P2-34 うごめく事実と軋むもの 2
二度と動かぬ亡骸に、突き立てられた黒の細剣。
それを飾る鎖に絡む、薄青の大輪の一輪の花。
それらの示すは「事実の露見」。そのものは確かにそこに「在」ると、彼の目が捉えた証の華。
さあ、これからおまえはどうする?
差し出した細剣と華を前に、笑みとともに向けられた言葉は、
わずかに、確かに、心を、裂いた。
「もうこんな時間か……」
ちらりと手もとの時計に目を落とし、その針が示す時間に思わず椋は呟く。あと一時間もしないうちに、日付が変わることを時計の針は示していた。
いつものようにクラリオンでの仕事を終えて帰途についている現在の椋は、いつもより若干ならず急いでいた。
理由は勿論、今日の昼に見せられた無茶苦茶な義手にあった。もう少し正確に言うならば、その義手の更なる改造に、確実に入れ込みすぎて飲食も睡眠も吹っ飛ばすだろう二人の魔具師たちにあった。
時々なぜここまで心配してやらねばならないのかとも思うのだが、何しろヘイは椋の居候先の家主である。
色々な意味で、結局彼らに倒れられると一番困るのは椋なのだ。まあ仕方ないと適度に諦めて、早足でいつものように、家へと彼はそれなりに急いでいた。
疎らな街灯だけで照らし出すには、足りない暗い道を歩く。
生まれてからずっと慣れ親しんできた場所とは比べるまでもなく暗く黒い道なりにも、椋の感覚からすれば「まだ」十一時であるのに家々の明かりは当然のように消えていることにも、この何ヶ月かで随分慣れてしまった。自分の思考、行動、それらに折に触れて驚かれてしまうことにも――多少は。
それの善しあしはともかく、なんとか「医療者」のはしくれとして動こうと足掻き始めてから、椋には分かったことがある。
良くも悪くも、自分自身の手が単にひとつではできないことであっても。
何かの力を借りられさえすれば、確かにできることはあるらしい、と。
「……それにしても」
その「できたこと」の結果として、見られたジュペスのあの顔はしばらく忘れられないだろう。確かに彼を元の場所へ「戻す」方向に動けた。まだゴールとまではいかないまでも、実感はひどく心地よく、同時に色々なことに、ほっとした。
そんな幸福感の余韻が予想以上に残りすぎて、同僚たちに今日のおまえは気持ち悪いと何度もざっくり言い切られたくらいだったのだ。椋自身、いつまでも下がってくれない口角が、若干不気味になるくらいだった。
ひとつふたつ、本当は改めて考えなければならないことも無論、あるのは分かっているのだが。
「……」
何となく振り仰ぐ空は、今日もまた容赦なく黒い。その中で輝く星や月の光は強く、見上げているうちひとつふたつと、ついこの間教えてもらった「こちら」の星座を見つけた。
一度は腕をなくしたジュペスに、もう一度腕を取り戻させる。
当初から無謀とは思っていたが、それでも投げ出すつもりはなかった。最終的にはなければ作ればいい。トライアンドエラーで、時間はかかってもなんとかできればいい。そんなことを、義手についてはじめは椋は考えていた。
しかしそれでも、手ごたえのなさどころか、「最初」に話を持ち出したときの、ここの人々の反応はとにかく芳しくなかった。
最初に相談した相手、よくクラリオンにも顔を出してくれる防具屋の店主の言葉は今でも、椋の脳裏にこびりついて消えないままでいる。
「……ん」
適当に空を眺めたままでいると、不意に椋の目の前ですっとひとつ星が流れた。唐突な現象に、何の願いを頭に浮かべる暇もなかった。
今願うことがあるとするなら、さて、何を願おうか。
このまま平穏なまま義手が完成すること、義手を作り上げる前にも後にも、誰にも何にも不利益が生じないこと。ちゃんとした医者になること、元の場所に帰って、こんな不完全で何をするにも他人の手を借りざるを得ない状況から、少しでも抜け出すこと――改めて考えてみれば叶えたいものは多く在ったが、そのいずれにしても実現はなかなかに難しそうなものばかりだと、小さく苦笑しつつ椋は思う。
最初に相談した相手である店主は言った。一度失ったものを取り戻すなんて、普通の人間にとってはとてもではないが不可能な所業であると。
特に宗教家は言うだろう。ひとを創る、命あるものを創り出すことができるのは神だけである。
呼吸し動くものを真似て、「本物」のように動かせる「ニセモノ」を創るなど、どう考えても可笑しい神をも恐れぬ、叛逆者の所業でしかない、と。
「……ん?」
それは先ほどの一つ以降は星の流れない空を眺めつつ、足は止めないまま椋が思考していた矢先のことだった。
ちかりと、何か目の端に光めいたようなものが閃いたような気がしたのだ。流れ星のような曖昧で一瞬で消えるようなものではなかったそれに、天空へと向けていた視線を戻して前方を椋は見やる。
暗い道先にしかし確かに、その光源は存在していた。
まず有り得ないはずのその影に、思わず椋は目を見開いた。
身体には鎖があった。決して破れるはずもない、しなやかに強かな毒々しい無色の鎖。
夜に浮かび上がる、黒を目にした瞬間胸のうちではじけた言葉、「ここにいてはだめ」「逃げて」「今すぐ断ち切って」「これ以上何もしないでここから逃げて」「抗わないで」「抗って」「どこにもいかないで」「諦めて」「諦めないで」。
それらすべてを生じる理由を、口にすることはしかし鎖が許さない。
どうしてこんなにも、今でも無力なままでしかないのだろう、自分だけでは状況を変えられないのだろう、と。
手にした一つのちっぽけな、ささいな守護を握りしめ、思う。
彼女が妙に椋が驚くような登場の仕方をするきらいがあるのは、何も今に始まったことではない。
そもそもが誰の目も引くようなずば抜けた容姿な上に大貴族のお嬢様なのだ、色々なところで騒ぎになりたくなければ、ある程度人目を避けなければならないのも行動が制限されてしまうのも仕方のないことだと、苦笑していたのは本人だった。
しかし、だからこそ椋には分からなかった。
なぜ今こんなむちゃな時間にただ一人で、薄暗い誰もいない光も満足に届かないような道中に彼女が立っているのかが全く、椋には分からなかった。
「……カリア」
足が止まったままその場に立ちつくす椋の方へと、金と銀を宿す彼女は速くも遅くもないペースで歩いてくる。
椋は混乱するしかなかった。なぜ彼女は今、ひとりなのか。そもそもなぜ、こちらへ近づいてくる彼女の顔がひどく苦しげに、どこか泣きそうにまでに歪んで見えるのか。
しかしどう自身の行動を振りかえってみても、彼女がそんな表情をするような理由など何も椋には思い当たるものがなかった。
一つだけ分かることがあるとすれば、……それは。
「……どう、したの?」
ともすれば椋も関係し得る、何かがどこかで起こった/起こっているということだけだ。
聞いたところで彼女がどう答えてくれるのかは分からないが、それでも訊ねない理由もない。本来ならこんな場所でこんな時間には、絶対に会うはずもない相手が今目の前にいるのだから。
うつむきがちな顔と伏せ気味の目には、明確などんな言葉も今は読みとることはできそうになかった。視線を下げて見やる先には、カリアの整ったつむじが見える。
いつもならあまりそんなことは思わないのは、彼女は常にしゃんと背筋を伸ばして前を向いて、椋と会話するときにはこちらを見上げてくれているからなのだということにそのとき、椋は気づいた。
「カリア、」
呼びかけても、彼女は応じてくれないままどこか沈鬱な雰囲気を纏ったままだ。なんと言葉をかけたものかわからない。少し首を曲げれば見えないこともないカリアの表情はどこか何かを思い詰めているように見え、下手にふれれば壊れてしまうような錯覚を覚えた。
しかし、でも、なんで。
そんな椋の感覚を、不可解をカリアは彼の表情から読みとったのだろうか。
一度ぎゅっと彼女は目をつぶったかと思うと、次には勢いよく顔を上げ、ふわりと椋に向かって、笑った。
「ごめんなさい、リョウ。こんな時間に、こんな場所に」
「や、それは全然、俺は構わないけど」
声と表情と目の色と纏う雰囲気が、あまりに全てちぐはぐ過ぎるカリアの姿に若干椋はたじろいだ。本当に「何かがあった」ことしか、今の彼女から椋が読みとれることはない。
さらにもはや言うまでもなく、今の状況に問題があるとするならそれはカリアの方だ。何しろ今はもうすぐ日付も変わるような時刻、「悪いヤツ」ののさばるような時間である。下手な裏通りに入れば、性質の悪い酔っぱらいやら、いかにも黒そうな仕事に関わっていそうな人相の悪い人々が結構にたむろしているような時間帯なのだ。
困った、と椋は思う。
どうもカリアのこの様子からすると、確かに起こったらしい「なにか」をしっかりとカリアがこちらに伝えてくれるつもりはないようだ。
「……カリア。下手にこんな場所で女の子が一人歩きとか、危ないよ?」
よって椋が口にしたのは、非常に当たり障りのない平凡な言葉だった。しかし口にしてしまってから、そう言えばよく考えなくともこのカリアという少女はただの一般人である椋よりずっと強いのだということにはたと椋は思い当たった。
そしてやはりとも言うべきか、椋の言葉はカリアにとって予想外だったらしい。
きょとんと、カリアは椋を見上げる目をまん丸に見開いた。
「……え?」
「あー、ええと、」
「……」
彼女の反応に色々としまったとも思ったが、一度口にしてしまった言葉をなかったことにするわけにもいかない。カリアがその実際の強さはとにかく、見た目は華奢な美少女であるのもまた事実なのである。
しかし何が気に入らなかったのか、今度はきゅっとカリアは眉をひそめて唇を一文字に引き結んでしまった。こんな反応されるならむしろ率直に聞いてしまった方がよかったのかとも思ったが、完全に後の祭りである。
何とも奇妙で何を口にも出しづらい、正直あまり居心地のよくない沈黙が場に落ちる。何してんだ俺。何でカリアはここにいるんだ。こんな場所にこんな時間に、何のためにあんな顔して。
重い沈黙が解けたのは、真っ向から問いかけてもどうも答えてくれる気がしない疑念を心のうちで椋がひとりさみしく重ねていたときのことだった。
「……ばか」
「へ?」
しかも硬直を溶かす言葉は、何とも予想外で若干の理不尽も漂うものだった。一瞬自分の耳を疑った椋だったが、睨みつけると形容できるような強さで彼を見上げるカリアの瞳にそれを否定できるような色彩は見つからない。
訳が分からず思わず瞬いた椋に、駄目押しのようにもう一度、さらに眉をきつくひそめたカリアからの言葉がより大きく向かってきた。
「リョウの、ばかっ」
ついでに言うならなぜかそれは、別に痛くもない弱々しいパンチつきだった。
何となく八つ当たりされているような気もしたが、とりあえず理由を聞かないことには何も始められないので甘んじて今は受けてやることにする。下手に逃げると今度は魔術が来る気がしなくもなかったという、あまり面白くない理由もある。
さらなる理不尽を感じつつ、全く本気ではないそれが胸辺りに降って来るのをぽすりと受けたあと。
胸の真ん中あたりでぶつかって止まったままの手がわずかに震えているのを視界に入れつつ、ひとつ椋はため息とともに口を開いた。
「……カリアさん。とりあえず俺にも分かるように、いろいろと理由を説明してくれると嬉しい」
「知らないわよ、もう…っ」
かたりと一度強く震えた拳が、今度はぎゅっと椋の服を掴んだ。相変わらず何が何やら分かったものではないが、カリアがひどく不安定になっているらしいこと、ついでにやはり、その不安定には椋が何かしら関与しているらしいことだけは何となく分かった。
俺が何をした、とは思わない。確かにやっていることはある。それが実は危険なことだと、幾度か警告を受けてもいる。
それでもここまで進んできたのは、結局は椋の意地と我が儘と願い故だ。ジュペスやピア、リベルトには本当に随分迷惑をかけてしまっているとも思うのだが、もう今更踏み出してしまった道を引くこともできない。したいとも思えない。
神への叛逆。ひとを道から踏み外させるということ。ひとりの命を救ったということ。ひとりの人間を、その人自身が望む場所へと再び連れ出すということ。
それらがすべて一緒くたになってしまうのは、……どう考えても器用とは言えないような、ただ真っ直ぐに進むだけの立ち回りしか椋には考えることができないから、なのか。
「知らない、から」
服を掴んで俯いたままの、何を語ってもくれない少女が口を開く。手の震えは、相変わらず掴まれた部分を通して伝わってくる。
決して女性としては小さくはないはずの彼女が妙に小さく幼くも見え、ひとつ苦笑とともにぽんぽんと椋は彼女の頭を軽くたたいた。敢えて言わないのかそれとも言えないのか、分からないが結局は、今この場の彼女にとっては、沈黙が一番雄弁な言葉だった。
たぶん、もうすぐ。或いは今もう、この瞬間にも。
何かきっと椋の思いもつかないような無茶苦茶なことが、あの療養棟での一件すら越えかねないようなことが今の、すべて順調に平穏に進みつつあるように思えた色々なことを一気に、――壊すのだ。
「……何に向かって、怒ればいいんだろうな」
「なに、?」
ぽつりと呟いたそれだけの言葉も、互いに容易に触れるような近距離にいれば相手にも容易く伝わる。
少し前に強く感じた、あのときの感覚と似たようなものがどろりと腹の底にたまっていくような不快感があった。またそんなものと向き合わねばならない、言外にそう断じられてしまったのは或いは、あの後あの事件と、まともに真っ向から向き合わずに患者個人にある意味、逃げていた結果としての事象の発露なのだろうか。
苦しいのではない。悲しいのでもない。虚しいより、もう少し感情がプラスにもマイナスにも動く。
怒りよりも少し、冷めた方向に傾いている。だが決して楽しい嬉しい、そんな感覚は間違っても欠片も運んでは来ない。
わからない。……分かりたくないだけなのかもしれなかった。
「俺はただ、俺のできる限りのことをやろうとしてるだけなんだけどな」
誰が何を、考えているのかなど椋には分からない。今この瞬間も自分たちがどこかの誰かの目に晒されているのかもしれないと思うと、何ともうすら寒い心地の悪い感覚が背筋をさかのぼってくる。
自分ではどうしようもない理由で、自分という存在の中で生き残るための犠牲を払う。そうして失われてしまったものを、もう一度その手に取り戻す。
まず再生は望めないものを、もう一度手に入れるために。一度見据えた道の目前に再度立ち歩き始めるために、ひとの手が創り出す機械の手を借りる。
そんなにそれは、理にそぐわないことなのだろうか。何としてでも、何を起こしても排除すべき対象として考えられるようなことなのだろうか。
みだりに他者を傷つけてはならない、また自分の身体も傷つけてはならない、と規定する心は椋にも分かる。それは当然の倫理として、考えられても然るべきものであるとも思う。
だが自分の意思など一切届かない場所で、どうしようもない理由によって身体を失ってしまった人はどうすればいい?
そういう人たちの助けとなるものを創る、もう一度以前と同じことができるようにと願う、それも絶対に許されないことだというのだろうか。
「……だって、あなたのできる限り、って」
「そりゃ、無茶苦茶なんだろうけどさ。いっつも何かしら、驚かれてばっかだし」
「……」
「それに俺、器用じゃないからさ」
苦笑する。何がどこに在るのだろうと、また先ほどと同じようなことを思考する。
しかし今更、動かし始めたことから、一人の人生を変えてしまったことから逃げる気はない。そもそも逃げるとしてもどこに逃げればいいのか分からないうえに、仮に逃げることができたとしても、結局その逃げた先でも、同じようなことを繰り返してしまうような気がする。
自分のやりたいこと、やれると思うこと、やろうと思えることしか結局はできるわけがないのだ。
それら感情を押さえられる程度にすべてを達観できていたなら、はじめから何にもどこにも、椋は手を出そうなどとは思わなかっただろう。
「……リョウ」
「だから、ごめんな。カリア」
名を呼んでくる目前の少女に、椋は謝罪めいた言葉を向けた。
傍から見れば唐突だろうそれに驚いたように顔を上げ瞬きをするカリアが、首をかしげてもう一度名前を呼んでくる。
「リョウ?」
「俺が今やってることがどこで何になってたとしても、少なくともジュペスが望んでくれる限りは俺は絶対、今やってることから一切、降りられない」
「!」
服を掴む手が、一瞬固まったのが分かった。
どこからどう見ているかも不明な「なにか」に、自分の行動が影響を与えてしまっているらしいと今一度確信するには十分な反応だった。そんなことを教えてくれてしまっていいのだろうかと、ふと椋はカリアが微妙に心配になった。
我ながら暢気な思考だとは思う。しかしカリアが何も言ってくれないのは、結局「分かっている」ことを口止めされているからなのだろう、そしてカリアにそんなことを命じられる人間など、少なくとも椋の知る限りこの国には一人しかいないことを考えると。
とりあえずそのうちアノイを一発殴りに行こうかと、微妙に物騒なことを考えた椋であった。
「……やっぱり、ばかじゃない、あなた」
「うん。自分でもそう思うよ」
「やだ、もう」
「俺だってやだよ。面倒だし」
「ばか、……リョウの、ばかっ」
「……」
苦笑するしかない。罵倒しながらそれでも離れない手を、敢えて今更解いてやる気にもなれない。
面倒だと思うなら離れればいい、目をそむけてこっちを見ないで、気にもかけないでそんな人間はどこにもいなかったと全ての感覚をふさいでしまえばいい。
そんな突き放す言葉が、どうにも口にできない自分はそれなりにずるいのだろうと椋は思う。そもそも実際にそんな言葉を口にしたところで、さらなる罵倒をカリアから浴びせら下手すれば魔術が飛んでくるような事態にしかならないことも、同時に椋は知っていた。
まっすぐで何事にも一生懸命で、器用なのか不器用なのか、感情面に関しては確実に不器用でそれでも誠実で。
そんな相手を目の前にして、自分から突き放すような器用な芸当は少なくとも椋にはできそうになかった。
「――――…」
何かをささやくカリアの吐息が、ごくごくわずかに鼓膜を揺らした。
明確な言葉としては聞き取れずに霧散したそれに改めてカリアを見下ろすが、相変わらず俯いたままの彼女の表情は椋からはうかがえない。一度ぎゅっと改めて強く椋の服を握った両手が離れる、高い位置でツインテールにした長い髪をふわりと振って、カリアは顔を上げた。
言葉を交わす直前に見た、揺らぎとは程遠い何かを決めた光が金色の両目に揺蕩っている。
その光の強さに思わず両目を見開いた椋に、小さく彼女は笑った。
「リョウ。ひとつだけお願い、してもいい?」
「お願い?」
唐突な申し出に首をかしげる。頷いたカリアがもう一度口を開く。
ふわりと、わずかに冷たい夜風がふたりの間を吹き抜ける、瞬間、
「私が前にあなたに言ったこと、絶対に裏切ったりしないって、信じて」
決して大きくない言葉は、それでもりん、と大気に鳴った。
今度は少し、目を眇めて目前の少女を椋は見やる。最初に浮かんできたのは確かあの事件が起きた直後、あのときもまた随分遅い時間に椋を訊ねてきたカリアの言葉だった。
多くの傷で凹凸を帯びた彼女の手が、あの時包んでいたのは椋の掌だった。
首をかしげたまま、彼は言葉を返す。
「俺が正しくても間違っても、って、あれか?」
「うん」
返答はなぜか、少し幼げにも椋の耳に響いた。何もしゃべってくれない、ただ一方的に罵倒だけしておいて随分な言葉だとも少し思ったが、以前アイネミア病の際にカリアが椋を信じてくれた、そのときのお返しだと思えば別にいいか、とも考える。
そもそもこれから起ころうとしているらしい「何か」が、どこから這いずり忍び寄ってくるものであるのかも椋には知るすべがないのだ。カリアやアノイが相手取るような無茶苦茶なものに、ただの一医学生が太刀打ちできるわけがない。
そう考えれば椋にできるのは、決して立ち止まらないことと色々なものをもっと今よりよく考えること、過去を顧みて反省するのはいいが決して後悔しないこと、そして信じること。
それくらいのものだ。情けないが結局水瀬椋という人間は微力なのである。一度に変えられる可能性がある場所は、あくまでひどく狭い部位にしかない。
黙ったままの椋の表情に、いったい何を読みとったのか。
まるで何かに祈るように、胸元で両手を握りしめたカリアが、言った。
「――あなたが誰かを救って守ろうとするなら、私はあなたが開く、その道そのものを守りたい」
或る人が彼らは、やはり成長しているのだと言った。
また或る人は返して曰く、おそらくここが潮時でありましょう、と。
――――誰もが未だ、起ころうとしている凡そあらゆる物事を何も知らない。




