誠意をもって、相手に応じる。
ディーナから聞いた話では、ケントレイが体調を崩したのはここ二週間ほどであるらしい。徐々に食欲が低下し、口内やのどが荒れ、常に胸やけがするなど気分が悪く、腹痛などもあるのだという。
しかし彼は、自分のために祈道士を呼ぶことを拒否した。まだこの王都にはあのオルグヴァル【崩都】級の襲来の傷跡も生々しい。自分よりも辛い状況にある人間が数多くいるというのに、自分のためだけに祈道士を動かすなどできないと言ったのだ。
そんな言葉とともに体調の不良を押しても、何とか己の仕事をケントレイは続けようとする。
今ここで自分が抜けては他人に迷惑がかかるのだと無理をして笑う夫の姿に、妻であるディーナは困り果てた。困り果てたその末に、友人であり優秀な祈道士であるマリアに助けを求めたというのが、今回の大まかなところだ。
「このような姿での出迎え、申し訳ありません」
「いいえ、どうかお気になさらず。あなたのようなお方の治療に携われることを、私は誇りに思いますわ」
少し困ったように笑ったケントレイの顔は、もともとの細面に加えて病魔のせいでだろう、異様なほどに細く見える。
そんな彼を、そして彼のすぐ傍らで心底心配そうな顔をしているディーナを元気づけるべくマリアもまた笑った。マリアとて貴族エルテーシア家の子女、どれほど口角をあげどの程度の笑みを形作って見せれば、相手に一番己の自信を示せるかなど当然、よくよく理解している。
ぎゅっと両手を胸の前で組んだ、ディーナがひたりとマリアに視線を据え口を開いた。
「本当にどうか、お願いね、マリア」
「ええ。もちろんよ」
変えぬ笑みで応じながら、心中マリアは思考する。――そう、これこそが祈道士への正しい人の相対するかたちなのだと。
ふとした瞬間に意識に靄めいて曖昧に現れるあの時の記憶は、なにもかもがおかしい、即座に唾棄されこの世から排除されるべき異常な一幕だ。あれこそが異端、あってはならない光景。今マリアの目の前にある二人分の信頼の視線こそ、本来の自分、祈道士たるマリア・エルテーシアが受けて然るべきものなのだ。
静かに息を、吸って、吐く。
ふっと目を閉じ、雨のせいで完全にはならぬ静寂の中でマリアは、術式の構築を開始する。
「【須らく人が身に宿る、億千万の生命の光】」
物心ついた時より慣れ親しんできた、それは聖書の一節だ。常に美しくも、時には苛烈な物語の綴られる聖書は、幼い時分より読み聞かせられ文字が読めるようになれば自分で読み進め書き写したりもするようになった、何よりも大切な言葉が膨大に込められた、何の混じりけもなく間違いのない聖なるものだ。
わずかの間目を開けば、マリアを信頼しきった瞳をディーナたちは彼女へ向けてくる。
正しさというものはこうまでも心地の良いものだったかと、改めて肌を通して感じながらもう一度マリアは、その目を閉じた。
「【其の宿したる光を今、我は最高神メルヴェの名の下、さらなる輝き与えんと希うものなり】」
身に宿る魔力が術式として組まれ、肉声による詠唱を通して具現化する。ふわりとケントレイの全身に浮き上がった術式紋は、マリアの見慣れた、彼女が何よりも得意とし同時に誇りともする、神霊術の術式紋だ。
しかし彼の様子を見る限り、これだけではおそらくまだ足りない。
徐々に顔色のよくなっていくケントレイと、眦に涙すら浮かべてその様子を見届けようとするディーナを前に、さらなる術式をマリアは重ねようと再度、口を開きかけ、
「……え?」
それは唐突に視界を裂くように、マリアの目前へと現れた。何の前触れもなかった。声も、物音一つすら立てずに気付いた時にはそれはそこに存在していた。
それは黒い、ひどく背の高い影だった。
マリアより確実に頭一つ分以上背が高い。どちらかといえばしっかりした体つきの、おそらくまだそれなりに年若い男のものか。
どうしてか影は、その腕を彼女らの目前でぶんと振り上げる。目を見開くマリアの前で、高々とその片腕と手にした何かキラリと光るものを虚空へと掲げる。
そうして次の瞬間には、ぐさりと何の容赦もなく。
彼女の患者の腕へと何か、ひどく鋭利な先端をもつ細い何かを深々とその腕は突き刺した。
「……っ、」
徐々に徐々に、健康な血色を取り戻しかけていたケントレイの頬が。
唐突にひくりと、明らかにいびつに痙攣した。戻りかけていたはずの顔色が、急激に真っ蒼を通りこして、まるで紙か何かのように真っ白に色を失っていく。
がくがくと、異常に大きくベッドが振動した。
それがケントレイの全身が、異常に強い痙攣を起こしているがためだと理解するのに、奇妙に時間がかかった。
「……や、」
がほっと、彼の喉元から異常な音がした。もはや見やるケントレイの顔に、色と呼べるものは白の一色しか存在してはいない。
限界まで見開かれた瞳には何も映らない。空気を求めて喘ぎ、喉もとへやられた両手はしかし何を好転させることもない。
施術の直後の、病態の急変。
目前にあるのは、マリアへは向かおうとするいびつで濁った忌々しいおぞましい涜神の色彩、――黒。
「……っきゃあああああああっ!?」
つんざくような悲鳴が響く。ディーナが絶叫している、マリアは動けない、目の前の景色とたった今忘却の彼方へ追いやろうとしていた過去がキリキリと交錯する。
動かなければいけない、なぜなら今マリアの耳朶を打つこの叫びは患者のものではない。
分かっている、見えている、患者は震えている、痙攣を起こしている、色がない、赫しかない、黒が目の前にある、明らかに苦しんでいる。目の前のこの醜悪な黒の存在によって苦しめられている、神の、メルヴェすべてへの冒涜をも辞さぬ汚らわしい存在に侵されている、だから私は、私はこの手でこの黒から患者を救わなければ、今度こそ――。
しかしそんな意思に反して、マリアの身体は指の一本たりとも動きはしない。
叫ぶしかできないディーナと凍りつくしかないマリアを前に、まるで地獄の汚泥を練りかためたかのような黒を持つそれはにやりと、哂嗤った。
「……やめ、」
背筋の凍るような俗悪な表情でわらったまま、もう一度その腕を醜怪なる濁黒は振りあげる。
その手に握られているのはやはり、先ほどケントレイを刺したのと同じ鋭利な細い何かだ。声も出すことができずその目を見開いたままがくがくと全身をけいれんさせている、おそろしい状態にある彼へとさらに追い打ちをかけようとでも言うのか。
患者を守ろうとする、動こうとする。わずかにほどけた硬直をすべて、患者を守るためにマリアは使おうとした。この黒から患者を守らなければ、そうしなければ私は、私は今度こそ、私は。
だがその願いをかなえるには、あまりにマリアの動きは愚鈍かつ相手にとって明瞭なものでありすぎた。
彼女の手首がひねられるのと、狙い澄まされた鋭利の先端がケントレイの心臓を過たず貫いたのは、ほぼ同時だった。
「……う、ぅあああ、」
ひときわ強くがくんと振動したケントレイの身体が、それきり痙攣することを止める。
もはや呻いているのは誰か、そんな判断をすることもできない。滂沱の涙を流すディーナと全身の震えを止められないマリア、二人をまるで見下すように、悪鬼のごとき形相でもう一度その黒は哂嗤った。
パキンと、小さく何かが砕ける音がした。
動かなくなった屋敷の主と、涙を流す以外のどんな術さえも失った親友。
普通ならあり得るはずもない、あまりに異様に過ぎるものを前にしてマリアは今度こそ、絶叫した。




