P2-29 冠の目前に
「それはいい。捨てろ」
王宮の特に栄えある一角、国の王が執務を行う一室にて。
文書の封に使われている家紋を見るや否やざっくりとそう告げたアノイに、三人いる書記官のうちひとりが少し困ったような顔をした。基本的に心配症のきらいがあるこの部下が無茶ぶりに困った顔をするのはいつものことなので、残念ながらアノイがそれを気にしてやることはまったくない。
もう二人は今別の仕事に向かわせているため、今この場にはいない。三人が三人ともに有能なのはありがたい限りだと、一度も言ったことはないし素直に言ってやるつもりもないが内心ではアノイは思っていたりする。
そしてその、三人の書記官の中で一番の心配症で神経が細いのがこのクロウ、クローリウ・ノーチェだ。
しかし神経が細いと彼自身認めながら、結局はこのアノイの書記官を大した文句も言わずクロウもずっと続けているのである。考えれば、案外妙なところではこいつは逆に非常に図太いのかもしれない。
アノイの思考などいざ知らず、今日も今日で困った表情をしたクロウは彼へと向かい口を開いてきた。
「陛下。そうおっしゃるのも分からなくはありませんが、さすがに封も破らず捨てるというのは」
「あー。残念だがな、毎回代わり映えもしない、娘可愛さと宗教尊さに凝り固まった書面なんぞ見てる暇がなくてな」
「陛下」
さらに眉を下げて声を上げるクロウに、ひどく気のない笑みを向ける。
それはあり得ないことであると、理と義はこちらにあるものと。
決して疑わぬ者たちは、徐々に姿を現してゆく変転を永久に、受け容れることはないのだろう。そんなむなしくもいつの時代も結局は事実でしかないことを示すかのような書面と、また今日も向き合うことになるのは正直なところアノイは真っ平御免だった。
いつもと何一つ変わらないアノイの様子に、がっくりと肩を落とした彼にかかったのはアノイでない別の人物の声だった。
「ノーチェ、諦めろ。要するに陛下は誰に何を進言されようと、その件に関して下の裁定を曲げられるつもりはないということだ」
その声にクロウは顔を上げ、アノイはひょいと改めて視線をやった。
どうやら言いつけた用事は終わらせてきたらしい。クロウと同じく書記官のひとりであるリヴィ、正確にはライヴィンス・ダンシェルの姿がそこにはあった。
確実に色々を諦めた声音のリヴィの言葉に、器用にもクロウは眉を下げたまま眉間を寄せて反駁しようとする。
「しかし、ダンシェル」
その後に続くであろう言葉が、ごくごく一般的かつ自然当然の摂理であろうことは想像に易い。いちいちすべてを聞くのはつまらないが、そういう人間も身近にいてくれなければ結局困ることになるのはアノイのほうだ。
だからこそ今、目の前の二人の腹心に向かって彼は肩をすくめる。笑う。
「気にするなクロウ、リヴィ。例の病に関する一連の騒動で教会にはこっちも貸しがあるしな、これの黙殺くらいで消えるようなもんじゃないやつが」
いや、腹心は二人ではなく三人か。
考えた端から内心だけでアノイが訂正したほぼその瞬間、どこか呆れたような、同時に妙に楽しげで軽薄な声が頭上から降ってくる。
「そんなもんでその貸しすり減らしてどうすんですか、っつーことっしょ。普通に」
「!?」
声とともに、天井の一角がぱかりと外れる。驚愕したのはクロウとリヴィ、それが開く一瞬前に魔力の波動が何となく感じ取れたこともあり、幸いアノイは今日の彼には驚かされずに済んだ。
ひょこりと頭だけを天井からのぞかせた、目に痛いほど鮮やかな朱い頭を見上げながら笑ったままアノイは応じる。
「なんだ、随分早かったな、グゼ」
「なぁに。今のあんたと同じことしてきただけだからな」
アノイを当然のように見上げさせるのは、ニヤリと口の端をつり上げてどこか皮肉げに笑う糸目の男だ。名をグゼ・ウーデュラという。
しかし腹心として取り立てて何年経っても、相変わらずに斬新な登場の仕方を変えないヤツである。
そんなことに感心するのはアノイだけで、他の二人はと言えば半ばやれやれとでも言いたげな目でグゼを睨んでいた。
「ウーデュラ。本当におまえはその横柄、どうにかならんのか」
「ならんな。ついでに言うなら確実に、原因は陛下があっさり許しちゃってることだからな」
「本当に陛下も陛下ですよね、いつものことながら」
「うん? 重要なのはそこじゃあないからな。構わんさ」
あからさまな呆れを隠そうともしないクロウとリヴィの言葉に、何もかもを面白がっているグゼの表情にさらりと軽く笑ってアノイは応じる。
そもそもアノイの過ごした二十五年という年月を鑑みてみれば、他人を見下ろすより見下されていた時間の方が彼には未だ、長いのだ。誰からも蔑まれ疎まれ、常に不要と毒を注ぎこまれ続けていたような男が今この国の唯一の王冠を手にしているのだから、人生というものはしみじみ、かくも予測のつかぬものである。
更に言うなら権力とは、そんなアノイにとってみてば「状況によって使い分けるべきもの」でしかない。無論現在のアノイに必要不可欠なものではあるが、それは段階を追って己が身に着けてゆくものであり、あらかじめ生まれつき一生涯特定の存在に纏わる、自動で便利なものではない。
だからこそグゼという男には、アノイは権力を用いない。
なにしろ一度ならず権力に潰されかけたところを、その寸前でアノイが拾い上げた男なのだ。こちらが少しでも権力を纏えば、容易くこれは手許から離れる。
面倒だが同時におそろしく優秀で規格外な男へ、だからこそアノイは無造作にひょいと首をかしげて問うた。
「それで? 何か来たか」
「あんたが気に入ってる奴についてと、例のブツの放流についてなら少々」
「ほう。……どうでもいいがグゼ、いい加減降りてきたらどうだ? 茶くらいは出してやるぞ」
「出させるの間違いでしょうがあんたの場合。まあ、喉もかわいたし、いただきますかね」
こちらもいい加減見上げ続けているのは首が痛いので声をかけてみれば、いつものようにグゼは茶の一杯であっさり釣れた。素直なのかひねくれているのか、混在の面白い奴である。
他の二人からすれば面倒なことこの上ないアノイたちのやりとりに、クロウとリヴィの二人はやはり肩を落としたまま頷きあっていた。
そしてこちらには何を言うこともなくクロウが場を出て行ったのは、ささやかなこちらへの抗議と、ついでに茶を淹れに行ってくれたゆえだろう。相変わらず優秀でこまめな腹心である。
ついでに言えば小言の担当は、先ほどまでのクロウからリヴィへと交代したらしかった。腕組みしたリヴィがこちらを睨みつけてくる。
「……陛下」
「うん?」
「相変わらず、こちらの胃が痛くなるようなことをなさっておられますね?」
「知らん。慣れろ」
「陛下はいつも無茶ばかり仰る」
「それを知っていながら、俺の元を離れないおまえたちが悪い」
「んなことさらっと言えちゃう陛下も陛下じゃないのかねぇ。面白いからいいけどさ」
相変わらずの言葉に変わらぬ言葉で返せば、いつものようにグゼには面白がって笑われた。全くもって本当に代わり映えのしない景色である。
むろん平凡平穏は、決して悪いものではない。
しかし今このときのそれは確実に「狭間」のものでしかないことが分かりきっているがゆえに、何とも据わりが悪いのだ。現にろくでもないことが確定してしまっている情報をふたつも、このグゼが執務室に持ち込んできているのがその、何より分かりやすい証左である。
グゼがここに持ちこんだと、つい今しがた言った情報はふたつ。最近のアノイのお気に入り、つまりあの黒とその周囲に関すること、そしてもうひとつは、この国のみならず国際的に取引が禁止されているはずの、あるものについてのことである。
さて、どちらからこの男は情報と代価を示し求めて来るのか。
思考するアノイを、不意にリヴィが呼んだ。
「陛下」
「うん?」
「今更な質問であることは、分かっていますが敢えて問わせて下さい。……あの黒は一体、何なのですか?」
「何?」
「あぁ、それについては俺も是非聞きたいねぇ」
彼の言葉に眉を寄せれば、さらに珍しいことにグゼまで彼の言葉に乗ってきた。
他人の視点越しの評価しか知らない彼らが、リョウという個人を知らないことなどは当然アノイも分かっている。何しろ機会がない、与えてやってもいない。
しかしあえて奴個人をこの手足たちが知ろうとすることに関しては、…まぁ、別に悪いこととは思わないが。
「ぱっと見にはただの、ぼーっとした気のよさそうなにぃちゃんだってのに。その実細かく開いてみれば、何とも珍妙なことを普通にやろうとしてたりすんだもんな」
「そこに関しては、確かに俺も否定の言葉はないな。カリアやヨルドたちをはじめとして、妙に他人を取り込む力があるってのもまた笑えるところだ」
おそらくリョウは、これまでもこの先も、あの二人を自分の側に取り込んでしまったという無茶を理解することはない。良い悪いではなくその方が面白いと思うが故に、アノイもまた頼もしくかいがいしく、事実を伝えてやるつもりは一切ない。
そもそも何を問われたところで、結局のところアノイの中にもリョウというものに対する明確な「答え」はないのだ。
この国どころか世界の人間ですらないと嘯く、しかし奴の仔細な言動を逐一考察していけば確かにと納得もしてしまう「異端」。まだそう多くの人間は知らない、確実にこの国の、この時代の「異者」となりうる、既になっているのかもしれないひとりの青年。
それがリョウであり、アノイが知っている彼についての情報の全てなのだ。
「で? おまえに変だと言わせる奴は、今度は何をしようとしてるんだ?」
「ギシュ、とか何とかいうのを創るらしいぞ。もう色々と手は打ってあって、明日実装するんだと」
「ギシュ?」
さらにグゼへと問うてみれば、また随分と奇怪な音の連なりが返ってきた。
即座に意味ある言葉として成立しないそれを、思わず反芻してしまう。アノイより先にそれに反応したのは、わずかに眉を寄せ腕組みをしたリヴィのほうだった。
「それは失った腕の代替として使用するもの、という意味の代物か」
「ん? ああ。というかなんだ、正式な言葉だったのか? それって」
全く知らん言葉だから、俺はてっきり、あの黒が創ったのかと思ってたぜ。
さもそれが当然であるかのように言い放つグゼの言葉に、思わずアノイは小さく吹いた。リヴィの言葉によって意味を確定された音の連なりは、確かにグゼの言う通りこの国では全くお目にかからない、そもそも必要性がない、それゆえに製造しようとする輩もまずいないであろうもののひとつだった。
しかし確かにリョウならば、そんなものを知っていてもおかしくはないのかもしれない、と思う。
何しろあのアイネミア病の原因となった魔術、マギルカイトの波紋術式を本人知らぬ間に明かしてしまった男なのだ。身体の一部の切断という、人間が人間を治癒するための方法としてはあまりに野蛮で宗教にも良い顔をされるわけがないだろう事柄に続く手として奴が打つには、良くも悪くも相応しいものであるのかもしれない。
そもそもどう立ち回って、義手などというものが創れるような状況にまで自分たちを持っていったというのだろうか、あの黒は。
「……まったくあいつはどこまで、教会と真っ向から対立するつもりなんだかな」
四肢の欠損が神への冒涜にもつながり得るという世界の理の中で、それでもひとりの患者の命を救うためと、リョウは自ら進んで外法、としか少なくとも世間一般には呼ばれない方法に手を出した。
無論アノイのような、結果に至る方法など、ひとつでも多い方がいいと思っている人間ばかりが世間を占めるならばそれでいい。だが残念なことにそうではないと、おそらくリョウ自身も既に気づき始めているはずだ。
リョウの行こうとする道には、どうにも荊しか生えないらしい。
果たしてどこまで何をどう教会が感づき、どのような接触をこれからリョウへと向かって図ってこようとするのか――
どうせならばこちらの勝負の、中途も結果もすべて完膚なきまでにまたひっくり返すものとして存在してくれればいい、と思う。
「ああ、教会と対立すると言えばもうひとつ」
与太話をするときのような軽さで、またグゼが声を上げた。
今度は果たしてどういう方向性にろくでもない話かと、現在自分たちの追っている、追わざるを得なくなってきたものを思いながらわずかに口の端をつり上げつつアノイは問う。
「先ほど言っていた、もうひとつのほうか」
「そ。「レジュナ」が一個、北と東の区画境あたりであがったとさ」
「……なるほど」
何事もないような口調で、またも無茶がさらりと発される。つり上げたままの口の端が、瞬間ひくりとひきつったのを感じた。
予想通りといえば予想通りに最低なその報告に、さすがのアノイも小さくため息をついた。目前のグゼはそんなアノイの内心を知っていながら、いや知っているからこそしれっとした表情でこちらに肩をすくめてみせる。
頭の痛そうな顔で、リヴィが彼の眉間へと手をやった。
「やはりただの噂ではなかったか、国崩しの【傀儡】は」
レジュナ。――レジュナ【傀儡】。
それはまず平和とは縁遠い、常に崩壊だけを何にも齎すもののひとつの名だ。この国のみならず全世界的に制作および取引が禁じられている、本来存在しているはずのない、実在してはならないはずのものだ。
それは傀儡の名の通り、他者を模倣し完全に偽り、実在と虚無を入れ替えることの可能な特殊な人形のことである。姿形から性格、能力に至るまで完全に擬することが可能であり、かつ主の命令には絶対服従する傀儡は、はるか昔から多くの国を沈ませる原因となってきた。
その用途は決してひとつではないが、考えられ得るものはいずれも良いとは言い難いものばかりだ。
或いは色を好み、或いは存在を偽り、或いは虚無から無敵の、何を恐れもせぬ兵士を造成する。絶世の美女にも、すべてを破壊する狂戦士にも為し得る、現実と虚構をひっくり返すそれは、全ての表と裏を返し得るからこそ、疎まれ拒まれる。
これを最も厭うのは、この国の国教でもあるメルヴェ教だ。
今から数えて五十数年前、教会の手により全世界的に行われた大規模な摘発及び制作関係者一切の粛清が行われた。この一大事業により、少なくともこの国周辺には絶対に存在されていないとされているものが、レジュナ【傀儡】だった。既に制作者などどこにも残ってはいないと、教会は自分たちの功績を今でもまるで昨日のことか何かのように常に吹聴している。
だが、残念ながらアノイは知っている。少し考えてみれば誰でもわかることだ。人の暗い欲望に決して果てなど存在しない以上、その欲を満たすための道具もまたこの世から潰えるはずがない。
確かに教会の功績は、そちら側との濃厚な接触は常に避け続けているアノイとて認めるほかはない。何事かあればすぐにレジュナ【傀儡】が裏闇に出没していた過去を考えれば、ずいぶん現在は快適になったものだと思う。
メルヴェ教という「光」によってごく限られた闇のうちに追いやられたそれは、一体を手に入れるための費用からして中流程度の貴族なら下手を打てば破滅に直結するようなものであるらしい。絶対必要不可欠なものであるわけも、ない。にもかかわらず今それは、この国の中に存在している、という。
一体あちら側は、あの連続殺人といい何を考えてどう結び付けてこようとしているのか。そして結局のところその全てに翻弄される立場にしかない黒は、あちらの計画に果たしてどのように食いついていくことになるのか。
あちらは果たして、これにて何を。
リョウというひとりの存在に、その内側に、見ようとしているのか。
「まったく、本当にどいつもこいつも」
思わず呟き小さく笑う。大いに結構な平凡退屈は、手を届かせようとも俄かには思えないような距離にしか未だに存在してくれはしないらしい。
まあそれもそれで楽しい人生ではあるが、と。
茶器と茶菓子とともに戻ってきたクロウから受け取った茶をすすりつつ、さて果たして何から動かしてやるべきかと改めてアノイは思った。リョウに関しては基本放任を極力決め込もうと思っていたのだが、どうもこの無茶の度合いから見るに、考え直した方が良いのかもしれないとも思う。
何しろ一番彼を留める、こちら側に傾けさせやすいはずのカリアがとんでもなく本人無自覚なのだ。
カリアがリョウに向ける感情は、傍から見ればとうにただのいち友人に向ける大きさを越えている。それはアノイでなくとも、おそらくニースあたりに尋ねても同じような答えが返ってくる、ただの動かぬ事実だった。
カリアの「表向き」の淡白さや自身の感覚、思考についての無自覚は分からないでもない。なにしろ「彼ら」の謀略にあれの感情が凍結しかけていたところに現れ、するりと彼女の心の隙間に入り込んでしまったのがリョウだったからだ。
さすがにこれ以上は無理かと、あの一件を片付けたときにはアノイも思ったものだった。何しろあの事件の中でカリアは、ニースを除けばおそらくほぼ唯一信頼していたであろう友人を巻き込まれた。そしてその友人だった女は、散々に「彼ら」に利用された挙句にぼろぼろの、死より惨い状態で放り出されたのだ。
しかしカリアは、結局また立ち上がり己の足で歩き出した。
沈んでいたのは本当に、ひどく短い期間だけだった。
……表立ってリョウを傍らに置けないのにはヤツに魔力がないのも一因となってはいるのだろうが、それにしても本当に面倒くさい、言い換えてみればまだまだ、この先に何をしでかすか予測できないふたりである。
「本当にあの黒がお気に入りなわけね、陛下は」
アノイと同じく茶をすすりながら、グゼが笑ってそんなことを言ってくる。その感覚に相違はないのだろう、苦笑或いはため息をつくクロウとリヴィは、あえて彼へと向かって何を言っても来ない。
だからこそ、今更答えなど分かりきっている言葉にはアノイはただ沈黙だけで返した。
あの黒は、今更他のどこにもやってやるわけにもいかなくなってきた強い、指向性のない曖昧で鮮烈な「異端」だ。
――あちらが何を仕掛け、どうヤツを絡めとろうとしてきたところで、こちらもまたはいそうですかとただその状況を見守るだけの暢気な存在であることは、できない。




