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未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
第二節 転機の出現/見霽の青年
58/189

P2-13 天秤の傾く先


 これからどうするんだ。

 問いを投げかけられた瞬間、内心で椋は苦笑した。なぜなら真っ先に浮かんだのは、逃げたい、帰りたいなどという類の、どういう意味でもどうしようもない言葉だったからだ。

 自分が決して「強い人間」でないことは、椋とて承知していたつもりだった。

 しかし、どうやら椋自身が考えていた以上に、ああいった類の衝撃に対する耐性など彼にはなかったようだった。耐性がある方がおかしいのかもしれないが、心底から、やれやれ、と改めて自身に嘆息する。

 下らない言葉が渦巻く中、返答としてまともに成立させられるような答えなどすぐには思いつけるはずもない。望みはある。願いはある。同時に――しばらくは絶対に消せないだろう、憤りとやるせなさと恐怖、そんな、ある意味では非常に「邪魔」な感情も、ぐるぐると胸中で渦巻いている。

 まっすぐに見据えてくる二つの視線に、しばし椋は口を開けなかった。

 目にした凶行、それを引き起こした椋自身の無知。今回は比較的早い段階でヨルドが救援に駆けつけてくれたおかげでどうにかなったものの、こんな幸運がいつまでも続くなどとは、まず考えてはいけないのだろう。

 黙ったままの椋の様子に、ヨルドは向けてくる視線をやわらげてふっと息を吐いた。


「別に今すぐ、ここで答えを出せたぁ言わんさ。焦って答えを出したところで、それがおまえの本当に望むものかどうかはおまえ自身、分からんだろうしな」

「……おっさん」

「何しろおまえは祈道士でも治癒術師でもない、ただのちっと珍妙なだけの一般市民だからな。今回のことを反省せんでもいい、何がどう悪かったのか考えなくてもいいとは言わんが、まぁ、もう少し肩の力は抜いても構わないぞ、リョウ」


 言い方や声がどこまでも優しいせいで、さらりと微妙にひどいことを言われているのに何も返すことができない。

 そう、椋は理解している。分かっている。今の椋には知識はあっても、それを実行に移すための方法を、力を持っていない。

 保持する知識にしてもひどく中途半端で、なにかに疑問を抱いたところで、それを教科書や、誰かに教えを乞うことで復習することも不可能なのだ。改めて考えずとも非常に恐ろしいことをしているのだと、改めて今回の一件で椋は思い知ることになった。

 今ここで、誰に一方的に咎められ異端と蔑まれることもなく立っていられることさえ椋一人の力ではないのだ。今までこの世界で出会った人々は、基本的に椋のことを、変だ妙だとは言いつつも、笑って「異質」を受け容れてくれるような人物ばかりだったのだから。

 むろん椋とて今までただ、状況に流されてきたわけではない。行為それ自体を後悔したくもない。

 しかし本当にどうしようもないくらいに、自分一人では結局、椋は何もできないのだ。


「……すみません」


 まったく苦笑するしかない。ただ謝ってみたところで、何が先に進むわけでもない。

 結局は自己満足と甘えという二点に回帰する言葉を、それでも椋は口にせずにはいられなかった。


「気持ちは、分からなくもないけどねえ。今ここであたしたちに謝ってどうするんだい? リョウ」


 なぜなら情けない椋の内心も理解したうえで、こうして彼らは笑ってくれるからだ。

 へたれた椋にもう一度笑って、しかし不意にヨルドはその眼差しを真剣なものへと変えた。


「なあ、リョウ。今回は俺がギリギリで何とか助けてやれたが、次に同じようなことが起これば、どうなるかは分からないぞ」

「……そう、ですね」

「もうひとつ言うとな。今すぐ答えは出さなくて構わないなんて言った舌の根も乾かんうちで悪いんだが、実は俺たちは近いうちに、他国に行かなきゃならなくてな」

「え?」

「だからあんたに、優雅に選択の猶予を与えてやれるような余裕は実は、今のあたしたちには用意してやれないんだよ」


 ヨルドの言葉をアルセラが引き取る。思わず改めてまじまじと見やる、二人の表情はどこか苦笑めいていた。

 理不尽に二人にキレてガキじみた言葉をぶつけてしまった直後にこんなことを思うのも変かもしれないが、どうしてここまで、ただの赤の他人をヨルドたちは心配してくれるのだろうか。

 彼らが最初に椋と接触しようとした切欠がただ興味であると知っているがゆえに、余計にある意味、不思議だと思う。面倒を起こすだけのものならば、手など差し伸べずに放っておけばいいのに。

 まあ椋の知る限りのこの二人に、きっとそんな思考など、一片も浮かびは、しないのだろうが。


「……なんと、いうか」

「ん?」


 などと考えているうちに、いつの間にか言葉は椋の口を突いて出ていた。

 首をかしげてくる二人に、小さく笑って、椋は続ける。


「俺って随分、……恵まれてますよね」


 今こうして椋を叱りつつも決して否定することはない二人しかり、まったく要領を得ていなかった椋の頼みに正確に応えてくれたクレイしかり。

 椋がこの世界のものでないと知ってなお、態度を変えることなく接してくれるカリアにしても、椋をひたすら面白がって、新たな魔具開発への闘志に変えて行ってしまうヘイにしても、トンデモ以外の何でもないだろう椋の実態を知ってなお、そのままでいればいいと一笑に付すアノイにしてもそうだ。

 知っている、知っていたつもりだった。長年彼の抱いてきた夢を容赦なく叩き潰すような世界ではあるが、同時に決してこの世界は、人々は椋に対して「無情」ではないのだと。

 しかしこんな状況に陥って椋は、改めてその有難さを実感する思いだった。――もしもこの世界に放りこまれて最初に見つかったのが今日の彼女のような人間だったなら、確実に椋は今のように無事ではいられなかっただろう。

 椋の言葉に、ヨルドもまた笑った。


「ああ。そこに関してはまったく反論してやろうとは思わんぞ、俺は。下手な人間に、それこそ今回のみたいな過激なのとぶつかれば、あっという間に消されておしまいだな、おまえみたいなのは」

「ええ」

「それにさっきの話だと、リョウ。あんたには、あんたがヘンだってことを理解してて、なおかつ治癒に対する偏見も持ってない、あんたの意図を、正確に汲んでくれるようなともだちがいるんだろう? そんなもんは、どんなに望んだって滅多に手に入れられるようなもんじゃないよ。あんたが羨ましいくらいだ」

「……偶然、からだったんですけどね。あいつと会ったのは」


 別れる間際まで、ただひたすら懸念の視線だけを椋へ向けてきていたクレイの表情を思い返す。

 実質的にはまだ一カ月ちょっとの付き合いだが、その一カ月の間に色々なことがありすぎたというのもあってか、既に長い時間を共にしてきたかのような感覚がある友人だ。あいつにも改めて、色々説明しないといけないんだよな、と思う。

 ジュペスのことについて、これからやるべきことについて。

 そして椋自身が、あんな最低の光景を見た上で下さねばならない、ひとつの決断について。


「だからこそなあ、リョウ」


 ヨルドの声が聞こえてきて、また知らず落としがちになっていた視線を椋は上げる。

 琥珀色をした彼の瞳が、真っ直ぐに椋を見据えていた。


「おまえはそいつとか、それこそカリアの嬢ちゃんや陛下なんかの時々のお遊び相手として、おまえのその頭にあるもんはひとまず封印してひっそりのんびり生きていくって方法もあるわけだ。自分でも分かってるよな?」

「……はい」

「あんたが今日目の当たりにしたのは、言い方は悪いが教会内の氷山の一角だ。結果的に患者を殺しかけたっていうその子よりも過激な反応をするかもしれない奴だって、残念なことだけどあたしは何人も知ってる。そういう過激で、他人、他者の意見を聞き入れないうえに権威としての力も祈道士としての実力もある奴だって、教会の中には結構な数がいるんだよ」

「そう、…なんでしょうね」

「それこそ、あんたたちが見たっていうその子ほどではないにしても他の祈道士だって、リョウ、あんたの考えを聞いたって普通は相手にしてなんてくれないと思うよ。下の若い経験が浅い子ほど、何にでも神霊術が抜群に効いちまうような症例にしか当たらないような仕組みになっちまってるってのもあってね」

「……」


 流れるようなアルセラの言葉に、しばし返しの言葉を失う。淡々と、滔々と述べられていく「事実」は、椋とてなんとなく予想はできていた代物ではあった。

 しかし現実を目の当たりにしたばかりの椋にとっては、確かに恐怖めいたものを改めて抱かせる、背筋に冷たいものが落ちる言葉でもあった。結局事実なんてものを、まったくもって分かってはいなかった、その事実が骨身を噛んでくるような感覚に襲われる。

 拒絶の目、何も聞き入れてはくれない、椋の言葉をただ「音」としか認識しない耳。

 全身から放たれるのはただ排斥と峻拒(しゅんきょ)であり、同時に何に裏打ちされたかも知れない、空虚な自身への絶対の自信だった。

 黙ったままの椋に、更にとばかりにアルセラは続けてくる。


「もしあんたがそのまま、自分の考えること、知ってるっていうことを使い続ければ、確実にまたそういう類の人間に、近いうちにあんたはぶつかることになるだろう。あんたもあたしたちも含めて、誰も本当のことなんて分かっちゃいないんだ。だからこそ教会の祈道士たちは、大抵は自分たちの神霊術を信じ切って疑いもしないのさ」


 事実とは、目の前で示される現実の中に内包されるものであり。

 真実とは、どこかに確かにある「はず」の、現実には随分と曖昧なものなのかもしれない。

 それら二つを簡単に重ね合わせることができるなら、きっと事態はもう少し、椋にとっても明瞭なものになるのだろう。それが果たして良いことなのかどうかは、椋に判別がつくことではないが。

 己の目にした「事実」を元に、自分にとって都合のよい真実を作り上げる。それは誰でも日常的に、意識的にも無意識的にも当然のように行っていることだ。今こうして考えている椋とて、決してその例外ではない。

 未だにどこかで彼の中に、今日の「事実」を受け容れきれていない部分がある以上、その事実こそ真実とする現実が存在するということを理解し納得できない、以上は。


「……でもアルセラさんは、違いますよね」


 そんな中で椋という奇天烈を拒絶しないこの二人は、相当におかしな人間なのだと思う。

 少しだけ軽口めいて言葉を口にすれば、ふっと同じようにどこか楽しげにアルセラは椋へと笑って見せた。


「それはあたしが、そうであることを選んだからさ。ここまで来るのは我ながら、結構に涙ぐましい努力もあったおかげってもんさね」

「だからこそ俺たちは今おまえに聞いてるのさ、リョウ。おまえがそのままでいるなら、おまえの先にあるのは荊だけだ。あんなのは序の口、理解者は、…まあ、少なくともあの、ルルドの嬢ちゃんはおまえを理解しようとしてたみたいだったけどな」


 ヨルドがそう言い、肩をすくめる。思い返すピアの目には、確かにクレイの妹だと、妙に断言したくなるような光があった。

 しかし今椋が彼らに返さねばならないのは、彼女に関しての感想ではない。

 おそれと怖気と、羨望と願い。周囲から向けられる過剰なまでの期待と、それに対する椋自身の先行きと、保持するものの不明瞭さ、曖昧になって抜け落ちていく一方の、学術的な知識の数々。

 自分の言葉のせいで本来受けずとも良いはずの痛みを負わされた少年、普通ならば目にするはずもないだろうものを目の当たりにした少女と少年。きっかけはすべて椋であり、何も考えずに己の知識を紐解いてしまった、誰に何を考慮することもなく、ただ思ったことをぺろりと口にしてしまったが故に起こった事件だった。

 このままここに在ることと、もうどこにも足を向けないこと。

 安定と動乱。相反する欲望はせめぎ合い、簡単には答えなど出させてくれはしない。


「……俺は、」

「ああ、あの少年に対する感情でだけで決めるなんて言うなら止めとけよ、リョウ。重症患者を何度も移動させることになって悪いが、もしおまえがこれ以上は無理だっていうなら、あの患者は俺たちが引き取ってやることもできる」


 ぐちゃぐちゃな胸中を何とか言葉にしようとした矢先、どこか椋を見透かしたかのようなヨルドの声がかぶさってくる。

 あまりにあっさりといとも容易いことであるかのように、普通ならまず有り得ないだろう事柄を当然のように口にする彼に、思わずまた椋は笑ってしまった。


「……ホント、恵まれてるんですね。俺は」

「なんだいリョウ、あんた、さっきも同じこと言ってたろう?」

「おっさんとアルセラさんも含めて改めて、ってことです」


 本当にもう、笑うしかない。一度事実を目の当たりにした、それだけで意志が折れかけるような頼りない情けない人間には勿体無い、とも思う。

 選択を椋の一存に委ねてくれているのは、敢えて何にも拘束されるなと無茶を言ってくるのは、ここで立ち止まれば結局後悔する結果にしかならないと、きっとこの二人は誰よりもよく、もしかすれば自身の経験としても知っているから、なのかもしれない。

 今日目にしたあの「事実」より、椋が一も二もなく引っ込むことを選べるようなある意味簡単な人間だったなら、そもそも椋はこの二人と知り合っていなかっただろう。

 そんな単純明快には、現実は動いてくれないからこそとことん面倒なのだ。心底逃げたいと思いながら、逃げたくないとも同時に強く思ったりしているのだから。

 ひどく軽い口調で、ヨルドがまた笑った。


「なぁに。俺たちは半分くらい、おまえを面白がってるからな」


 だから別に、誰のことを考えて自分の、椋自身の意思にそぐわぬ選択をする必要はない、と。

 選択することを椋へ許そうとする二人は、ただ笑ってそう言う。

 有難いと思うと同時に、どこかでひどく、悔しい、と不意に思った。

 ただ目の前に選択肢を提示され、甘えた幼い、盲目の選択すら許されてしまう現在の自分が、歯がゆい。


「……知ってますよ、それくらい」


 苦笑する。悔しい、歯がゆい、などというのは、そもそも自分の親ほどに年の違う人間を相手に、思うことではないのかもしれない。

 それでもどうにも、今のまま、ただ守られているばかりなのは男として、一人の人間として、どんなに弱くとも「同じ」医療者を志す者として、正直なところ非常に、途轍もなく嫌だと椋は思った。

 今日彼女に植えつけられた、多大な恐怖と憤り、一切の理論が通じない、こちらの理屈が言葉として届かないというひどい無力感と絶望にも近いものは消えない。「異常」だとしか思えないこの世界の、今のところの絶対の事実に対する嫌悪も椋の中には確かにある。

 さらには自分自身という得体の知れない、曖昧なものと戦い続けなければならなくなることに対しての不安など、決して消えるわけもない。

 何を知り何を学び、誰の何のためにどう進んでいくべきか。同じことを二度と繰り返さないために、どうやって「この先」を見据えていくべきか。答えなど、椋自身を含めて誰も知らない。

 しかし、そんなひどいまでの曖昧と嫌悪、恐怖の上でそれでも嫌と言うなら、負けたくない、先へ進みたいと、医者になりたいという自身の願いが、患者のために存在する人間でありたいという感情が、他の何をも凌駕すると言うのなら。

 もはや椋の目の前には、その手にすべき選択肢は。

 迷うこともなくひとつしか、当然のように、残っていない。


「だから、」


 静かにひとつ、深呼吸する。

 椋を見守るふたつの視線に、改めて真っ直ぐ、向かい合う。


「だからこそ。俺はおっさんたちにちゃんと顔向けできる、……ちゃんと、これができる、これがやりたいんだって、胸張ってられるような人間でいたいんです」

「ほぉ?」

「じゃあリョウ、あんた」


 少しだけ驚いたような、二人の表情を見る。その顔がどこか嬉しそうにも見えるのは、きっと椋の気のせいではない。

 恐怖はある。ありすぎる。それこそ本当に山積みだ。何しろ今日の彼女の表情を思い返そうとするだけで、背筋どころか思考が一瞬凍ってしまう。

 水瀬椋という存在の、持つ何が誰にどう作用するかなど未だにまったく分からない。これから何を使用し誰に師事を乞いどれほど多く何の勉強をしてみたところで、思考の根底がどこかで確実に食い違っている椋にはきっと、その「差異」は完全に見通すことはできないのだろう。

 それでも。


「もし今ここで、家に帰してくれって喚いて戻れるならいくらだって喚きますけどね。生憎、そんなことは絶対あり得ないと経験則で分かってしまってるので」

「……おやおや」


 二人の視線が、やわらかい。

 だからこそふたりに、椋は小さく肩をすくめる。もう、十分すぎるほどに椋は嘆いてしまった。とうに成人式だって終えたはずの男が二度も、みっともなく泣き喚いて、誰も持ち合わせてなどいない解決法を寄越せと大声を上げた。

 ただのガキならまだそれでも、それだけで何を先に続けずとも許される部分はあるかもしれない。

 しかし椋は、もう子どもではない。完全な大人とも無論言えないが、張りたい意地だってそれなりには持っているのだ。

 よって、椋は目の前の二人へと笑った。

 恐れも希望も全て呑み込んで、笑う。


「俺は、逃げたくありません。……いや、正直本当は逃げたいんですけど、責任なんて負いたくないとも思うんですけど。でも、ここで今更そういうもの全部に背中向けるのって、色んなものに思いっきり負けたことになる気がするんですよ」

「ふむ、まあ確かにそうかもしれんな。で?」

「今はまず、ジュペスの、今日おっさんに助けてもらった彼の救命に、全力を尽くしたいと思います。おっさんとアルセラさんの力が借りられないなら余計に、滅茶苦茶な治療方法しか実行できなくなりますけどね」

「滅茶苦茶って?」


 訊ねられることを、予測していた問いがアルセラから投げられる。

 本当にそんなことがおまえに、できるのか? ――心のどこかで響いてくる弱気を捻りつぶして、椋は答えた。


「もちろん本人の自発的な望みがあるって大前提の上でのことですけど、……可能性としておそらく最も高いのは、彼の、腕を切断することです」

「お、おいおいリョウ、さすがにちょっと待て。ほかの方法は本当に考えられないのか? それ以外は、絶対に無理なのか」

「無理、だと思います。他の方法を試すには、時間と俺の経験と理解と実績と協力者、何もかもが足りなすぎるんですよ」


 首を横に振るしかない自分が、歯がゆい。自分の無力が、無知が、こんなところにもまた波及してくるのが悔しくてならない。

 切断という選択が、このふたりであっても「避ける」ことを大前提に考える治療方法なのだということは二人の表情を見て改めて良く分かった。

 むろん椋としてもそれは、可能であるなら思考の範囲に入れたくなどなかった「最終手段」としての、リスクの非常に高い治療法だ。

 麻酔のない、抗生物質もないという条件下での局所切断の成功率は確か、良くて五分。しかし、だからといって魔術という効果効能が未だに「仮説」でしかないものを、扱う人間によっても著しくその効能の度合いが変わってしまう不安定なものを、あんな状態の患者に「複数」使うのは果たして可能なのだろうか?

 椋の言葉に一方のヨルドたちは、苦み走った表情で何を返してくることもなく沈黙した。

 本当になんで、こういうことにしかならないんだろうなあ、と。

 思いつつ静かに、椋は己が紡がねばならぬ言葉を続けた。


「たとえばおっさんたちが二人がかり、いや、それでも足りないかもしれない。祈道士と治癒術師、どっちも何人もつきっきりで彼の治療に当たれるなら、まだ別の方法も考えられないこともないんですけど」

「……」

「そんなのあまりに、現実味がなさすぎるじゃないですか。……それにそもそも俺は、一人の病人には最大、どれくらいの術をどれくらいの数、どれくらいの頻度でかけられるかっていうのも知らないんですよ」

「……それは」


 答えを求めた言葉に対し、二人から返ってきたのは何かをわずかに言い淀むような沈黙だった。

 しかし椋を見据えてくる、決してそらされることのない二人の目には確かにその問いに対する「答え」があるように見えた。二人分の沈黙は、予想外なことを、考えたこともなかったようなことを言われたときの反応ではないように思えた。

 果たして、ややあってから小さなため息とともにアルセラがゆるりと、口を開く。


「……重症の患者には基本的に、一人の術者しか治癒には入っちゃいけないことになってるよ」

「どうしてですか?」

「おまえはもしかすると、俺たちの言葉を聞いても俺たちとは別の解釈をするかもしれないがな。魔の競合、と、それをやったときに起こる現象を俺たちは呼んでる」

「魔の、競合?」

「重症患者に対して、二人以上の術者が治癒魔術を使うとな。それぞれの術が妙な具合に無茶苦茶に患者の中で絡み合っちまってな、かなりの高確率で、患者が命を落とす」

「……」

「だから原則禁忌なんだよ、複数の術者が同一の患者に治癒魔術を施すのは。逆にそうしたからこそ助かった例もいくつかあたしたちは知ってるけど、そんなのは正直、そうできた原因もよく分からない例外中の例外だ。迂闊にあてにできるような、頼もしいもんじゃない」

「……そうですか」


 疑念を解こうとしたはずが、また一つ分からないことが増えてしまった。

 しかも二人の答えによって、さらにジュペスに対しても可能な治療法の選択肢が狭まってしまった。


「重症の患者には禁忌、ってことは、そんなに重くはない人間なら二重三重の術の発動にも耐えられるってことですか? それとも「複数人」の魔術が、ひとつの身体に入ることそれ自体が問題なんですか?」

「前半が正解だ。ある程度の患者までは、むしろ二重三重で治癒魔術を発動させた方が回復の度合いは上がる」

「頻度については正直、何とも言えないね。一人の魔術師がいくつもの術を連続で患者に発動させるのはそれなりに良くある話だけど、魔の競合のこともあって、それぞれ違う人間が、それこそ神霊術も治癒術師のほうの治癒魔術も混合して施術を行う、なんてのは聞いたことがない」

「……」


 聞けば聞くほど心なしか、胃のあたりが微妙に痛くなっていくような気がする。

 きっと気のせいだろうと自分を誤魔化しつつ、椋はひとつ息をついた。


「俺の知ってる治療法の中でも、勿論四肢の切断は本当に最後の手段です。俺個人だってできる限り、誰かの手足が不自由になるような状況なんて作りたくない」

「でなきゃ、あんたはこんなに悩んだりもしないだろうさ、リョウ」

「はは。……それに今日、俺にブチ切れたあのマリアって子が言ってました。四肢の切断は神への、ひいては個人の尊厳に対する冒涜だって」

「ああ。そうだな」

「でも俺は、それ以外の方法を知らないんです。重症患者への二つ以上の術の使用が、その「魔の競合」ってやつを起こす可能性があるなら、余計に」


 一つの力が足りないなら数で――そんな甘い考えもまた、あっさりとこの世界では潰されてしまう考えらしい。術の連続発動が可能な頻度についても不明、何とも今しがた進むと決めた、目の前の道は真っ暗だ。

 だからといって今のまま、何もしないわけにはいかない。

 ピアたちの家にずっとジュペスを置いておくわけにも、彼女らに治療を任せるわけにもいかない。なにしろ。


「今のジュペスに対する神霊術の単独使用が禁忌だってことは、皮肉にも彼女が俺たちの目の前で証明してくれちゃいましたしね」


 笑おうとして、しかし笑えない。ジュペスの悲鳴が、今でも耳の奥にこびりついて離れない。

 あんな腕の状態で血流が、代謝が活性化すればどうなるかなど、最初から見え透いていた。

 だからこそ一刻も早い腕の切断が必要なのではと椋は思い、…何を考えることもなく不用意に口にしてしまったその考えが、この世界の法則にどこまでも忠実であろうとする人間の逆鱗に、触れてしまった。

 やれやれと、椋の言葉にヨルドが息を吐いた。


「かといって、俺も治せなかった奴があれにまともに立ち向かえるとはとてもじゃないが思えない、か。……まったく、こんなことならもう少し、癒室(うち)のやつらを鍛えておくんだったなあ」

「あんまり部下たちに無茶をするもんじゃないよ、ヨルド。あんたがそんなだから、治癒術師がなかなか増えないんじゃないのかい?」

「何だ、俺のせいか? ……まあそれは今はいいか。リョウ、本気なんだな?」

「…はい」


 何度しっかり決めようとしようと、どうしても震える語尾は無視して椋はしっかりと頷いた。

 嫌だしとんでもなく怖いが、しかし椋は逃げたくない。逃げられない。今ここで他に何ができるわけでもないというのに、逃げることを自身に許したくなかった。

 そんな椋の様子に、どこか面白げにふたりは笑った。


「まったく。これで用事さえなけりゃ、あんたもろともその患者ってのを、うちで引き取りたいくらいだよ、リョウ」

「心底から本当に惜しいよなあ。俺もおまえも知らない症例だぞ? どういうことなのか、おまえがどんな治療をしようとするのか、一から十まできちんと見守りたいところだってのになあ」

「はは…」


 敢えて明るくしてくれているのだろうふたりの言葉に、椋は苦笑しか返せない。その実行が無理だと分かっているからこその言葉だと、椋もまた分かっているからだ。

 彼らがいつどこの他国へ向かうのかなど、椋にはおそらく知る由もない。

 確かなのは、彼らの助力は仰げないということ、自分と、本当に協力してくれるというのならばピアと、リベルト。その三人だけで全ての片をつけなければならないということ、だけだ。

 どう考えても荊しか見えない道先に、もう一度椋は苦笑した。逃げたくないというのなら、真っ向からそれら荊とも向かい合う以外に方法はない。

 軽く腕組みをしたヨルドが、不意にその表情を真剣なものへと変えて問うてきた。


「しかしリョウ。腕を切断するなんてことになれば、本当に相当な大事だぞ。そんなことを実際やったとして、おまえは患者をちゃんと助けられるのか?」

「絶対に助けられる、とは正直、言えません。ジュペスにはそういうことも含めて、全部説明したうえで自分で、選んでもらおうとは思ってます」


 椋が元いた場所においても、麻酔が発明される以前に行われていた手術は、ジュペスと同じように壊疽を起こした四肢の切断が最大だった。

 しかも麻酔なしの四肢切断は、当然のように激痛と大出血を伴う。その双方から来るショックによって、さらには術後の傷口からの感染によって、手術の成功率は先ほども言ったように、五分が良いところだったらしい。

 だがここで、迷っていられるような余裕は椋たちにはないのだ。探さねばならないものは多く、時間は絶対的にどこにも存在していない。

 それに、もし手術が成功したところで、四肢の欠損が厭われるというこの世界に、果たしてあちらのような義肢というものが存在するのか。存在しないとなれば作るしかなくなるだろうが、それは一体、誰にどう頼めば実現できるものなのだろう?

 問題だけが山積みで、頼れる人間などほとんどおらず。

 それでも今ここで椋が動かなければきっと、ジュペスはそう遠くないうちに命を落とすだろう。

 あの時ああしていればなどという、後で思い返したところでどうしようもないような後悔など、椋はしたくなかった。


「だが、止めないんだろう? おまえは」

「俺が逃げないとなると、結局そういうことにしかならないですから」

「根っからのお人よしでバカだねえ、あんたは」

「そういうダメなバカじゃなきゃ、こんな場所でも医者になりたいなんてまず考えないんじゃないかと、俺は思います」


 表面的には呆れたような言葉を吐きながら、しかし椋を見守る二人の表情はどこまでも優しい。

 欠片も見とおすことなどできない先行きの暗さに眩暈さえ覚えつつも、それでもやはり、逃げたくないのだと、逃げたいけれど逃げたくない、今目の前にいる彼らに対し、少しでも、胸を張って誇れるような自分でありたいのだと。

 心の底から改めて、椋はひとり、思った。



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