P07 異変は潜む
平穏な城下の日常を破る、ラグメイノ【喰竜】級の魔物の出現から十日ほどが経った。
さすがにあの後二、三日はこのクラリオン近辺も調査や何やらで騒がしくなっていたが、最近はそれも一段落ついたのか、落ち着いてきている。
「いらっしゃ…お」
「邪魔するぞ」
カランと軽快な音と共に、酒場に入ってきた人物の姿に軽く椋は瞠目した。
低めで良く通るその声の持ち主は、当然のように厨房内の椋の目前にある席に腰をかける。シンプルだが小ぎれいな服装をした浅黒い肌の男―――クレイは、つい最近増えた椋の新たなお得意様だ。
サービスに出してやった水をひと息で飲み干した彼は、ふう、とどこか重たげな息をひとつ吐く。
「いつもどうもごひいきに、クレイ。…何か随分疲れた顔してんなあ。大丈夫か?」
「否定はしない。リョウ、あっさりしたものが欲しい」
「はいはい、承りました」
あまり酒場でするものではないだろうクレイの注文に、さらっと椋は肯定で応じた。
宮廷直属騎士団の第六位階騎士である彼クレイトーン・オルヴァに対し、椋の口調がぞんざいであり名前も呼び捨てなのは一応、訳がある。下手にへりくだられるのはむしろ嫌いだ、家名も好きではないからと、ごく普通に椋自身が一番喋りやすい口調でしゃべり呼びやすい名で呼べと、あの後ふたたびクラリオンを訪れた彼に命令されてしまったからだ。
それってつまり、お友達になりましょうってことでいいの、と。
何となく訊ねてしまった椋に向けられたぽかんと呆気にとられたクレイの表情は、今でも結構に強烈に椋の印象に残っている。
「な、クレイ」
「なんだ?」
椋が彼からの「お礼」として出した条件に忠実に、三日と置かずにクレイはこのクラリオンを訪れてくれている。
どちらかと言えば硬派に整ったその顔立ち通り、彼は非常にまじめで誠実な男だった。随分物腰が落ち着いているので年上かと思ったら、自分より三つも下だと聞いて椋が落ち込んだのはクレイには秘密である。
そして美形というものは、疲弊しやつれた顔をしていても割とそれなりに様になる。
まったく世の中は不条理だと思いつつ、ものを作る手を止めることはせずに椋は続けた。
「おまえが初めて俺に会いに来た日、西でも魔物が出て結構ひどいことになったって話。…あれ、本当か?」
「…ああ」
「別に喋っちゃいけないならこれ以上は聞かないけど、おまえがそんなに疲れてるのもその関係?」
「そうだな。俺が所属する第八騎士団は今、ほぼ団員総出で調査にあたっている状態だからな」
「そっか」
頷く。もう少し詳しいことを聞きたい気もしたが、今目の前にいるクレイの様子からして、何を聞いてみたところでそう多くの情報は望めなさそうだった。
目の端でぐらりと何かが大きく傾いだ気がして、手元へ向けていた視線を椋は上げる。自力で立て直したらしい店員の一人と瞬間真っ向から目が合って、どこかばつの悪そうな笑みを向けられた。
もしできるならそっちの方でも、ここと同じようなことが起こってないか聞きたいんだけど。
まあ会話の流れだな、と思いつつ、仕上がった本日の一品をクレイの前へと椋は出した。
「ほい。口に合うかどうかは分かんないけど」
普通に白米を盛る茶椀より、一回り大きい椀を彼の目の前に置く。できたての湯気をたてるそれは、営業時間中でなければむしろ作成者である椋自身が食べたい代物だった。
確実に見たことがないだろうその食べ物に、怪訝そうにクレイが眉をひそめる。
「なんだこれは」
「お茶漬け」
「おちゃづけ?」
「炊きたての飯の上に、塩漬けのハクチ鮭と海苔とワカメのっけてお茶かけただけの簡単ご飯です。…ま、食ってみろ」
ニヤッと笑顔を向けて見せれば、微妙なしかめっ面のままクレイがスプーンを取った。そんな顔で飯を食っては食べ物も不味くなるのではとも思ったが、まあ初めて目にする珍妙なものに対する反応は、誰でも普通こんなものだろう。
実はこのクラリオンにおいては評価が半々な一品に、クレイがスプーンをつき入れ一杯ぶんの飯やら鮭のほぐし身やらを引き上げる。
若干恐る恐る、といったていでそれを口にした彼の表情は、次には驚いたようなものに変化した。眉が上がる。
「……悪くないな」
「だろ。割とみんなの評価は分かれるけど、俺は疲れたときはこれが一番なんだ」
他の席から入ったオーダーに対応すべく、新たに野菜と肉を刻み始めながらクレイの言葉に椋は応じた。お茶づけの味というのは、こってりしたものを食べたくないときには特に、胃に非常に優しいものだと彼は思う。
しかし味が薄い、のりが嫌い、ワカメが嫌だなどという理由で受け付けない人もまたそれなりにいたり、する。
結局は個人の味覚やら食事習慣やらの問題なので、まあそれもそうだろうなと考えている椋である。とりあえず目の前のこの友人には、疲労時に出すものとしてお茶漬けは成功を収めたらしかった。
「こっち上がったよ、持ってって!」
「あ、はい、りょーかいっ!」
お茶漬けの片手間に作っていた、今手をつけているものとはまた別の料理を盛り付けて椋は声をあげる。その声にすぐさま寄ってきた店員の、足元が一瞬ふらついたように見えたのはおそらく椋の気のせいではあるまい。
しかし今それを指摘したところで、俺はそんなに症状重くないし、別に大丈夫これくらい。そんな言葉しか返ってこないだろうことは分かっている。
なんだかなあと思いつつその料理の大皿を任せ、刻み途中だった材料とまた椋が向き合った瞬間、お茶漬けをかっ込むことに夢中になっていたクレイが不意に椋の名を呼んだ。
また下げかけていた視線を前へと向ければ、まっすぐにこちらを射ぬいてくる緑の目と真っ向から、かち合った。スプーンを椀の端に置き、彼は口を開く。
「ここに来たら最初に言おうと思っていたんだが、忘れていた。…明日、祈道士たちがここに来るそうだ」
「明日?」
「そうだ」
あっさり首肯される内容に、思わず一度二度と瞬きをする。
祈道士たち。それは即ちこの世界においては、治療看護の能力を保持した者たち、と言いかえることが可能な言葉だ。
先ほどとはまた別の店員が、客には迷惑にならない目につかないフロアの隅で額に手を当てる姿を発見しつつ彼は、目の前の男に応じて言葉を返す。
「確かにおやっさん達が、教会に申請が通ったとか何とか言ってたのは聞いたけど。それにしても、ずいぶん早いんだな」
祈道士。この世界における最大の宗教であり、このエクストリー王国の国教でもあるメルヴェ教に身をささげた者のうち、神霊術と呼ばれる特殊な「癒し」の魔術を使うことができるものに与えられる呼称である。
そしてそんな「癒し」の手を、欲さずにはいられない状況に現在、クラリオン含むここ周辺の住民たちは陥っているのだ。
しかしどこぞの貴族の要請ならばともかく、平民たちからの要請を受諾し動いているにしてはその動きは随分と早い。まあ申請は通ったが、早くても祈道士様方が来て下さるのは三日は後だろうな、苦笑していたおやっさんの顔と表情とが浮かぶ。
それをなぜとはそのとき椋は、訊ねることはしなかった。
聞きはせずとも大体は分かる。…申請それ自体は通ったとしても、何がしかの理由をつけられ、結局は教会への寄付の大きい貴族が優先される場合が多いから、だろう。きっと。
「明日の祈道士動員は、ラピリシア閣下のご意向だそうだ」
「へ?」
「おまえがさっき言っていた城下の西では、こちらよりも色々な事態が深刻なことになっていてな。既に死者も出ているとなれば、教会とて黙ってはいられないだろうということらしい」
あくまでも淡々と、感情を過剰に介入させることなくクレイは言葉を紡ぐ。
しかしその中に埋められた聞き捨てならない単語に、思わず椋は大きく目を見開いた。どくんと、奇妙な具合に一度心臓が跳ね上がる。
「…死者が、出てる?」
「ああ」
「深刻な事態って、…西の魔物の話聞いてからもしかしてとは思ってたけど」
やっぱりここだけの話じゃなかったのか、これ。
思わずといった様子で口にする椋の言葉に、神妙な表情でクレイは頷いた。
椋以外の店員たちが見せる、足のふらつき、明らかに疲弊した覇気のない顔、めまい、立ちくらみ、食欲不振に、運動時に増悪する息切れ。
それはここ最近になって、このクラリオン周囲の住民を悩ませるようになった奇妙な身体の変調だった。個人によりその重症度は様々だが、中にはベッドから起き上がることすらできなくなっている人もいる。
この数日、酒場であるはずのクラリオンで子供やご婦人がたの姿をちらほら目にするのは明らかにその影響だった。
男たちの仕事は滞り、女たちは家事に取られる労力分の体力を維持することができない。…したがってどこよりも近い店であるクラリオンを、飲食店の代わりに使用しているのであった。
ただ店の売り上げだけを考えるならば悪くはない話、かもしれない。しかしクラリオンの店員たちにも同じような症状が現れていること、誰もの症状が徐々に増悪していっていることを思えば、決して現況は「良い」とは言い難かった。
それに椋にはもうひとつ、気になっている点があった。
「リョウは見たところ平気そうだが、大丈夫なのか」
「そうなんだよな。全然元気だよ、俺は。…日ごろの行いがいいのかね」
我ながらそれはないだろうという言葉に、クレイはふと口の端をつりあげて笑った。
そう。椋が気になっていることというのは、他の誰でもなく椋だけが、身体に何の変調もなく、健康そのものであり続けていることだった。
理由など分からない。分かりようもない。
しかし気づけばここ周囲では、椋以外の人間はみな、症状の重度に差はあれ何らかの不調を訴えるようになっていたのだった。
「あー、…あ、そうだ。最近カリア来てないんだけどさ、元気にしてる?」
「……そうだな」
話題の変換を試みての言葉に、一瞬微妙な沈黙があったのは、彼女に対する椋のあまりにぞんざいな態度のせいなのか、それとも。
しかし明確に何を言うこともなく、クレイはまたわずかに笑って椋の言葉に応じてくれた。
「一刻も早くこの事件を片付けて、クラリオンでおまえに作れるだけのお菓子をすべて作らせたいと先日仰られていたな」
てん、と。
笑みを含んだ彼の言葉に、奇妙な音がそのとき椋の頭の中では響いた。
「……何かよくは分からんけど、あいつも大変なんだな」
とりわけ大食らいな訳でもないカリアが食べられる量など、もし本当にそれを実現してみたところでたかが知れているだろうに。
本人とてそれは分かっているのだろうに、その上で言わずにはいられない状況を想像して椋は苦笑してしまった。そして同時に思った。クッキーか何か焼いといて、こいつに渡してもらえばよかったかな、と。
住民たちの不調を受けて、ここ数日あちこちを飛び回っている椋には実際そんな時間は、ないのだが。しかしいつであろうと椋のおやつで笑顔になってくれる彼女のことを思うと、ついついそんなことを考えずには、いられない椋なのであった。
ふっとひとつ息をついて、そうだな、とクレイが相槌を打ってくる。
「一刻も早く片を付けたいのは俺も同じだ。ただでさえ陛下がご不在の今、これ以上民の不安を増大させ、治安を悪化させるような事態を起こすわけにはいかないからな」
「うん。俺ら庶民はホント、さっさと平和が戻るのを待ち望んでるよ」
受け取った注文票の通りに、大なべに作ったシチューを三杯分深皿へとそそぐ。入口にほど近い席で椋へと手を振っているのは、ついこの間も両親に連れられてクラリオンにやってきた三つ子たちだ。
相手がどんな人間であれ、その人が不調である様子を見るのは決して気分の良いものではない。そしてそれは椋にとって、対する相手が子供であれば尚更だった。
子どもというのは不条理だが、不条理ゆえに予想外でばかで賢くて、可愛い。
彼らを苦しませないためにも、早くここ近辺を襲っている不調の原因が分かりそれが解消されればいいと椋は、思った。