P2-11 見えぬ行方、辿れぬ家路
ひどい顔をした友人の、背をただ見送ることしかしなかった。
それ以外に彼に許されることなど、なにもなかったのだ。
おそらく現在の己のそれより、見知った家路を黙って歩く。
歩けぬような距離でもないし、そもそも何がなくとも馬車を使えるような高名な貴族というわけでもない、というのが彼女、ピアレティス・ルルドの両親たるルルド夫妻の言である。
それなりに久方ぶりに再会し、彼女の家路を送って行く途中。しかしクレイと、彼の妹であるピアとの間にはしばし会話はなかった。
とある事情により今は家名も違っているため、そう頻繁に会うこともできない「妹」。まさか彼女との再会が、こんな顛末になろうとはつゆとも、クレイは思ってなどいなかった。
こんなかたちでピアがあの男とかかわりを持つことになるなど、…まさか、誰が考えなどするものか。
「兄様。……よろしかったのですか?」
彼の思考を知ってか知らずか、ひどく心配そうな声とともにピアはクレイを見上げてくる。
彼についていかなくていいのか、彼を一人にしてしまってもいいのか。
言外にそう問うてくるピアの碧い瞳に、しかしクレイが返せるのは苦笑しかなかった。
「よいも悪いも、俺は必要ないとそう、ヘイル様には仰られてしまったからな」
「……」
悪いな、俺はリョウだけに話があるんだ。
一見すれば鷹揚な声と態度で、しかし実際に紡がれた言葉は拒絶だった。あらかたの処理を終え現場へ、リョウたちの元へと戻ったクレイに告げられたのは、ピアたちも含んだ「他者」の排斥の言葉だった。
そしてその言葉の中心たるリョウ本人もまた、彼の言葉に抗うようなそぶりは、おくびにも見せていなかった。
おそらく今頃リョウは、彼の…或いは「彼ら」のお叱りを受けているのではないかとクレイは思う。
元はと言えばすべての責は、部外者たるリョウを自分勝手な理由と意思によってあの場へと引きずってきた自分にあるというのに、だ。
「兄様。わたし、兄様にお尋ねしたいことがたくさん、ございます」
少しの沈黙ののち発されたのは、わずかに何かを、思いきったようなピアの声だった。
前方の帰途へと、向けていた視線をもう一度己の側へと戻す。すぐさま目に入るまっすぐな眸は、幼い時から微塵も変わりはしない、どんな安易な嘘もこちらに許さないものだ。
ふっと、小さくクレイは息を吐いた。そうだろうな、応じる。
「俺の答えられる範囲でなら、な。…リベルト。おまえもだ」
「は、…っ、で、ですが」
「そう固くなるな、リベルト。俺は確かに今はオルヴァの者だが、ケルグレイス殿とアピス殿への敬愛には今も、変わりはない」
肩に妙な力が入ってしまっているリベルトを眺めつつ、今はもうおいそれと会うこともかなわなくなってしまった、自分という存在を育て上げてくれた人々をクレイは考える。
そうする以外に選択肢などなかったと言ってしまえばそれまでだが、しかしできることならば、やはりルルドの名を持ち続けていたかったと時折、思うことがある。現在の名を得たことで手にした多少のものと比較しても、その結果として失うことになったものはやはり、あまりにも大きいのだ。
そんなクレイの思考など知らず、リベルトは勢いよくその首を横に振った。
「いいえ。そのような色々なこと以前に、俺にとってやはりあなたは、尊敬すべき兄のような存在ですから」
「まだ、そんな事を思ってくれていたのか。おまえは」
「そんな、とんでもありません。この間もまた昇進なさったんでしょう? やっぱりクレイ兄上は凄いって、俺だけじゃなく、みんな、」
思わず苦笑するクレイに、さらにと目を輝かせてリベルトは言い募ろうとする。随分成長したと思っていたのだが、どうやらそういうところは相変わらずのようだ。
どこか幼くも純粋なその目に妙なくすぐったさのようなものを覚えていると、ふと、ひどく楽しそうにピアが笑った。リベルト、名前を呼ぶ。
「兄様の、呼び方が戻ってしまっているわよ、リベルト」
「え、っあ」
「クレイ兄上」。確かにそれは今は表向きには、誰も口にする者などいない呼び方だ。
少し昔、まだクレイが彼女の兄であると当然のように名乗れていたときに、幼いなりの敬意をこめて彼らが呼んでくれていた名前だった。今はその末席としてであっても、下賜名持ちの大貴族の家名を持つクレイである。公の、他人の目がある場ではおいそれと受け取れるものでは、ないのだ。
だからこそピアの指摘に、いかにもしまったと言いたげな表情を浮かべたリベルトにクレイは笑った。
素直な彼の性格はやはり、先ほども思ったことだがちっとも変わっては、いないようだ。
「ピアは随分、頑張っているらしいな」
少しだけクレイは話題を変えた。あまりにリベルトが、あからさまに困った顔をしていたからだ。…その表情を眺めているのも、なかなか面白かったのだが。
やや不意打ち気味に己へ向けられた話題に、少し驚いたような表情をピアは浮かべた。
だがクレイとて、無論何の根拠もなくただ妹可愛さでそんな言葉を言うのではない。今年新たに祈道士となった者たちの中でも、特に患者に寄り添おうとする意思の強い、患者に慕われるひとりなのだと。ここ最近、ジュペスのこともあり足をのばすことが多くなったあの場所で、クレイはたびたび、耳にしていたのだ。
彼の言葉に、しかしピアが返してきたのはあっさりとした、笑顔と否定だった。いいえ、首を横に振って彼女は笑う。
「兄様にそう言っていただけるのはとてもうれしいのですが、わたしはまだまだ、凡庸ですから」
「ピアレティス様、そんな」
「だって本当のことだもの。意味が理解できない術や、わかっていても使いこなせないものもまだまだ、多くて」
おそらくリベルトからすれば、ピアの自身への評価は正当とは言えないものなのだろう。声を上げようとする彼に、しかしやはりピアは笑顔のままでさらに、首を横に振るのだ。
そしてそんな彼女の様子に、今まで一度も考えたことがなかったようなことをふと、クレイは思った。
「おまえのそういうところは、すこしリョウに似ているかもしれないな」
おまえはすごいと言われるたびに、何バカなこと言ってるんだと、俺はまだまだ全然だよと、そう言って笑うリョウの姿と一瞬、ピアの姿がだぶって見えた。
おそらく奴の志すものと、ピアが現実に望むものが近いから、なのか。自然にそんなことを考えた自分に、誰よりクレイ自身がまず驚いた。
唐突に飛び出したこの場の誰でもない「彼」の名に、きょとんと碧の目を見開くピアへと、さらにクレイは静かに言葉を続けた。
「ピア。おまえに嘘をついていた、というより、本当のことを言っていなかったことについて言い訳をするつもりはない」
「にい、…さま?」
本当はそう、大々的にこの大切な妹をよその男なぞにクレイは関わらせたくなかった。しかしあんなことが起き、そしてピア自身がジュペスの身柄を引き受けると決めてしまった以上、今更何を隠してみたところで、ただひたすらに無意味なだけだ。
ピアは知らない。二人があの奇妙な黒と出会ったあの日の後、クレイが継続的に彼の勤める店へと通い、下らないやり取りを交わす友人同士になっていたことを。
彼女は知らなくて当然だ。唯一のそれに関する情報源であり得るクレイが、決してそんなことはおくびにもピアに対して、出さなかったのだから。
「あまりおまえと、奴を関わらせたくなかったからな。…なにしろリョウはあの通り、色々な意味で、本当に妙な奴だ」
「そんな、兄様」
わずかに非難めいた視線を、ピアがこちらへ向けてくる。しかしここは兄としては譲れないところなのだ、どうしようもない。
そんな二人の様子を眺めていたリベルトが、不意にどこか楽しげに笑った。
「相変わらずピア様に関しては、どんな人間に対しても手厳しいんですね、クレイ兄上」
「仕方がないだろう。何しろ相手があんな男だぞ」
「兄様。そんな、リョウさまをひどいお方みたいに」
さらにピアの、こちらへと向けてくる視線が非難の色を帯びる。
ひどい方。確かにただ表面的に見るならば、それは奴を形容するものとして使用するには明らかに不適切な言葉であろう。だが。
「ある意味では本当にひどい男かもしれないな、あいつは」
「え?」
「俺たちにとっての当然普遍を、あたかもそれが当然であるかのように否定する。それがリョウ、リョウ・ミナセという人間だ」
「兄様?」
「クレイ兄上?」
あの黒い青年と出会ってからというもの、何かと非日常な出来事にばかり巻き込まれている気がするのはおそらく、クレイの気のせいではあるまい。
ふとした瞬間の言動が途轍もなく珍妙な友人は、しかし本来の騎士ならば、それこそオルヴァ家の位階持ちの騎士であるならば当然のように持っているはずの何も持ってはいないクレイをそのまま受け止める。こと治癒に関することにはもはや、異常と言いたくなるほどの知識を持ち、常に暢気で緊張感のない顔をしているくせに、その方面に関することにだけは表情も目の色も何もかも、時にはがらりと変えて見せる。
現在二十であるクレイより三つ年上だという彼は、しかしいつもは本当に、そんな年なのかと言いたくなるほど妙に子どもっぽい。
緊張感のない、どこか間の抜けた顔で。
おそらく今まで誰も考えたことなどないだろう事柄を、今日のように当然のようにぺろりと口に出してくるのだから本当に、厄介なのだ。ある意味では。
「俺が今日あいつをあの場所へ連れていったのは、結果として惨い仕打ちを与えることになってしまったあの患者、ジュペスを蝕むものの正体を、奴ならつかめるのではないかと思ったからだ。他の誰が分からないと匙を投げたとしても、奴なら或いは、とな」
「それは」
「あの事態を目にした後なら、なぜジュペスの状態が好転しなかったのかも分かるだろう。……そして実際に奴は、そんな、本人含めだれも分からない、ジュペスを蝕むものの正体を知っていた」
「……っ」
紡ぐ言葉が、祈道士を、ひいては己の妹を、そしてかつては弟のように可愛がったリベルトを否定することにつながるのは分かっていた。
分かっていながら、しかしクレイはあえてそれを口にした。
ひとつ事実を口にして、その程度でこちらを毛ぎらうような軽々しい人間では決してピアは、ないからだ。リベルトとて同様である。
祈道士ではジュペスは治せなかった、治せないどころか悪化させた。その事実はただ厳然たる事実として受け止める器がなければ、彼女らふたりが今もなお、クレイを兄と呼び親しむことなど絶対にありえない。
果たしてピアは、そしてリベルトは絶句した。絶句し、どこか苦しげな表情をふたりは浮かべ、…しかしその中に、あのときの少女、マリアというらしい彼女が浮かべたような場違いな嫌悪感、排斥の感覚はどこにもない。
ふっと、クレイは軽く息を吐いた。
「ピア、リベルト。おまえたちが明日からルルド家へ呼びこもうとしているのは、そういう男だ」
クレイは決して、あの奇妙な黒の男が友人であることを後悔などしていない。
今日の騒動にしても、あれは元はと言えばクレイの無知と認識不足、ジュペスの怪我に関する知識のなさと、リョウの異常性に対する「他」が抱くであろう警戒、排斥など、おおよそ負に分類される一切の感情に対する認識の不足が招いた結果だ。クレイからしてみれば、すべての叱責を受けるべきは間違いなく己であって、決してリョウではなかった。
彼が異常であることは、もう何度も見聞きし実際にその場に遭遇もして、クレイは知っている。わかっている。だからこそあの男を、己の友人と呼べるのもまた、クレイにとっては事実なのだ。
しかし彼女ら、祈道士にとってみればあいつは、或いは。
続けようとした彼の言葉は、しかし何が実際に言葉にされるより前に、ピアの呼び声によって完全に打ち消されてしまった。
「兄様」
中心に一本、芯の通った呼び声。改めてピアへと視線をやれば、わずかにきゅっと唇を噛み、おそらく彼女のできる限りに真面目な顔を、しようとしているのだろう表情と遭遇する。
しかしクレイからしてみれば、そんな彼女の顔はただ妙に可愛らしいものにしか映らない。つい笑ってしまいそうになるのをそれなりに必死で堪えたのは、この後に続くであろうピアの言葉が、真剣そのものであろう想像が容易につくからだ。
そして果たして、彼女は再度口を開いた。
「兄様。わたしも、未だ菲才の、未熟の身ではありますがルルド家の一員です」
「ああ」
「己が言動に責任を持ち、己が身体で見聞きした事実を信じ、他言に惑わされず、常に真実を見据えよ。――我が家の家訓を、違えるつもりはありません」
それはクレイもまた、幼いころよりずっと言い聞かされ、いつしか骨身にまでしみ込んだ己への訓戒。
彼の妹たるピアにもまた、それがしっかりと根付いていることをひどく、クレイは嬉しく思った。今の自分にとってはお門違いな感情なのかもしれないが、それでも純粋に嬉しかったのだ。
きっぱりとそれを言い放った、ピアの瞳には寸分の揺れもない。彼女の目の強さに小さく笑って、そうかとクレイはひとつ、頷いた。
「リベルト。おまえは」
「無論、俺も同じです。俺はルルド家に仕える人間であり、他人に治癒の手を差し伸べられる、そんな力を望んだ人間なんですから」
半ば以上返る言葉を分かっていながら問うた言葉は、やはり予想通りの彼の返答をクレイへともたらした。
ふっと、さらにクレイは笑う。
今は違ってしまっていても、過去には彼女らと当然のように肩を並べられていた己を誇らしく、思った。
「わかった。なら、もうこれ以上は俺は何も言わない」
「ありがとうございます、兄様」
ふわりと笑ったピアの表情は、幼少のころそのままに純粋に可愛らしい。リョウから奇妙な影響を受けたりしなければいいのだが、…いや、今はそんな下らないことを考える前に、まずは自身の浅慮を悔いるべきだろう。
そういえばルルドの家に行くのも、随分久々のことになるなとクレイは思った。
二度とこの身が還ることは、許されなくなった家路を、歩む。




