P2-36 やみゆきのひ 2
自分以外の誰かとともに、あたたかい食事をとりつつ談笑するということ。この手がだれかを生かすため、働いていると実感できるということ。
それがこの身にとってどんなに稀有なことであり異常なことであるか、きっと、君は、
「いつまでもヤニ下がった顔してンじゃねェよ、リー」
リョウが閉ざしていったドアを、ぼんやりと眺める彼女にヘイは声をかけた。
やや不快そうな表情とともに、リーはこちらを振り返る。
「私からすれば、彼に対してぞんざいに過ぎる君の接し方の方がよほど無茶苦茶に思えるが」
「ハッ、ガキでも女でもねェヤツにンな面倒なんぞ考えてやる気はさらさらねェよ」
リョウが置いていった茶をぐいと呷る。そもそもそんな面倒を今更してやったところで、熱でもあるのかと本気で不気味がられるのがオチだ。
そして目の前の椅子に座る、一人の魔具師をヘイは見やる。ずる長いローブで身体を隠し、のっぺらぼうと形容してもおかしくないほど凹凸のない無機質な仮面に顔半分を覆わせた彼女のさまはどこからどう見ても、ただひたすらに異様だ。
リョウはどうやら既に、そういうものだとバカのように納得してしまっているらしいそれにケッと、ひとつヘイは息を吐く。
「めんどくせェといや、さっさとその仮面取れや、リー。声がこもって聞きづれェんだよ」
「彼がいつ入ってくるかも分からないのに、か?」
「そこまで言いふらされてェっつンなら、いつでもヤツに言ってやるが?」
「……逐一、人の神経を逆撫でするような言動は本当に相変わらずなんだな、君という人間は」
ギロリとひと睨みして口の端だけで笑ってやれば、リーは茶へ伸ばそうとしたらしい手を引っ込め呆れたように苦笑した。嫌な奴だよ、呟きつつその顔へ、その顔を覆う白の仮面へと彼女は手を伸ばす。
音もなくひとつの仮面が外され、カタリと小さな音とともにそれが机上へ置かれた。
さらにローブの袖を外し、顔の両側面と両の二の腕を外気にさらけ出した彼女はどこか、疲れたような老人めいた息をひとつ、吐いた。
「こんな場所でこんなことが為せるなどという事実それ自体には、ただ感謝の言葉を連ねるしかないんだが」
「あン?」
「どうしてこんなところでよりによって、君と再会せねばならなかったのだろうなあ、ヘイ」
「あーァー、全く同じ言葉返してやるよ、リー」
室内光に露わになるのは、黄緑色の瞳に、抜けるように白い肌。
その手が作り出す人形と同じように整った顔立ちに、その美貌を遠慮なしにぶち壊す、右半身を鮮やかに覆い尽くす、おぞましいまでに複雑で特殊な刺青。
肌を這いずる濃青色のそれは、ぱっと見には蔦か何かの文様が複雑に絡み合っているように見える。しかし少ししっかり見れば、おそらく魔具師なら誰でも気づく。――それが彼女の身体に強制的に永久に刻み込まれた、呪縛であり刻印であり、幾重にも折り重ねられた術式回路であるということを。
昨日リョウがクラリオンに向かった後にも思ったことだが、本当になにもかもが予想通りなその姿に、ひどく皮肉げな笑みがヘイの口許に浮かんだ。
「まったくよォ、レンシア・フロースとは良く言ったモンだなァ? リーよ」
「君こそ。随分昔より、人相が悪くなった」
他の誰でもないこの女に、ヘイさんなどと呼ばれるのは正直背筋が非常に寒かった。かろうじて昨日は甘んじてそれを受けていたのは、少なくともこの国にいる人間の前においては互いの「初対面」を通さねばならなかったからだ。
しかし既に、ヘイたちの目前から他人の存在は消えている。今ここにいるのは馬鹿馬鹿しいくらいに、同じ穴を足掻きまわる狢が二匹だけだ。
遠慮のない彼女の言葉に、さらに皮肉げにヘイはその口の端をつり上げた。
「言ってろリー、いや『誘滅の狂踊師』リシア・プロシェス。テメエがここに何しに来やがったかは知るつもりもねェがよ、何トチ狂ってあンなバカに手ェ出してんだ」
「それはこちらのセリフだよ、『崩国の魔弾』ヘイルハウト・ベルドレッタ。なぜかの国からこんなにも遠く離れた地で、昔の学友なんぞと再会せねばならない? しかも君が、こんな小さな、今にも潰れそうな魔具店のいち経営者だと? 随分笑わせてくれるじゃないか」
「あァん? そっくりそのままテメエに返してやるよその言葉。つーか今の俺は、あいつの協力者で、あいつをかくまってやってる家主だ。それ以上でもそれ以下でも何でもねェよ」
「昨日も言ったが、本当に俄かには信じられないな、それは」
「それこそどーォでもいいっつの。ったァく、何のためにこんなクッソ離れた国くんだりまで俺が来てッと思ってンだ」
「……風の噂に、出奔したとは確かに聞いていたがな。かつて君に心酔していた者たちが今の君の姿を見たら、泣くぞ」
「かッ。知るかンなこと」
お互いにひどく適当に笑って互いへと錆びきって朽ち果てた刃を突きつけ合いながら、随分久しぶりにその名を他人から聞いたと不意にヘイは思った。
この国の戸籍上では、ヘイは「ヘイス・レイター」と名乗る人間だということになっている。ただの偽名で大した思い入れのある名でもないので、リョウには未だにまともに名乗ってすらいない。そもそも奴が聞いてこないのが悪いので、これからも自分から名乗ってやる気はさらさらない。
ヘイの人相が悪くなったと笑うリーを、半眼で笑ってヘイは睨みつける。
彼女をリーと気軽に呼んでいた過去は、随分とヘイにとっては今から遠い上、多少の懐かしさはあるが別段戻りたいとも思えない記憶だ。……昔も今も変わらずその右半身を覆う壮絶な刺青を眺めながら、乱雑にもう一杯分カップに入れた茶を一気にヘイは干した。
「ま、あのバカに手を貸そうなンつぅ人間が現れたっつー時点で、怪しいとは思ってたけどよ」
なにしろリョウはその意味も知らず、協力者は魔具師だと笑ってヘイに言ったのだ。
おそらくこの国にいる大抵の人物より魔具に関する知識は持っていると自負するヘイでも、身体に直接装着することができる魔具を制作することができる魔具師の一派などひとつしか知らない。そして他の何でもない「義手」の制作にほとんど何の見返りも求めず、手を貸そうとするような人間もまたヘイの知る限り、一人しかいなかった。
しかしさすがに、まさかと思った。その人間と彼が知己であったのは随分昔、この国にヘイがいつくよりもかなり前に棄てた過去の話だ。何の理由があってあの女が、よりによってこんな魔具師の絶対数も魔具の需要も非常に少ない、たいした魔具の研究も必要もされていないような国に来るかと、そうヘイは思っていた。
だが、それでも消せない予感があった。あのリョウに手を貸そうとする人間。あいつに「腕」を与えようとする人間。
なにしろあの黒には前科がある。一度まさかと思ってしまえば、その曖昧な予測は彼の頭から消えなくなった。
下賜名持ちの貴族をふたつ、騎士団の位階持ちの騎士に騎士見習い、異端の思考にも協力的な祈道士とその一家。
さらに言うならあのリョウという人間は、この国の王様まで絶対の異端として目に留めるほどの存在になっているのだ。もう今更何を引き連れてきたところで、大して驚いてやる気にもなれないというのがへイの正直なところである。
そんな思考をしつつ腕が出来上がったというのでついて行ってみれば、案の定彼の目の前に彼女は、現れた。
「彼は己の異端によって、他なる異端を引き寄せる星の巡りとでも言うつもりかい」
「古臭ェ言い方すんなら、そういう表現もできんじゃねェかね」
小さく笑うリーに、肩をすくめてひとつヘイは菓子を手に取る。ぽそりと口の中で砕けるそれは、面白そうだからと以前リョウが買ってきたものだ。
一方のリーは上品な仕草でカップの茶を干し、記憶にあるより随分陰影の増えた表情でヘイを眺めている。相変わらずその身体から消さない刺青は美貌を容赦なく台無しにしていて、それを勿体無いと思う程度には、自分にも余裕ができたらしいという事実には若干のおかしみが誘われた。
何もかも鬱陶しく面倒になって、文字通りそれまでのすべてを捨ておき放り出した。称賛も非難もなにも欲しくはなかった。御膳立てされた場所を、破壊した。
そんな過去の結果が、ヘイの現在だ。
ある日突然目の前に落ちてきた黒の異端を拾い、その異端の紡ぐ異質に同調し世界への反逆を創出した、現在だ。
「テメエなら分かんだろォ、リー。あいつが、どンだけ異質なモンかってのァな」
「そうだね」
二度と立たないと決めたはずの表舞台に、徐々に確実に自分から、足を踏み出しかけている奇妙な感覚がある。
それを大して不快とも感じないのは、ヘイの腕を引くリョウの姿があまりに必死で懸命に過ぎるからなのかもしれない。彼本来の精神には余る多くの可能性を抱えながら、自他双方のためにみっともなくもがき、足掻き続ける哀れなまでの存在が滑稽を通りこして、ただ面白くしか思えないからなのかもしれない。
かつて己のためだけに、極めた力は遍く破滅だけを結果的に生んだ。
しかし今彼の手のうちで変幻させる力は、根本的にヘイ自身ではない方向へと動き、ヘイ自身ではないものに使役されるべく存在している。結局はそれらもまた自分の楽しみという結果でヘイへと返ってはくるが、昔に比べれば随分とその経路は複雑/単純化したものだ。
ヘイは笑う。笑って腕組みをし、口を開く。
「アイツ以外のどこの誰が、なくした腕の代わりをよりにもよってレジュナリア【傀儡師】に作らせようってンだ」
「全く同感だよ、ヘイ」
目の前のリーが浮かべるのもまた、感情のありかが掴めない静かな底知れぬ笑みだ。今の二人に絶対的に共通するものがあるとするなら、それは互いの瞳に宿る、どこか薄暗い宵闇じみた愉悦の光だった。
鷹揚にその言葉に頷いて見せながら、さらにヘイは口の端をつり上げる。
「正直言っちまえばなァ、アイツに俺じゃねェ魔具師がついたっつー時点で、どっかでテメエみてえな類のご同業と会っちまうような気ィはしてたんだ、俺は」
「そうなのか?」
「あァ。なにしろアイツって奴ァな、本人無自覚にこの国でも指折りにムチャな人間を何ッ人も引ッかけてる前科があるかンな」
ヘイから始まり、この国の王に至り。絶対的な無知ゆえに起こした事件で新たに知り合ったらしい三人のガキからも慕われているらしいし、しかもそのガキのうち二人はリョウなんぞ天敵なはずの祈道士、さらに言えばまたその祈道士の一人はれっきとした貴族のお嬢様だという。
本当にあの黒に関わっていると、常に状況が変化し続けるが故に飽きるということを忘れる。
ふと、顔に浮かべる笑みをどこか悪戯めいたものへとリーが変えた。
「君を筆頭に、か?」
「否定はしねェがな。だがさすがに昨日テメエの姿を見た時は、俺も自分の目ェ疑ったァな」
さらにヘイもニヤリと返す。まったく困っているからと言って、どうしてよりにもよってこんなものを捕まえてくるのか、リョウは。
リーは肩をすくめた。
「私だってそれは同じだよ、ヘイ」
まあ、彼は私をただの魔具師の特殊系としか思っていないようだからな、そのせいなのだろうが。
的を得ているようで常識的なようで、しかしリョウという人間に当てはめるには微妙に頓珍漢なリーの答えにヘイは鼻で笑った。
「答え聞きたきゃ、奴から直接バカ正直に聞きゃアいいだろ?」
「本当にどこまでも意固地が悪いな、君は」
「ま、……分かんねェ訳でも、ねェけどよ」
「え?」
「ァにバカみてェな顔してやがンだ、テメエは」
ほんの少しだけ同意を返してやっただけだというのに、まるで何か不気味なものでも目にしたかのようにリーはまじまじと目を見開いてヘイを見つめた。眼球の隅々にいたるまで刺青に覆い尽くされた右目も一緒に見つめられると何ともこちらもまた不気味で仕方がないのだが、指摘したところで何がどうなるわけでもないので口をつぐんでおく。
しばし言葉もなくただヘイを見つめていたリーは、ややあってふっと小さく、妙に柔らかく相好を崩した。口を開く。
「……君、変わったな」
「さっきから何同じことばっか繰り返してやがンだ」
「君が変わった原因は、やはりリョウ君なのかい?」
「邪推は勝手にしろや、俺にゃどーォでもいい」
そもそもリョウはこちらが今更何を言い伝えてみたところで、事実を伝える順番と内容の整理さえ間違わなければ勝手に、ヘイにとっての事実を掴み取って見せるだろう。
とかくリョウは、本人の考えはともかくヘイにとっては異端の塊のような男だ。が、特にリョウにおいておかしい部分のひとつは奴の思考回路だと、しみじみヘイは思う。
自分は異者という「もともと」の肩書にやたらにこだわるくせに、他人の肩書や腕っぷしや魔術的な強さに対しては異常なまでに、リョウは無頓着なのだ。なるほどと客観的にそれを受け容れはしても、一定以上の興味は示さない。
関係ないとまでは言わないけど、強いのとその人の内面って同一視できるような簡単なもんじゃないだろ。
あるとき何となく聞いてみたらさも当たり前のように返ってきた言葉に、ついつい腹を抱えて大笑いしてしまったのは今でもヘイの記憶には新しい。確かにあのめちゃくちゃな思考回路は、この世界のどこの国にいたって会得できるようなものではないだろう、確実に。
しばし沈黙していたリーは、ややあって少し困ったようにふと笑った。
「どうしてあんなに不可思議なんだい、リョウ君は」
「あァ? もういい加減テメエも分かってンだろ、あいつが異者だからだ。おかげで俺にゃ飽きるヒマってモンがこれっぽっちもねェよ」
「異者、か。つい先日、彼の友人だという騎士の青年にもそれは言われたな」
「事実だかンな、どーしよォもねェ。テメエとは真逆の意味のこの国にとっての異者だよ、あいつァ」
「彼とかかわっていると、私はこの国に何をしに来たのか忘れそうになるよ」
また少し、暗い自嘲の瞳でリーが薄笑う。
確実にまた性懲りもなくレジュナリア【傀儡師】らしいろくでもないモノゴトに巻き込まれているのだろう刺青だらけの古なじみを眺めつつ、とっくに冷めてしまった茶をぐいっと胃袋へとヘイは流し込んだ。
変に舌先に感じる気がする苦味の正体は、さて。
「必死だからな、あいつァ」
いっそのことあの奇妙さで、あの大貴族のお嬢様をオトしにかかってしまえばいいものを。
リョウがあのお嬢様をどう思っているのかは知らないが、少なくとも相手側は確実にやぶさかでもないのだろうに。そうでなければわざわざリョウに会うためだけに、身元が割れてもなおヤツに会いに来続ける理由が分からない。
そういう意味で言うならば相手方も全く不幸だ。なにしろリョウはそんなことを、残念ながら己に良しとはしないのだから。
俺は異者にしかなりたくない。いつどこで聞いたとしても、絶対にリョウの答えは揺らぐことがない。
無魔なのに治癒の手たることを望む愚かな夢見に、だからこそヘイも動いてやろうかという気になったのだ。
そうでなければ誰が好き好んで、真っ向からこの世界を席巻する最大宗教に喧嘩を売るような禁断の術に手を伸ばそうなど、するものか。
「いったい何が彼を、あそこまで駆り立てているんだ?」
「言っちまえばまァ、この世界そのもの、ってヤツじゃねェのか。……あいつはいまのまンまじゃな、自分の夢が全く叶えられねェんだと」
魔術のない世界でどうやって人を治すのかと問えば、たくさんの研究とたくさんの助かった/助けられなかった命の上で、あらゆる術は成り立っているのだとリョウは言う。
ここと同じで誰にでもなれる職業ってわけじゃないけど、でも俺はあっちでは、運と一応がんばったのとで、そういうところに行けるのが確定してたはずの人間だったんだ、と。
「あんな知識と視点と発想力を持っていて、まだ足りないというのか、彼は」
「ま、間違ェなく全然、だろォよ」
だからこそ俺はあいつに毎回、毎回楽しませてもらってるわけだしなァ。
有限かつ弱小ながらもこの世界の治癒魔術二種を手に入れ、どうも本人の意図かは知らず、本格的に動き出した何かの気配を薄っすら感じつつヘイはまたニヤリと、笑った。なぜこんなものをいちいち引き寄せるのか、嵐の予感しかしないがもう今更だ。それすら楽しむ要素にしてやろうとヘイは思う。
一緒にどこまでも肩を並べて、何もかもを楽しんでやろうと思ってしまうくらいには彼は、リョウを気に入っているのだ。
その結果として何を失い何を得ることになったとしても、今更後悔などおそらく、しようとも思わないのだろう。
「なあ、ヘイ」
「あン?」
「もしも私が、――」
続く言葉は知らない、知らぬふりを決め込む。
それがただの彼女の願望でしかないことなど痛いほどに分かっているから、だからこそヘイは彼女の言葉を聞くことはない。




