P2-08 やみむかい 4
あの奇病が唐突の収束を見せたあとも、表向きにはヨルド達治癒術師は何も、変わることはなかった。
同じ治癒職であるというのに、彼らの不遇具合や職としての嫌われようは相変わらずだ。治癒術師志望の学生が増えたという話など、今まで一度も聞いたことがない。
しかしたったひとつだけ、水面下のことではあるが確実に、驚異的なまでの変化を遂げた部分がある。
それは現在百名弱の、王都に存在する治癒術師たちの治癒術師としての「誇り」だ。
祈道士には手の届かない領域にも、自分たちは手を伸ばすことができるのだ、と。
たとえその仮説を立てたのがどこの誰とも知れない未熟の坊主であろうと、…そんなことはそれこそ「変わり者」たる治癒術師たちには一切、関係などないことだ。
「おまえにも見せてやりたいなあ、リョウ。あいつらの楽しそうな顔といったら」
今ここにはいない青年に、ひとりヨルドは語りかける。年を取ると独り言が増えるというが、まったくそんな言葉を否定できない。困ったものだ。
名実ともに、あの存在を祈道士たちに渡すわけにはまず、いかないだろうとヨルドは思っている。これは彼の妻であり祈道士である、アルセラとの共通見解でもあった。
何しろ基本的に祈道士とは、肩身の狭いこちらとは違い、神の名のもと大腕を振って世間を練り歩き、人々の賛美を一身に受けるような奴らなのだ。
勿論その「基本」の中にはアルセラは入っていない。彼女がそんな下らない、真の意味で低俗な人間であったなら一体、誰がここまで惚れこんだりなどするものか。
あんなにも証拠もなく魔術も何も使えず、それなのにあまりに正し過ぎる「事実/仮定」の塊のような男など。
宗教から一定の距離を置いて、今のところはうまく折り合いをつけている現国王陛下や爪弾きされる側の治癒術師たちならともかく、…確実に教会にとってはただ、邪魔な方向にしかその異端性を意識はしないことだろう。容易に想像がつく。
「それになあ、リョウ」
さらにヨルドは一人、笑う。
前回はそのあまりに唐突、かつどこかおとぎ話じみてすらいる国王の帰還もあって、結局彼の存在は、大々的には世に知られないまま終わった。地位権力といったものを欲しがる人物であれば狂乱しかねないところだったろうが、おそらく彼はそんな事実を喜びこそすれ、悲しみ悔やんだりなどということは一切していない。
陛下に水面下に捕まった事実は無論ヨルドも知っているが、そんな程度は棒にも針にもかからぬような些事にすぎない。
むしろ捕まったという事態そのものより、そのときに奴が提出したあのめちゃくちゃな地図の方が重大だ。「黒の異端」に会った、あいつは随分と異常で面白いなという言葉とともに示された一枚の図面は、ヨルドとアルセラの度肝を抜くに十分な代物だった。
あんなものを初対面で目前に提示されてしまえば、まあ陛下に気にいられてしまっても、まず、無理はない。
「……近いうち、また何か事件は起こる」
国の上層でも、ごく一部しか認識していない「事実」だ。なにしろあの病と魔物の出現に関する一連の事件の犯人は、未だ誰も掴めてはいない。
しかしリョウは知らないだろう、考えたこともないに違いない。容疑者としての目星を数人へと絞る、そのきっかけになったのが彼のあの調査結果であったなどという事実は。
さらに言えばあの事件は、未だ終わってなどいない。今は小休止状態とでも言えばいいのか、何も起きずとりあえずは平穏な日々が過ぎて行っているが、生憎そんなものはそう長く続かないことをヨルドは知っている。
なぜなら最終的に見据えられた、「崇高」なる目標へと近づくためであれば。
さらなる一手二手を、国へと向かって穿つこともまったく、犯人らは厭わない。
「だからまあ、あいつの真価が問われるのは間違いなくそこだろうな……っと、ん?」
そこまでひとまずを思考して、ふとヨルドは周囲が騒がしくなっていることに気づいた。
急患か何かか、思いつつ自分専用の椅子から立ち上がる。別に今日はそう多く患者が来ているわけでもないので、まだヨルド自身の魔力には十分な余裕があった。
しかしどうも、患者が来ているにしては周囲の反応がややおかしい気がする。ドア越しに聞こえてくる術者や見習いたちの応対が、どこか誰もが戸惑い、何とも判断をしかねているかのように聞こえるのだ。
怪訝にわずかに眉を寄せつつ、ヨルドがドアを開いた瞬間。
その疑念の正体と真っ向から、彼の視線は交錯した。
「んん? なんだ、なにがどうしたんだ」
「いえ、……その、先ほどから彼が室長に会わせてくれ、と」
手近にいる治癒術師に声をかければ、困惑しきりの一人が、本気で困った表情で眉を下げた。
今彼らの前に立っているのは、青灰色の団服を身に纏うまだ年若い、おおよそ二十歳くらいの青年だった。ピンとまっすぐに伸ばされた背筋と隙のない立ち居振る舞い、そして若干衣服で分かりづらいが、健康的で筋肉質な全身の肉のつき方からして、おそらくただの無名無位階の騎士というわけでもあるまいと推察する。
浅黒い肌に、意志の強そうな緑の目をした、それなりに女性受けは悪くなさそうな容姿の持ち主だ。どことなくその光に覚えがあるような気がするのは、前を見据えようとするそれが、どこかあの黒に似た類のものとして感じられるからか。
しかし青灰色の団服を着ているということは、この青年は第八騎士団のものであるということ。
あの狸豚爺が他の誰でもなく自分を呼ぶとはどうにも考えづらく、ヨルドは彼へと向かって首をかしげた。
「第八騎士団からの遣い、か? 少なくとも俺はそんな話は欠片も聞いちゃいないんだが、青年。誰から、何を頼まれた?」
「礼を失する突然の訪問、誠に申し訳ありませんヘイル癒室長閣下。私は第八騎士団「リヒテル」所属の第六位階騎士、クレイトーン・オルヴァと申す者です」
若干人を食ったようなヨルドの問いかけにも、目の前の青年は揺らがなかった。きっちりと角度まで測定できそうな完璧な礼を、彼へと青年、クレイは向けてくる。
ちなみに癒室長というのは、現在のヨルドがこの王宮にいる理由のすべてといっていい彼の職場での肩書きだ。祈道士ではなく治癒術師だけが集められ、日々研鑽と人々、主に貴族連中の治癒に励むべく王宮内に設立されているこの場「癒室カウルペール」の、彼は責任者なのである。
第八騎士団、クレイトーン・オルヴァ。
告げられた言葉と目の前にある視覚情報とを合わせ、ぽんとひとつの噂が彼の頭には浮かんだ。――曰く「無魔の位階持ち」。
「ああ、ちらっと噂に聞いたことはあるな。しかしそんなのが突然、こんなところにどうした」
こんな目をする男が無魔とは、神様というのもまったく見る目がない存在だとヨルドは思う。
ある意味では淡々と調子の変わらないヨルドの問いかけに、対する青年の背筋はやはり、ピンと伸びその目の光も揺るがぬままだった。
敢えて祈道士以外の、あの暴走を止め得る人間としてなぜ、彼を選んだのか。騎士団で誰か、適当な人材を見つくろっても良かったのではないか。
確かにそんなこともクレイは考えた。しかし異常事態に混乱するリョウの黒瞳の内側に見えた気がしたのは、「同じ」祈道士ではなく「違う」治癒術師を、そんな意識であり意図であったような気がしたのだ。
そもそもただの騎士風情では、もし本当にリョウの言う、ジュペスが死にかねないような事態が起きたときに咄嗟の対応ができない。さらに言うならリョウはアイネミア病の一件で、この場所の最高責任者と顔見知りだという。
それに騎士たちの中ではまことしやかに、囁かれているある噂があった。
もしも怪我をした場合、治癒術師の治癒を受けた方が、祈道士の治癒を受けた場合よりも傷の具合が良いという噂だ。
「あえて祈道士のもとじゃなく、俺たちのところに来たのはなんでだ? 青年」
表向きは飄々と軽い口調ながら、クレイを見据えるヨルドの目には一片たりとも甘さがない。
クレイたちを異様な眼差しで見ている周囲も含め、現在の彼が警戒されていることは明らかだった。
しかし事態は、一刻を争うのだ。――やわらかく一礼して、クレイは口を開いた。
「今すぐ、療養棟へおいでいただきたいのです。……これはリョウ・ミナセからの、癒室長閣下への要請です」
「!」
誰かを呼べと彼に言ったのがリョウである以上、その名を使い惜しむつもりはクレイにはなかった。
そもそもそんな余裕など、あの少女の様子を見ていた限りどこにもあるはずがないのだ。なぜリョウが奇妙なことをひとつふたつ口にしたくらいでこんなことに――いや、リョウが異端であることを知りながらその認識に根本的に欠けていたのは、クレイだ。ただあの少女だけを一方的に責めれば済むような単純な問題ではない。
クレイが口に出したおそらく誰もが「知らぬ」名に、ここ、癒室カウルペールに所属する治癒術師ほぼ全員がぽかんと呆気に取られたような顔をした。
唯一、その目にどこかクレイを面白がるような光を宿したのはここの室長、キュアドヒエルの下賜名持ちの貴族たる彼、ヨルドだけだ。
リョウ・ミナセとは彼、ヨルドが、かつてその名を一度は貸したという存在。面白い人たちではあるよなサンドイッチ泥棒だけど、後にもう少し詳しいことを聞いてみれば、そんな不遜で無茶にもほどがある台詞があっさり返ってきて、もはやクレイは頭を抱えるしかなかった。
リョウが名を借りることを許されたのは、リョウが異端であるからこそだ。
だからこそ今ここで、彼の名をヨルドへとクレイは口にする。あの事件が強制的に打ち切りとなってしまった現在であっても、何かしらの意味は感じ取ってくれるのではないのかという、ある種の期待も込めた言い回しだった。
そしてクレイの期待の通り、ふっと、奇妙にキレのある笑みを浮かべて彼は言葉をこちらへ向けてくる。
「その言葉、他意はないな?」
「この剣に誓って。奴曰く、間に合わなければ人死にが起こる、と申しておりました」
「わかった。それならオルヴァ第六位階騎士。案内を頼む」
「…っ、はっ!」
予想以上にあっさりと返ってきた肯定に、己の望んでいたことではありながらクレイ自身がまず驚いた。
あのジュペスの腕についてもどうやら理由を知っているらしいことも含め、改めて己の友人のおかしさを感じずにはいられない。この国どころかこの世界の人間ですらないという奴の、異端を完全に測り損ねていた自分の無慮にほぞを噛んだ。
しかしここは王宮の癒室内。中にいるのは無論、クレイとヨルドだけではない。
しばし呆けたようにその場に突っ立っていた治癒術師たちは、しかしあるときを境に一斉に意識を目の前へと取り戻した。
「って、ちょ、ちょっと待って下さい室長!」
「ええと、なっ、どこへ、誰がっ! なんでどうして室長が行くんですかっ!?」
目を白黒させる部下たちに、対する彼はしかし相変わらず鷹揚な笑みを浮かべた。その心情などまったく読めない。
だからこそ彼は癒室などという、不可思議な変わり者ばかりが集うという組織を統率することができているのかもしれない、とクレイは思った。
「まあ、そういう訳で少し俺は出てくるからな。新患はおまえたちだけできちんと対応するようにな」
「な、ちょ、……えええええっ!?」
話は終わりだとでも言わんばかりに、ニッと笑って顎でクレイに先導を急かす。抗う理由は一切ないので、わずかな一礼ののちクレイは場から踵を返した。
室長ーっ!! 叫ぶような悲愴な声がそれでもいくつか後ろから追ってきたが、呼ばれている本人であるヨルドが良いというのでひとまずは無視することに決めた。癒室として定められた一画を抜け、磨き抜かれた廊下を速足で歩いていく。
静かな空間の中、二人分の靴音だけがわずかにカツカツと反響して鳴った。どこかそれを耳障りにも思ってしまうのは、クレイにもまた決して現状に対する余裕など存在していないからなのかもしれない。
不意に、耳元でヨルドが小声でどこか面白がるような調子で言った。
「それで? あいつは今度は何を見つけて何をやらかしたんだ」
まるでそれが当然かのような言い様に、思わず後方の彼を振り返りそうになる己をクレイは戒めた。今彼からクレイに求められていることはただひとつ、より的確かつ正確な情報を、彼へと伝えることだけだ。
異次元じみた、半分も理解ができなかったリョウの言葉を思い返す。
どうしてそんなことを、おまえは知っている――? 考えつつ、ただ、己の意思の介入はなしにクレイは口を開いた。
「私程度には聞いたところで理解はできなかったのですが、ある患者を見て奴は、それが身体の一部が死んでいくのと同時に、病気のもととなるものがその死んだ部位を中心に増殖しているのが原因で起こっているものだと。そしてそれは、……一般的な治癒を、拒むものであると」
さすがに誰が聞いているかも分からぬこんな場所で、小声であろうと大々的に、あの言葉を、祈道士を拒絶しているのではないかとジュペスへ当然のように問うたリョウのそれを繰り返すのは控えた。なによりもまず絶対数の問題で、一般的には治癒といえば、祈道士の神霊術を思い浮かべるものだ。
彼は分かってくれたらしく、ふむ、という声とともに、わずかに首肯してくる気配が後方からあった。
しかし。
「身体の一部が、死ぬ? それに、病気の元が増殖、だと?」
「……はい」
発言しているクレイ自身、理解できてはいない事柄を彼は繰り返してくる。
わずかにクレイは身を縮めた。そのあたりの理解不能をこれ以上突いてこられても、クレイに明確な答えなど返せようはずもなかった。
「申し訳ありません。私にはそれ以上のことが理解できず、」
「いや、状況は分からんがなんとなく分かった」
「えっ?」
さすがに彼のその言葉には、抑えきることができずにクレイは後方を振り向いてしまう。まるで冗談のようなことを口にしながら、しかし改めて視界に入る、ヨルドの表情には虚言めいた色などはどこにもない。
むしろ驚くクレイを前に、やれやれとでも言いたげに彼は笑った。あいつもホントにしょうがないな、ヨルドは言う。
「あれだな? あいつ、場もわきまえないでそういうことをぺろっと口にして、それを祈道士に、しかもメルヴェリトに立ち聞きされたな?」
「……閣下の、おっしゃる通りです」
「まったく。おまえさんがどういう経緯であいつと知り合ったのかは知らんが、妙な友人を持つと苦労するなあ、オルヴァ第六位階騎士」
「…………いえ」
「嘘はつかなくていいぞ。あいつがとんでもないことは、前の一件で俺もアルセラも重々承知だ」
「……」
嘘をつかずとも良いと言われても、もはやクレイには言葉を失うよりほかに反応のしようがなかった。
彼の言う「一件」の収束後少しして、クレイはリョウが「異世界の人間」であるという事実を本人から打ち明けられた。妙に納得してしまった。確かにリョウが持っている知識と「常識」は、クレイにとってはどう考えても、異常としか言いようがないまでに詳しく異質なものだったからだ。
しかもその異常はとりわけ、治癒という一方向に突出していた。そんな奇妙と合わせて考えれば、少なくとも治癒という分野においての相性は、目の前にいるヨルドの方がクレイよりもずっと良いだろうことは分かる。
しかし。
「なぜ、……そこまで状況が、お分かりに」
彼を軽んじる発言とも取られかねないことは分かっていながら、しかしクレイは問わずにはいられなかった。
なぜ彼は、リョウの発言が祈道士の我を失わせ、激情に駆らせた事実をごく当然のように断じてくるのだろう。なぜ他の祈道士をあたれと、言ったとしても当然であろう言葉を彼は口にしない?
リョウ、おまえはいったいあの事件で、俺の与り知らぬところで誰と、何を――?
目の前の男はぶしつけなクレイの質問にも怒ることはなく、ただ肩をすくめて笑って言った。
「あいつは患者を救うためなら、涜神も禁忌も他人の言葉も、なんも関係なしに考えなしに動きだすようなバカなガキだからなあ」
だからわざわざ俺を呼ぶような、ヘンな事態引き起こしたりするんだ、と。
やはり妙に楽しげに、笑ってそう口にする彼にもう、クレイには返す言葉など何も残っては、いなかった。




