P2-20 そして賽は投げられた
その日はひどく月が綺麗で、ほとんど風のない夜だった。
月に星が消された空を、いつものクラリオンではなくルルド邸の中庭から椋は眺めていた。その左腕にはつい先ほど完成したばかりだという、ヘイの新作魔具が鈍く光っていた。
金属製の腕輪の上にミサンガのような紐が巻かれた形状のそれは、何もしなければやはりただのアクセサリーにしか見えない。妙にデザイン性にも優れているような気がするのは、言ってしまえばヘイの趣味らしい。
クラリオンには昨日の時点で既に、休む許可をもらっていた。
どうしても外せない、行かなきゃならない用事がある。かけた迷惑分は給料から差っ引いてくれと頭を下げた椋に、
降ってきたのは頑張って来いよ、という、同僚たちやおやっさん、おかみさんの激励の言葉だった。
「……そろそろか」
ポケットに入れていた時計を取り出して時間を確かめ、ふっとひとつ椋は息をついた。
それとほぼ同時に、中庭に入ってきたルルド家の使用人たちのほうへと彼は足を向ける。めいめいが手にしている施術の道具を改めて確認し、手順や予め行っておくべき処置についても最終的な確認を行っていく。
その中で何となく背中に視線を感じて振り向けば、そこにはこの家の主、ルルド夫妻の姿があった。
「こんな夜分に騒がしく、使用人の皆さんにもご迷惑をかけてしまい、すみませんケルグレイスさん、アピスさん」
「今更そのような些事など、気にせずとも良いのですよ、リョウ。あなたが己の考え得るすべての可能性を考慮したうえでなお、それを実行に移すと言うのなら、私たちは決して、あなたたちを止めはしません」
「……はい」
静かに伝えられるアピスの言葉は、当然のように重い。目の前で穏やかに微笑むアピスの瞳にあるのはピアたちが現在椋に向けてくれているのと同種の信頼だけであり、それをひどく、ありがたくも恐れ多くも椋は思った。
首肯する以外の何も返せず、わずかに場に沈黙が落ちかける。
そんな中で不意にぽつりと、今度はケルグレイスが口を開いた。
「今更の雑念は、掃え。――己の行く先だけを見据えておけば、君は良いのだから」
思わず顔を上げ改めてケルグレイスの顔を見やれば、常に厳しい眼光を宿し、こちらを鋭く見据える瞳がそこにはあった。
揺らぎを完全に見透かされての彼の言葉に、思わず苦笑しそうになるのを椋はなんとか抑える。
ケルグレイスは決して口数は多くなく、寡黙と言ってもおかしくはないくらいの人だった。身長は椋より多少低いくらいだが、どっしりと落ち着いた立派な岩のような雰囲気と、いかにも厳格そうな顔立ちもあってか、非常に色々な意味で、実際よりかなり大きく見える。
一見ふんわりと柔らかそうなアピスとは随分対照的な夫婦だが、その実二人の内面は非常によく似ていた。今もそうだ。ふたりが椋に、これからとてつもないことを実行しようとしている椋たちを敢えて止めず、すべて見守り、見届けてくれようとする視線は本当に、強さと揺らがなさが特にそっくりだった。
起伏少なく向けられる声が、椋を、そして実行を選択したジュペスを、そんな椋たちに協力してくれようとするピアたちを信じてくれる視線が、態度が改めて心に沁みる気がする。
謝罪はいらない、無意味なことはするな。
前だけを見据え、自身のやるべきことから決して目をそらすな――改めて二人分の言葉を噛み締めつつ、深々と椋は二人へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、ケルグレイスさん、アピスさん」
さまざまな方向性を持った椋の言葉に、二人からの明確な応えはなかった。
しかし背中越しに感じる二人分の空気がわずかにやさしく緩んだような気がして、少し嬉しくなった。
「――リョウ」
また別の呼び声が聞こえたのは、二人の去っていく足音がちょうど場から消えたくらいの頃合だった。
決して気のせいではないだろう、いつもより少し硬く響くそれに振り向く。かっちりしたシャツにスラックス、腰には剣といういでたちのクレイがそこには立っていた。
クレイがここにいるということは、クレイとジュペスの二人の話し合いも終わったということなのだろう。
そして彼の腰に剣があるということは、どうやらクレイが本当に、ジュペスの腕を落とす役割を担うのだと決定した、らしかった。俺じゃなくてジュペスの許可を取ってくれ、ジュペスが良いって言うなら俺は反対はしない。頑として譲らないクレイに、根負けした椋が出した唯一の条件がそれだったのだった。
元々どちらかといえば硬派なイメージを抱かせるクレイの瞳が、いつもより一層硬い光を宿して椋を見据えてくる。
「話はついた。これから使用人たちが、ジュペスをここに連れて来る」
「分かった」
彼の言葉に短く首肯を返し、月の光と魔術の明かりが、中庭の中央に照らし出すものを改めて椋は見やった。
そこにあるのは、それこそ宗教画か何かで見たことのあるような巨大な十字架だった。人間ひとりを縛り付けられるように、あらかじめあちこちに縛帯が取り付けられているそれは、昨日と今日の二日がかりで、ルルド家に仕えている人たちが作り上げてくれたものである。
既にそれには熱湯消毒が施され、清潔なシーツが敷かれて、巨大な石造りの台座に載せられていた。
腕にした麻痺の魔具を、その模様をするりと一度、椋は人差指でなぞった。かたりと、今更のように指先が奇妙に震えるのが分かった。
背筋にまで波及するその震えを、無理やりに武者震いと思うことにする。何しろ絶対という言葉は、どこにも使えない不安定な施術なのだ。正しさの保証とて、結局どこにもないままの異常な手術なのだ。
もしかするとどこかで流れているのかもしれない流れ星は、強すぎる月光にかき消されて今は見えない。
そうとなれば願掛けは、結局は椋自身の、そしてジュペスの持つ可能性にするより他には、ないだろう。
「来たぞ」
告げるクレイの声とともに、この中庭へと続くドアが、開く。
担架のようなものを使って、大の大人六人がかりでジュペスがここへと運び込まれてくる。人間ひとりの重さは、まだ椋には計り知れない。
ちらりとこちらに視線をやってくる屋敷の使用人たちに、椋はひとつ頷いて見せた。早足でそちらに近づき、担架上のジュペスと改めて視線を合わせる。
既に彼の目にも、石の台座に置かれた巨大な十字架や多数の縛帯、そしてある意味ではこの場に相応しくない剣を腰に帯びたクレイの姿は確認できているはずだ。しかし月と明かりに照らされる彼の瞳は、ひたすら揺るがずにまっすぐだった。
何とかその目に、雨降り寸前の不安定さではなく夏空の晴れやかさを戻してやりたい、と思う。
見上げてくる彼に静かに、椋は端的な一言だけを向けた。
「始めるよ。もしどの段階ででも、手術はやっぱり嫌だと思ったらいつでも言ってくれていいから」
「はい。けれど、そのお気づかいは、無用です。――どうかよろしくお願いします、リョウさん」
怖くないわけがないだろうに、ふわりとジュペスは瞬間こちらに向かって微笑んでさえ見せた。
この場全員の視線が、自分たちに集中しているのが分かる。視界の端のほうでピアが、何かに祈るように両手を胸の前で組み合わせたのが見えた。そのすぐそばに立つリベルトの顔は、これ以上ないほど緊張しているように思えた。
いや、緊張しているというなら椋も含め、この場の誰にしても同じことだった。
何しろ今まで誰もやったことのない、多くのことを一気に、これから椋たちは行っていくことになるのだから。
「始めてください。お願いします」
改めて息をひとつ吸い、腹に力を入れて場の全員へと言葉を椋は紡いだ。
上半身の衣服を取り去った上で十字架にのせられたジュペスの全身が、椋たちの手により十字架へ拘束されていく。ジュペスは目を瞑っていた。クレイは非常に感情の読みづらい目をしていた。ピアとリベルトは、期待と不安がないまぜになった不安定な瞳をしていた。――椋自身の表情については、分からない。
左大腿の縛帯を巻き終えたくらいのところで、リベルトが声をかけてきた。
「リョウさん。最後の確認を」
「分かりました。では、全体でもう一度確認させてください。……手順はすべて、先ほどまでにお伝えした通りです。すべての縛帯を巻き終えたら、俺が今持っているこの縛帯をジュペスの右上腕に巻いて、さらに腕の感覚を一時的に遮断する魔術をかけます。それが終わったらリベルトさんに、切断目安の線の周囲に「闇祓い」を使ってもらい、術式紋の完全消失を目安に、クレイが腕の切断を実行します。このときはジュペスの体が動かないように、切断線付近は絶対に避けて、皆さんはジュペスの体を押さえて下さい」
緊張にひからびていく気がする口内を自覚しながら、しかし椋は決して言葉を止めない。引く理由がないからだ。
責任は負うと、決めた。勝手な干渉をすると決めた。
だからこれから行うべきは、その決定を彼の同意のもとで現実として確定するための、――救命だ。
「切断と同時に、俺が治癒魔術を使います。その後、俺が合図をしたら、まずはリベルトさん」
「俺がまず、解毒の術式を実行、術式紋の発現と同時にこの砂時計をひっくり返して、」
「砂時計の砂が全て落ちる三フィオ(三分)後に、わたしが神霊術を、基本術式をわたしのできる限りの最大の力で使用する、のですよね、リョウさま」
「ええ」
経験則的に魔の競合は、先の治癒魔術使用から約三フィオ(三分)を空ければほぼ、確実に起きない。
それは今日の夕刻、突如椋の目の前に舞い込んできたメモに殴り書きされていた内容だった。そこに書かれていたもうひとつ、王宮療養棟への治癒術師手配もすべて完了したという情報も合わせて、誰がこんなものを椋に送ってきたのかなどは推して知るべしである。
最悪、切断面の成形にしか治癒魔術は使えないかもしれないと思っていた椋には、かれらが齎してくれたその情報はまさに天の助けだった。
魔の競合が、何を原因として起こるのかはこれから調べていかねばならないところだろう。それに彼らの経験の「例外」が、起こる可能性も決して否定はできない。
しかし既に多くの症例を積み重ねている、椋のようなものの言うこともしっかり聴いてくれる二人の言葉だ。信じる、助かる。それが椋の決断であり、そんな椋の決断を受け容れ、お願いしますと笑って見せたジュペスの決定だった。
ぐるりと、改めて周囲の人々の顔を椋は見やる。
少しだけ視線を遠くずらせば、すべてをこの場で見守るルルド夫妻の姿があった。
「……それでは、」
ひとつ大きく、彼らは椋に向かって頷いてくれた。
目線を合わせる、それぞれの人たちと頷き合う。最後に椋によって磔にされたジュペスの顔を見る。
弱気を飲み込み、笑ってみせる。
誰も経験したことのない、異様な異例の手術が、始まる。
「これより、右上肢に対する切除術を開始します」
――ひとつの命の代価として、一本の腕が失われたその日。
誰もがあずかり知らぬところで、ひとつ、ごとりと、体が落ちる――。




