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未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
第二節 転機の出現/見霽の青年
51/189

P2-06 やみむかい 2



 熱と痛みと全身から引かぬだるさに、おぼろげな視界の中でもその黒はひどくはっきり、見えた。

 その色彩の青年のことは、リョウという名の黒髪黒眼の男の話は以前から、多少ではあるがジュペスは耳にしていた。第八騎士団において他のどの騎士見習いもその下につくことを嫌う第六位階の騎士、クレイトーン・オルヴァが唯一口にする、彼の血族以外の人間の名であったからだ。

 無魔という表面上の「欠落」ばかりをあげつらい、彼をあからさまに拒絶する同輩をそして騎士たちを、ジュペスは軽蔑していた。

 少し団の中にいれば、ほんの少しでも彼の傍で彼の下についていれば。彼の実力を持ってすれば、今の彼の位階、第六位階すら役不足であろうことは分かる。

 しかし慣習に凝り固まった、人間の偏見と狭い視界というのはいつの時代も、害しか生まない。れっきとした位階持ちでありながら、その戦功を以てすれば本来ならばもっと上の位階も約束されるような力を持っていながら、彼は未だに、決して全体としての数は少なくない第六位階の騎士でしかなかった。

 だが、そんな彼に対してこの、黒の青年は。


「以前に一度、お会い、したことがあります。……あなたが、クレイトーン様をたずねていらしたときに」

「えっ、…え?」


 訳が分からないとばかりに傍らの緑目の騎士を見やる彼は、こざっぱりした、どちらかと言えば整った風貌をしている。しかし素直に美形と呼ぶには、彼の顔からはどこか、良くも悪くも緊張感、緊迫感というものが一本抜けてしまっていた。

 この国では滅多に目にすることのない黒という色彩を瞳と髪の双方に宿すこの青年は、当然のようにあのとき気安く彼のことを「クレイ」と呼んだ。

 彼の身分や立場を考えれば、それはひどく奇妙な、彼が拒絶しようという気さえすればすぐさま、青年が罪に問われかねない光景だった。しかし彼はその砕けた物言いを呼びかけを当然のように受け容れ、あとで少しだけそのことについて問うたジュペスに、あいつはあれでいいんだと笑っていた。

 クレイトーン・オルヴァという人は決して饒舌に、自分から進んで会話を盛り上げるような人間ではない。

 しかしそんな、口数の多くない彼がこの青年のことを話すとき。

 本人は気づいているのかどうか知らないが、その視線はひどく楽しげに、やさしくなるのだ。


「ちょ、く、クレイおまえ。どういうことだこれ?」

「そうまで慌てる必要もないだろう。単におまえが以前勝手に俺の所に押し掛けて来た時、最初におまえの応対をしたのがこのジュペスだったというだけのことだ」

「へ? あ、そうなの? …ていうかクレイおまえ、なんでそういうことをおまえは最初に俺に言わないんだ」


 俺が勝手に混乱してるの見て楽しいか? ていうか明らかに楽しんでるんだよなその顔はな!

 あからさまに隠す様子もなく混乱しきりの青年に対し、応じる彼の態度は今までジュペスの目にしてきた誰に対するものとも違う。彼もこんな年相応の、気の置けない表情を他人へ向けることがあるのだと。そんなことを熱に浮かされながらも、思わず考えてしまうような光景が目の前にはあった。

 しかしのんびりとした思考が、続けられたのもそこまでが限界だった。

 不意に刺すように痛んだ頭に、抉られるような痛みを覚えた腕にジュペスは思わず眉をひそめた。唇を噛んでなんとか声はこらえたものの、あからさまに変化した彼の表情に、目の前の二人もふざけるのをやめてしまった。

 黒の青年がこちらへ、もう一歩二歩と近寄ってくる。


「怪我が治らない、ってクレイから聞いてたけど、本当につらそうだな。顔色もよくない」


 不思議な黒を宿したその目は、驚くほどまっすぐにジュペスだけを映していた。

 決して居心地が悪くなるような類のものではない、本当にただまっすぐな目だとぼんやり、思った。


「なあクレイ、やっぱり何回も言うけどさ、」 

「ジュペス」


 そしてなぜか、そんな青年の言葉をクレイはこちらへの呼び声で切った。

 理由の分からないままわずかに首をかしげ、目を眇めて応じると小さく、彼はその様子に苦笑してそして、言った。


「おまえの腕を、リョウに見せてやってくれないか」

「腕を、ですか?」


 理由の分からない言葉に思わず聞き返せば、彼は真剣な瞳でそれに頷きを返してきた。

 この黒の青年に見せろという腕は、無論無事な左腕を指して言っているものではないだろう。あのときオルグヴァル【崩都】級にやられ傷ついた右腕、同じ攻撃で決して、少なくない数の人間が死んだそれを見せろと、彼はそう言っている。

 しかしそんなクレイの言葉に、再び慌てたのは青年の方だった。

 おまえはだからもう少し俺の話を聞け、泡を食ったような言葉とともに、小さくため息をついてジュペスを改めて見てくる。


「もし見られたくない、俺には見せたくないって言うなら俺は全然構わないからね。俺はただのクレイの友人で、なんていうかその、正直クレイが期待してるようなことはできる気がしないし」


 だからジュペスが嫌だというなら、遠慮なく断ってくれていい、と。

 苦笑し頬をかきながら、彼はそんな言葉をジュペスに向かって口にする。しかしそんな懸命な彼を横目に、明らかにクレイの瞳は、お前のどこがただの一般庶民だ、と言っていた。…確かに今の彼のような言葉は、生まれてこのかた一度もジュペスは耳にしたことがない。

 ずくりと不意に再び、腕が痛みに疼いた。

 誰の治療を受けようと、最後には痛みが増す結果にしかならない己のそれへと、目を落とす。


「……わかりました」

「えっ?」


 諦めたくなどない――だが、回復の兆しは一向に見えず、確実なのはただひとつ、己の体調が日を追うごとに悪くなっていっていることのみ。

 目の前の黒の青年、リョウはクレイいわく「異常なまでの興味を、こと、治癒に関係することに対しては示す」人間だという。何に対しても自信はないと正直に口にするような人間が己の腕をどうにかできるなどとは思っていない、しかし、このまま何もせず、ただこの狭い部屋の隅に横たわっているままでもジュペスはいたく、なかった。

 重だるい全身を叱咤し、ゆっくりと体を覆っていた掛布をどける。のろのろと、ひどいまでの遅さで腕の包帯を、解く。

 すぐさま姿を現す不気味な黒褐色と濁黄色に、包帯を外す行為にすら増強する痛みに眉をしかめつつ、醜く変貌した腕を覆う包帯をすべて、ジュペスはするりと取り払った。





「…、っ」


 包帯になにか仕掛けでもあったのか、それとも彼のすぐ近くにあるあの薄緑の明りが、それを軽減していたからなのか。

 目前の少年が腕を外気へとさらけ出した瞬間、容赦なく鼻をついた異臭に思わず椋は眉をひそめた。気持ちの悪い酸っぱさをぼんやり喉奥に感じたが半ば無理やりに飲み下し、改めて見やる彼の腕に、椋は限界まで目を見開いた。

 包帯の下に、隠されるようにして存在していたのは濁った色の混在、黒、黄色、薄赤色だった。

 肘あたりを中心とするように広がっているそれのせいで、彼の腕には皮膚本来の健康な肌色など既にほとんどなかった。痛みでほとんど動かせないからだろう、傍目には無事に見える上腕もひどくやせていて、何とも痛々しい。

 普通ならば健康な肌色が存在するべき部位にあるのは、明らかに皮下組織が露出しているピンクめいた赤、ひどい膿み方をしている濁った黄色。

 そして完全に組織が死んでしまい使いものにならなくなったが故の、…黒。


「おい、臭いぞ! ふざけんな!」

「誰だよクソッ、早く片付けろ胸糞悪ィ…!」


 おそらく神経がささくれだっているのだろう、他の患者たちの、罵倒じみた粗野な声が響く。

 しかしそんな声にまともな反応を返すこともできず、ただ椋は黙って唇をぎりりと噛んだ。身体がこんな色を呈するようになる病態など、椋はひとつしか知らない。

 治らない怪我、壊死の黒。炎症反応の結果としての赤、本来なら皮膚の下で守られるべき組織が露出してしまっているからこその赤、膿の黄色。

 それが最も起こりやすい部位は、足趾(そくし)、つまりは足の指だ。実際椋が過去に目にした写真は、大体が足の例だった。

 しかし条件さえそろえば、どこにだって起こり得るものだ、それは。

 淡々と思考する理性に、ぞくりと背筋が凍りつくのを椋は感じた気がした。


「……ちょっと、いくつか質問してもいいかな」

「リョウ?」


 強いて平静を装いたかった、声は結構にみっともなく震えた。怪訝な声でクレイは椋を呼んだが、生憎なことにきちんと応じてやれる余裕が今の椋にはなかった。

 ぱちぱちと瞬きをするジュペスに、椋はまずひとつ、問うてみる。


「この傷つくったとき、祈道士か治癒術師か、誰かしらの治療って、受けた?」

「え?」

「この傷口、一番最近はいつ洗った? ガーゼと包帯は、どれくらいの周期で取り換えてる?」


 揺らしたくないのに声が震える。しかしそんな声でしかなくとも確認することは絶対に必要で、結局椋は自分で声を発するしかないのだ。

 あまりに唐突な椋の問いに、ジュペスが小さく首をかしげる。しばしじっと見つめていると、よくわからなそうな表情のまま彼はゆっくりと答えてくれた。


「施術を受けたのは、確か八日前が、最初、だったと思います」

「……それまでは?」

「三日から五日に一回程度、包帯を、換えてもらっていたくらい、でした」


 頭を鈍器で、がつんと一発殴られたような気がした。

 どうして魔術のある世界で、こんな病態が起きるのかと心底から思った。

 彼は包帯を解く瞬間、ひどくつらそうな、痛みをこらえるような顔をして己の腕から視線を外していた。そして今はと言えば、椋の視線に何かを見て取ったのだろう、こちらの言葉を待つように、告げられるものを待つようにジュペスは、椋をまっすぐに見上げてくる。

 一瞬その「可能性」を、本当に言っていいものか椋は迷った。何しろここまでひどい状況は、教科書やプリントの写真であっても椋は見たことがなかったからだ。

 しかも明らかに少年の呼吸は速く、おそらく脈や体温も、触れればすぐに分かるくらいに速く高いはずだ。どうしてこんな状態になる、祈道士でも治癒術師でもどっちでもいい、まともに治療が受けられていたなら、こんな状況にはまずならないはずじゃないのか。

 知らず己の両拳を握りしめていた椋に、怪訝と慮りの双方が混ざったような声をクレイが向けてきた。


「リョウ」

「……あぁ、」


 二人分の視線に、そしてクレイの呼び声に応じようと口を開く。しかしうまい言葉が見つからず、何も言えないまま椋は唇を噛んだ。

 傷からの容赦ない悪臭、ぐじゅぐじゅに膿みただれ腐敗した腕。どう見てもかなりの広範囲で死んでいる組織、そのひどい膿み方からしても、何がしかの細菌の感染が色濃く疑われる患部の、そして全身の状態。

 いったい何から何をどう、どこから説明すればいい。見たこともないようなひどい状態に、ぐるぐると堂々巡りを繰り返す思考を何とか、少しでも回転させようとする。

 しかし結局椋の口から出たのは、端的にその病態を示すたったの一言だけだった。


「壊疽、だ」

「エソ?」


 さらに鼻をついた悪臭に、瞬間的にえづきかけた。無理やり吐き気を飲み下し、椋はさらに強く拳を握った。

 何らかの外傷を受けた後、さらにいくつかの理由が重なることで体組織が広範囲に死に陥ったうえ、その病巣に細菌の感染までもが重なった状態。

 それが壊疽(えそ)。――今目の前の少年が、その腕に抱えているとしか思えない病態だ。


「……リョウ、さん? それは、」


 まっすぐすぎる蒼の瞳に、思わず頭を抱えたくなる。彼への直視を続けるには、広範に無残な壊疽組織はあまりにグロテスクであり、同時に彼の視線には邪気とおおよその怪訝という類のものがなさ過ぎた。

 怪我が治らない。まともに治療を受けているかどうかも分からない。

 クレイにあらかじめ教えられていた事柄を思い返し、壊疽という病態についての知識を脳内で必死にひっくり返し。

 瞬間ふと、ひどく嫌な可能性に唐突に椋は思いあたった。


「ごめん、質問もうひとつしてもいいかな。…ジュペス君、だよな?」


 どう頑張って平常を装おうとしても、どうしても声は硬く奇妙に上ずってしまう。そんな自分が若干嫌になりつつ、なにかガーゼのようなものはないのかと周囲を椋は見回した。

 今時点で何もできない以上、もうこれ以上彼にこの病巣を晒し続けさせる必要もないだろうという思考からの行動だった。椋の意図を察したのか、どうやら部屋の備え付けらしい応急キットをクレイが持ってくる。

 その気遣いに小さく礼を言えば、クレイは首を横に振って、気にするな、と短く一言だけを返してきた。

 応急キットを受け取り改めて少年の方へ向き直れば、怪訝と不安がないまぜになったような表情で、彼は椋を見上げていた。


「ジュペスで、構いません。……なん、ですか?」

「じゃあ、ジュペス。もしかしてここ最近、意図的にこれの治療、…というか、祈道士を避けてるんじゃないか?」

「!」


 弾かれたように、驚いたようにジュペスが空青色の双眸を見開く。明確な言葉はなかったが、彼のそんな反応こそが、椋の推測が事実であることの何よりの嬉しくない証左だった。

 当たってしまった推測に、今度こそ完全に椋は頭を抱えてしまった。


「……やっぱりか」


 冗談ではなく、本気で頭が痛い。壊疽に対して治癒術師の治療ならともかく、神霊術では確かにそうもなるだろうと思った。

 こんなところで以前立てた、神霊術の効能に関する仮説の正当性を示しうるものがまた出てきてしまったことに内心、椋はげんなりする。

 ただの細菌感染やただの怪我の治療ならともかく、ジュペスの腕が現在起こしているのはほぼ確実に、壊疽だ。そして壊疽の進行に従い生じる、組織として使いものにならなくなった細胞や細菌の排出する物質は、全身をめぐればただの毒でしかない。

 しかし神霊術により全身の血流が活性化されてしまえば、その分種々の毒素や細菌は、格段に体内に拡散しやすくなる。

 循環する量の増えるそれら「毒」に、対抗できるくらいに免疫機能が賦活化され、片っ端から毒素や細菌を片づけているのならまだいいかもしれない。「毒消し」のための別の魔術が施されているならいいかもしれない。

 しかし少なくとも目前のこの少年に対して、そんな治療は絶対に行われてはいないだろうし、そもそも誰だって、そんな作用を予想して術を使ってなどいないはずだ。


「確実に綺麗だって言える水とかがあれば、今すぐでも傷洗ってやりたいんだけど、……ごめん」

「リョウ、……さん?」


 やりたい、やるべきことはあれど、なにしろ絶対的に物資が足りない。

 ジュペスのすぐ傍らへとしゃがみこんで応急キットを開き、出来るだけ大きめのガーゼを数枚取り出す。特に膿みや組織の露出が酷いところを中心にそれを貼っていく。

 ほんとうならすぐにでも彼を手術室に運び、傷口のデブリードマン(死んでしまった細胞や、それに伴う異物の切除や掻き出し)を行うべきなのだろうことは分かっていても、それができる技術が椋には、ない。


「リョウ、……おまえ、これが何か、分かるのか」

「たぶん」

「ほ、…んとう、ですか」

「でもここで俺の予想を言ったとしても、それがジュペスにとって、いいことなのかどうかは正直、俺には分からない」


 ガーゼを当てた腕にさらに包帯を巻きつけていきながら、己の手つきの拙さに少し椋は笑いたくなった。無論そんな感覚は今この場においては無用以外の何でもないため、内心だけで留めた。

 どうして治癒の、魔術なんてものがあるのに。椋に言わせれば完全規格外のものが実在するのに。

 なのに壊疽なんてものが、今こうして実際に起こったりなどしているのだろう。何の理由があって? ジュペスだったから? それとも、ジュペスだけがこんな状態になってしまうような、何か別の理由があるのか?

 ともすれば止まってしまいそうな思考で、必死に椋は考える。おそらくここまで広範に壊疽が進行してしまっているジュペスの腕は、たとえヨルドやアルセラの力を借りられたとしても、腕を温存したまま、まともに治せる保証がまったくない。

 最も確実で、ある意味で言えば単純かつ絶対の治療法は、彼の右腕を今すぐに切断することだろう。

 しかしまさかそんなことを、果たして目の前のこの「騎士見習い」、己の両腕が絶対に必要となるはずの職に就く人間に、たとえ命を救うためとはいえ理解してもらえるのだろうか。ジュペスはそれを、認められるのだろうか。

 眩暈までしてきた椋のことなど彼らが知る由もなく、歯切れの悪い椋の言葉にさらに詰め寄るようにクレイが言葉を向けてきた。


「何を言っているんだ、おまえは。……誰もこれが何なのかを知らないんだぞ。なぜ怪我が治らないのか、こんな状態になるのか、事実を知りたいと思うのは当たり前のことではないのか」

「いや、まあ確かに、そういう考え方もあるんだけど」


 彼の言葉に口の端だけでひきつったように苦笑して、包帯を巻き終えた腕から椋は顔をあげた。

 もはや言葉もないといった様子でこちらを凝視する、少年の蒼い瞳とすぐさま交錯する。判断するのは君なのだと、椋は静かに言葉を続けた。

 内心震えそうになる声を、必死に叱咤し何とか平静に保とうと苦闘しながら。


「俺がこれから君に言うことは、君に不快しか与えないかもしれない。俺の言うことが本当なのか嘘なのか、きちんと証明する手立ても今の俺にはない。……それでもいいか?」

「……」


 自分で言っておいて何だが、相当ひどい言葉だと椋は思う。

 クレイの反応から考えればほぼ彼からの返答など分かり切っているのに、それでも面倒くさい回り道をしようとするのは、おそらく彼のためではなく、椋自身のための逃げだ。ごくりとわずか、生唾を呑む音とともに目の前の少年は目を伏せた。

 真摯な表情のまま閉じられる目。それは拒絶、ではなかった。

 半身を起こすことも叶わない彼の、おそらくはお辞儀の、代わりだった。


「教えて、ください。…これは、…なん、なんです、か?」

「……わかった」


 彼の声に、一度目を閉じる。閉じて、ひらく。深呼吸する。

 まったく落ち着かない自身にイラッとしつつ、極力静かな口調を心がけようと努力しながら椋は口を開いた。


「さっき俺が言った、壊疽、っていうのはさ。身体の一部が、怪我なんかが原因で死んでいく状態と、その傷口から病気のもとが入り込んで、熱を出したり身体がだるくなったり、そういういわゆる流行病(はやりやまい)みたいな症状を起こしてる状態が、一緒になってることを示す言葉だ」

「身体の、一部が、…死?」


 俄かには、信じられないとでも言いたげに開かれる瞳に椋は頷いた。

 落ち着け、落ち着け。内心で必死に言い聞かせる。

 目の前にいる少年にとって、最も大切でそして、一番受け容れがたいであろう事実はこれからだ。より正確に、しっかりと伝えなければならないのはここから。選択肢を示したうえでジュペスが自分の意思で教わることを望んだ以上、椋には彼に応える必要性があった。

 震えそうになる息を、必死に吐き出し再度吸い込む。末期がんや進行性の、根治のできない難病を告知するときの医師側の感覚はこんな感じなのかもしれないなと、ふと思った。

 ぐっと両拳を握り込み、空回りしそうになる舌を必死に動かして椋は、続けた。


「そして一度死んだ組織は、二度と復活することはない。本来の役目を果たせなくなるどころか、一転して身体に、悪影響しか及ぼさなくなるんだ」

「え?」

「おそらく君は、右腕を切断しない限り、そう遠くないうちに本当に命が危なくなる」


 だから、と。

 さらに言葉を続けようとした椋の声を途切れさせたのは、何かひどく硬いものが、床へと落下する音だった。




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