P06 少女は思考する
「…ええと」
ひとまずすべてを片付け終え、歩き出そうとしたときだった。
いつの間にか開いていた、酒場のドアから黒髪の青年がひょいとこちらへ向かって顔を出したのは。
おそらく物心つくより前から、誰かを何かを守ることはカリアにとっての必然であり当然であった。
いつであろうとそうでなければ、彼女は彼女と看做されなかった。強く在らなければ、守れるような自分で在らなければ。存在することそれ自体すらどこか危うかった。
従って彼女にとっての強さとは剣であり盾であり意義であり、何らかの守護としての力の駆使はある意味での呼吸にすら等しかった。それでいいと思っていたし、さしたる不満や不便を覚えたことも彼女はなかった。
思う限りの過去から現在まで、自分が存在しているのは恵まれている、とは言い切れない環境ではある。が、しかし同時に決して不幸なわけでもない、とカリアは思う。
彼女には求めに応じる力があり、そのための努力研鑽もまた惜しまなかった。
結果得たのが現在の、二つの大きな、地位と椅子だ。
「…下」
自分が完璧などという言葉とは程遠いことも、若輩者と謗られても文句は言えない、足りないものは多く得ているものは少ない人間であることも理解している。だからこそ彼女の持つそのふたつの大きな肩書きを、密かに或いは大々的に狙う輩が未だ少なくないことも。
彼女の世界はいつでも常に、良くも悪くも分かりやすかった。目前の人間は敵か/味方か。そのものを守れるか/守り切れないか。
有益或いは不利益か、短縮或いは延長か。常に打算は誰にも彼にも、彼女自身においてもどこまでもついて回っていた。
しかしそれは結局のところ、この世界で彼女の生まれ落ちた環境を考慮すればただ、当然というほかはない。嘆くほどのものでもない。どこにでも転がっている一貴族の生きざまでしかなかった。
好きも嫌いも感情もなく、ただ淡々とそう事実として、彼女はずっと考えていた。
ほんの一月ほど前に、あの不可思議な黒の青年と出会う、までは。
「…閣下」
―――俺はまだ、きみをカリア、って呼び捨てにして、いいのかな。
相変わらず何の負の感情も、宿さないまっさらなまっくろの瞳に告げられた言葉が、消えない。カリアより七つ年上だという彼は、そもそも出会い頭から何とも言えずおかしかった。
どこに行く気も起きずに適当に、店の名前も確認せずにふらりと入った城下町のはずれの酒場。誰の目にもつかない隅で壁にうなだれていたカリアに、頼んでもいない一杯を突然差し出してきたのが彼だったのだ。
よかったら試飲してくれませんか。さっき作ったばっかりなんで、できれば誰かに味の確認してもらいたくて。
いつもならばまず疑ってかかるはずのその言葉になぜかあっさりとあのとき応じてしまったのは、ふわりと湯気を立ち上らせるそれが純粋に美味しそうだったからなのか、それともつき慣れてはいないらしい嘘の向こうに、カリアを心配する光が見え隠れしていたからなのか。
今となっては、その真相はカリア自身にもよくは、わからない。
「……様」
カリアの負うものの何たるかを、その片鱗だけだとしても知っても。常人からすれば明らかにバケモノ以外の何でもないであろう、彼女の力を目の当たりにしても。
彼はどうしてか、変わらなかった。カリアがあの時見せた力に、それなりに驚いた顔はしていたけれど、それはほんの一瞬だけだった。
開かれたドアからひょっこりと飛び出した、黒頭が黒の瞳がカリアを見つける。視線に気づき目を向ければ、表情を作りかねたような微妙な顔を彼はこちらに向け。
けれどそのままただそこに、突っ立っていたわけではなく。
ひらりひらりと手を振ると、ぱくぱく口を動かしてある言葉を紡いで、みせた―――
「―――カリアお嬢様」
「っ!」
音もなく、目の前でシャボン玉が唐突に割られたような感じがした。
自分を呼ぶ声に目を上げれば、大部分の怪訝と呆れに、若干の心配も含んだ深海色の瞳が眼鏡の奥からカリアを見つめていた。思わず一度二度と瞬きをする、自分の副官であり幼いころからの傅役でもある男は、小さく苦笑してひとつ息をついた。
「どうかなさいましたか、お嬢様。随分と幸せそうなお顔をしておいででしたが」
「どうかって、べ、べつにどうも、…幸せそう?」
さらりと紛れ込んだ妙な言葉に、その反応をこそ彼は待っているのは分かっているにも関わらずつい反応してしまう。幸せ。それはカリアという少女にとって、近いようでいて遠い、手の届きそうで届かない、届かせないようにしているのかもしれない存在であった。
しかし目の前のこの男は、今度こそにっこりと眼鏡の奥で笑ってカリアの言葉を肯定してくるのだ。
「ええ。そうですね、一番近いのはお嬢様が、あの場所にいらっしゃるときのお顔かもしれません」
「え…」
あの場所と言われて思い浮かぶのなど、たった一箇所しかカリアにはありえない。
けれどあの場にいる私は、そんなに情けないような顔をしているのだろうか。…ついぱちん、と己の両手で頬を挟んだカリアを、何かほほえましいものでも見るような視線で彼は見つめてきた。何となく気に入らない。
黒と銀を基調にした、団服を身にまとい細い黒ぶちの眼鏡をかけた彼の名前はニース。略さず名乗らせればニエストライ・フォゼットとなる。
現在のラピリシア家の家令でありここ第四魔術師団「シーラック」の副長でもある、公私ともにカリアの右腕として働く優秀な男であった。
「ご自分で、お気づきではなかったのですか? 彼と相対しているときのあなたは、本当に楽しそうにしていらっしゃいますよ、お嬢様」
「…だってあの人、何から何まで本当におかしいんだもの」
他の誰に何が隠せても、ニースという誰よりカリアという人間を知る男には何を隠そうとしても無意味だ。彼の笑みに応じるように、小さく肩をすくめてカリアもまた笑った。
六つも年上という割に、妙に抜けているところがあって変に世間知らずで。
その割に時折あの黒い瞳の奥にひらめく理性と知性の光には、あの酒場にいる他の人々とはどこか異なるものを感じずにいられない。口を開けばカビの生えそうな賛美の言葉ばかり吐く貴族の面々とは全く趣の違う、飾らないまっさらな言葉は図々しく無遠慮で不躾で、…終わりにまた次を望むほど、カリアの耳に心地よく、響く。
彼の持つ黒髪に黒い瞳は、このエクストリー王国からははるか遠い異国、オオミクニの人々に特徴的な色とされているが詳しいことは知らない。適当なところでいつも彼が話題を変えてしまうために聞き出せていないうえに、あの酒場で働き始めるまでの彼の経緯は、密かに調べさせてみてもあまりに謎が多すぎた。
街の片隅に小さな潰れかけの店を構える、流れの魔具師のところに身を寄せているという彼。最初に俺を拾ってくれたのはあっちのはずなのに、今では半分くらい俺があいつを養ってる状態になってるよ、などといって笑っていた姿を思い返す。
この国においてはまずあり得ない、黒髪黒眼の不思議な青年―――リョウ・ミナセ。
彼の抱える真実は、彼自身以外は今は誰もきっと、知らない。
「お嬢様」
「なに?」
「それがあなたご自身の選択ならば、私からはあえて何も申しません。…まあ、屋敷の護衛たちにも、良い訓練になりますしね」
いつも通りにさらりと多方面へ酷い台詞を吐く傅役に、思わずカリアは笑ってしまう。それはカリアがしきりに護衛を撒こうとする、屋敷の人間からすれば悪癖以外の何でもない習慣に対するものでもあれば、未だに主であるカリアの護衛に、主自身の意図により徹することができない護衛役たちへのものでもあるのだ。
くすくすと笑いつつ、眼鏡の奥のしれっとした彼の目をカリアは見上げた。
「相変わらずね、ニース。最近あまり気配の漏れを感じなくなったのは、そういうこと」
「ええ。彼らもさすがに一月も同じものを見ていれば、そしてそれに怒るどころか楽しげに返されるあなたを眺めていればそれも、どうしようもないこととある程度は割り切ったようで」
「怒るって、…別に私は」
特別な扱いをされることを、自分から望んだわけじゃない。
何の気なしに口をつきそうになった言葉に、しかし誰よりもカリア自身が驚いて口を閉じた。違う、誰にでも気安く勝手にこの名を呼ぶことを、声をかけ忌憚の遠慮のない会話を許したいというわけではない。己の己としての矜持が、なにか揺らいでいるわけでもない。
なのにたった今現実として、自分の口をつきそうになった言葉は。
「…ごめんなさい、なんでもないわ」
―――彼が、おかしいから。
きっと彼からすればひどく身勝手であろう結論を弾き、カリアは静かに首を横に振った。彼女の様子に目前のニースは何か感じ取った様子だったが、彼は主の口に出さぬことを敢えてつつき出すような無礼な男ではない。
わずかの間、奇妙な沈黙が室内にコトンと落ちる。
その空白を破ったのは、やはりとも言うべきか落ち着きはらったニースの声だった。
「お嬢様。…いえ、ラピリシア団長閣下」
「なに?」
「しばらくはそのお楽しみも、慎んでいただかねばならないかと思われます。…状況はかねて予想されていたものより、ずっと深刻なようです」
敢えて直された呼称と、続いた言葉に対する衝撃はなかった。むしろ納得の意味合いの方が、現在の彼女には強かった。
ふと息をついて、机に両肘をつく。
改めて目前の副官を見据える彼女の瞳からは、先ほどまではあったはずの甘さめいたものが綺麗に消え去っていた。
「あの場に焔の残滓が残らなかったのも、やはり偶然ではないと?」
「ええ。城下にラグメイノ【喰竜】級の魔物を出現させ、かつその召喚術式をおよび関連する事項すべてを隠匿するなど、常人にはまず不可能です」
焔の残滓とは、先日の酒場「クラリオン」周辺におけるラグメイノ【喰竜】級の魔物討伐においてカリアが最後に使った術に、彼女が組み込んだ特殊な追跡能力のことを指す。
術式構築のための時間が十分ではなかったため能力は完璧とは言えないが、しかしそれでも、第四位階の騎士および魔術師くらいの身元は割れる力をあのときのカリアは込めた。ちなみに第四位階と言えば、飛空能力および前段階よりさらに五倍の膂力を身につけた竜である飛竜とも、多対一でならなんとかやりあえる程度の力量をもつ者たちが所属する位階である。
それは即ち言いかえてみれば、あの何の前触れもない魔物の襲来は、相当の力量をもった人物による裏が存在するものだ、ということに他ならない。
団長としての己が確認すべき、事項を淡々とカリアは目前の副官へと尋ねた。
「ほぼ同時刻に起きたという、城下の西での一件も同じなの?」
「それについての詳細はこちらに。本件に関与する全団長方にも既に、こちらの報告書は提出済みです」
ぱさりと目前に示される書類。そう、あの日魔物が現れたのは、カリアが偶然居合わせたあの場所だけではなかったのだ。
討伐に当たった第七騎士団の報告書によれば、被害の度合いから想定される魔物の出現時刻はカリアたちのものとほぼ同時。こちらは騎士団および魔術師団の初動が遅れたため、かなりの物的、人民的な被害が出てしまったのだという。
ただ文面で結果だけを見れば、大きな被害の出る前に魔物を片付けたこちらのほうがより団として優れている、とも取ることは可能だろう。
しかし今回のカリアらの迅速討伐には、運と偶然の要素が相当に作用しているのだ。第七騎士団はとりわけて目立つ団というわけではないが、質実剛健をその体で示す団長を筆頭に、堅実な策による確実な勝利を国へもたらすことのできる人材が集められている団。今回の偶然がカリアたちにでなくあちらに作用していたなら、大きな被害を出していたのは間違いなくこちらの方だっただろう。
報告書に目を通しつつ、唇の端だけをつり上げる薄い笑みをカリアは形づくる。
「さすがね。ありがとう、ニース」
「とんでもございません。…しかしあの場に、あのクレイトーンがいてくれたのは幸運でしたね。彼が騎士団へ増援を要請してくれたおかげで、より迅速にあの場を検めることができましたから」
「そうね」
クレイトーン・オルヴァの所属する第八騎士団「リヒテル」は、有事における第四魔術師団との提携が定められた団の一つである。
第四魔術師団との提携が定められているのは第八、九、十騎士団の三つだが、現在第九および第十騎士団は別件で動いている。そのため、あの時点で即座に実質的な提携が取れるのは第八騎士団だけだったのだ。
迅速に兵を動かし何らかの痕跡の有無を検めるためには、ほぼ最高と言ってもおかしくはない彼は伝令だったのだ。
「…彼のおかげね。それも」
またひょっこりと意識に顔を出した、決して見た目は悪くないのに、整っていると言うにはどこか緊張感のない黒の青年をカリアは思う。そういえば自分やラグメイノ【喰竜】級のこともあり結局有耶無耶になってしまっていたが、確か彼は噂によれば、あの日、「何もしないで」人を助けたのではなかったか。
問うてもいつものようにはぐらかされてしまい、ゆっくり少しずつ情報を引いていけばなどと思っていた矢先にあの場にクレイトーン・オルヴァが現れその直後には、魔物だ。
まったく本当に、訳の分からないことだらけである。
そもそも彼が助けた人間というのが、あのクレイトーンの妹だなどというのは随分、妙な偶然が重なることもあるものだ―――。
「須らく偶然というものは、複数は重ならないものと申しますが」
まるで彼女の内心を見透かしたかのようなニースの言葉に、思わずカリアは顔を上げ彼を凝視した。しかし彼の表情はいつもの通り、眼鏡の奥にある深海色の双眸は穏やかに凪いだままだ。
どうにもあの青年に関してのことには、平常心が保ちにくい。
改めてひとつため息をついて、優秀すぎる己の副官へとカリアは言葉を向けた。
「彼はまだ、あまりに未知数よ。ニース、いくらあなたといえど、私に断りなく彼に接触することは許さない」
「閣下」
「これは命令です。…ニース、わかって」
人の目などというものは、案外簡単に欺ける。一度信用させてしまえば、ひとというものは驚くほどにその存在に対して盲目になる。
分かっている。何の裏も取ることができない人間を、簡単に信じてはいけないことなど過去の歴史はおろか、過去の自分の経験からだけでも容易く知れる事実だ。
けれど、彼は何かが違うと。あてになどしてはいけない彼女の心は言う。
何を言ってもやって見せても、結局こういうところがあるからまだ自分は若造と罵られるんだろう。苦笑するしかない、カリアである。
「……かしこまりました、お嬢様」
そしてしばらくの沈黙ののち、彼が返してくれたのは短い肯定の言葉だった。
ニースは主のためとあらば、その主すら裏切ることもやりうる人間であるとカリアは知っている。だからこそ今、彼女は彼へと言葉を向けたのだ。せめて明確に言葉にして彼に向けておかなければ、…もし万が一にも何かが起きたときに、彼がどうなるか、どうできるかの予測が本当にカリアにはつかなくなる。
どうしてこんなに、出会ってたった一カ月の、六歳も年上の男に必死になっているのだろう。
少し考えてはみるものの、既にその答えはあまりにカリアの中で、明確だった。
―――だって彼のそばは、あんまりにもあたりまえのように、心地がいいんだ。