P2-17 彼の剣は何が故
「……そうか」
酒場の一角でひどく長い、ある意味では誂え向きなのかもしれない話を終える。
本日の昼に交わしたいくつもの会話とその結果として決定したこと、すべてを話し終えた椋に返ってきた最初の一言が、冒頭の言だ。カラリと手の内にあるグラスの氷を遊ばせるクレイの、肝心のグラスの中身はほとんど、出した当初から減ってはいない。
ずっとしゃべっていたせいで渇いた喉を水でうるおしつつ、椋は今日のことを思う。
あまりに予想外だった、迷いもない自身の一部を「捨てる」彼の決意を、思い返す。
――リョウさん?
示した三つの選択肢は、どれもまず絶対に選びたくないような、それぞれがそれぞれ非常にひどい代物だった。
だからこそ椋は、ほとんど即座と言っていいタイミングで返ってきた返事が俄かには信じられなかった。確かに一番「命が助かる」可能性は一番高いだろう、しかし同時に助かったその後の行動が最も難しくなる選択肢を迷わず選んだ彼に、目と耳を疑った。
むろん椋自身、それ以外の方法の救命率がどうしようもなく低いことは承知していた。生きることを望むなら、現時点ではそれしかやれることはないとほぼ確信していた。
しかし、いや、だから本気で彼は呆気に取られたのだ。ジュペスが何を言ったのか、その瞬間には理解できなかったのだ。
思わず黙り込んだ椋を不思議そうな顔で呼んだジュペスのほうが、正直なところあのときの椋には非常識なまでに不思議だった。
まるで立場が逆転していることなど分かっていたが、それでも彼の、あまりにあっさりとした自身の腕の切断に対する承諾の言葉はとことん、椋の予想外だった。
「なぁ、クレイ」
「なんだ?」
「騎士団に片腕の騎士って、いたこと、あるのか?」
「答えが分かり切っていることを、敢えておまえは聞くのか」
あくまで淡々と返ってきたクレイの言葉に、図星を指されて椋は沈黙した。いや、しかし、だってなあ。逆説のフレーズはいくつか脳裏に浮かんだが、あまりに指摘が的確過ぎて、わざわざ二の句を継ぐ気にもならない。
そんな椋の内心を見透かしてか、ふっとクレイが笑った。
「確かにおまえがそう言いたくなるのも、分からなくはないが」
「が?」
「あいつの考えていることは、あいつにしか分かりようもない。それに俺はあいつの姿形が多少変わったところで、今更奴を特別扱いする気もない」
「……あー。クレイならそうだろうな」
更に続いたクレイの言葉に、もはや椋も笑うしかなくなってしまった。小事に頓着せず常に自分の前だけを見据えようとする、ある意味頑なですらある姿勢は非常に、この一月少しで椋が知ったクレイらしいものだ。
おもむろにそこでグラス半分の酒をあおった後、一つ息をついてまたクレイは口を開いた。
「それに俺には少し、奴の気持ちも分かるような気がする。腕が落ちるその瞬間を、自分の目で見届けたいと言ったことも含めて、な」
「そうなのか?」
「ああ」
思わず問い返せば、あっさりと肯定が来た。
腕がなくなる瞬間を、しっかりと自分のこの目に焼き付けておきたい――。それは今日の椋を驚かせた、もうひとつのジュペスの言葉だった。
切断術の実行をジュペスが選択し、ピアたちの協力も改めて、得られることになった。
その上で椋が切り出した切断実行の具体的な手順において、ただひとつだけジュペスは、椋へと異を唱えたのだ。
「自分は死ぬわけにはいかない、生きて、生き抜いて、やらなければならないことがある――確かそう言ったんだったか、あいつは」
「言った。だから後々で後ろ指さされることになるのも承知で、それでも一番生き延びられる確率の高い、先に進むための手を選びたい、選ばせてほしい、って」
こちらを見据える目が、ひたすら怖いほどまっすぐだった。
それはずっと甘ったるい世界で生きるのを許されていた椋にとっては、一度も聞いたことがないような言葉であり、態度であり、意識であり存在だった。
ましてや椋よりずっと年下の、椋の感覚からすればまだ中学生の少年が口にするにはあまりに、色々な意味で重すぎる上に痛みすら覚えるようなものだった。
もしも時間と、力さえあれば。ここまで状態が酷くなる前にジュペスと出会えていて、状況を知れていて、その上でヨルドやアルセラに、治療への協力を願えたなら。きっと世界を探せば多彩に転がっているはずの、治療法を探す時間があったなら。
ジュペスは腕を切断などせずとも、回復することが可能だった、かも、しれない。誰もこの世界における原則の禁忌を、自らの意思で破る必要などなかったのかもしれない。
しかしそんな仮定の話は、残念なことにどこまでも、あくまでも空想上の世迷言にすぎないのだ。
ジュペスはインフォームド・コンセントを終えるか終えないかくらいの頃合いで、ぷつんと糸が切れるように唐突に意識を失った。眠ってしまったと言うには、やせ細り頬もこけてしまい、どこか目も落ち窪んだジュペスの様子はひどく痛々しかった。
顔色もかなり悪く首筋に触れれば異常に熱い、脈も呼吸も異常に速く苦しそうな彼の状態は、いつ容態が変わってもおかしくないのではと、椋の背筋をうすら寒く凍らせるには十分に過ぎた。
それまでのあまりにしっかりした言葉や表情とは非常にちぐはぐな感覚を覚えるくらいに、幼かった苦しげな彼の寝顔を想い返しつつ椋は息を吐いた。
「まだ、十五歳なんだろ? ジュペスって」
「ああ」
肯定してくるクレイの表情も、心なしかどこか苦い。
ここエクストリー王国では、十六で成人とみなされると言う。彼はもう成人に近い年齢なのだから、それくらいできて当然、もしかするとそんな言葉を言い出す人間も、いてもおかしくはないのかもしれない。
しかし自分が十五のとき、なに考えてどう生活してたっけ、と椋は思った。そもそも現時点の椋でも、同じような状況に放り込まれてどう転んでも理不尽な選択を迫られたとき、あんな即座に、欠損の代償としての生存という選択が果たして、できるものだろうか。
片腕を失ったあとの苦労など、五体満足なままの人間が察することは不可能だ。
ただでさえこの世界では一般的に、身体の欠損が禁忌とされているのである。ピアたちによればその行為が「神の創造物」である人間への冒涜であることに端を発しているらしく、今回のような非常に特殊な例に対してもその禁忌が適用されるかどうかは分からない、適用されないことを信じたい、と、いうことではあったが。
世間一般における「禁忌」が曲解だと言うなら、ピアたちの言う「願い」もまたある意味では曲解だ。
そしてどちらの声が大きいかといえば、比べるまでもなく圧倒的に世間一般の方が大きいのである。椋が、ピアとリベルトが、そしてジュペスが背負わなければならない、向き合わなければならないものの大きさは正直、好き好んで考えたいようなものではない――考えないわけにはいかないものでも、ある。
さらに加えて、ジュペスは騎士見習いなのである。騎士という、ときには馬上の人として手綱を取りつつ剣を取ることも必要なのだろう人種なのだ。
そんな彼にとって、腕を喪うということに対する痛手の大きさなど椋にはまったく想像ができなかった。絶対に物凄く大変だろうということは想像できても、その先がまったく、なにもわからない。
だからといって容易に、辛いだろう、分かるよ、などと、そんな理解者面をしたくもなかった。
非情な状況に追い込まれている目前の相手を、可哀想だと見下したくも、なかった。
「……やらなければ、ならない、こと、か」
ぽつりと独り言めいて、クレイが言葉を口にする。
何となくその言葉に頷こうとして、ふ、とあのとき脳裏によぎった、
椋にとってみれば若干ご都合的ですらある予測が改めて、思考に浮いた。
――やっぱ主人公ってのはさ、諦めが悪いのが良いよな。
脳裏によみがえる声は、それは本当に主人公らしさなのかと思わず椋が突っ込んだ覚えのあるものだ。
生きたい、死ぬわけにはいかない、自分にはやるべきことがある。その言葉を聞いたときに椋の意識をよぎったのは、なぜという疑問より先に浮かんだのはかつて耳にした幼馴染の言葉だった。
最初はさすがに、まさかと思った。おいおい、と我ながら突っ込まずにはいられなかった。
そんなに椋にだけ都合のいいことが、それを考え始めた矢先に目の前で起こるはずはないと、そう思った。
しかし礼人の言葉と連続するように思い出したのは、やつが描くはずだった物語の主人公・ユーリがジュペスと同じ十五歳であることであり、夏の青空をそのまま切り取ったような、まっすぐに澄んだ青色の目をしていることだった。
くだらない。その一言で勿論すべては切り捨てられる。確証など一切ない。
偶然の一致と、片付けることも容易い。本人に真っ向から問いかけるには、なかなか重すぎることでもある。
だが、一度浮かんでしまった疑念は消えない。周囲が揃いすぎているが故に、今更椋の知る枠外に事象を放り出す方法が見つけられない。
無論彼がそうでなかったからといって、医療者としての手を抜く気は今更まったくない。
しかしもしも本当にジュペスが「そう」であるなら、…尚更――
「おい、リョウ」
「え? …って、げっ!」
どこか咎めるようなクレイの声にはっと我に返れば、先ほど見たときより随分水位を低くしたスープ鍋から、わずかに不穏な音が立ち始めていた。
慌てて水を追加して、やれやれとひとつ椋は息をついた。まだそれなりの数の客に配らねばならない商品である。今ここで焦がして作り直しになってしまえば、結局減ることになるのは今日の椋の晩飯だ。
やれやれとでも言いたげな視線をこちらに向けてくるクレイに苦笑とともに肩をすくめ、椋はまた口を開いた。
「クレイはジュペスから、なんか、そういう理由って聞いてたりするのか?」
「確かに話に聞いたことはあるが、おまえが今日聞いたものとそう大して内容は変わらない。いずれ戻らなければならない場所がある、とも、確か言っていた気はするが」
「ほう」
それがヴァイシャール、ってこと、なのか。
一度浮かんでしまった考えを放って、別の考えに移る作業というのは思いのほか難しいとまたしても実感してしまう椋である。決めつけはよくない。証拠もないのに勝手な妄想で他人を一人合点するなどあまりに寒い。そんな無茶な独断は、ただでさえ絶対広くない視界がさらに狭まる要因にしかならない。
いつか確かめよう、で、その上で俺ができることを考えよう。
確か今日最初にこのことを考えたときにも実は決めたことをもう一度心に定め、あとさ、と椋は言葉を続けた。
「等身大以上の十字型にした木の板に、全身ぐるぐるにあちこち縛りつけて、その上で、多分何人かがかりで身体を無理やり押さえつけて」
「……は?」
「そんな状況にしなきゃ、起きたままの施術なんてできないぞって俺は言った。腕にマヒがうまくかけられるかどうかは正直ヘイの腕次第だから、下手すると本当に想像もできないくらいにめちゃくちゃに、ものすごく痛いぞ、とも言った」
若干強引に、話の方向を変更する。何とも微妙そうな、明らかに反応に困っている表情でこちらをクレイが見てくるが、一応それも予想の範囲内だ。
もうひとつ言うと、昨日家に帰った後、実はヘイに、椋は新たな魔具の制作を打診していた。
麻酔の代わりとして「マヒ」の魔術を使うことはできないか、副作用は極力少なく狙った部分だけを確実にマヒさせられ、できれば即効かつ短時間で抜けるような魔術はないものか、と。
「……今更だが、そのような知識を持っているおまえもおまえでおかしい。リョウ」
「なんだよ、本当に今更すぎで笑う気も起きないぞそんなの。……でも、そういう脅しみたいなの積み重ねたって譲らなかったんだよな、ジュペスは」
どこか頭が痛そうな顔をしたクレイに、先ほどと同じように椋は肩をすくめた。そもそも今話すべきはジュペスのことであって、椋についてでは決してないのだ。
椋の知る年相応とはあまりにかけ離れた彼の強さと意志を、確実に凄惨だろう施術の現場を、一部始終自身の目で見届けると言いきったひとりの少年を思う。そして、そんな凄いものを、確実にどんな世界でも得がたいだろうものを容赦なく潰そうとする傷病を改めて、思う。
前例がなく、したがって正解もこの世界には存在しない異常事態により椋がこれから負っていく責任とその先について、考える。
「リョウ」
「ん?」
不意に名を呼ばれ、知らず知らずのうちにうつむけていた顔を上げた。目の前にあるクレイの表情は、どこまでも静かだった。
声もまたその表情と同じく、凪いだままで淡々と、訊ねてきた。
「いつ、実行するつもりだ?」
その声と言葉、表情がふと、今日目にしたばかりの一人――ケルグレイスのものとぴたりと重なる。
考えることが多すぎてあちこちに飛びがちな思考の中で、まあそれも当然なのか、ともどこかで椋は思った。なぜならクレイが育ったのはルルド家であり、彼の父はケルグレイスなのだ。クレイという人間の根本は、現在彼が名乗るオルヴァではなく、確実にルルドの家にあるのだろう。
ピアさんもリベルトさんも、何かコイツと妙に似てる気がするもんなあ、家族だからでこれは片付けていいのか、などとも思いつつ。
椋もまた、静かに相手へと向かって口を開いた。
「明日の夜、の予定でいる。ヘイに頼んだもんが出来上がるのが、予定ではそれくらいらしい」
「そうか」
椋の言葉に、ただ一言クレイは頷いた。あえて今ここで日程を聞いてきたということは、確実にジュペスへの施術に、クレイも立ち会うつもりなのだろう。
病態急変のリスクを考えつつも、今日でない日に施術日を設定したのは切断に対する「痛覚」というリスクを減らすためであり、長時間の独考によって、ジュペスの考えが変わる可能性を考えたからだ。
魔具の完成に時間がかかるというのは、ジュペスの思考時間をある程度確保するためにもこっちの準備の面でもちょうどよかったかもしれない、と、実は椋は思っている。ただジュペスの容態だけを考えるなら今すぐにでも腕を切断すべきなのかもしれないが、何の準備もせず、ピアやリベルトだけでないルルド家の「事を知る」人々全員の了解と協力も得ないまま事に至るのでは駄目なのだ。――それではマリアがやったことと、何も変わらない。
魔術で痛覚はある程度遮断できるとして、板はルルドの人たちに説明して手配してもらってあって、熱湯に関しては明日その場で、あとは。
本当に考えるべき、備えるべきことに関してはどこまでも枚挙に暇がない。現時点でもそこまで椋が思考した頃合で、またぽつりと、クレイが口を開き彼の名を呼んだ。
なんだと首をかしげた椋に、やはり淡々と彼が口にした予想外に。
椋は思わず限界まで、その双眸を見開いた。




