P2-09 やみあがき
――どうしてこんなことに!
現況を辿れば理由など椋自身にしか行きつかないことは分かっていても、どうしても考えずにはいられなかった。
肩をいからせて人々を押しのけていく女の子を追いながら、宗教なんてくそくらえだと心底から椋は思う。医療者に己の能力を過信させ万能と誤認させるような宗教など、椋に言わせればただの人殺し製造理論でしかない。
己の医学知識を引き出し口に出すたび、椋が常に覚えているのは、恐怖だ。
本当にそれが、正しいのか。何か見落としているものはないのか、断定することが本当にできる状態であるのか、そうすることが最適であるのか。いつも自問を続けている。勿論一度たりとも明確な答えなど出たことはない。
それはきっと実際に椋が医者になったとしても、永遠に背を追い続けてくる、答えなどない底無しの恐怖なのだろう。決して負けてはならないが、同時にきっと、捨ててもいけないものなのだ。
しかし彼女ら祈道士は、そんなことをきっと考えたこともない。なぜなら自分の力では、自分の力が人体へと起こす作用では相手を回復させられないかもしれないという可能性が目の前から覆い隠されてしまっているのだから。
盲目的な、……としか少なくとも椋には見えない思えない神への信仰に、よって。
「く、っそ…っ!!」
宗教が一概に悪いとは言わない。神様に、宗教に救われたひとというのも、決して珍しい話でないことも椋は知っている。
それこそ神様を経典をなにかを信じたいというなら、個人の好きにすれば良い話だ。誰が何を信じようと、それによってどんな救いや制約を受けようと基本的には自由だと椋は思う。
しかし神様が言ったからと、そう経典に書いてあるからというただそれだけの理由で思考を放棄するなど、論外だ。
客観的な証明もなしに自分たちの万能を語るなど、椋にとってはただ最悪としか言いようがない。その「万能」を証明するためと、絶対に治らないどころか状態が悪化の一途を辿ることが見え透いている患者にわざわざ悪化の術を施そうとする医療者などただの、犯罪者だ。
医療者というのは常に、己が完全でなどあり得ないことを意識し一生涯、勉強を続けなければならない職業である。
なぜなら医療にかかわる者が、相手取るのは自分と同じ人間。
意識がありつながりがあり家族があり仲間があり、それまで生きて来たその人個人の人生を持つ、決して他では代替のしようもないものなのだから。
「待て、…っ止まれ! 頼むから、俺の話をちゃんと聞いて!!」
絶対に届かないことを分かっていながら、それでも叫ばずにはいられない。
向けられる異様の目など今更、椋の知ったことではなかった。彼女を止められなければ起こる、恐ろしい事態。しかもその中心に立たされるのは、それを引き起こした原因たる椋ではなく、何の罪も関係もないはずのジュペス。ただでさえひどい状態に陥っている重症患者なのだ。
誰から見ても異様なのだろう彼女の剣幕に、懸念の言葉とともに取ろうとしたのだろうこの棟の職員の腕が乱雑に振り払われる。
その容赦ない勢いに振り払われた職員がしりもちをついたが、そんな相手の動向にも彼女は目もくれない。謝る様子など微塵もない。
どうしてこんな、…どうしてこんな、どうしてっ!
考えたところでどうしようもない言葉だけが、焦る思考にぐるぐるとあまりに鬱陶しくエンドレスリピートする。
「部屋に、入るな…っ彼に触るな!!」
縮まらない距離、ジュペスがいる部屋のドアが開かれる。手を伸ばしても届かない、目の前で一度開いたドアが自動でまた閉まる、しまった瞬間ガチャリと、ぞっとするような無機質な音がした。
まさか、一瞬で全身に立った鳥肌を何とか無視しようと努力しつつ、先ほど彼女も触れた右横の壁の球体へと椋は触れる。
しかしそうすれば開くはずの扉は開くことはなく、ただ無機質かつ絶対的な隔壁として、椋の前に道を閉ざしていた。
「……う、そだ、ろ」
中から、カギをかけられた? こちらが中に入らないように、邪魔ができないよう、……ジュペスを、殺すために?
可能性としては結局のところ、それしか考えられない事態に愕然とする。
早く、一刻も早く何としても彼女を止めなければならないのに。
おそらく相当にひどい表情で己の後方を振り向けば、蒼白な表情のピアと彼女のお付きの少年、確か名前はリベルトだったか。
二人は首を、横に振った。
「中からのカギは、施錠者より高位の術者でなければ開くことはできません。この施設のドアはすべて、そういう仕組みになっています」
「……なんだよそれ」
かたかたと、握りしめた両拳が震えた。
堪え切れずにガンと、その拳を閉ざされたままのドアへとぶつける。中から嘲笑めいた笑い声が壊れたレコーダーからのそれじみて聞こえてきた、どうすればいいんだ、このドアを壊すか、それともどこか別の所から中に入れないのか。
目前まで迫ってきた最悪の可能性に、噛み締めていた唇がぶちっとひどい音を立てて切れた。
もう一度ガツン、と、椋がドアへと拳をぶつけるのと、
もはや断末魔にも似た、ジュペスの絶叫が室内から響き渡ったのはほぼ同時だった。
彼女、マリア・エルテーシアはどこまでも敬虔なメルヴェ教徒であった。
一族みなが清廉敬虔なメルヴェの使徒たることが、エルテーシア家の誇りでありマリアの誇りでもあった。血のにじむような努力の結果として得た祈道士という職は、もはやマリアの、メルヴェの使徒たるための存在理由にも等しかった。
己の力量が、同時期に正式な祈道士と認められた誰より優れていることもまたマリアの誇りだった。最高神メルヴェの力を祈りとして借り受け、苦しむ人々への解放と祝福を授ける。それはなにより誇らしく、喜ばしい「己しか決してなし得ぬこと」だった。
しかしそんな彼女をそして神の祝福を、あのけがらわしい黒髪と黒目の男はまるで、それがごく当然であるかのように最低の侮辱をした。そのあまりの愚かさと頭の悪さと容赦のない神と人への冒涜に、マリアの思考は、それまでに感じたことのないほどの怒りにあっという間に焼き切れた。
だからマリアは今、あの男が「祈道士では治癒させることができない」などとくだらぬことを嘯いた少年の前へと立っている。
本来ならばマリアは、こんな一般兵どもの治癒をして然るべき下の位の人間ではない。それを感じとって恐れ多いと思っているのだろう、少年の瞳には恐れのようなものが見えた。
にっこりと、彼へと向かって微笑む。
祈道士とはすなわち、すべての人間への祝福者。たとえその力を向けるのが誰であろうと、あの下らない男のように嘘をつき事実を偽り、己が持つ力を出さないことなど決して、ありえないのだから。
「ぅ、……っあ、」
「【須らく人が身に宿る、億千万の生命の光】」
「…や、……やめ」
「【其の宿したる光を今、我は最高神メルヴェの名の下、さらなる輝き与えんと希うものなり】」
術式を組み上げ、詠唱する。ふわりと見慣れた術式紋が少年の全身へと浮かび上がる、更にマリアは、その顔に浮かべる笑みを深くする。
ガツンガツンと粗暴にドアを殴る、真性の救いようもない神への叛逆者にもう一度、彼女は侮蔑の笑みを向けてやろうとし。
まるでその喉を裂くように、溢れだした少年の絶叫にきょとんと、その目を丸くした。
「う、…っあああああ、あああああああああああああああっ!!!!!」
「大丈夫です、すぐに術は効きます。…もうあなたを苦しめるものはなにも、」
「ぐ、ぅぐあああああうぅああ、あ、ああああ、…った、…たすけ、やめ、…っああ、ああああ…っ!!」
どうやら彼は、術の痛みに軽い錯乱を来したらしい。耳元で響く大音声に、わずかにマリアは眉をひそめた。
治癒には時折、痛みを伴うことがある。少し情けないとも言うべきか、彼はきっと、他人より人一倍その痛みに敏感な人種なのだろうと叫び止まぬ少年を見下ろしながらマリアは思った。
止まることのない彼の叫びは、つまるところはマリアの術が効果を奏している、彼が快方に向かっているという証拠だ。――何が祈道士では彼を治せないだ、私は立派にこうして今、しっかりと彼を治して見せたではないか。
しかしそんな思考とともに、満足げにマリアが笑み続けることができたのもそこまでだった。
「……!」
確かに閉ざしたはずのドアが、彼女の命に反してすらりと開く。
しかも開いたドアから中へと駆け込んできたのは、何よりマリアたち祈道士が唾棄すべき存在、忌々しき治癒術師の室などを統率する長だった。
「な、」
なぜ、治癒術師の長などがこのようなところに。
呆然と目を見開く彼女の頬を、次の瞬間には彼女へ駆け寄ってきたピアの手が勢いよくバチンと張った。
「マリア、…あなたは一体、何をしているのですか!!」
わずかに遅れて痛みの炸裂した頬に、半ば訳も分からないままマリアは手を当てた。
どうして彼女は涙すら浮かべて、まるで私を咎めるかのような言葉と眼差しをこちらへ向けてくるのだ。意味が分からない。まったく分からない。
なぜ治癒するものである祈道士である自分が今ここで咎められなければならないのか、マリアにはかけらも理解ができなかった。分かるのは張られた頬の痛みとこの場に乱入してきた汚らわしいくだらないもの、不要以外の何でもないもの。
それらはマリアに目もくれずに、ただ治癒の痛みに今も叫び止まない脆弱な少年だけに意識の全てを、注ぐ。
「ジュペス、…っジュペス、しっかり、…しっかりしろ、正気を保て…っ!!」
「下手に触るなクレイ! おっさん、…頼む、早く!!」
「【彼の者を蝕む病苦の邪悪を、我はこれより彼へ受け渡す力に拠りて打ち払う】!」
好奇者だけの使うまったく無駄無意味の術式が、濁波が刹那、空間に満ちた。
その波の中で思わずマリアはきつく眉をしかめ、しかしふと気づけば、彼は叫びを止めていた。
なんてことを、と思った。神霊術の尊さの何も理解していない愚者の手によって、汚らわしき治癒術師の魔術などが少年には施された。
少年の全身へ浮かび上がった邪悪の術式紋が、徐々に徐々にと薄れ、消えていく。
男が術を施す前と、何一つ変わりはしない少年の落ち着いた状態に、すうと寝息を立て始める彼に、これだから治癒術師は下らないのだとマリアは思った。
「……っ」
意味の分からない諸悪の根源の黒が、随分と悔しそうな顔をして唇を噛みしめ、少年を見下ろしているのを見た。
きっと己の愚かさに、打ちひしがれているのだろう。まさに自業自得以外の何でもない。
己が間違っていたのだと、しかしこれで果たしてこの男は理解することができるのだろうか。
なにしろ彼はこちらが治したのだというのに、きっとそれが己の手柄であるかのようにふるまうのだ、この治癒術師などと意味の分からぬ職種を名乗る男は。再三の誘いにも乗らずその職を騙り続けるこの男は、とうとうマリアの手柄をわざわざ自ら出向いて横取るところまで落ちたというのか。
ああ、嘆かわしい。本当に嘆かわしい。
そして同時に、彼女が分からないのは。
「これから俺は、貴様を連行する。――貴様にこれより、一切の反駁は許可しない」
なぜかマリアをどこかへ連れてゆくという、緑の目の騎士の言であった。
声もなくぼろぼろと涙をこぼして、その場にうずくまるピアの姿だった。
彼女の震える肩を抱き、まるで敵か何かを見るような目でこちらを睨みつけるリベルトだった。
半ば引きずられるようにして、騎士に腕を引かれて行きながらマリアは首をかしげる。なぜ? どうして? 何が起こったの、と。
私はメルヴェの使徒として、祈道士として当然のことをしただけ。
いったい、誰が何を泣き、何をどうだと騒ぎ立て、――何がどうして私をそんな瞳で睨む、必要などが、あるというの?




