P05 来訪と襲来3
魔術なんてものが当然のようにある、椋からすればファンタジーなこと極まりないこの世界にはいわゆる「倒すための存在」というものが存在している。
倒さねばならない、ただの傷害、残虐、殺戮衝動がモノとして動くことのできる塊としての形をとったもの。総括して魔物と呼ばれるその存在は、この世界に生を受けたすべての存在に対する「敵」であった。
そして今―――完全にぴっちりと閉められた、酒場の扉の向こうにうぞうぞと不気味なことこの上ない動きでうごめいて、いるのは。
「ラグメイノ【喰竜】級…!?」
「おい、集中しろ! 術式が壊れたらこの店、俺たちごと奴らにぶっ壊されんぞ!」
魔物はその外見および眼、に当たる部分の色により、おおまかなクラス分けがなされている。
ラグメイノ【喰竜】級というのはそして、濁青色の眼を持った、人はおろか竜すら喰らう、一度現れてしまうと確実に村どころかそれなりの規模の街が一晩も持たずに滅びるレベルの魔物を指す言葉である。あえて召喚でもしなければ、王都などという国の中枢部には決して現れるはずもない、はずの魔物であった。
以前にヘイから与えられた知識が、あまりに不気味な現実を前にした椋の思考を綺麗に上滑りしていく。
魔物それ自体を目にするのは初めてではないが、…しかし。
「ラグメイノ【喰竜】級か。久々に見るけど、相変わらず本当に上から下まで全部気持ち悪いわね」
「…俺はむしろ、あれ見てわりと平然としてるカリアの方がある意味不気味なんだけど」
全身眼だらけで、巨大な赤い穴のような口は現在視界に入るだけでも三つ、腕やら足やらが全身から筋骨隆々右往左往に生えまくった、その爪と牙ばかりが鋭く悪目立ちする「おぞましい」という形容詞の権化のような化け物を前に、傍らの少女はあまりにけろっとしていた。
そのあんまりなまでのあっさり具合に、椋の中の思考の上滑りも明確な理由をなくして止まってしまった。むしろ完全なる混乱の中にある酒場内をよそに、泡食った態度を少しでも取った自分がおかしいのではないかとさえ思えてくる。…いや、さすがにそれが間違いであろうことは、誰もかれもが顔色をなくしていることからしても明白なのだが。
思わずといった感満載の椋のツッコミに、これまたさらりとカリアは綺麗に笑って見せた。
「ラグメイノ【喰竜】級程度に尻込みする魔術師団団長なんて、全然恰好つかないじゃない」
「………」
先ほどまでとは違う何かが自分の中でがらっと崩れたような気がして、助けを求めてもう一人へと椋は視線をやった。あえて召喚の魔術を特別に使わなければ現れないくらいに、強い魔物なんじゃないのか、外にいるあれは。
だが無情にも彼、クレイは椋の訴えが何たるかを理解してくれなかったらしい。
若干不思議そうに椋の視線に首を傾げた後、その顔を真剣そのものに戻して彼はカリアへと進言した。
「しかし閣下。確かに閣下のお力をもってすれば、奴の討伐自体はそう難しいものではないと私も考えます、が」
「そうね。防護結界の強度を見るに、あれとまともに正面から戦える力を持っている人間は今ここにはいないようだし、私とあなたの二人じゃ、周囲への影響なんかを考えると無傷での撃破は厳しいかしらね」
またさらっと恐ろしいことを言った、この美少女。そもそもこのクレイにしても、カリアの自信それ自体は全然否定していない。ついでに言えば現在の椋は、ふたりの言うところの「強さ」の基準がさっぱり分からなくなっていた。
ラグメイノ【喰竜】級がその一撃で容易に倒せてしまう「竜」とは、まだ若いが故に空を飛ぶことはできないが、それでも優に十メートルを越える巨躯に、幹の太さが五メートルを越えるような木でもその体当たり一発でへし折る膂力、魔術も容易くは通さないうろこに全身を包まれた生き物だ。ヘイの竜狩りに既に複数回連れていかれている椋は、その強さを実際に相対した感覚はないにせよ、一応のところは知っている。
それを食らうようなあの化け物を、無傷で倒せるかなあなどとのんびり話しているわけだ、目の前の二人は。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、リョウ」
「え」
現在の椋は何を心配するというより既に「訳が分からないのでとりあえず考えている」状態に近いのだが、無論そんなことを目の前の美少女は知るはずもない。大丈夫だと笑うカリアの顔には、奇妙、としか少なくとも現在の椋には思えないような、確固たる自信があった。
魔術による防護壁が軋む音をバックに、彼女は続ける。
「すぐに増援が来るわ。凄く頼もしい増援がね」
「閣下?」
「より正確に言うならば、今までずっと私のダメな行動を無視してくれてたお目付役が、だけど」
にこりと、己の発する言葉に対する自信を満面に彼女が言った瞬間。
魔術で何重にも守られているはずの酒場内まで容赦なく響き渡る轟音とともに、店の道路に面する部位をべったりと覆い尽くしていたラグメイノ【喰竜】級が文字通りその場から吹っ飛んだ。
唖然とした。ただ言葉を失うしかなかった。
今夜そう長くもない間に二度も同じような事態が椋には起きているのだが、そんなことをいちいち考えていられる暇もない。間抜けなのは分かっていても、ぽかんと口を開いて状況を見ているしか椋にはできなかった。
硬直寸前の視線を、何とか動かす。見やった先では目の前で勢いよく吹っ飛ばされたラグメイノ【喰竜】級が、薄青い氷漬けになっていた。
そしてつい先ほどまでそれが張り付いていたあたりの場所には、どう見ても黒い執事服を身にまとった男が一人、涼しげな顔で立っていた。細い黒フレームの眼鏡をかけた、どちらかと言えば柔和と呼べる分類の顔立ちをした男である。
あなたにしては遅かったわね。そんな形に不意に、カリアの唇が動いた。
動いたかと思うと、何の前触れもなくふわりと、その場で軽やかにカリアは外へと向かって跳躍した。
「は、」
しかも跳躍しその身体が壁へと触れる瞬間、彼女の身体は当然のように魔術を含むすべての壁をすり抜けた。瞬き一つの後には既にカリアは、たった今しがた現れた黒い執事服の男のすぐ横にまっすぐ、立っている。
ざわりと、俄かに奇妙な、それまでとは少し違うざわめきがクラリオンの中を支配した。そのざわめきをうまくかいくぐり、クレイもまた人の山を越え出口へと向かっていく。
あの髪と目の色、まさか、【しろがねの地焔遣い】? いやそんな馬鹿な、大貴族様が何でこんな場所に来るんだ。
しかし見ろよあの銀と金色、確かに噂通りの、すげぇ色じゃねえか―――?
「カリア?」
距離もあれば壁もある。届かないことなど分かり切っていて、しかし勝手に椋の声は、彼女の名前を呼んでいた。
そして小さな呼び声に、まるで応えるかのように彼女はこちらを振り向き、ふわりとほんの少しだけ笑って見せた、ような気がした。次にはびきりと何かが大きくひび割れる音にその方向へと向き直ってしまったが、しかし確かにカリアは、椋に向かって今、笑った。いつもと変わらないやわらかな表情で。
ひび割れる音はほぼ確実に、氷漬けにされたあのラグメイノ【喰竜】級によるものだろう。たかが氷漬けにした程度では、ある意味やはりとでも言うべきかあの魔物は死んではくれないらしい。
完全にその氷が砕かれる前に次の行動へと移ろうということか、すっと執事服の男は、高くその右腕を掲げ、目前を見据えた。
「 」
術式を構築する詠唱の声は、中からは聞こえない。
この世界における魔術とは、ざっくり言ってしまうのならば「魔力による世界の改変」なのだ、という。己の意志と身体に宿る魔力により、世界へ干渉し世界を変幻する術、それがこの世界の魔術なのだ。
そして魔術は須らく、術式と呼ばれる力持つ文言を組み立て、己の持つイメージと魔力をその術式へと流し込むことによって発動する。
この文言は実際に声として発することで、さらに大きく確実なかたちを取れる、らしい。魔力とイメージが十分ならば、声として術式を発する過程は省略することができるとも聞いた。
だから魔具師なんてものが存在できるんだと、最初に魔術に関する云々を訊ねた時ヘイが笑っていたのをふと、思い出す。魔術の発動に重要なファクターは術式と魔力のふたつ。この二つの条件を満たすことさえできれば、使用者が術式を通じ魔力を供給するという手順を踏まずとも、魔術は発動しうるのだと。
だからこそヘイは今、誰もが試したこともなかった、らしい、とある魔具を新たに作り出そうと日々思考錯誤を繰り返している。
この世界における最大宗教であり、この国の国教でもあるものと「それ」が密接にかかわっていることを考えると正直、…何となくヘイの身が心配にもなってくる椋なのだが。
「すみません、ちょっとどいて、…すみませんっ!」
窓際に群がる冒険者たちのむさくるしい山を何とか乗り越え、何とか窓にほど近い場所へと辿りつく。窓最前列にいるのは、現在この場所に張られた防護壁を支える人々だ。無魔である椋がそこまで掻きわける訳にもいかない。
窓の外、隔たれた向こう側でラグメイノ【喰竜】級が咆哮、と呼ぶのも躊躇われるようなおぞましい不協和音をあげる。
決して綺麗なわけではない酒場の窓から見える外の景色は、一言で言うならまさに椋にとって「異世界」だった。何らかのフィクション媒体を介して描かれた先にしかなかったはずのものが、余すことなく今、椋の目の前にはあった。
おぞましい外見の化け物へ向かい、まっすぐにかざされた執事服の男の手のひらが刹那、閃る。さらに光が消え去るより前、その光の奔流をひとつにより集め収束させ、組み上げることによって完成するものがある。
魔物の再度の咆哮の瞬間、彼から放たれたのは巨大かつ透明な薄青色の氷刃だった。咆哮そのものの威力によるものかそれとも何らかの別の力があるのか、びきびきとひび割れていく地面や家屋の壁面など別世界のことであるかのように、歪みきった咆哮が満ちているはずの空間を真っ直ぐに刃は飛ぶ。
未だ足元を先ほどの巨大な氷に捕われたままのラグメイノ【喰竜】級には、明らかに音速を越えた速度で大気を切るそれを避ける手段はなかった。過たずその不気味な身体の中心部、最も巨大でグロテスクな瞳と口が開いていた部分へ、真っ直ぐに刃は突き刺さる。
うぐぅおおおおおおぁあああああああああ、と。
魔物の苦悶の絶叫は、魔術による何重もの防護壁を隔ててなおおぞましく壮絶にびりびりと椋たちの鼓膜を、打った。
「【浄化の白金、散華の銀】」
そしてそんなおぞましい、不気味でしかない音を掃うように。
凛と澄みきる少女の声が、まるで歌のように幾重にも重なって大気に響き渡っていく。
「―――【焔よ渦巻き、冥夜にひらけ】!」
ごう、と。
彼女が言葉を紡ぎ終わると同時、ラグメイノ【喰竜】級が白金と銀の二色の焔を先ほどの刃の傷口から壮絶なまでの勢いをもって噴いた。
噴き出す焔は勢いを増し、互いにからみ、上へ上へと昇っていく。もがき足掻き、少しでもそれを回避すべく身をよじるラグメイノ【喰竜】級を、容赦なく跡形もなく焔は燃消させていく。
すべてが終わるまでの時間は果たして長かったのか短かったのか、椋には分からなかった。
醜悪な魔物が焔に消える、その光景を強い金色の瞳で真っ直ぐに見つめる彼女の横顔だけが酷く強く視界に、焼きついた。