P2-21 無明の内に糸手繰り
――手術が成功した。
そんな手紙がカリアの手元に送られてきたのは、今日の朝方のことだった。
やや角ばった特徴的な文体で、全体で見れば決して長くはない文章は綴られていた。
患者の容体も落ち着いていて、この分なら一週間もしないうちに誰の介助も必要なくなるかもしれない、と。文字の羅列を眺めているだけで彼の嬉しそうな顔が浮かんでくるような内容が、そこには記されていた。
自分の部屋の、引き出しの奥深くにしまってカギをかけたそれの中身を改めて、カリアは思い返す。
どうしてそんな嬉しい知らせに、ただ良かった、さすがリョウねと一緒に喜んで、称賛の言葉を送るだけではいられないのだろう。朝方とは一転して胡散臭く七面倒な、曖昧すぎる中間報告密書を眺めながらカリアは、深々とため息をついた。
そして果たしてそんな彼女の、一体何が面白かったのか。
現在カリアの目の前で堂々とだらしなく寛いだ格好でソファに身を沈めるこの国の王、アノイはくつりとひとつ楽しげに笑った。
「困ったな」
そして笑ったかと思えば、彼の口は本当にそう思っているのかなどまったく分からない、ひどく感情のありかの曖昧な言葉を紡ぐ。
今日も相変わらずの君主の様子に、またひとつカリアはため息をついた。今度はそんな彼女の反応は予想外だったらしく、ひょいと軽く彼は、どこかひょうきんにこちらに向かって眉を軽く上げて見せる。
カリアとこの今上陛下との付き合いは、諸々の理由もあり決して短いものではない。
国の最高権力者とその臣下という、大前提の上でさらに互いの関係性を敢えて形容するのならば、……そう。
「すべて、予想されていたのではないのですか? 陛下は」
――同志。
それぞれの存在を排除せんと動く、それぞれの敵を相手取るために手を組む、ふたりは同志であった。
無論それは、普通の国王と臣下の関係では決してない。
しかし現在彼女の前で、優雅にティーカップを傾けるアノイはこの国の王様になる前からカリアの「同志」だったのだ。その言葉と意味とを彼女へ教えたのはアノイであり、そうであるよう、半ば強制的にカリアに「誓い」を結ばせたのもまた、彼なのであった。
いちばん、上に行くために。いちばん上で、あり続けるために。
彼女らには強大な、普通なら到底抱えきれないであろう堅固な障害があった。
それらはひどく巧妙な手を幾つも複数に複雑に絡めて使用し、少しでも彼女らが失態を犯せば、その傷を容赦なく抉り誰の目にも明らかなものとしてしまう。「彼ら」が貶めようとするのは常に、カリアと目の前の青年が現在は手にする地位であり、権力。水面下に貪欲にどこまでもそれらを追う「彼ら」の魔の手は、昔も今も決して変わらず、留まる様子は見せていない。
先だってのあの奇病すら、結局はそんな「彼ら」の、また新たな一手であった。確たる証拠は未だに掴めてはいないが、既にカリアとアノイの間ではほぼ確定した結論にも近い事実である。
しかし確かに基本的には二人の水面下であるはずの、そんな結論は、……なぜか。
「感づいてるか、それとも事実の万一の漏洩を未然に防ぐ策としての口封じか――まあどちらにしても、俺たちにとってまったく良い状況じゃないのは変わらんな」
だから言ったろ、困ったなって。
やはり先ほどと同じような、どうしても感情の分からない表情で彼はふと笑顔を浮かべてすら見せる。緊張感のない主にまたひとつカリアがため息をついてみせれば、またも楽しげにアノイは喉奥でこちらを笑う。
昨日、一人の女が自殺をした。
現場の状態や遺書があったことから、調査にあたった第六騎士団の騎士たちは、早々に自殺と断定した。
実際に彼女には、以前より決して少なくない額の借金があった、という。少し前まではある娼館の高級娼婦であった彼女は、病を得たことで客を取れなくなり、娼館を追われた。また傷病快癒をエサに性質の悪い治癒術師や薬師などに次々引っかかってしまい、多額の治療費を請求されてもいたのだという。
だが。
「また、あの一連の事件に関連していた可能性の高い人間の自殺のような死体、なんて」
「そうだな」
一体何の冗談だと、考えずにはいられない。思わず額に手を当てるカリアに、淡々と言葉を肯定するアノイの声がかかった。
そう、「また」、自殺のような死体。今月に入って、三度目だ。
いや、正確に言うなら「自殺」はまだ二度目だった。もうひとりは以前からの持病の、突然の発作による死。確かそんな診断が、最終的に下されていた覚えがある。
おそらくカリアとアノイのほかには、その三人の死を結びつけて考えようとする人間などまず、いないだろう。
なぜならカリアたちの追おうとしている三人は、身分も違えば職業も全く違う、年齢も性別も、在住もまったくバラバラの人間なのだ。
人というものは元々、生まれ、そしていずれは死ぬものである。ここ王都でも、人の死なない日はない。そして同時に人の、生まれぬ日もまたない。
そんな多くの死の中に、彼、或いは彼女が含まれていたとしても普通は何も、おかしいとは思わない。ただ己の意思より命を絶った/その日までが天より授けられた寿命であった。決して、少ない話ではないのだから。
しかし敢えてカリアたちは、表向きのつながりなど何も持たぬはずのその三人を考える。
なぜならその三人というのはいずれも、せめてあともう二歩三歩、踏み込むことができればあの事件への関連の証拠がつかめるような位置に存在していた人物だったからだ。
「末端を切り捨てようとして、うまく本体をちらっとでも見せてくれればいいんだが。……まぁ、そううまくもいかんだろうな」
口では不可能と言いながら、アノイの表情は非常に楽しげだった。
山は高ければ高いほど登りたいもんだろ。どんな無理難題であろうと、自身の力で周囲を含め動かし果たす、そのためには方法などまず問わない、何とも彼らしい反応だとカリアは思った。
未だ十五で当主の座を得てからそう長い月日が経っているわけではないカリアと違い、まがりなりにもあの動乱から七年、その頭に戴く王冠を誰にも譲らぬ彼である。本当なら彼一人の力でも解決してしまえるのだろう事件にわざわざカリアを引き込むのは、それなりの温情を彼女に対して国王陛下がかけてくださっているということ、なのだと思う。…たぶん半分くらいは。
何しろ彼の内心など、カリアごときが詳らかにできたためしがないのだ。
彼の唯一の弱点は、誰であろうとある意味では弱点、なのだし。
「何か、掴まれたのですね? 陛下」
よってカリアが口にできるのは、もう少しの情報公開を求める言葉だけだ。
分からないものは分からない。開き直ってしまうのはよくないが、しかし自分が分からないことを、認めないことには始まらない。そんな物事というのも、世の中には決して少なくない数存在するのだった。
カリアの言葉に、返ってきたのはどこか不敵なアノイの笑みだった。
「確証のある情報じゃないけどな。まあ、俺の影は今日も優秀だってことだな」
楽しげに嘯く彼の顔は、本当に昔も今も全く変わってはいない。
何がそんなに楽しいのだろうと、時折こちらが思ってしまうほど。この王様はいつも力に満ち溢れ、生き生きと精力的に日々を過ごしている。ちなみに齢二十五にして未だに側室どころか妃の一人もないのは、ある一人を正妃として迎えないことには何も始まらないから、という、結局のところは究極の彼のわがままだ。
さすがに期限付きではあるが、そんな無茶苦茶すら許されてしまう自分たちの王を改めてカリアは見やった。
決して楽しいことばかりなどではないと、むしろ常人には及びもつかないような苦悩も数多く、彼が抱え込んでいることを知っている。しかし一体どうして、常にこの国王陛下は非常に、カリアにとっては不思議な存在なのだった。
不思議と言えばもう一人ひどく珍妙な存在をカリアは知っているが、彼の奇妙さともまたこの君主のそれは、異なる。
褒めたたえるならきっとそれこそ、彼が王者の資格を持ちそれを使いこなしているということ、なのだろうか。正直あっている自信はまるでない。そもそも別にあっていてもいなくても、彼を頂点に据えたこの国でカリアがこれからも、カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシアとして生きていくという事実に何も変わりはない。
ふっと、カリアは小さく息をついた。
「またそのような危険なことを」
「俺はそう簡単には死なないさ。せっかく冠もそれなりに板についてきたんだしな、まだまだこれからって段階でこの命、くれてやる訳にはいかんさ」
「……陛下」
「なんだ、本当のことだぞ? それになぁ、おまえだってそうだろ? カリア」
にこりと。彼の眩さには慣れているはずのカリアですら、一瞬目がくらむほどの鮮やかな笑みを向けられる。
アノイの言う「影」とは即ち、彼自身の魔力によって形づくられた彼の分身とも言えるものを指す言葉だ。作成に消費する魔力がそもそも莫大な上、それを自在に動かすにはかなりの訓練および魔力が「作成とはまた別途で」必要になるため、魔術書に載ってはいるが、実際に使用する人間はほぼ皆無な高位魔術の一つである。
しかしこの王はそんな影を、一つのみならず二つ三つと同時に並行して操るのだ。
一つを動かすにも非常に神経をすり減らすことを知っているカリアにしてみれば、もはやその部分に関して言うなら、絶対にアノイは人間ではない。
「……」
しかし今彼が笑顔でカリアへと問うたのは、そんな世迷言めいた下らぬ話に関することではない。
カリアと自分は同じだと、笑顔で国王は断言する。決して他者へと譲ってやらない、やれない位を持つ、他者の仕掛ける毒牙にかかり、蹴落とされるわけにはいかぬ者であると。
そして君主のその問いに、カリアが返す答えなど。
本来尋ねられるまでもなく、ひとつしか存在しようはずもないのだ。
「ええ。……勿論です、陛下」
今更捨てたいなどとは思わない。衝動的にそんな感覚を抱くことはあっても、重責を願いとして受け止めることを決めたのはカリア自身なのだ。
だからこそ彼女は、既に一般の認識では終わりを迎えてしまった事件のすべてを明らかにすることを願う。己が敵とせねばならない、存在の鼻を明かしこちらからの攻勢を一挙に仕掛けるためにも、…少し前に「彼」に言った、己の言葉にカリア自身が恥じぬためにも。
しかし君主に見えるものが、今のカリアにはまだ見えない。そもそもこの件に関して頻繁に彼がカリアを呼びつけるのは、今改めて確認された事項の上に、カリアが繋がりを持つ「彼」の存在が決して小さくない割合で関わっているからだ。
また、私は彼を利用することになるのだろうか。ふと考える。考えるたびに思考が暗くなる。
口先では彼の傍らにありたいと綺麗事を言い願いながら、その実やはり、どうしようもなくなれば彼を利用せずにはいられないのだろう自分をカリアは知っていた。感情と「私情」は別などと、割り切って考えることのできない自身の不器用さは、決して今に始まった話ではない。
分かっている。どこかで諦めてもいる。それでも彼の異端は見ていたいと願っている。彼が何をするのか、どこに行こうとするのか自分の目で見たいと。
しかし彼は、どうなのだろう?
今更ながらそんな女に、付きまとわれて、鬱陶しいとは思わないのだろうか――?
「そういえば」
「は、はいっ?」
唐突に目の前の君主が口を開いたのは、いつもどこか緊張感のない「彼」の顔をぼんやりと思い浮かべたときだった。
思わずびくりと震えた肩に、ニヤリと楽しげな笑みを彼は浮かべた。その目は明らかに絶好の獲物を見つけたもののそれだった。
「な、んでしょうか、陛下」
どうにも良くない予感を抱きつつ、若干ひきつった声でカリアは応じる。
そんな態度は彼にとっては、絶対にさらなる餌にしかならない。分かっているのに勝手にひきつりつっかえてしまう言葉に、さらににやりと、本当に楽しげに彼は口の端をつり上げた。
「相変わらず、リョウとは仲良くやってるらしいな。聞いた話じゃ、随分色々と微笑ましいらしいじゃないか?」
「……陛下、」
「何だ? いざということになれば、応援してやろうと言うのに」
「結構です。ねじれた他意しか感じられませんので」
内心ひどくげんなりしつつ、やはり非常に楽しそうな目前の君主へと言葉を返す。
彼や、事情を知る屋敷の一部の使用人たちが面白がるのも決して分からないわけではない。なにしろこの十七年というもの、それなりの対外的、および個人的な理由もあり、カリアの周囲には男の影がほぼ一切なかったからだ。
そんな彼女の目の前に、唐突に降って湧いたのがあの黒の青年。リョウだった。
最初に触れてきたのは、あちら。今でもあの日のことは覚えている、屋敷に帰る気にならず知っている誰とも顔を合わせたくなく、合わせた瞬間ひどい暴言を吐いてしまいそうだった最低なあの日のことは。
何もできなかった。むしろ事態をひどくする方向にだけ動いた。
自身に対する嫌悪感で一杯になっていたカリアに、やさしく笑って飲み物を差し出してくれたのがそして、リョウだった。
「彼は、私にとって大切な友人です。ただ、それだけです」
「ほう?」
「……何ですか、陛下」
予想外という文字をそのまま貼り付けたような目線を向けてくる相手に、思わずカリアは眉を寄せた。
リョウの傍にいるときカリアが感じるのは、時間のゆるく、やわらかな流れであり気取らない、飾らない、気の置けない空気だった。堅苦しさはなく、何に対して気を張る必要も特にはなく。そしてカリアと同じようで、まったく違う場所にいる貴族のお嬢さま方が黄色い声をあげて騒ぐような、熱を上げる感覚もまた、そこには一切存在してはいない。
過剰な熱も冷たさも、リョウはカリアに、与えない。
こちらが驚くしかないほどの刃を、その内側にいくつも、おそらくカリアの想像を絶するような本数を所持しているであろうことは知っている。分かっている。彼はおかしい。普通ではない。あんな庶民が一体どこで、何をどうすれば創りだせるというのか――いや、彼はそもそもカリアたちの知る、この世界の括りで捉えようとすれば確実に失敗するようなひと、だったか。
しかしそんな異端以上に、リョウという人間は当然のように誰に対しても優しすぎる。あちこちで何かしらにぶつかって色々なことに頭を悩ませつつ、それでも最後には何とか前へ進もうと足掻く、そんな人だとカリアは知っている。
外の人間だから、何も知らないから、分かっていないから、だから。
どんな理由を並べてみても、それでも結局、彼は、やさしい。
「まあ、そうだな。信じてないな。…ああ、ついでに他意もあるぞ。当然のことだが」
「……陛下」
さらりとひどい否定と肯定を返してくる国王に、カリアはため息を吐くしかない。臣下の言葉くらい信じて下さい、そんな言葉が思わず口をついた。
どうして昔からこの陛下は、やたらとカリアをおもちゃにして楽しむ傾向があるのだろうか。もっと面白い反応を返せる人間など、それこそ彼の周囲には探さずとも星の数ほど集っているだろうに。
目の前にする国の最高権力者が、決して自分を嫌っていないことはカリアも知っている。
どちらかと言えば好意に近い感情を持って、自分に接してくれる機会が多いことも分かっている。
勿論、それだけではないが。個人および公的な利益、それらを得られることを確信しているからこそ目前の彼は、動くのだ。
「で? あいつは元気にしてるのか」
そうして問われるひとつのことを、少しカリアは考える。
ぱっと見には市井に溶け込んでいるかのように見せながら、その実少し暴いてみれば、奇妙奇抜の塊である黒の青年を随分とアノイはお気に召していた。それは彼の近臣が目にすれば卒倒しかねないようなぞんざいな口調や愛称の呼び捨てを、あっさりリョウへと彼が許してしまったことからも推して知れる。
数日前に言葉を交わした、少し疲れたような彼の顔を思い返す。
彼の言葉を発端にして、起こったとある騒動については当然か、既にアノイも知っている。その結果として彼が負うことになった一つの命の責任についても、顛末すべてが展開されることになる場所についても、すべてだ。
表情の疲弊を指摘すれば、驚いたような顔をした彼。どうしようもない、やるしかない。
ふっと、ひとつカリアは息をついた。
「元気、なのかは分かりませんが」
「ほう?」
そして紡ぎ出す言葉に、ひょいと王様は片眉をあげる。彼へと向けるために選んだその言葉がどのような意味で使われているのか、彼女の表情から推測しようとでもしているような様子だ。
しかし実際のカリアはと言えば、ただほんとうに分からない。手紙はもらった。きっと彼は精神的には元気なのだと思う。
けれどカリアはもう、以前のようにそう頻繁にはあの店へは行けない。くるくる変わる表情を、いちいち返してくれる反応を、のんびりと楽しむことができる時間は随分減ってしまった。
分からない中で、ひとつだけ確実に言えること、と言えば。
「患者のために、動いてます。誰より必死に、誰より一生懸命で、誰にも予想なんてつかない方法を使って」
静かな場から動き出すのも、知識という力を、そして魔具という実際の、新たな異端のかけらを使用するのも。
すべての起因は彼ではなく、彼が関わる、何かの患者だ。リョウは自分のことに無頓着だと指摘したとき彼は何とも微妙な表情をしていたが、確実にあれはただの事実だとカリアは思っている。
変な人だと、改めて思う。
彼がめちゃくちゃに変だからこそ、きっとカリアのような人間とも、友人として彼は付き合ってくれているのだろうけれど。
「また、自分の患者を一生懸命、治そうとしてるんです。絶対に」
俺は異者になりたいんだよ、と。
動き出した理由を問われた彼が答えた言葉が、ふとまたカリアの脳裏に過った。
信じてるから頑張ってと、告げたときの困ったような笑顔が。
つい先日のことのはずなのに、随分遠い景色のようにふわりと意識に、浮かんだ。




