P2-31 遭遇1
朝が来るということを、日付が変わり、明日が今日になるということを。
こんなにも自然に嬉しいようにも思ったのは、果たしてどれくらいぶりのことだろうかと思った。
開いた窓から見える景色は美しい。ひんやりと澄んだ空気は心地よく、レンガ造りの道なりに連なる白壁の家々は、朝日に照らされどこか透明な光を宿しているようにも見えた。
ふっと小さく、彼女は微笑んだ。
今日これからしなければならないことが、ある種柄にもなく、朝もそう得意ではないはずの彼女を高揚させていた。
「……まさか、こんな仕事を請け負うことになるとはな」
その言葉は誰に言うでもなく、ただ一人つぶやくだけのものだった。
朝日に照らされる彼女の白い面には、柔らかく楽しげな笑みが浮かべられている。こんな素直な高揚は、やわらかな感情の高まりは本当に随分と彼女にとっては、離され離れて久しいものだった。
ちらりと視線を室内へやれば、机の上には既に最終の仕上げを終えた、依頼の品が主の元へ赴くのを待っている。
腰かけていたベッドから、その笑みを変えないままにするりと静かに彼女は立ちあがった。
「あー、ダッリぃ」
「だったら別に、今日ついてこなくても良かっただろ」
傍らで特大のあくびを連発するヘイに、つい笑ってしまいつつ椋は応じた。
ほぼ雲ひとつない快晴の空の下、のんびりした昼下がりに、なぜか椋は今ヘイと二人で道を歩いていた。どうしてこんなことになっているのかといえば、今日義手のプロトタイプができあがるのだと、椋がヘイに言ったのが始まりだった。
それを言ったときにはいつものような「あぁそうかい」的な反応しかヘイは返さなかったのだが、しかしここ数日より少し早めに、家を出ようとした椋に唐突に彼は声をかけてきた。
――ちょっと待てリョウ、俺も行く。
――……え。
それはあまりに何の前振りもない、ある意味ヘイらしいといえばヘイらしいのかもしれない、本当に不意打ちにすぎる言葉だった。
椋の返しに、ヘイはあくびをかみ殺しながら肩をすくめた。
「ハッ、こんな機会逃せるかってンだ。何しろ暫くぶりだからなァ、ヒトに装着できる魔具なンざ直に見ンのは」
「ただの野次馬か、おまえは」
「はン。ソレの改造は全部俺にブン投げる気満々なクセによく言うぜ」
「むしろおまえは、俺が止めても勝手に暴走して変な機能色々付加しそうだよな。……止めないけど」
「止めねェどころか率先して俺みてェなヤツを関わらせようとする時点で、テメエもいい加減ホントにバカだァな」
「だって魔具に関してだけ言うなら、おまえを信じない理由って俺にはないし」
ヘイがこちらへ向けてくる言葉は、やはりいつもの通りに遠慮もなければ乱雑に過ぎる。そんな彼の言葉に椋は、ヘイと同じように肩をすくめてさらりと笑った。
おかしいところがある、というよりおかしなところだらけの男ではあるが、椋にとってみればヘイは、他の誰よりここでは信頼できる人間だ。何しろ一番性状を互いによく分かっている相手でもあるうえ、ヘイは椋の抱える事情も知っている。妙に何か考慮し、思考をめぐらせねばならないような必要がないのだ。
口ではそれなりに汚く椋を罵ったりもしながら、その実ヘイが確かに椋を気に入っていることを椋は知っている。椋もまた、この度を過ぎた自己中と追求と発明の欲に塗れた、だからこそ何を返せるわけでもないのに、ただ「おもしろいから」のその一言でこちらにどこまでも付き合ってくれるヘイが、友人として不思議にも面白くも思える。
何しろ椋自身自覚していることではあるが、基本的に水瀬椋という人間はそれなりに単純にできているのだ。
一切の損得勘定抜きに自分と接し続けてくれる人間を、何を偽るわけでもなく自分と接してくれる人間を信じないという選択肢は、椋にとっては決して用意が容易いものではなかった。
「ハッ、信じねェ理由がねェ、なァ」
「何だよ」
「これから会うってェソイツにも当てはまる話だから言っとくがなァ、リョウよ。もし俺が悪ィヤツだったらどうすんだよ?」
敢えてあしざまに、わざとらしく声まで低めて半眼でそんな言葉をヘイが向けてくる。
しかし元々悪人面なヘイが、そうして凄んで見せたところで今更何の感情も椋にはわいてこない。更に言えばそんな馬鹿正直を今更隠すような間柄でもないので、何の気もない表情で笑って椋は返した。
「いや、おまえ既に見た目からしてすごくガラ悪いし」
「ンだと?」
「ほら、やっぱりガラ悪い」
「リョウ」
さらに低められた声がまた名を呼んでくる。むしろそうやって自然に凄まれているほうが、先ほどのようにわざと睨まれるより怖い、ような気もしなくもない。
しかしヘイの問いに対して、完全に茶化した答えしか返していないのも事実だ。
ふいと、笑ったまま椋は空へと視線をやった。ひとつふっと息を吐く、今日も天気は快晴だ。
「でもまあ、おまえが悪いヤツだったら、か」
いきなり訳もわからないままこの場所に放り出された椋が、最初に出会ったのがこの男だ。周囲との付き合いどころか滅多に外へ顔も出さない、妙なものばかりを道楽のように、開店休業状態の店で売っている変人。近隣の人々の評価がそこから揺るがない、見た目チンピラのような彼は、なぜか道端に倒れていた椋を拾い上げ、介抱し話を聞き住む場所をくれた。
あの日から今まで、基本的に世話になりっぱなしの男だ。
そんな人間がもし、最初からずっと今まで何らかの理由によって椋を騙し何かに使おうとしていた、とするなら。
「そうだな、……うん、泣くな」
「マジメに答えやがれ、テメエ」
何とも非常に仮定しづらいそれに、言いながらもまた椋は笑ってしまった。しかしそんな彼の態度の何が気に入らなかったのか、ヘイはさらに、こちらへ向ける目の光をきつくしてくる。
だからといってその視線で自分の感覚が変わるわけもなく、笑ったまま椋は言葉を続けた。
「というか、確実に人間不信になるな。何が目的か知らないけど、俺が欲しいもんのために無茶苦茶高い材料費自分で払って、完成のめどどころか方向性すら全く立ってないようなモンに何度も挑戦して、失敗しまくってそれでもまた挑戦してるようなヤツの行動が全部わざとだったとか、普通ありえないだろ」
「……」
わずかに虚を突かれたように、ヘイの銀めいた青の目が見開かれた。どうやらこんな答えはヘイには予想外だったらしい。
こいつの中で、どれだけ俺は世間知らずになってるんだろうか。確かに否定できない部分は少なからずあるが、微妙に残念な気分を抱きつつ椋はさらに続ける。
「さすがに三ヶ月もここにいれば、俺だってある程度ものの価値は分かってきてるぞ。ヘイ」
ろうそくに火を灯すための魔術が込められた魔具、椋の感覚で言えばライターに一番近いものにすら、この国では一週間分の食費が消えるほどの大金がかかるのだ。その理由を尋ねてみれば、魔具の作成に必要とされる材料が、元々安くない、ものによってはとんでもない値段がするうえにこの国では基本的に生産されていないからであり、またこの国の特性もあって、需要もさして多くはないからだと聞いた。
現在椋たちのいるこの国、エクストリー王国には、魔術を使える人間が他国より多いのだという。
魔術の才がある人間の数は、おおよそ千人に二、三人といったところが世界的な平均らしい。しかしエクストリー王国では、百人に一人、つまり世界的な平均の軽く三倍以上の確率で魔術師となりうる人間が生まれるらしいと、何かの資料で読んだ。
だからこそこの国は他国から、「魔術師の王国」と呼ばれている。
現国王であるアノイをはじめ、強い魔力を持ち国の要職に就くものも多く、才を発現する人数の多さゆえに、それを生かすための教育施設の充実や、その魔術を生かし活躍するための場の拡大も図られている。騎士団や魔術師団といった国の直属とはならずとも、自ら学んだ魔術を生かして国のために働く人間の数は、かなり多いらしい。
しかし、そうであるからこそ、魔術を使えない人々にもある程度魔術が身近なものであるからこそ、この国ではあまり「魔具」が必要とされないのだという。「誰であろうと」「ある程度の」魔術が一定動作で使えるようになる道具などを使用するより、自分であるいは知り合いに頼んで魔術を行使する方が簡単だからだ。
勿論、だからといって需要が皆無というわけではなく、魔術師の総数からすればかなり少数ではあるがこの国にも魔具師は存在する。王宮にあった明かりと空気清浄機の組み合わさったあの魔具などが、おそらくは椋には一番良い例だろう。
しかしあくまで需要は「皆無でない」というだけのこと。
市場とは基本的に需要と供給によって成立するものである以上、需要が生じてこなければ価格の昇降も起こらない。
「ほーぉ」
「何だよ、その気のなさそうな声は」
非常にぞんざいに返してきたヘイの声に、椋は苦笑した。本当にいつものことながらヘイは、魔具そのもののことでなければ、どこまでもこちらの言葉には興味を基本的には示してくれない奴だった。
興味を持つ/意識を向けない、特定の相手と親しくなる/互いに反目する/無視する。
それらがあまりにはっきりしている男を前に、ふとつい先日、友人からもらった手紙の内容を椋は思いだした。
たった今ヘイが椋に向けたものと、さして変わらない言葉のつらなりを。
「そういえば、この間の手紙でカリアに言われたな。……あなたは簡単に人を信じるから、それはすごくいいことだとも思うけど気をつけなきゃだめよ、って」
「あーァー。一言一句全く反論が浮かばねェな、オイ」
もはや何か面倒になってきたのか、さらに適当軽薄になってきたヘイの声を肩をすくめて聞きつつ椋は考える。
リョウ、あなたが嫌がるかもしれないけど敢えて書く。あなたは簡単に人を信じるから。
もう少し気をつけなきゃだめよ。勿論人を信じられるっていうのがすごくいいことだとはわたしも思うしちょっとだけ羨ましいとも思うけど、それでももう少し、気をつけて、簡単に気を許しすぎないで。
義手が何とかなりそうだと、協力者が見つかったと伝えた手紙に返って来たのは、何となくあの金色の瞳が苦笑しているのが浮かんできそうな文章だった。
しかし気をつけろといわれても、正直何をどうすればいいのか椋には分からなかった。
知略、策略、謀略といった、何とも不穏で面倒なものとは基本的に関わらずに椋はずっと過ごしてきた。カリアやヘイの言う、簡単に人を信じてしまうというのはそのあたりから来ているのだろうし、そもそも元の性格からして、他人の言動の裏を考えるのは非常に、彼は苦手だった。
ここ最近の事実だけを客観的に並べてみれば、確かに警戒心がなさ過ぎると言われても可笑しくないようなことをしているとは思う。
何しろ「普通」にただ状況だけ見れば国教の教義に反するようなことを行った直後、正式な入国手続きを経ているとはいえ、誰も知らない相手に、誰もやったことがないようなものづくりを椋は持ちかけたのだ。最終的に彼女、リーの目の真摯さと真剣さを椋は信じることになったわけだが、彼女自身にも言われたように、そんな椋の言動すべてが緩い、甘い、注意が足りないと言われてしまえば、確かにそうなのだろう。否定する要素がない。
リーについて、詳しいことを何も知らない、どんな生い立ちでどんなことをこれまでやってきた人物なのか全く分からないというのもまた椋には事実なのだ。
しかし全くそういうことを知らないといえば、今すぐ横を歩いているヘイにしても同じだということにふと椋は気づいた。
「……」
「ンだよ?」
「……いや、なんでもない」
なんとなく改めてすぐ近くの顔を眺めてみたところで、そこにはここ三ヶ月ほどで見慣れてしまったヘイの顔があるだけだ。笑って首を横に振れば、微妙に不満そうな顔をしてヘイは口をへの字に曲げた。
根っからの発明家であるからなのか、基本的にヘイは合理主義者だ。
その合理性が自分の発明に限局してしまうところが何とも残念なヤツではあるが、要するに現時点では魔具の発明・開発に、ヘイの持つバックグラウンドは大して深く関わらないからこそヘイは何も言わないのだろう。そう、椋は何となく思っている。
気にならないわけではないが、先ほどの言葉よろしく今更椋をこの男が騙し続けているとも考えられない以上、別に強いて話を聞きだそうとも思わない。
それこそ時期がくれば、必要性があるとこいつが判断すれば、勝手にヘイの方から話し出すだろう。基本的に、空気は読めるが根本的に自分勝手な男だ。気分が乗らなければ、椋の過去は吐かせようとしても自分の過去を語ったりは絶対、しないだろうことは想像に易い。
などと考えているうちに、止まらぬ二人の足はいつの間にかリーの泊まる宿の近くにまで差し掛かっていた。遠目にあの枯葉色のフードとマントをすっぽり被った姿が見え、ひょいとその人影がこちらに向かって軽く手をあげたのが見える。
随分大きなトランクを手にした彼女が、こちらへ近づいてくる。
「やあ、リョウ君」
「こんにちは」
ただ声を聞いただけでは、やはり少年のそれと思ってしまう彼女の低い声。相変わらずのフードとマントが少し怪しいとも改めて思ってしまうのは、先ほどのヘイの問いかけゆえか、それともカリアの手紙の内容が、何となく自分の頭に残っているからなのだろうか。
しかし気になるからと言って、無理やり彼女のフードとマントを剥いで仮面も引っ剥がすようなことをしたいとも椋には思えない。もし本当にどんなモノをリーが抱えているとしても、少なくとも現時点の椋にとって彼女は、ただの少し変わった協力者でしかないのだから。
だからこそ軽く片手をあげて挨拶をしてきた彼女へ、椋もいつも通りの笑みで応じた。
しかしなぜかリーの視線そして意識は、椋を通りぬけてある一点に固定されてしまっているような気がする。
「……」
「リーさん?」
続いてこない彼女からの言葉に、わずかに首をかしげて名を呼んだ。
その瞬間、何かに驚いたように少しだけ彼女の身体が震えた、ような気がした。
「あぁ、いや、すまないリョウ君。そちらの方は? 君の知り合いか?」
今度はきちんと返ってきた彼女の言葉は、表向きにはここ数日聞いてきた彼女のそれと何も変わらない。
しかし普通と片付けるには、妙に反応が遅かったような。
妙な違和感は感じたものの、傍らで微妙に口をへの字にしているヘイを見ればそれにも納得してしまった。
「ああ。ごめんごめん」
ヘイが傍目にはガラの悪いやからにしか見えないことは、椋とてよく知っていることだった。先ほどもそういう類のことを、椋自身考えたばかりだった。
こんなのを突然何の断りもなく連れてきたら、誰だって確かに驚くだろう。
笑いつつ、何となく違和感は消しきれないまま椋はリーの問いへ応じた。
「こいつ、俺が居候させてもらってる魔具店の店長。魔具師のヘイだ」
「どうも」
いまいち挨拶する気の薄そうな声と表情で、それでも一応ヘイはリーへと頭を下げた。
せめてもうちょっと愛想よくてもいいじゃないかと思う椋をよそに、そんな態度の悪いヘイに対してもリーは笑った。たぶん。
「はじめまして、ヘイ殿」




