P2-23 落とされる光
考えている。
自分のやるべきことについて、あのときからずっと、クレイは考えている。
いくら考えたところでおそらく、あの男に対しての正解などどこにもないと分かっている。それでも考えずにはいられないのは、今回の全ての起点は己にあるとクレイは思っているからだ。
少しでも、あの少年の助けになってやりたかった。
指導を任された身として、彼という存在を彼自身から任された身として何か出来ることはないかと考えた結果として、クレイはあの場に他者を、リョウを呼びこんだ。
「異者」になりたいと願う彼は、クレイには皆目見当もつかなかったジュペスの病状を知っていた。彼の腕がなぜ治らないのか、治らないどころか日を追うごとに状態がひどくなっている気がした、そんなクレイの感覚を、決してただの気のせいではないとリョウは断じた。
誰が聞いても耳を疑う、異常の施術の可能性を、論じた。
ジュペスを見、治療のため奔走するリョウの瞳はどこまでも真剣だった。彼が宿していたのは少し前に市井の人々を脅かした奇病、アイネミア病に関しておそらくこの国の誰より、正確かつ深い理解をしていたのと同じ、鋭い黒色だった。
リョウの黒は時折、見ているこちらが怖くなるほど異様に深くなる。それは或いはどんな雑念、理念、通念も放って、ただただ真実だけを彼が追い求めようとするが故なのかもしれない。
リョウは確かに、知っていた。そもそもクレイは、知っていることを期待したからこそジュペスに、リョウを引き合わせた。
しかしそんなことをするなら、もっとよく考えなければならなかったのだと。
あの騒動を起こしてしまったあとで、打ちひしがれた奴の背を見送るしかできなかったおのれの無力に強くクレイは思った。リョウの施術に己を捻じ込んだのは、ある意味では非常に分かりやすい、クレイの自己満足だった。
当然のようにクレイを友人と呼び笑う、あの黒の青年が確かに異者であることを、既に身にしみてクレイは理解していたはずだというのに。
それなのに。
「ふ、ッ!」
いくら剣を振るおうと、もやのように思考にまとわりつく後悔めいたものは消えない。
何をしようとどんな疲労が体内に蓄積しようと、自身に対する不甲斐なさは欠片も消せるはずがなかった。
どうしようもないのは、リョウもジュペスも決してクレイを責めようとしないことだった。二人がそんな人間でないことを分かっているからこそ、際立つ己のふがいなさに心は波立つ。
癒室カウルペールの長、ヨルドにリョウが引っ張って行かれる直前、せめて一言でもと謝罪の言葉をクレイは彼へ述べようとした。
あの時のリョウの表情は、今でもひどく強く印象に残っている。ひどく憔悴した、同時に自己嫌悪や何にとも知れない憤り、無力さや悔しさなどといった、おおよそ負に分類される多くの感情がごちゃまぜになった顔をしていた。
おまえのせいじゃないよと、そんな顔でしかも、リョウは首を横に振った。
むしろよくあれで俺の言いたいこと分かったな、さすが俺の友達だなと。
明らかに笑顔と呼ぶには失敗した表情でそれでも、無理に奴は笑おうとしたのだ。
「はぁっ!」
手慣れた質量、感触、風切り音。
ジュペスの腕を失わせ、結果的にその命を救うことになった剣を振るう。
俺は奴らを守るどころか、自ら窮地に立たせた。それは誰が何を言おうと決してクレイの中では変わらない、ただの事実であった。
一介の騎士見習いでしかないジュペスには、自らの意思より祈道士を拒否することなどできない。
そしてリョウには異端としての知識はあっても、決して実際に刃を合わせて誰かと戦うための力や、無理難題を押し通し得るような権力は何もない。
そのことを、――特に後者を、いつの間にかクレイは忘れてしまっていた。
完全に、思考から落ちてしまっていた。
「は、っ!」
それらは無論、すべて言い訳だ。分かっている。だからこそ誰に口にするつもりも、クレイにはない。
いくら理由と断罪を、考えたところで意味はない。思考する意味があるとするなら、これから先のことについてだ。
幸いジュペスの経過は至極順調であるという。このままいけば何の問題もなく、身体機能回復のための訓練に入れるだろうとリョウは言っていた。昨夜届いたピアからの手紙にも、本心から彼女が喜んでいるのが透けて見えるような、ジュペスの経過についてのこまごました事柄が綴られていた。
リョウの持つ異端と危険性は、今回の騒動でクレイもまた改めて思い知った。リョウにジュペスを見せた、その結果として最終的にはジュペスの命を助けられた。起点と結果に関してだけ考えるなら一切後悔はしていないが、すべてをよしとするには、あまりにその経過がリョウとジュペスの二人にとって最悪に過ぎた。
治癒というものが、誰かに牙をむくことなど一度も考えたこともなかった。
騎士であるクレイは、怪我をすれば祈道士や治癒術師の世話になることは時折ではあるが決して皆無ではなかった。それに血こそつながってはいないが、クレイにとって唯一の「妹」であるピアは、ピアの幼馴染であり護衛であるリベルトは、祈道士だった。
普通はまず、思いもしないのかもしれない。治癒という、人間が傷つき病に倒れても生存するため必要不可欠なものが誰かにとっての害悪となることなど。
この国の人間ならば誰でも、治癒というものに対して宗教が大きく絡んでいることは分かっている。
しかし、生憎クレイはそう、強くは神を信じていないのだ。冒涜などは無論するつもりはないが、前途有望なはずの人間の命を狩り取り、無情無能な人間ばかりを世界にのさばらせるその采配には折に触れ、ひどいまでの不条理を感じずにはいられないからだ。
今回にしても同じだ。どうして他の誰でもなく、ジュペスがその腕を落とさねばならなかったのか。
まず彼の騎士としての生命が終わりかねないことを意味しているそれを、果たしてジュペスはどのような覚悟を持って受け容れたのだろうか。
或いはもう少し早く、リョウにジュペスを見せることができていたとしたら――
ただただ己の鍛錬と思考、その二つだけに全てを割けていたのは、そこまでだった。
「!」
動きは半ば反射だった。何かが自身へ向かって飛来する音を、気配を感覚が捉える。
手にした剣が、何かに弾かれるように鋭く跳ね上がり空を切り裂いた。次の瞬間には甲高い音とともに、彼へ向かって飛来したナイフ五本をクレイは余さず叩き落としていた。
金属の擦れ、落下する甲高い耳障りな音にわずかに眉を寄せる。現在クレイがいるのは第八騎士団の鍛錬場内である。一体何の冗談か、それとも冗談ではないのか――考えた刹那に聞こえてきたのは、ぱちぱち、というとひどく気の抜けた拍手の音だった。
まったくもって訳が分からず、構えを解かぬまま音の方向にクレイは目を向ける。
そこには。
「なるほどな。確かにエネフが気に入るはずだ」
思わず、限界まで目を見開いた。
どこか楽しげに笑って無造作にクレイへと言葉を向けるその男は、絶対にこんな場所にはいるはずのない人物だった。
金にも銀にも見える不可思議な色をした長髪に、神の祝福とも謳われる、顔のみならずすべての部分が精巧に整えられた上で、完璧に計算され人体として構成されているような感覚を見る者に抱かせる存在。深い蒼の瞳には、常人ならば決して持つことのできない強い、覇者の輝きが宿っている。
公式の催事などの際、遠目に眺めるだけでも背筋に、寒気の走るような圧倒的な「上位」の存在が。
なぜか現在のクレイの前には、当然のように笑って立っていた。
「……陛、下」
「おお、よく知ってたな。いかにも俺はおまえの主だ。クレイトーン・オルヴァ」
呆然とするほかないクレイに対し、ごくごく自然にさらりと、エクストリー王国国王アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリーは笑顔で肯定を返してきた。
果たしてこの場にクレイ以外の誰もいないことは、彼にとっては幸いなのか不幸なのか。そもそもなぜ彼のような人物がこんなところにいるのか、しかも先ほどアノイが口にした言葉は、まるでクレイと接触することを目的として、彼がこの場を訪れたように取れる。
同期という限られた範囲でならまだともかく、所詮クレイは数もそれなりに多い第六位階の騎士の一人でしかない。しがない下位の位階持ち程度が、王への直々の目通りを許されさらには王に顔と名を知られているなど、まずありえないことだ。
なぜ自分程度の人間の名を、陛下がご存じなのか。
思えど発言、質疑を許可されてもいない状況で口を開けるわけもなく、ただただひたすらにクレイは目前の王に低頭するしかなかった。
しかしそんな、臣下として当然の行動をするクレイの何がおかしかったのか。再度、アノイは楽しげに彼へと向かって笑う。
「そうかしこまる必要はないぞ、クレイトーン。今の俺は側近公認の脱走中だ。おまえ次第で、あいつらがしかめっ面する時間も減るかもしれないな」
「……は?」
「まあ俺としても、うまい茶菓子がなくなるのは少々寂しいから端的に言うぞ。クレイトーン・オルヴァ。おまえにひとつ、これから実行してもらいたいことがある」
至極当然のように言い放たれた彼の言葉は、ものの見事にクレイの思考を上滑りした。
一瞬自分の耳がおかしくなったのかとも思ったが、目の前で相変わらず真っ直ぐに楽しげにクレイを見る国王の表情は瞳の色はまったく、変わらない。このままクレイが黙っていても、状況が進まぬことはあまりに明確だった。
ゆっくりと、アノイへ向かいクレイは口を開く。
「私に、ですか?」
「ああ。何しろこの件に関しては使える駒が恐ろしく少なくてな。事実を事実として認識できる人間自体、報告を聞く限りおそらく、おまえくらいのものだ」
「……は、」
そしてやはりアノイは、かけらの逡巡すら見せずにクレイの言葉を肯定する。
一体彼の言葉が何を示そうとしているのか、全く予想もつかないままただ、臣下たるクレイは目前の王へと低頭しその言葉を待つしかなかった。
アノイが笑う。口が、開かれる。
「クレイトーン・オルヴァ。このエクストリーの王、アノイの名において命ずる。明日から単独秘密裏に、マリア・エルテーシアの護衛及び監視を行え」
「!?」
「諸々の理由についてはすべてが終わったあと、改めて説明の機会を設ける。……すまんが現時点で言えるのは、対象は危ない。それだけだ」
つらりと何の気もないような口調で口に出された言葉に、またしてもクレイは言葉を失うしかなかった。
マリア・エルテーシア。
それはリョウの異端ゆえに、あの騒動を起こしたひとりの祈道士の名だった。
ピアたちより二期上の祈道士で、己の理解を越え、宗教というものを当然のように踏み越えているリョウの思考をその知識の意味を理解できず、暴走した挙句にジュペスをひどく苦しめた張本人だった。
しかしクレイには分からない。なぜ現在、ジュペスでもリョウでもなく彼女が危ないというのか。確か一月の自宅謹慎を、あの騒動のためマリア・エルテーシアは言い渡されていたのではなかったのか。
そもそもどうして国王陛下が、あの「ひどく些細」な騒動を知っているのだ。
無論よく仔細を眺めれば、彼女の連なる一連は確かにおかしい。だがその異端をなぜ、まず何も直接の関係はないはずのこの方が知っている?
以前ラピリシアの邸宅に招かれた際、リョウはアノイに会ったと言っていた。なんかこう絶対敵には回したくないタイプだよな、などと、ひどく不遜なことをリョウは言いつつ、笑っていた覚えがある。
その一件に、他の誰でもない、リョウがかかわっているから、なのか。しかしだからといって、王の前には普通なら報告にも上がらないだろう瑣事を、この方はいったいどうやってどこから拾い上げたと言うのか。
混乱するしかないクレイに、ひょいとひどく軽い仕草でアノイが肩をすくめた。
「命を不服に思うなら、文句は今のうちだぞ」
「いえ、……そのようなことは」
「なぜ護衛対象が「黒の青年」リョウではなく、事件を引き起こした張本人なのか。そういうことか?」
「……」
クレイの動揺と内心など筒抜けだったらしい。ため息をつきたくなるのをおさえて、ただ沈黙し低頭することで彼の言葉にクレイは応じた。
果たしてクレイの内心を知ってか知らずか、声の調子を変えることなくアノイは滔々と言葉を紡いでくる。
「彼女はな、危うい。仕方ないと言ってしまえば仕方ないのかもしれんが、おそらく放置しておけば、さらなる害悪となってあれは我らの前に再度姿を現す」
「……なぜ、」
「ん? おまえたちの王様は、そう無知でも無力でも愚昧でもないってことだな」
思わず口をつきかけた言葉に、事も無げにさらりとアノイは言い放つ。そういうことが言いたかった訳ではないのだが、すべてを後で説明すると言われてしまっている以上、現在のクレイには彼へ低頭を続ける以外に術はない。
この方は一体、何をどこまで見ておられるのだろう。
リョウという存在をおそらく異端の個人として知りながら、その上で彼へ牙をむき騒動を起こした女を監視し守れというのは果たして、未来になにを意味するのだろう。
彼女が危うい、とは、何に関しての言葉なのか。
未だ大局を見据えることなどできぬ若造でしかないクレイにはまったく見えないような景色が、無限にこの王の前には見えているのではないかと、そのとき彼は思った。
「連絡にはこれを使え。使い方はわかるか?」
「はい。……拝命、仕りました」
「よし。働きに期待しているぞ。クレイトーン・オルヴァ」
無造作に目の前にかざされたのは、その一つでクレイの給料など軽く五年分は飛ぶであろう高価かつ貴重な魔具だった。拒否などあるはずもなくそれを押し戴くクレイを見、どこか満足げに笑ってアノイはその場から踵を返す。
颯爽とこの場から去っていくその背を相変わらず低頭したまま見送りながら、それまで吐きたくともつけずにいた大きなため息をクレイは吐いた。
彼が今手にしている魔具は、普通ならばクレイが手にしようはずもないものだ。見たことがない訳ではないが、しかし見たと言っても過去に一度だけ。副長が使っているのをただの一度だけ目にし、その際に、どうせなら覚えておけと魔具についての説明を受けたのだ。
二つでひと組になっている小さな手帳のような形状をしたそれは、互いが手帳へ書く内容が、その互いの間でだけ共有されるという代物だ。
設定された自分と相手以外には決して書かれた内容が露見することはなく、なおかつ情報共有の手段としても非常に迅速。だがそれゆえに非常に高価であり、凡人にはおいそれと手の届くようなものではない。
そんなものを当然のようにクレイへ放ってくるのは、やはり彼がこの国の王たるが故なのか。
疑念だらけになってしまった己の思考にもう一度深く息をつき、わずかに首を振ってクレイは顔を上げる。理由は分からずとも、この身に受けたのは王命だ。果たさぬわけにはいかない、果たさぬ道理もまた、クレイにはない。
更に言うならアノイ本人が直々にクレイに会いに来たということは、この話は他の誰にも漏らすことは決して許されないものなのだろう。
貯まり続けていた休暇でもここで表向きには取るか、と。
そんなことをクレイは半ば呆然としたまま、何一つこの事象に対する理解などできないまま、考えた。




