P2-22 賽子の落ちた先
空を仰げば、抜けるような目の覚めるような蒼が――
「よ、ジュペス。身体の調子は?」
「リョウさん」
軽い挨拶とともにここ数日で既に口慣れた言葉をかければ、見返してくる青の目がどこか楽しげに笑った。
彼の片腕を落とすという、大規模かつ非常識な施術から今日で、五日が過ぎた。
何もかも不安だらけの施術だったが、多くの協力もあり、結果的にジュペスは一命を取り留めることに成功していた。あの場に立ち会ってくれた誰もが、椋の指示に従い、それぞれの為すべきことを己のでき得る限りの力で行ってくれたおかげだった。
魔術という反則のおかげもあり、切断術実行後のジュペスの回復は目覚しいものがある。
自身の力だけで、上半身を起こすこともできるようになったジュペスが笑って、言った。
「無理に動かそうとすると、さすがに身体のあちこちが軋みますが。本当にもう、不具合と言えばそれくらいのものです」
「そっか」
純粋に本当に嬉しそうなジュペスの表情に、椋もつられてまた笑ってしまう。
ジュペスの言葉に頷けば、ちらりと自身の空白へ、かつて右腕が存在していた場所へと視線を落とした彼が頷いた。もはや仕方のない、どうしようもないことと、割り切ったさっぱりした表情だった。
彼の瞳を覗き込んでも、もう以前のような、雨空の直前めいたものを感じることはない。
現在の彼に宿るのは力強い、若々しい生命と意思の光だった。青空色をしたその目は、純粋にまっすぐできれいだとそう思う。男相手にきれいという形容はどうかとも思うのだが、何度見てもそう思ってしまうのだから正直、ほかに仕方がない。
この世界の規範に沿えば、もはや手の施しようがなくなっていた病状を前にその光は一度、消えかけた。
失われかけた色彩を、無理やり奥底から引きずり出したのはそして、椋だった。
引きずり出した責任のために、彼の知らぬところでそして、ここ数日の椋はあちこちをかけずり回っているのだった。
「それに関してはホント、ピアさんとリベルトさんのおかげだな」
しかしそんな自分の苦労は、少なくとも今はまだ彼に聞かせるような類のものではない。今現在の面倒については早々に思考を止め、椋より少し後ろに控える二人へと彼は声をかけた。
唐突に自分の方へと向いた言葉に、驚いたように少女、ピアがぴくりと身体を震わせた。ぱちぱちと瞬きをした後、彼女は首を振る。
「いえ、そんな…でも、わたしも少しでもお役に立てているなら、とても嬉しいです。毎日、めきめき回復されていくジュペスさんを見ていると、わたしまで元気になれそう」
「俺だってそうです。すごく嬉しいですよ。まさか、あれの後の治療を、基本的に全部俺たちがやることになるなんて正直、まったくもって想像してませんでしたし」
ピアの言葉にリベルトも続いてくる。ある意味ジュペスに負けず劣らず心底から嬉しそうな二人の様子は非常に微笑ましく、椋もまた笑ってしまった。
やっぱり一人じゃないってものすごいな、と。
やや今更なことを思いつつ、二人へと彼は口を開いた。
「前にも言ったように、ジュペスが治らなかったのは、怪我が原因で死んでしまった腕の部分に病気のもとが巣食っていたこと、さらに死んでしまった組織そのものが身体に悪影響を及ぼす物質を排出しつづけていたことが原因でしたから」
だから大本を取り払ってしまえば、そのあとに必要とされるのはふつうの、けがや病気の治療と同じなのだ。
そもそも椋の持つ魔具は、効果というその一点だけで見るとあくまでも「それなり」のものでしかない。ヘイいわく魔具が小さいこともあって、ある程度以上の力を持った術者、それこそリベルトやピアのような、本職の祈道士の施術にはどうしても効能の面では劣るのだ。
だからこそ腕を落とした後、切断面の処理以外は、すべてジュペスの治療は祈道士であるふたりに任せた。
まずは全身に蔓延していた「毒物」、細菌や壊死細胞からの流出物、過剰量の炎症性物質の一切を解毒の術式より除去。続いて免疫能の強化と、施術によって失われた血液の補充、代謝の活性化。
本当に、びっくりするしかないくらいに二人はよくやってくれた。それこそプライドの高い人間であれば、まず烈火のごとく怒り狂うであろう椋の「治療案」にすべて、二人はまず理由を聞いてきた。
その質問すべてに、椋は自分のできる限りの誠意と知識で応じた。分かりづらいだろう部分は、何度も説明した。その甲斐もあって理解のうえで、分かりましたとふたりはいつも、最後には笑顔で椋に頷いてくれたのだった。
術式を三分割するという部分でまず二人ともが引っ掛かっていたのだが、イメージはこんなんで、そういう仕組みがある理由はこうで、と一応きちんとした説明をしたら何かを掴んでくれたらしい。
彼の腕を落とした後はずっと、椋にとっては二人の凄さに感動する毎日だった。
「しかしその……いや、もう色々と事実として目にした以上リョウさんの言葉を疑うつもりはないんですが」
「ん?」
しみじみその柔軟性に感謝していると、不意にリベルトが口を開いた。何を言おうとしているのかが分からず、彼へと椋は軽く首をかしげる。
別に大したことじゃないんですけどね、笑って彼は椋へと続けてきた。
「仲間内でこの話をしたとしても、まず誰も信じてくれないだろうな、と思って」
「あー、そう、みたいですね。そもそも彼、ジュペスのようなひどい状態になること自体、かなりまれなケースらしいですから」
理由としていくつか思い当たるものはあるが、それが果たして「正解」であるのかどうかは椋には判断のしようがない。
神霊術によって免疫機能をはじめ全身各種の機能を上昇させられるうえ、何故かはまだ理由が良く分からないがそもそも、文化の進み具合にしては随分と町が清潔に空気も清浄に保たれているのがこの世界だ。貧民街、スラムというものもやはり存在するらしいのだが、しかしそんな場所であっても、滅多に感染症により大規模な死者が出たりということはないらしい。
それも一言で片づけるなら、やはり何かの魔術なのだろう。
まあなにはともあれ清潔で衛生的な環境であるのはいいことなので、そのうち暇になったら理由と原理なんかを調べてみたいなあとぼんやり思っていたりする椋である。どうにも暇になれる気がしないのが残念なところだ。
のんびり思考していると、今度はジュペスが不意に口を開いた。
「リョウさん」
「はいはい?」
勝手な思考はしていたが、決して目前に注意を払わなくなったというわけではない。
呼ばれる名前に応じれば、本当に見違えるほど顔色が良くなり、削げていた頬もだいぶ少年らしい丸みを取り戻してきた顔がそこにはある。かつての椋の現実においては、決してありえるはずもない光景は多少、ずるいとも思った。
なんで俺、医者じゃないんだろうなあと。
そしてふとした瞬間に、今更とは思いつつもひとり椋は考えたり、する。――彼の内心はいざ知らずジュペスは続けてきた。
「僕はいつから、動けるようになりますか」
「ん? あー、そうだね。じゃあとりあえず今日も傷、見せてもらっていいか?」
「はい」
これまた、ここ最近のルーチンとなりつつあるやりとりだ。するりと取り去る包帯は昨日と変わらず綺麗なまま、包帯とガーゼを取り去って現れる切断面には、既に術を施した当初のような、血管が透けて見えるような、どこか頼りない組織の薄さは全く見当たらない。
この部分の順調さも確実に、ピアとリベルトのおかげなのだろうと思いつつ椋は笑った。
「うん、傷口も凄く綺麗だな。それにジュペスの顔色見るに、もう感染もかなり収まってきてるみたいだし。自分で動かしても大丈夫だと思うなら、俺かピアさんかリベルトさんか、誰かしら何かあっても対応できる人がいるなら、いいんじゃないかと思うよ」
「本当、ですか?」
「そりゃ、最初から一人で無茶やりますってんなら止めるけど。さすがに初っ端からそんな飛ばし方はしないだろ? てか、するなよ?」
「……はい」
驚いたような顔をするジュペスに少しだけおどけて返せば、くすりとまた笑って彼は椋へと返してきた。
しかし笑ってくれなかった人もいた。ピアとリベルトだ。
「え、……ちょ、ちょっと待って下さい、リョウさんっ」
「リョウさま、ジュペスさんはまだ、あの施術から五日しか経っておりません。さすがにそれは」
すぐには納得しかねる、と。声を上げる二人の言葉は尤もだと椋は思った。
なにしろピアの言う通り、ジュペスは大手術を終えた直後なのだ。当然のことながら術後の経過は、細心の注意を払って見守らねばならない。
そもそも椋の元いた世界でも、早期離床の重要性が声高に主張されるようになってきたのは本当につい最近のことだ。
さて何からどうやって説明しようかと、少しだけ椋は考え込んだ。
「リョウさま、」
「ん。えーと、風邪引いた後とかって、妙に身体が動かしづらかったり、別に何でもないはずのことに変に疲れたりするでしょう?」
「え、あ。はい。……で、でもジュペスとそれとは流石に別でしょう? 状態が違いすぎる」
「確かにジュペスのほうが重症度ははるかに上ですけど、起こってること自体はあんまり変わらなくないですか? さっきジュペス本人も言ってたけど、身体を動かそうとすると変に軋む、動かしづらい、って」
長期臥床は、あらゆる全身機能の低下を招く。
早期に離床し極力早期にリハビリを開始することで、有意に患者の活動性、個人としての身体能力は改善できる。
ただでさえ弱っている患者に鞭打つようではあるが、このまま安静を保っても、おそらくジュペスの騎士団への復帰が遅れてしまうだけだ。そもそもこの世界には、あちらにはなかった、誰にであろうと確実に反則レベルな効果をもたらせるもの、魔術がある。全身状態の改善は、非常に迅速かつ着実だ。
むむむ、と、二人がひたいに皺を寄せて考え込む。
面白そうにその光景に笑ったのは、討論の中心であるジュペスだった。
「僕がそう、したいんです。協力してはいただけませんか」
「ジュペスさん…」
「今の俺たちに、その言い方はずるいだろ、ジュペスっ」
へにょりと、困ったようにピアが眉を下げた。がりがりと、乱暴にリベルトは頭をかいた。
一方の椋はもう笑うしかなかった。確かにこの一連の流れはなかなかにずるい。ただでさえ切断術一連のことがあるだけに余計に非常にずるい。
もしかするとジュペスって、それなりに相当策士なのかも、などと思いつつ。
なぜか助けを求めるようにこちらを見てくる二人分の視線に、椋は肩をすくめた。
「これもまた、やってみて俺が間違ってたら好きなだけピアさんたちが俺を責めて、ってことじゃ、だめですかね」
「またあなたはそんなことを、」
「いや、だってなにしろ一刻も早く復帰しなきゃ、ですし。ジュペスは」
「はい」
リベルトに向けた言葉に、ジュペスからの肯定の応えが返ってきた。ジュペスの声と表情には、確かな力強さと強固な意志がある。
その顔を見て、椋は俄かに確信した。絶対にジュペスはもし、椋がこの場で彼へ駄目だと言ったとしても、人目を盗んで勝手にリハビリを開始していた。それも下手すれば病み上がりの身体が悲鳴を上げるような、相当にきついやつを。
やれやれ、と少し呆れも含んだ目線をジュペスへ流せば平然とした笑顔が返ってきた。元気になってくれるのは大いに結構だが、どうも若干悪ノリの気配があるような気がする。
「……あの、すみませんリョウさん。もうひとつ質問いいですか」
「ん?」
再度リベルトが声をあげる。さて、今度は何だろうかと椋はわずかに首をかしげた。
なぜか彼は妙に躊躇うような間を一瞬置いた後、再度口を開いた。
「復帰? ……転属ではなく、復帰、なんですか?」
「はい」
リベルトの言葉をすぐさま肯定。ジュペスがこれから目指すまず第一の目標は、第八騎士団に騎士見習いとしてもう一度復帰することだ。
第二第三の目標は、まだまだ遠いので今はあまり考えないことにしている。何事につけても千里の道も一歩から、だ。正直気が遠くなりそうだが仕方がない。そうしようと決めたのは、他の誰でもない椋自身だ。
しかし椋の肯定は、またしても二人にとっては予想外だったらしい。
きょとんと大きく目を見開き、ピアが戸惑いがちに口を開いてきた。
「え、…でも、リョウさま、それは」
「俺はできると思ってます。ていうか、できるほうに命を賭けて、ジュペスにはあの施術に同意してもらったんですよ」
100%の確約はできない可能性に、文字通り命を賭けさせた。
椋の知る限りの過去、偉人の例を見ても、腕や足を失っても一流の戦人として一生を終えた人間は決して皆無ではない。
身体の一部を失わせること、或いは己の意思で失うことが罪とされるこの世界ではきっと、椋にとっての「現実」以上にさらに、ジュペスのこれから向かうべき道は荊だろう。それが分かっている、いや、少なくとも欠片は理解しなければならないと思っているからこそ、現在の椋はあちこちを一人、かけずり回っている。
どうして椋一人なのかと言えば、少なくとも今は、ジュペスの容体を少しでも良くすることだけに二人には集中してほしかったからだ。
そんなのは要らぬ気遣いだと、何となく後々で怒られる気しかしないが、まぁ、それはそれ、これはこれ。
「そうですね。……その点に関しても僕は、僕を治してくださったのがあなたで本当によかったと思っています」
くすりとジュペスが楽しげに笑った。この少年に対しても、もっとこれから詳しく話をしなければならないのだなあとふと、思う。
あっさりと、明らかに異常な言葉を肯定したジュペスに、唖然とリベルトは目と口を開いた。
「復帰? ……ジュペスを、騎士として復帰させる?」
「聞いたことが、ありません。そんなすごいこと、」
リベルトにしてもピアにしても、そして反応はほとんど同じだった。少し違うところはと言えば、ピアはジュペスではなく椋を見つめ、しかもその目がどこか、驚愕と同時に、尊敬めいたきらきらした輝きに満ちていることだろうか。
妙にくすぐったいような収まりの悪いような気分になりつつ、彼女の視線に椋は肩をすくめた。
「だって誰も、できないことを証明なんてしてないでしょう?」
「というより、考えすらしませんよ普通、そんなことは」
「それなら君が、不可能でないことを歴史に証明する一人目になればいい。可能性は道を広げる、君の道はまだ、決して閉ざされてなんていない――でしたか」
「あ、改めて言われると相当恥ずかしい言葉並べてたな俺…」
くすくすとやはり笑いながら、ジュペスが口にした過去の言葉に思わず椋は顔を覆った。そんな言葉を彼へと告げたことそれ自体は後悔していないが、しかし改めて他人の口から聞かされると、なんというか、非常にいたたまれない。どうしようもない。
ジュペスが楽しそうなのが、また余計に椋のいたたまれなさを煽る。というか確実に半分くらいはわざとだろう。本当になんというか、穴があったら一時的にでいいのでとりあえず入りたい気分になる椋だった。
あーうー意味のない声で唸っていると、不意にガタン! と何か妙に大きな音がした。
「リョウさん!」
「へいっ!?」
そしてその音とほぼ同時に、強い語気で名前を呼ばれた。色々な意味で力が抜けていた椋の身体は、思わずびくりとその場で大きく跳ねた。
顔を覆っていた手も半ば反射的に外し、呼ばれた声の方向を見る。
そこにはいつの間にか、唖然とした表情をピアのそれと同じく、尊敬のそれへと完全に置き換えたリベルトがいた。訳が分からない椋に、彼は続ける。心底嬉しそうな目で。
「リョウ兄って呼ばせてもらって、いいですか!」
「はっ?」
「俺のことは、どうかリベルトって呼び捨てて下さい。それに、ジュペスにしてるように、俺にももっと、くだけた話し方してくれませんか!」
「え?」
「まあ、リベルトばかりずるいわ。リョウさま、わたしのこともどうぞ、ピアと呼び捨てて下さい。わたしももっと、リョウさまから色々なお話が聞きたいんです」
「……はい?」
俄かには情報処理が追いつかず、まじまじと目前の二人の表情を椋は見比べた。
しかし二人の顔に浮かんでいるのは、やはりきらきらした期待と尊敬、そして椋の返答を待つ純粋かつ断ることの非常に困難な感情だけだ。
「……一応聞いておきますが、本気で言ってる、んですよね?」
「勿論。冗談でこんなこと言いませんよ」
「いや、でも俺いっつもこんなんですよ? またいつ、宗教とか倫理とか、どう否定しだすか分かんないような奴ですし」
「ええ。分かったうえで無論、申し上げております」
一応自己否定の言葉を並べてみる椋にも、二人が向ける視線はまったくもって変化しない。
本当に嬉々として椋を「兄」と呼び始めそうなリベルトも、にっこりとこちらも楽しげに笑い、実はとんでもない言葉を口にしたピアも。
やはりクレイの係累だからだろうか。別に今更構った事ではない、むしろ構わない方が椋としては確実に楽でもあるのだが、…とりあえずまったく、普通じゃない。
「……ははっ」
少しの沈黙の後、最終的に椋の口をついて出たのは笑い声だった。
徐々に奥底からわき上がる、笑いの衝動が抑え切れない。だってこの二人、祈道士で、本来ならあかの他人の門外漢から、治療法云々を指図されるなんて以ての外な人種であるはずだというのに。
そうだというのに一体、目の前のこの状況はなんだ。
むしろ彼女らの方が確実に、祈道士としては特殊であろうことは分かっている、分かっていても。
「リョウさま?」
「えと、あの、」
「分かったよ」
それでも嬉しいと思うのは、きっと仕方のないことだ。
抑え切れない衝動のまま、喉奥で小さく笑い続けながら椋は目の前の二人へと肯定を返した。途端にぱっとさらに明るくなった二人の表情がさらにおかしくて、また笑ってしまう。
この二人のことは近いうち、ヨルドとアルセラにも話せるなら話したいと思った。
治癒術師が徐々に追い込まれる、そんな生きづらい狭い治癒しか存在を許されなくなっていっている世の中であっても。
それでも探してみれば確かに、受容と発展のめばえは、あるのだ――。




