P2-12 黒の哭笑
「…しばらく顔を見ないと思ったら、まさかそんな騒ぎを王宮で起こしてるなんてね」
呆れたような、しかしそれすらも楽しんでいるような。
一言でこうと形容してしまうにはひどく分類の難しい笑みを浮かべ、アルセラはまっすぐに椋を見据えた。
様々なものが引き起こす自己嫌悪にうんざりしながら、ようやく一通りの説明を、おそらくこの場にいる三人でなければ理解はできないだろう「詳細な」説明を今の椋は終えたところだった。なんであんなことに、どうしてあんなことが。説明の間にも、ぐるぐるとずっと思考を巡っていたのは無意味などうしようもない、ただひとつの問いの言葉だった。
そしてそんな椋の説明を、全て聞いたアルセラの第一声が、先ほどのざっくりとした一言である。
好きであんな騒ぎを起こした訳じゃない。思わず言い返しそうになって、しかし口にする前にぐっと自分の中だけでそれを椋は押しとどめた。
「ま、アイネミア病のときにおまえを見つけてから、遅かれ早かれ、いつかは何かしでかすだろうとは思ってたからな。…それが単に、今日だったってだけの話だ」
アルセラの言葉に応じるヨルドの態度は、一言で言うならば「相変わらず」である。それはあの場に彼をクレイが呼んできたときも、軽い腕組みをして椋を眺めている現在においても同じだ。
分かってたなら、もっときつく忠告してくれよ年長者。
完全に八つ当たりなことをわずかにだが考えてしまう椋をさておいて、ヨルドの言葉にアルセラが頷き、小さく笑った。
「しかし、どうして今日に限って、あたしに王宮に行く用事がなかったのかねぇ。ほんとうに神霊術が効かないどころか逆効果になる場面なんて、まず見られるようなものじゃないのに」
「アルセラさん、……そんな、見世物か何かみたいな言い方」
「勿論あたしだって祈道士だ、命を助け、魂を救うことこそが本懐だよ。だからこそ、あんたたちの言う、神霊術の不可能ってもんを直接、目にしておきたかったってことさ」
「……」
さらりと当然のように言い切られる言葉に、返せるものなどあるわけもなく椋は口をつぐんだ。
本当に最底辺に近いところにまで、自分の精神が落ち込んでいるのを感じる。だっていったい、誰が想像する? 相手に求められて自分の知識を少し紐解いたら、そのせいで一人、人間が目の前で死にかける、などという狂ったような事態を。
言われたところでそんな馬鹿なと、まず現代人ならすぐさま笑い飛ばすだろう。
当然だ。多彩に別れたそれぞれの分野に、専門家などというものはそれこそ現代には星の数ほどにいる。
多くの書籍にもネット上にも、ひとたび調べ、学ぼうとしさえすれば、情報などというものはごくごく簡単に安易に、正当にあっさり手に入るものとして存在していた。
情報の正確さや真贋、および各種情報の漏洩は折に触れて目にする、おそらく日々どこかで起こっている身近で分かりやすい恐怖だ。しかし情報それ自体が恐怖になる、誰かの命を奪うようなものになる、…そんな現実を一体どこの、ごく普通の、特にうだつが上がるわけでもない医学生がまともに想像できるものか。
苦しい。
アイネミア病と相対していたときとはまた違う種類の苦さと息苦しさ、全身を容赦なく冒していく嫌悪感に何もかもを発作的に投げ出したくなる。
「……っ」
帰りたい。戻りたい。こんな場所にもう、いたくない。
ひどく強く、焦がれるように願う。願っただけでは叶わないことなど知っている、血がにじむほど願ったところで、それが叶うことなどないと分かり切っている。
誰に言えるわけもないと、誰に言ったところでその相手を困らせる事態にしかならないと、知っている。
だからこそ今、つらい。
苦しい。痛い。気持ちが悪い。
吐きそうで、どうしようもないようなバカなことを喚きだしてしまいそうで、自分の内側にぐるぐると途轍もないものが、とぐろを巻いて滅茶苦茶に欠片の規則性もなく回転しているような気がする。
「結局患者は無事だったのに、おまえのほうが死にそうな顔してるぞ、リョウ」
「べつに、元からこういう顔です。…気にしないでください」
「そんなひどい顔されちゃ、これ以上あんたを叱り続けることもできないじゃないか、あたしたちは」
「俺が悪かったのは、分かってます。怒られて、説教されて当然だってことも」
――知らないよ、知ったことかよ。
口では理解したような言葉を叩きながら、その実椋の胸中に満ちているのは、悲惨と形容する以外にどうしようもないような理不尽への憤りと痛苦ばかりだった。
あまりにも、椋の持つ現代医学知識が今日引き起こした事態は彼にとって、めちゃくちゃだった。あまりにもこの世界の医療の「絶対性」は、不気味すぎて鬱陶しくて宗教めいていて、いや違う宗教に密接しすぎていて完璧だと当然のように思いこまれていて心底から吐き気がした。
なんで、なんで、いったいどうして。
ひとつの治療法を可能性として否定しただけで、その患者当人が死にかけるような事態に、なるんだ。
「悪いのは、……俺、で、」
出口などない感情の濁流に、利口なままで続けようとした言葉は途切れて消え失せた。
世界が違う、この世界には科学という考え、そのものがまだきちんと発達してはいない。
そもそも魔術という、それこそすべての法則を超越してしまい得るものが実在するため、ただ魔術で身体が治る、それでおしまい。神秘の力で傷病から回復する、何と素晴らしいことか。
そこで思考は、止まってしまう。かみさまという絶対者が、奇跡をただ奇跡と断じてしまう。
だから術を施した患者の経過や、術式の効果の発現経路、身体への個々の作用機序を詳らかにするような動きは、起こらない。そんな意識は基本的に湧きあがらない。奇跡が魔術が、理論立てた説明の必要性を軽々と飛び越える。
なんで。助けられなかった人がいたじゃないか。
どうして。怪我を治すどころか、全身状態が一気に目の前で悪化していったじゃないか。
「……は、は、」
そこまで軋む思考の内で、何とか考えた、そのとき。
何かが音もなく瞬間、椋の中で崩れて落ちた。
結果として押し出されてきたのは、まともで冷静で優等生な言葉ではなく、ただ奇妙に引き攣ったひからびた笑いだった。
帰りたい。戻りたい。こんな無茶苦茶な場所に、いたくない。
願ってもどうしようもないことだけ、目の前にチカついて本当に鬱陶しい、――吐きそうだ。
「はは、……ははは」
「リョウ?」
出口を失った感情に、喉がいびつに痙攣する。驚いたような、怪訝な二つの視線を向けられているのは分かっているのに、声が止められない。
おかしいわけでも何でもないのに、勝手に震える声帯が、異様な笑いを、形作る。
「は、ははは、…はは、ははは」
「リョウ、…ちょっと、あんた」
その笑い声は確かどこかで、聞いたことがあるような気がした。
今日のあのとき悪夢の中で、似たようなものを、たしかに、聞いた、
「ははははははは、…あっははははは、はっはは、ああああああ畜生ッッ!!」
壊れたレコードのような笑いは、気づけば怒鳴るような罵倒の声へと取って代わっていた。
彼らにそんな言葉をぶつけてもどうしようもないことなど理性では分かっているのに、一度堰を切ってしまった暴言の濁流は止まらなかった。
「ふざけるな、…ふざけんな、何の冗談だ、何処の大バカだ! 完全な治療、完璧な治癒、神様からの保証があるから絶対? ……いいかげんにしろよ!!」
それがこの世界にとって、ごく当然のことでしかないと知っているのに。
この世界に医者などいないことを、治癒職として存在しているのは祈道士と治癒術師の二つしかなく、そのどちらも「人を癒せるもの」であるという意識しか、誰にだって存在していないことも分かっているのに。
それなのに。
「人間は生き物だ。同じじゃあり得ないものだ。いつ、何がどう作用してどんな結果になるかなんて、誰が絶対に外さない予想なんてできる!?」
言葉が。
本当ならば何が何でも、自分の内に押しこめて、一人でただ考えるしかない罵倒が止まらない。
あふれだす言葉の何もかもが、あまりに醜くどうしようもないことにめまいがした。
それは目にしてしまった事実のあまりに受け容れがたさに、発されるただ自己を正当化しようとするだけの押しつけ、全てに対する子供じみた絶対の否定の言葉だ。自分の無罪を、相手の罪を、誰かに認めてほしい一心で口をつく、弱く幼く、本当にどうしようもないくだらないそれだけの言葉だ。
目の前の二人の姿が歪む、二人の向ける表情が、まるで椋を憐れんでいるかのようなものであることに気づいて、瞬間ひどく椋はいたたまれなくなった。
そんな下らぬ道化でしかない、自分に改めて絶望する。なんで? どうしてそんなことになる? …俺がこの世界にとって、どこまでもただの異分子、本当はいなくていいはずの存在でしかないからか。
椋は、笑った。哂った。ぼろりと何かが両目から落下した。
がなりたてる喉が痛い。痛いのに、さらにその傷口を引き裂くように酷過ぎる言葉が椋の喉をついた。
「自分が神様か? 自分の手は完全か。……ふざけるな、宗教も何も知ったことか。現実を見ろ、事実を理解しようとしろ…っ!」
――ああ、現実を理解しようとしていないのは。
こんな言葉を自分の理解者に対して吐き捨てている、俺にしても全く同じことか。
冷静な一部がどこかでひどく、冷たくそんな感覚を落とす。しかしそんなつめたさ程度で、今更噴き出してしまったものの、蓋は閉じられない。
めったに出さないような荒い大声に、声はあっという間にかすれた。思わずごほごほとその場で咳き込み、しかしそれでもまだ何かを、椋は確かに口にしようとした。
けれど。
「リョウ」
最後のひどい言葉は結局、声にされることはなかった。
目の前が突然、暗くなった。頭を抱え込まれているのだと、自身の状態を椋が理解するのにはしばらくの時間が要った。
それが分かったのは、絶対に男にはありえない柔らかな肉質の感覚と、すぐ上から落ち目の前からひびいてくる、再度の彼女の声を聞いたからだった。
「……もういい」
それはわずかに語尾の震えた、どこか泣く寸前のようにも聞こえる声だった。カチリと奥歯が不隠に震え、半ば反射的に強く、椋は歯を食いしばった。
さらに彼女、アルセラは椋へと、声を、言葉を落としてきた。
「リョウ。確かにあんたは今日、大きな間違いをした。……でも、そこまで自分を責める必要はない。ないんだよ、リョウ」
おちてくる言葉は、伝わってくる体温はただただ、温かかった。
ただでさえぼやけていた両目の奥にさらなる痛みと熱を感じ、それら感覚から逃げるようにきつく椋は目を閉じる。ただでさえとんでもない醜態を見せてしまっているというのに、これ以上どうしようもない自分を二人に晒したくなかった。
ぽんぽん、と、なだめるように別のなにかが椋の頭を軽く、叩く。非常に不本意ながら、その感触が何であるかを椋は既に知ってしまっている。
それは、ヨルドの手のひらだ。
多くの年月を歩んできた、椋には及びもつかない「大人」の、掌だ。
「あれからずっと黙りこくってるから、どうしたのかとは思ってたが」
「……」
「一人で、一気にそこまで抱え込んだか。おまえは。……ったく、若造が一人前に無理しやがって」
「――っ、」
反射的に口をつこうとした、反論の言葉は結局また声帯を奇妙に震わせるだけに終わった。
結局喚いて嘆いて、泣いて、慰められる、ばかみたいだ、俺は、
「リョウ。あんたの常識からすれば、それは本当にさぞかし、滑稽で馬鹿馬鹿しい光景だったんだろう。……いや、馬鹿馬鹿しいなんてもんじゃないか。あんたにとってはただの、悪夢以外の何でもなかったんだろうね」
「……俺、は」
感情があまりにごちゃごちゃしすぎ、浮かんだと思えば消えていく何一つとしてまともな言葉になろうとしない。
結局は最底辺に渦巻く、自己嫌悪感だけがさらに増悪する。これが他人事なら本当にいい加減にしろと、いっそ笑ってやりたくなるような事態だ。
なんで俺は、何もできない。
たとえ道具としての力は手に入れることができても、たったひとつの「不注意」だけで患者を死に追いやるようなことをしてしまうような自分。本当ならそんなことはないのに、こんな世界でなければ、こんなところにいなければ、絶対にそんなことは起こらないのに。
……ああ、これはまた逃げか。
そう、椋はこの現実から逃げたい、逃げたかった。
「俺、は、」
礼人のバカ野郎。ぐしゅりとゆがんだ暗い視界で椋は思考した。
そもそもおまえがこんなひどい、どうしようもない設定さえ考えたりしなきゃ、ここは。
「なあリョウ、ひとつだけ聞かせてくれないか。今日は、これ以外の質問はもう、一切俺たちはおまえにしない」
「……質問?」
不意にヨルドが、言葉を落とす。
すみませんもう大丈夫ですと、かすれ声の断りとともにそれまでずっと彼の頭を抱き込み続けていたアルセラから椋は身体を離した。男としては相当に美味しい状況だったはずなのに、何も感じないどころかある意味余計に落ち込んだだけなのは、結局はどうしようもないと早々に諦める。
グイッと乱暴に両目を拭い、すぐ傍らに立っているヨルドを椋は改めて見上げた。
しかしわずかに何か躊躇うように、ヨルドはすぐには何も言わずにアルセラと顔を見合わせた。アルセラが目の端で彼へとひとつ頷いて見せる、ふっと、どこか重い息をヨルドが吐く。
そして何かを思いきるように、まっすぐにヨルドは椋の目を見下ろした。
いつものそれよりわずかに低い、淡々と何かを確認するような声が次には、降った。
「そんな無茶苦茶と理不尽を目の当たりにして、おまえはこれから、どうするつもりなんだ?」




