P2-35 やみゆきのひ 1
その狂気は至極、自然に萌した。それが何をもたらすのかも、一切考えられることなどなしに全ては決定した。
不当な拘束に、従う必要性などない。
何よりその精神が未だ不当で在り続けていることに、彼女が気づくこともまた、ない。
「なるほどな」
まだ空も暗い、明けの群青と呼ぶにも深い闇に覆われた時刻。
薄暗くひとつロウソクが灯されただけの部屋に、クレイは膝をついていた。彼の前で悠然とソファに足を組んで座っているのは、現在クレイが実行している任務を下したこのエクストリー王国の絶対者、アノイだ。
クレイの報告にたださらりと笑うアノイが、何を考えているのかはクレイには分からない。だが彼の命を実行し続けることに、今も一縷も躊躇いもないというのもまた事実だった。
なにしろ命令に忠実にあればあるほど、クレイの気分は悪くなるばかりだった。
見聞きする、或いは陛下より一時的に授けられた影たちから伝えられる何もかもがクレイにとっては不快以外の何でもなかった。極力私見を抜いたうえで状況を連ねても消えない不快が滲む文章に、我ながら呆れてしまった回数も既に片手では足りない。
今まで全く知らなかったが、エルテーシアという貴族は一族が揃って非常に不気味だった。
国教を信じること、信心深い信徒であることそれ自体は無論、決して誰にも咎められるようなことではない。国教と定められたそれを信じず反宗教的な行為に及ぶ輩が、碌なものであったためしがないこともクレイは知っている。
しかしそんな彼の知見を持ってしても、エルテーシアの一族を観察していて感じるものは不快でしかなかった。
なぜそこまで、頑ななまでに神を、ひいてはその神を信じる自分たちの絶対の正当性を信じられるのかが、本気で分からなかった。
「本日、午前、か。まあ、ある意味そういうもんとしては妥当な時期なのかもしれんな」
おそらくアノイは、表情では笑んでいても、目がまったく笑っていないだろう。
容易に想像がつく、事実だ。王宮内で起きたことだからと、傷病人に対する不当な行為をしたとして彼女を裁いたのは王宮の、王宮内の祈道士の采配と緩衝を取り仕切る部署の人間だった。さらに言うならばその裁きを最終的に正当なるものとして受け容れ適用することを決定したのは、祈道士としては非常に異端の人物である準神使アルセラ・ヘイルだった。
そのこともまた、彼女らの抱く「不当」を増長させたことをクレイは知っている。何が不当だ、人一人を自らの手で殺しかけておいて何を世迷言をほざくかと怒鳴ってやりたいところだが、生憎そんな時間も余裕も、命のうちでの自由もなにも彼には、ない。
エルテーシアの者たちは、果たして本当に分かっているのだろうか。分かってやっているからこそ、アノイは自らの手でその全てを今、裁こうとしているのかもしれない。
国の裁定に声を上げるということは、それが不当なものであると抗議するということは。
それらの連なる先である、国王アノイの正当性を侮辱することにほかならない、ということを。
「おまえの役目は以前、伝えた通りだ。変更は一切ない。……何か確認しておきたいことは? クレイトーン」
「……いえ」
――マリア・エルテーシアが動く。
定められた自宅謹慎の期間を守らずして、しかも「祈道士」として彼女は動くという。
もはやその神経を信じられないと、思う感覚すらクレイにはなくなっていた。
なぜなら彼女はあの場における己の「正当性」を未だに微塵も疑ってはいない。あのときのジュペスの絶叫が、己の魔術による「治癒の痛み」から生じるものでしかないと、ヨルドはなにもしておらず、ただマリアの功績を横取っただけであると思いこんでいる。
なぜ誰も彼女を止めないのか。止められないのか。止め得る人間が存在しないのはなぜか。
理由も既に、分かっている。――おそらくほとんど誰もがあの事実を、リョウのいうところの「仮説」をクレイも含めて理解できてはいないからだ。
「何も起こらんことを、とりあえず願ってはいるんだがな」
今のアノイは確実に、笑んでいない目をもって、表情だけで笑っているのだろう。膝をつき首を垂れたままのクレイには実際にその表情を窺うことなどできないが、びりびりと身を切るような鋭利な感覚が、決して錯覚ではなく肌を刺し貫いてくるのだ。
異国の人間ひとりを誘い、そうして完成しつつあるジュペスの騎士団復帰への道。
どうか何も起こってくれるな、ただ罰を破った彼女だけが咎められる、それだけのものであってくれと願わずにはいられない。
『いいか、動き自体は止めなくて構わない。むしろ勝手に動かさせろ』
暗い部屋の中、脳裏によみがえるのはアノイより下された命だ。たった今彼自身が変更は一切ないと告げた、その内容だ。
窓の外に日は昇らない。徐々に徐々にと明るみは増している空はただ一面の曇天で、何とも閉塞と憂鬱の感覚だけを誘う嫌なものだった。
沈黙の中で、ただし、過去の言葉だけがクレイの脳内で反芻される。
『何か異常が起こったと、そう判断した時はすぐに、』
ぽつりと、最初の雨が降り出す音が小さく聞こえた。
何もかもが嵐の到来しか示さない状況の中で、それでも風雨が何も打ちすえないことをただ、クレイは祈った。
「……ん?」
水滴が屋根を打ちつける、そんな音の連なりにふと椋は目を開いた。
思わず己の左右を見やり、ついで時計を見やって、どうやら知らぬうちにうたた寝していたらしいことに気づく。しかし現在の時刻は六時半、まだ眠りから覚めるには、深夜の一時も回ってから家に帰ってきた人間に対してなら確実に早い。
かといって今からもう一度寝直す気になるかといえば、それもまた微妙なところなのだが。
「……」
窓が切り取る空の色は、何とも不穏な濃灰色だった。やや斜め気味に切りこんで窓を打ちつけてくる雨足の強さも、屋根を打つ雨滴の回数の多さも何とはなしに不穏なものに感じてしまう。
どうやら自分で思っていた以上に、昨日のカリアの言葉が気になっているらしい。気にならない方が、おかしい。
いくら椋が気にしたところで、何が変えられるわけでもないのは昨日の時点で分かり切っている。
だがはいそうですかと簡単に割り切って考えられるような、そんな簡単なことしか起こっていないとも昨日のカリアのあの様子からはどうしても、考えられない。
「え?」
空の色と同じくどこか鬱屈した、出口も抜け道もない思考を破ったのは控えめなノック音だった。
明らかにヘイのものではないやわらかな音に、わずかに椋は目を開く。結局こんな時間まで起きてたのか、何の用だろう。思いつつ、椋は立ち上がり部屋のドアを開いた。
そこに立っていたのは果たして、椋の予想通りの人物だった。
顔の右半分だけをのっぺりした真っ白な仮面で覆った、不可能にも近かったことを椋たちに可能にさせてくれた魔具師、リーがドアの開いた先で佇んでいた。
「おはよう、リョウ君。起こしてしまったかな」
わずかに首をかしげ、片方だけの表情でわずかに笑ってリーは椋を見上げてくる。
その笑みに笑い返して、椋はさらりと首を横に振った。
「いや、元から起きてたよ。おはようリーさん、どうしたの?」
「どうした、というような大したことでもないんだが、まぁ、そうだな。君の顔を見に来た」
「昨日俺が帰ってきてからも、そっちに顔出したのに? ちなみに朝飯ならまだもう少し先だよ」
「そんな言い方をされてしまうと、私がまるで君に朝飯をたかりにきたみたいじゃないか」
「あれ、違うの? ヘイなら基本的にそうなんだけど」
少しおどけて肩をすくめて見せれば、楽しげにふふ、とリーは笑う。ちなみにヘイの件に関しては、全面的にただの事実である。
ヘイは少なくとも、何かを創っている間は椋の方から訪ねてやらない限りほとんど自室から出てこない。本当に時たま出てきたかと思えば、顔を合わせた次の瞬間に向けられる言葉は確実に「腹減った何か作れ」である。
毎回その言葉を向けられるたび、一人のときはどうしていたのかと思わずにはいられない椋である。完全におさんどん係になっていることには不満がないわけでもないが、衣食住の保証をしてもらっている以上、下手に強いことも言えない。……ついでにそんな椋の内心も、勿論きっちりヘイは知っている。
よって今朝はリーをメッセンジャーにしての朝飯要求かと思ったのだが、どうやらリーの反応を見るに違ったらしい。
と考えた次の瞬間、予想外なことを笑顔のままでリーは口にした。
「彼の命で、私がここに来ているというのは正解だがな」
「え?」
「君が妙だったから、どうせなら様子を見て来い、と。自分で様子を見に行くのは嫌だったらしいな」
「……なんだそりゃ」
何とも反応のしがたい言葉の羅列である。しかも衝撃を受けたその直後はある程度椋を放っておき、少し時間を置いたあとで接触を図ろうとしてくるところが何ともヘイらしいと言えばいいのか何なのか。
椋が最初にこの世界に放りこまれたときと、確実にそれは同じヘイの行動だった。
決してやさしいとは形容されないかもしれないが、無闇にべたべたと構われるよりずっと椋にとっては正直、ありがたい相手の在り方では、あった。
「きちんと睡眠を取っていないだろう。目の下にクマができているぞ、リョウ君」
我ながらひどいとしか言いようもなかったそのときのことを考えていると、不意にすっと目を眇めたリーがそんな指摘をしてきた。
しかしそんなことを言っているリーの目の下にも、薄っすらとクマらしき影ができている。どちらがより寝ていないかと問われれば、確実にそれはリーたちの方だろうことは断言できる。
苦笑して椋は応じた。
「義手の改造のために平気で一晩徹夜してるリーさんたちには言われたくない台詞だな、それ」
「否定はしないんだな」
「まあ、うん、ちょっとね」
誰に何を言ったところで、どうしようもないことだ。そもそもリーを巻き込んだのは椋なのだから、これ以上何か、これから起こるらしい妙なことにリーが巻き込まれてしまっても困る。
具体的に何を言うこともなく曖昧に返すだけの椋を、不意に改まってリーが呼んだ。
「なあ、リョウ君」
「なに?」
わずかに咎めるような光のちらついていたリーの瞳から、険あるそれが消える。
ふわりと不意に柔らかく微笑まれて、思わず椋は目を見開いた。心臓の跳ねる音がどこか他人事のように耳元でひとつ、鳴る。
時折リーが浮かべるこの表情は、ひどく身勝手に、顔の半分を隠す仮面が心底勿体無いと思ってしまうほどにやさしい、きれいな笑みだった。隠されてしまっている、基本的には誰も見ることはないという事実がどうにも、腑に落ちない顔だった。
彼女がずっと、一人でいるということが。
ひとりで旅を続けているということが、どうにも分からない面差しだった。
「ありがとう。――心から、君に感謝しているよ」
そして紡ぎ出される言葉もまた、俄かには椋には理解ができない。
静かでどこか遺言めいても聞こえる言葉に、さらに椋は目を見開くしかなかった。そもそも椋からリーへ礼を言う必要性はあっても、リーから礼を言われるようなことは何一つとして、椋はやった覚えがない。
「……どうしたのリーさん、突然」
そんな些細な言葉さえ、口に出すのには妙に時間がかかった。顔には一応笑みを浮かべているつもりではあるが、きちんとそれが形になっているかどうかの自信は全くない。
果たして椋の表情に何を見たのか、わずかにその目を楽しげなものへと変えてまたリーは笑った。
「君が君であるというのは、とてつもないことだということさ」
「なにそれ」
「確実に君は、君自身が思っている以上に途轍もないことを行っているよ。こんなことをしようと思う人間など、少なくともこの大陸には君以外には絶対に存在しないはずだ」
「あー……褒めてもらってる? それ」
「勿論。これ以上ないほどに」
何とも完全に、リーのペースの会話である。先ほどの言葉といい今の言葉といい、一体この人は椋で何をしたいのか。
強いてひとつ分かることを挙げるとするなら、本当にリーは今回の椋の依頼を楽しみ、やりがいあるものと思ってくれているらしいことだけだ。義手の何にも微塵も手抜きがないこともまた、あのヘイと一緒になって仕事を続けてくれてしまっているということだけで疑う余地はない。
だからこそ椋は思う。せめてジュペスの義手が完成を見るまで、まだ足りないという種々のものが組み足され、完成したものがジュペスの手に渡るまで。
せめてそれまでくらいは、何とか今のような状態が続いてくれないものか、と。
「リョウ君?」
「いや。何でもないよ」
首をかしげるリーに、否定の言葉を口にして曖昧に笑う。
今目の前にいるのがヘイだったなら、或いは椋はこの何とも形容のしがたい感情の渦を支離滅裂気味にぶつけていたかもしれない。そういう部分までも見越して、ヘイはリーを朝飯要求と椋探りのために寄越したのかもしれなかった。
情報が絶対的に足りなかった。今の椋の手に在るのは、ただなにかがどこかから近いうちに「来る」ということ、それだけだ。
そんな曖昧な情報だけなら、むしろ知らない方が楽だったんだけどな、と思う。昨夜告げられたカリアの言葉に視線に、素直に頷いてやることができなかったのはそのせいだ。
肯定も否定もしないままただ沈黙するしかできない椋を、どこか寂しげな眼でカリアは見つめていた。
おそらく本当にあの言葉に返事をするというなら、まずはアノイを殴りに行かないことには事態は進むまい。ただ訳が分からず混乱するしかない、何をしたらいいのかも分からない状況の中では、誰だって何もできるわけがない。
まああの王様の場合、実際に殴ってみたところでしらを切られるのがオチのような気もしなくはないが。
「……朝飯にしようか。リーさん何がいい?」
誰にどこに何を求め、何をぶつけてどうすればいい?
答えなどおそらく非常に単純で、そして同時に全てが起こったあとでなければ椋には詳細を伝えられることはないのだ。誰を問い詰めて吐かせるなどという器用で姑息な芸当も、生憎なことに椋は非常に不得手だった。
目を閉じるわけにはいかない、耳をふさぐつもりもない。だが、ただ今は口だけを一部だけつぐんでおく。
ただ不安だけを煽ったところで、何にもならないということが分かっているからだ。
「……そうだな、」
だからこそ気を張る椋の意識は、彼の何気ない言葉に応じる直前のリーの言葉を捉え損ねた。
わずかになにかに揺らいだ彼女の瞳の色を、その意味することをこれからのすべての方向性を未だ、彼は知らない――。




