P2-18 弾く光の示す先
思わず本気か、冗談じゃないよなと聞き返した。彼個人だけのことを考えてみればその理由は分からないでもなかったが、だからといってはいそうですかと、そのまま鵜呑みにできるような簡単な申し出でもなかった。
しかし目前のクレイの瞳は、どこまでも冷静で、真剣だった。
彼もまたジュペスと同じように、何度椋が問い返したところでその意思を変えようとは、しなかった。
――俺に奴の、腕の介錯をさせてくれないか。
それがクラリオンから出ていく少し前に、クレイが言い出した椋への想定外だった。
「……なんでこう皆、揃いもそろって無茶苦茶なんだ」
見ていたこちらが怖くなるほど真剣だった表情を目線を思い返しつつ、苦笑して椋はひとり呟いた。
ゆっくりとクラリオン二階への階段を上りつつ、今日水瀬椋という人間へ向けられた色々な言葉について、彼は考えていた。
ジュペスもピアも、リベルトもルルド夫妻もクレイにしても。
どうしてそんな決断が短時間でできるのかと思わず訊ねたくなるような言葉を、それぞれが今日、椋に向けてくれていた。
むろんそれは直接的にも間接的にも、決断を迫ることになった椋が言える言葉ではない。
何と言うか結局のところ、今でも本当にこれでいいのかとどこかで迷っている自分が彼らと比較してあまりにも情けないだけだ。そんな一番情けないのが、すべての先陣を切らなければならないというのも妙なものである。
まぁもうホント、今更どうしようもないんだけどさ。
思いつつ階段を上りきり、指定された部屋のドアを二回ノックをしてからカギを差し込み、椋はドアを開いた。
「ごめんなさい、リョウ。こんな時間に」
「いや、もしかしたら来るんじゃないかな、とは思ってたから。いらっしゃい、カリア」
扉を開いた先の声、カリアのそれに軽く笑って椋は応じた。
遅くも早くもない速度でカリアの向かいの位置にあるソファへと足を向けつつ、どうも今日は会話の多い日らしい、と何となく彼は思った。今日一日だけでも色々と驚かされた後だからか、彼女の突然の訪れに対しても、予想したほどの驚きも動揺も現在の椋は感じていない。
彼女が来ると告げられたのは、クラリオンのラストオーダーの時間にもほど近い時刻だった。
相変わらずお熱い、などと珍妙に同僚たちには軽くからかわれたが、彼女が敢えてこんな短期間で椋の前に現れる理由などひとつしか考えられない。一昨日に続いて今日もカリアがこの場に現れたのは、ほぼ確実に椋がやったことがバレているからだ。
なにしろ昨日起きたのは、よくよく聞けば、いくつも引っ掛かる箇所が出てくるような珍事だ。表向きには些細な事件として収められてしまっているのかもしれないが、他の誰でもないカリアならほぼ確実に、引っかかる部位を複数見つけたことだろう。
だからこそ、おそらくカリアは今この場所に来ている――
そこまで椋が考えつつソファに腰掛けたとき、不意にカリアはふわりと、どこか何か慮るように金色の目を細めた。
「リョウ。少し、やつれた?」
「え?」
「え、じゃないわよ。うん、絶対あなた、やつれた。やつれてる」
わずかに唇を不快げにへの字に曲げ、カリアがこちらに身を乗り出してくる。くいっと椋の顎先にカリアは指をかけ、無理やり顔を上げさせた。
吐息のかかりそうな至近距離で見つめられ、思わず椋は目を開いた。
「え、……ちょ、」
「何よ、このクマ。なんとなく顔も疲れてるし」
更に不快げに、ある意味まったく椋に頓着せずカリアは続けてくる。
現在のこの行動の何が一番性質が悪いかというと、確実にこういう態度が相手に、他人にどう映るかまったく考えずにしたものだろうことだと椋は思った。
全く「男」としては意識されていないのだと思うと、どこか非常にむなしくなるのは如何ともし難い。別に椋とて友人相手に敢えて何をしようというわけでもないが、それとこれとは多少別の問題である。
いまいち複雑な椋の内心などいざ知らず、次にはふんわりとひどく暢気に、どこか困ったようにカリアは笑った。
「私には何かにつけてすぐそういうこと言うのに、リョウって自分に関しては鈍いのね」
「えー…」
「ね、リョウ。あえてここでどうしたの、とは聞かないけど、だめよ。そんなじゃ」
「……」
ダメで鈍いというなら、カリアもとりあえずこういう唐突なスキンシップは止めた方がいいのではないだろうか。
なにしろ畳に耳あり壁には目、いや違う。流石に昨日から今までずっと、色々と思考せざるを得ず疲弊しているところにこんな不意打ちを喰らわされ、椋自身予想外なまでに思考は混乱を来しているらしかった。
とにかくもいつまでも至近距離で見つめ合っているのも色々と何なので、極力さりげなくを装いつつ、彼女の指を己の顎先から椋は外した。
やれやれと思わずひとつ深く息を吐いてしまいつつ、そのため息が何とか次の言葉へとつながるようにさらに苦心しつつ、彼は口を開く。
「やっぱりバレてるんだな。俺がやったこと」
「バレてるわよ。分かってたから、あなただって私がいきなりここに来ても驚かなかったんでしょう? リョウ」
「あー、……ははは」
やはりとも言うべきなのか。カリアはいつもと同じように、まったくもって、ここにきた理由を椋に隠し立てする様子はない。
しみじみ平和が、平穏が欲しいと、どうにも年寄りめいた、一昨日とはまるきり正反対なことを思ってしまいつつ椋は苦笑した。
「ね、リョウ」
「ん?」
曖昧な笑いが気に入らなかったのか何なのか、カリアがまた、どこか不満げな声で椋の名を呼んだ。
あらためて視線を彼女と合わせれば、きれいな金色がまっすぐにこちらを見つめてくる。間違いは許されるかもしれないが、嘘と冗談は通じない、ひたむきな目だった。
その双眸をわずかに細めて、彼女は再度口を開いてくる。
「報告書だけじゃ、あなたが何を考えて、何を為そうとしてあんな騒動が起きたのかが私には分からないの」
ある意味非常に予想通りの言葉は、いつものカリアらしい率直なものだ。しかし今更ながら、報告書だけでは分からないからと言って団長、大貴族家の当主があっさり自分で動くというのもなかなか凄いことだと思う。
果たして彼女は何に対して、いったい何を、どう取ってなにを考えるのだろうか、と。
ふとそんなことも頭の隅に浮かべつつ、ひとつ、椋は息を吐いた。
「分かる人の方が少ないんじゃないかと思うよ。確実に」
「どうして?」
「というかカリアは、何をどこまで知ってるの?」
「あなたが昨日、療養棟でとある平民の騎士見習いの様子を見て、腕を落とせと言ったことに逆上したメルヴェリトが、術をまともに発動し損ねて患者を殺しかけたところまでよ」
さらりと、というよりもざらりと、カリアの言葉は余さず瞬間、椋の鼓膜を撫でていった。
彼女が向けてきたそれは、どれも決して間違ってはいないが、同時にすべて正解という訳でもなかった。
何とも微妙な、捻じ曲げとも取れるものの介在が見えるような気もする。つまりあのマリアって子は、自分が何をして、結果的になにが、だれがどうなったのか理解してくれていない、しようともしてくれていないと見たほうが良いのだろうか。
芋づる式に浮かんできたあのときの光景に、絶叫に哄笑にぞわりと反射的に立った鳥肌を撫で付けて少しでも押さえようと努力する。
恐怖によく似た感覚に、何ともいえない苦味を口内に感じつつ苦笑を浮かべることにぎりぎりで椋は成功した。
「……そういう風な解釈になってるんだ、あれ」
「違うの?」
おそらく答えを半分以上は知っていながら、あえてカリアはこちらに首をかしげて問うてくる。
逃げられない追及の視線に、椋は肩をすくめるしかなかった。
「間違ってはないけど、俺が実際に見聞きしたものとは一部が完全に違う」
「どんなふうに?」
「多分カリアに呆れられるか、怒られる方向に、じゃないか」
さて本当に、何からどう説明するべきなのだろうか。まっすぐな金色がこちらを見つめてくるのを眺めつつ椋は思う。
今更カリアが信じてくれないとは思わないが、それでも内容を考えれば多少ならず昨日の一件は無茶だらけだ。たった一言のために人が一人死にそうになった。殺されそうになった。意図せずとも、椋が殺しかけた――。
なんとかそれが未遂で済んだ僥倖を、二度は続けさせてやれないとヨルドとアルセラは言った。結果的にジュペスの施術に巻き込んだピアとリベルトは、椋とジュペス自身の選択の正当性を信じると言った。クレイはそれらすべてを聞いたうえで、非常にクレイらしいと言えばクレイらしいのかもしれない方法をもって、施術に介入し椋たちと同じ「罪咎」を背負うことを選ぶと言った。
カリアは何を考え何を決めて、何をどう言ってくるのだろう。
考えつつ、首をかしげて続きを無言で催促してくる瞳に応じてゆっくりと椋は口を開いた。
「……変に強情よね、リョウって」
本日だけでも三回目になる長い話を終えた椋に、まず発せられたカリアからの声はそんなざっくりした一言だった。
言葉だけ見れば呆れかえっているようにしか取れないが、椋を見つめる金色の瞳は穏やかに、優しい。同時にその表情はどこか心配げにも見える気がするが、心配すべき点、曖昧で先行きが不透明な点などというのは今でも山のようにありすぎて、カリアが何を心配しているのかは、現在の椋にはさっぱり分からなかった。
だからこそ彼は、今はただカリアの言葉にそのまま返すしかない。
若干大袈裟に肩をすくめつつ、ひとつ椋は彼女の目の前で嘆息してみせた。
「正直なこと言うと俺自身、時々自分がめんどくさいよ」
だからといって別に何を、特にどうしようとも思ってはいないが。なんだかんだで二十三年付き合ってきた自分自身だ、それなりに愛着のようなものがないわけでもない。
あえて軽い調子で口にした彼の言葉をどう取ったのか、カリアはわずかに苦笑めいて笑った。
「でも本当にそんなのを、メルヴェリトに聞かれてしまったっていうのは運が悪いとしか言いようがないわね。あなたが自分の無茶さを自覚してなさすぎっていうのもすごく、大いにあるけど」
「あー…はは、勘弁してよカリア。そのあたりに関しては俺、もう昨日の時点で結構おっさんたちにこってり絞られてるんだって」
「足りないと思うから言ってるの。自分の力とその影響をちゃんと理解していない人間ほど、危険なものはないんだからね?」
とがめるような響きが全面に押し出されたそれは、彼女が椋を心配してくれているからこその辛言だ。
分かってはいるがさすがに昨日の今日である。へこみも直っていないところでの追い討ちはそれなりに痛い。
椋は苦笑するしかなかった。身を縮める。
「それはそうなんだけど、さ」
「けどもだってもダメ。何かが起こってからじゃ遅いのよ?」
「あー、返す言葉もない」
正論の痛さが身に沁みる。言葉を向けられている相手がカリアだというのが余計に痛さをあおる。
ここで無駄にカリアに当たるようなことにならなくてよかったと、内心で改めて椋は昨日のヨルドたちに感謝した。自分より年下の相手に、しかも女の子相手に絶対、あんな醜態なぞ晒したくはない。
無論誰に対しても常に怒らず冷静に物事が判断できるのが一番良いのだが、そんな芸当は残念ながら椋にはできないのだ。
まるで彼の思考を読んだかのようなタイミングで、カリアが口を開いた。
「でもきちんと全部のことを枠に収められちゃうリョウなんて、逆にちょっときもちわるいかもしれないわね」
「ん」
さらりとひどい、タイミングも良すぎることを口にして笑うカリアは楽しそうだ。悪意はないがなんともあんまりな言い草に、半ばわざと口を曲げて見せればからからとさらにカリアは笑う。
あまりに自然に楽しそうなその表情に、結局は椋までも笑ってしまった。
「気持ち悪いって、そりゃまた随分な、」
笑って口にしようとした軽口は、床に何かが落ちた小さな音と、まくり上げていた右腕の袖が落下してきた感覚により途中で止まってしまった。
わずかに不思議そうな表情でカリアがこちらを見つめてくるのを感じつつ、落ちてしまった袖を再度まくり上げつつ音がした方を見やる。ついさっきまでは確かに袖留めの役割を果たしていたはずのボタンが、そこには転がっていた。
やれやれとため息ひとつとともにそれを拾い上げると、小さく首をかしげたカリアもまた、椋の手元へ視線を落としてきた。
「それ、袖のボタン?」
「袖留めるのに使ってたやつ。…いやまぁさすがにそろそろやばいかなぁとは思ってたけど、別に今落ちなくてもいいだろ、これ」
あまりに珍妙なタイミングに苦笑しつつ、カリアの言葉に椋は応じた。
連日の使用で、糸が弛んできていることは知っていた。直さないとなーとは思いつつ、まあ明日、明日、と面倒くさがっていたら結局、ボタンは完全にとれてしまった。…今回の事件にも微妙に通じている気がする、自身のものぐさ加減である。
明日、いつかは怠惰の証明とは、誰の言葉だったか、誰に言われたのか、それとも椋自身が考えたことだったか。
何となく遠い目をしたくなる椋に、ぱちりと瞬き一つとともにカリアがさらに訊ねてきた。
「どうするの、それ?」
「…ん? 店が終わった後にでも自分で直すよ」
なぜか何かを期待するかのような響きのある気がするカリアの声に、若干首をかしげて椋は応じた。
タイミングについてはともかく、ボタンをなくさなかったのはまだ不幸中の幸いだ。なにしろこのボタンがないと、何度腕まくりをしても袖口がずり下がってきてしまって非常に鬱陶しいのである。
しかしそんな椋の言葉に、さらになぜか、少し驚いたようにカリアはその目を見開いた。
「自分で直すの?」
「え? そりゃさすがに服一着作れとかは無理だけど、別にボタンつけくらいなら他人に頼むようなことでもないし」
たかが小さいボタン一つである。針と糸さえあれば誰でも出来る簡単な作業だ。
できることはできるだけまず自分でやれが家訓の水瀬家では、やろうと思いさえすればできることに対して下手に甘え・なまけようとしようようものなら、次には確実に誰かしらの説教が待っていた。おそらく両親が共働きだったことや、姉が他人をかいがいしく世話するようなタイプではないことも大きかったのだろう。
あっちでの俺って今、何がどうなってるんだろうなぁ。
ここに放りこまれた当初は頻繁に考えていたものの、いくら何をどう考えても仕方がないので最近は意識的にも無意識的にも考えないようになっていた事柄を改めてなんとなく思ったところで、何故か目の前の少女が沈黙していることに椋は気づいた。
「カリア?」
「……」
「おーい?」
先ほどまでとは打って変わって、今のカリアの表情はどこかむくれているようにも見える。こちらへ向いていたはずの視線は俯きがちにそらされているし、現在の彼女の眉間には不機嫌そうな皺が寄っていた。
なんで? ……ボタン?
もしかしなくてもやってくれようとしていたのだろうか。考えたくらいのタイミングで、あからさまに不機嫌そうなカリアの声がぼそりと一言を紡いだ。
「……リョウって、つまんない」
「えっ」
何とも椋には理不尽な言葉である。しかも椋はそんな言葉を、他人から言われたのは今が初めてではない。
おまえは器用貧乏すぎて逆にめんどくさい、性格的には抜けてるくせに割となんでもそつなくこなすのが鬱陶しいとは昔からそれなりに彼はよく言われていた。そのあたりが原因で別れ話になってしまったことも、実はあったりした。
しかしまさかこんなところに放り込まれ、どうしようもない、できないことが大量に出てきた今更になってこんなことを言われるとは。
変にむくれてしまったカリアを前に、ぽりぽりと頬をかきつつ椋は声をかけた。
「あの、カリア?」
「……」
「カリアってば」
「……よ」
「え?」
聞き取れなかった言葉を聞き返した瞬間、ちらりとこちらを見たカリアの瞳と視線が合った。
まったくもって彼女の意図が読めず瞬きする椋に、ふっとあからさまなため息ひとつとともにカリアは小さく笑った。再度こちらへ顔を向け、口を開いてくる。
「なによもうホントに、あなたって。少しはヘコんでるかと思ったのに、やっぱり全部自分でやる、って」
「え」
「怖いなら怖いって、嫌なら嫌って、落ち込んでるなら落ち込んでるって言えばいいじゃない。私、そんなに頼りない? あなたの気持ちにただ引きずられて、何にもまともに返せないような情けない女に見える?」
「あー、…えー、と」
ずずいとばかりにこちらに詰め寄ってくるカリア。決してそういう理由から本心をそのまま口にしていないわけではないのだが、しかし彼女の剣幕に多少ならず押されてしまう椋である。
というか何で、ボタン云々の話からそこまで一気に話が跳躍するんだ。
ついつい口ごもった彼の様子に何を見たのか、こちらへ寄せてきていた顔をまた元の位置まで戻してカリアは続けてきた。
「ね、リョウ。別にあなたが本当に言いたくないっていうならこれ以上は聞かないから、教えて」
何となく、手の中のボタンを軽く握りしめた。敢えてセーブを続けていたのは、下手に開いてしまえば確実に、相手に当たり散らすことになるだろう本心である。
まったくカリアも物好きだと、椋はもはや苦笑するしかなかった。もう少しくらいこっちにも、格好くらいつけさせてくれてもいいじゃないかとも思う。
殊更ゆっくり、言葉を選ぶ努力をしつつ。
真っすぐ見つめてくる彼女へ、椋は口を開いた。
「……そりゃ、ヘコんでるさ。昨日なんて色々ありすぎて全然感情が整理つかなくて、おっさんとアルセラさんに思いっきり八つ当たりしたし」
「リョウが?」
「俺が。あと、それこそ怖いとも思ってる。当たり前だろ、考えなきゃいけないこと山のようにあるし、確実に何かしら見落としてるだろうし、結局俺だけの力じゃ何も動かせないし、一番大局見てなきゃならない俺が相変わらずガキくさいし」
極力軽い調子を心がけても、徐々に沈んでいく声はどうしようもない。恐怖は消せない。多すぎて消せるはずもない。
それらの上で決めてしまったから、極力それ「だけ」を考えないようにしているというだけのことだ。怖くて先が見えないからと言って、ここで今更逃げ出して得られるものなど、確実に後悔以外の何でもない。
ある意味では椋の選択は、逃げる/逃げない道の、それぞれにある恐怖を天秤にかけたと言っても間違いではないのかもしれない。
なにしろ今の椋が、一番怖いと思っているのは。
「一番怖いのは、――切断を実行して、それでもジュペスが助からないこと、だけど」
「……リョウ」
「でもまあ正直、弱気なんて言い出せばホントに、山のように出てくるんだよな」
「…うん」
どこか訥々と述べた椋に、カリアはただ相槌だけを打った。
下手に椋の言葉を否定してこない彼女の態度は、ある意味彼にとってはありがたかった。
同時にやや意地の悪い部分が、本当は何を返すつもりだったんだろうな、とわずかに囁いた。昨日からあれもこれもと山のように常に考え続けていなければならなかったせいか、どうにも現在の椋の思考は散漫な上に、奇妙にとげとげしかった。
ひとつ息を吐いてその棘を放りだしてから、相槌の後、そのまま沈黙してしまった目前の少女を眺める。
決して短くはない静寂を破ったのは、先ほどの相槌よりさらに静かなカリアの呼び声だった。
「リョウ」
「ん?」
知らずそらしていた視線を、再度彼女へ向ける。
椋の内側の棘とは裏腹に、カリアの視線は相変わらずにまっすぐだった。
「私は治癒職じゃないし、直接にはあなたのためには動けないけど」
「うん」
「それでも、分かることがあるわ。あなたがまた、だれかのために必死になってるって。誰かの命を救うために、他人の目なんて一切気にできないくらい、がむしゃらに一生懸命だって」
「……また、か」
「だってそうじゃない。あなたがこれからやろうとしていることは、私たちの規範とするものに真っ向から相対するようなことよ。情報が下手な場所に漏洩すれば、確実に即座に、あなたが異端審問に突き出されるレベルのね」
「……」
「分かってるけど、でも、今回も私はあなたを止めようとは思わない。あなたが正しいか正しくないかはあの時と同じで、きっと全てが終わってみなければ分からないだろうし、そういうのが結局、リョウなんだもの」
ただ肯定するのでも、否定するのでもなく。事実を踏まえた上での、なんとも彼女らしい言葉を笑ってカリアはこちらに向けてくる。
どうもあちこちに影響を無闇に波及させてしまっているような気もしなくもないが、最初に詳細を聞きたがったのはカリアの方だし、全て話すことを決めたのは椋だ。今更心配する物事を増やしたところで、そう要領のよくない思考の一部がそれに占められてしまうだけのことである。
結果は全てが終わってみなければ分からないというのも、事実だ。さらに言うならこの世界にとっての「正しさ」を放り出して、椋個人、患者個人のただしさに突き進んでしまうのもまた椋という人間の最近である。
何のために、誰のために何をしたいのか。何をするべきなのか。
何度問うてみたところで答えは一つしかないことが分かっているから、椋は今、ここでカリアと会話を交わしている。
「だから敢えて言うわ、リョウ」
一度は切れたかと思ったカリアの言葉が、続いてきた。え、と思った瞬間、椋のてのひらへと彼女の手が伸びる。
ボタンを拾ってそのままになっていた拳に、椋より随分小さく華奢で、少しひんやりした両手が触れた。
反射的に、片手が跳ねた。彼女の行動それ自体もさることながら、そう触覚が鋭いわけでもない手の甲にも伝わってくる、彼女の手のひらの不自然な凹凸にわずかに椋は目を開く。
相当ひどい怪我をしたことをうかがわせるそれは、おおよそ椋の想像するような「お嬢様」とはかけ離れたものだ。
先ほどからまともな言葉が返せない椋に、ふわりと優しく、力強くカリアは金色の瞳で笑った。
「頑張って。――あなたが間違ってないことを、また、私たちに証明してみせて」
「カリア、」
「それにもし、あなたが間違ったとしても私はあなたを責めない。だって一人の患者に、何の地位もない相手にあなたくらい必死になる人なんて他にいるはずないもの。もしすべてがうまくいかなくても、まず責められるべきは、あなたに規範を冒させたすべてのものだって、私は思う」
さらにもう少し強く、彼女は椋の手を握る。
かと思えばふわりと指先で彼の手の甲を撫でたあと、するりとカリアの細い指は離れていった。つい指先の行方を追った先で、また彼女の瞳と真っ向から視線が交錯する。
「だからまず、リョウは自分をもう少し信じてあげて。この手がちゃんと、そのひとを治せるって、もっと強く信じてあげて」
「……カリア、さりげなく無茶言うな」
しかも椋の面倒な不安定の、根本そのものをずばりと言い当ててくるのだからたまらない。
そういう意味でも鈍感な意味でも本当にまったくこの友人は優しくないが、それもある意味カリアらしさ、魅力なのかと思えてしまうのもまた、結局のところは彼女の強みなのかもしれなかった。
意外に失礼なことも考えている椋の内心など知らず、笑顔のままカリアは言葉を続けてくる。
「だって、あなたならできるもの。できるって、やってみせるって私は信じてる。また変なことして私を驚かせて、変なところから変な風にこっちに来てくれるって、何となく確信してる」
「何かそれ、微妙に褒めてないよな?」
「ないわよ? 呆れてるの」
「なんだそりゃ」
「呆れてるから、呆れるしかないくらいだから、信じられるの。……ね?」
若干上目づかいに、小首をかしげて微笑んでこちらを見上げてくる美少女。
何というかこの一連の行動、本当に無意識なのだろうかと一瞬本気で椋は思った。角度まで狙い澄ましている気がするのは気のせいか。気のせいなのか。
しかも非常に巧妙に、何となく乗せられてしまっているような気がした。特に何が解決したわけでもないのに、何となく気分は軽くなっている。
正しくても、正しくなくてもあなたを否定しない――
そんな他人の一言でどこか落ち着いてしまう己の現金さに、若干椋は呆れ笑ってしまった。わかっていることではあるが、どうしようもないことでもあると思うがしみじみ単純すぎる。
だからこそ目の前の少女には、もう彼は白旗を上げるしかないのだ。
ゆるりとカリアに向かって両手をあげ、椋は肩をすくめて笑った。
「……わかった、わかった。俺の負けだ」
「ふふ」
妙に満足げにカリアもまた笑う。
これ以上の追撃を許してもらうには、重苦しい思考を少しでも軽くしてもらったお礼にはさて、何を出せばこのお姫様のお眼鏡には叶うだろうかと、楽しげでもあるその表情を眺めながら椋は、思った。




