P2-05 やみむかい 1
無知というのは、怖いものだ。
「なんかすごい見られてる気がするんだけど気のせいか?」
すぐ前を歩く背中に、ぼそりと椋は呟いた。ちらほらと投げかけられる明らかな好奇と奇異の目線に、痛み一歩手前のちくちく感を背中に感じる。
本日は友人の頼みを実行する日だ。あれこれ雑事をしていれば、あっという間に約束の時間となった。
指定の場所まで赴けば、きっちり時間通りにクレイが迎えに来た。
さっさと行くぞと、騎士団の団服に身を包む彼に連れられ、現在の椋はエクストリーの王宮内を歩いている。
「……」
詳細は聞き取れない声や、視線が複数背中に突き刺さってどうにもきもちわるい。思わず椋はため息をついた。
ここが王宮内とは言っても、今現在の椋たちが歩いているのは、それこそ高貴な人々とすれ違いになるような場所ではない。
部外者である椋が当然のように入りこめていることからも知れるように、このあたりは部分的に一般へと解放された、城内における政治的な重要性は最も低いであろう一画である。侍女として城へ奉公に上がった娘や騎士見習いの息子などを、前もっての許可さえ取っていれば訪ねることができるように、というのが一般開放のおおまかな理由らしい。
しかしそんなところであるゆえ、必然的に人目は多いし、すれ違いになる騎士や王宮仕えの老若男女の数もかなりのもの、なわけで。
「ある程度は仕方がないだろう。黒髪黒眼はこの国では珍しいし、お前を連れているのは俺だからな」
視や声に若干ならず辟易する椋を後目に、応じてくるクレイの口調はあくまでしれっとしたものだ。明らかに現在の椋たちに向けられる視線の中には、決して良い感じのしないものも相当数雑ざり込んでいるというのに、である。
そういえば確か少し前にも、自分が無魔なのに云々と、椋には俄かには理解しがたい話をクレイはしていたなと思い出す。
この視線は要するにあれか、無魔であるのに「位階持ち」、優秀さを認められた騎士であるクレイが、また奇妙な黒髪黒眼の男なんぞと一緒にどこぞへ行こうとしているから、なのか。
「無茶言うな。視線が痛いぞ俺は」
言いつつ微妙に、かわいた笑いが出た。同時にクレイが当然のものとして片付けてしまう理不尽に、なんとも腑に落ちないものを椋は感じた。
この世界で目覚めてからというもの、幼馴染であり創作者である礼人の頭を殴ってやりたいと心底から椋が思った回数は既に数知れない。が、今日はいつもとは少しだけその趣は異なっていた。
クレイの目前へと奴を首根っこを掴んで引きずり出し、もう一方の腕でその頭をがっと掴んでがちんと土下座させる光景が椋の脳裏には刹那浮かんだ。
痛い! と凄まじく文句を言われ奴が涙目になる光景まで浮かんだ。
「…うぇっ」
「リョウ?」
うっかり浮かんでしまった自分の想像に心底からげんなりしてしまい、思わずもれた声にクレイが怪訝な視線を向けてきた。
振り返って首をかしげてくるクレイへ、ああいや別に、と椋は苦笑した。
「なんつーか、…うん、その、ごめんな?」
「なぜそこでおまえが謝る」
「いやまあ、とりあえずそんなもんだと思っといてくれ。何でもない」
正確には創造主という名の不肖の幼馴染に代わって、ということにしたい。
謝っても仕方ないことくらい、椋とて分かってはいるのだが。結局あいつの設定がこの世界の摂理である以上、椋ひとりでは何の手出しをすることもできない。
そもそも干渉の許される範囲も、何が許されないのかも今時点では全く、椋には分かったものではない。
などとつらつら考えていると、こっちだ、と静かに告げてクレイはひとつの角を曲がった。
「…ん」
曲がって五歩ほど歩いたころだったろうか。ふとどこか懐かしい類の空気を椋は肌に感じた。
思わずその場に立ち止まり、左右へと椋が視線をやった、まさにその瞬間扉を開いて現れたのは現れた白い修道服、そして「この場」に職員として存在することを示すためであろう白のエプロンをまとった男女の姿。ガラガラと彼らが手で押しているカートには、汚れたガーゼや包帯らしきものがタライに山積みにされていた。
更に言うなら彼らの手やエプロンには、なにか黒ずんだものがあちこちに付着していた。それは次々に別の場所から同じように現れる、他のどの白エプロン職員にしてみても同じだった。
彼らの清潔および不潔が、俄かに心配になった椋であった。
しかしそんな椋の懸念など知るはずもなく、勝手にその場に立ち止まった椋に対し怪訝そうな視線をクレイは向けてくる。
「リョウ?」
「えっ、あ、ああ、悪い。こういう場所って初めて来たから、ちょっと色々物珍しくてさ」
「そうか。…だが、すまないがリョウ、俺もそんなに時間があるわけじゃない。ついてきてくれるか」
「ん、了解。むしろ俺こそ悪いな」
そんな声をかける椋に、前を進む足は止めないままにクレイは首を横に振った。背中越しにも何となくだが、彼が笑っているのであろうことが分かる。
理由が分からず今度は椋のほうがやや怪訝な視線を向ければ、ふっと笑ってクレイは肩をすくめた。
「そもそもおまえに無理を言っているのは俺だ。それにリョウなら、確実に今のようなことにはなるだろうとは思っていたしな」
「え、そうなの?」
「以前のことに関してもそうだが、おまえはとにかく、治癒に関することには目の色を変えるだろう」
「あー…ははは…」
まったくもって、ごもっともに過ぎる指摘に苦笑するしかない。
結局のところ、世界というものが全てに対してどうあっても。本来の自分には決して、手を伸ばすことが不可能な場所にしか「それ」がないことがわかっていても。
椋が心底からなりたいと思うもの、純粋に誰に強いられるでもなくやりたいと願うことは、どうしたところでそこにしか――医療という分野にしか存在してはいないのだ。
ありがたみというのは、総じてなくして初めて気づくことだという。本当にその真理を折に触れてしみじみ、近頃の椋は感じずにはいられない。
少し前までの彼は、ある程度の努力さえしていれば、人並みに普通に勉強をして年月を越えてさえいれば当然のように医師に「なれる」ことが確定していた。
基本は一本の道をただ、彼は進んでいればよかった。ただ勉強さえしていればよかった。少しだけ、将来どこに行くのかを考えるだけでよかった。
自分は本当に、どれだけ恵まれていたのかと。
そしていかにその幸福を、当然のように何の意識もせずにただ享受していたのかと、思う。
「リョウ? そうまで呆けていると迷っても俺は知らんぞ」
「え、っわ、すまん」
気づけばクレイとの距離は三メートルほど開いており、椋の視線の先では扉を開いたまま待機しているクレイがいた。慌ててその距離を詰めクレイの開いた扉をくぐれば、その先にはひやりと冷たい石造りの廊下が続いていた。
極力歩く速度は落とさないよう、クレイを見失わないよう注意を払いつつ椋は周囲を見やった。ひんやりした空気は特に湿っても乾いてもおらず、鼻をつまみたくなるようなにおいもない。天井や壁、床もきれいに清掃がなされているように見えた。
どうやら先ほどの人たちを見て椋が予想したよりも、この建物全体の衛生状態は悪くはないようだ。空気にはわずかにいわゆる「病院くさい」薬めいた臭いがあるが、不潔であるゆえに発生する悪臭の類は少なくとも、現在の椋には感じられなかった。
と。
「ん?」
「どうした?」
「あ、いや。…なあクレイ、この明りって」
不意にふわりとやわらかく、清浄な風が椋の頬を撫でた。驚いて顔を上げた瞬間、真上にある淡い緑色の明りから、まったく同じ種類の風がもう一度顔に吹きつけてきた。
視線や表情で椋の言いたいことを見て取ったのか、ふと小さく笑ってクレイは口を開いた。
「全て、宮廷直属の魔具師が創った魔具だそうだ。患者たちの集う区画の、空気を淀ませないよう創られたものらしい」
「へえ。……すごいな」
「俺にはよくわからんが、そうなのか?」
「いや、すごいだろ確実に」
空気が淀む――即ち、不潔な上に多くの細菌やウィルスを含んだ空気が停滞する。
そんな状態は明らかに患者の予後を悪くすると、きっと誰かが気づいたがゆえにこの魔具は創られたのだろう。
この世界に感染という概念が存在しないことを考えると、相当その人は観察力に優れていたんじゃないだろうかと椋は思う。椋自身が分かりやすいありていな言葉で言ってしまえばおそらく空気清浄機と明りの役割を兼ねるこの魔具は、おそらく発明者、発見者の想像以上に良い方向に働いている、ような気がする。
しかしそんな自身の上から目線が若干嫌にもなったくらいの頃合いで、クレイがまた口を開いた。
「あの突き当たりの部屋だ。リョウ」
「はいよ」
細かい理由が分からずとも、魔術を使えば「不快」を消すことができる。
そんな世界の「理」は、こんなところでも不意に、見える。しかしとりあえず何はともあれ、空気の吹きだまる不潔な場所に患者たちがぎゅう詰めに押し込められているような状況はないようで少しだけ椋は安心した。もしそれが「当然」としてこの場所で認可されてしまっていたとしたら、正直何もしないでただ見て帰るだけになる自信がない。
どこまで踏み込めばいいか、分からないのに。
境界線を引くことなど、椋自身ではおそらく、無理だというのに。
「リョウ」
「ん?」
閉じたドアの直前で、足を止めたクレイが不意に振り返り名を呼んだ。首をかしげてそれに応じれば、何か言いたげに緑色の瞳が細められる。
しかし結局は何を言うこともなく、ただ小さく首を横に振ってクレイはまた目前へと向き直った。あとになって椋はこのとき、取り乱すなよと、そんな類の言葉を自分にクレイは向けようとしていたのかもしれないと思った。
伸ばされるクレイの手が、ドアのすぐ右横の壁に設置された何か球体のようなものに触れる。
すらりとほとんど音もなくスライド式に開いたドアに、確かにその方が何かと便利だもんなと納得、感心しつつ、中へと入っていくクレイの背へ椋は続いた。
その部屋へ椋が足を踏み入れた瞬間、肌に感じたのは鬱屈だった。
明らかに、今の今まで歩いていた廊下とはまったく空気が違う。むせ返るように強いわけではない、はち切れそうなわけでもない。しかし長いこと放置した液体の瓶の奥底で、どろどろと決して消えずに黒く「なにか」が沈み淀んで澱めいているような、そんな感覚を椋は抱いた。
小さな呻きが、複数耳朶を打つ。その全てが何らかの訴えを孕んで、しかし同じように苦しむ同室の者たち以外の誰にも届くことなく落ちていっていた。
決して狭くはないはずの、おおよそバスケットコートくらいの広さはあるだろうその部屋は、しかし中に押し込まれた人数の多さゆえか、ひどく窮屈なように椋には見えた。
全身あらゆる場所に包帯を巻かれた男、ちらりと見える肌が黒ずんでいる少年、生気のない瞳をこちらに向けてくる一人。赤い顔をして熱にあえぐ者もいれば、がたがたと寒気に震えているらしい者もいる。
それらだれもが諦観と、絶望めいた光を各々の目に、今にも消えてしまいそうな弱々しさで辛うじて宿していた。
おそらくそれぞれの患者の使えるスペースは、どんなに多く見積もってもたたみ一畳分強といったところだろう。看護を行う職員たちのため開けられているのであろう、決して広くはない通路すら惜しむようにぎちりと室内に詰め込まれた患者たちは、みな一様に暗い表情をしていた。
この狭い部屋に押し込められているのは、おそらくそう身分の高くない大金を払うこともできない人々なのであろうと。
見た目や見舞人の少なさから、何となく想像がついてしまって胃の底が一瞬、ぐらりとした。
「リョウ?」
「あ、…わ、悪い」
知らず足が止まっていたらしい。既に今日だけで何回目かというやり取りをクレイと繰り返し、先導する彼の背に椋は続く。決して見ていて気分はよくない、そんな人々の合間を縫って、歩く。
足は止めずに周囲を見回してみれば、この部屋にはひとつも、窓がないらしいことに椋は気づいた。
窓からの明りの代わりのように、部屋の天井そして壁際には、先ほど廊下で見たものより一回りもふたまわりも大きい薄緑の明りが複数、据えられていた。明りと空気清浄機の役割を果たすべく、室内へ光と風とを投げかけ続けているそれら。確かにこれだけの人数が、どう少なく見ても五十人はいる空間のものとは思えないくらいには部屋の空気は、綺麗だった。
しかし部屋の大きさと、中に詰められた人数を考慮すると決して、それでも十分とは言えない。
一様に暗い病人たちの表情に、椋は思わずにはいられなかった。
「ジュペス。…起きているか」
「…、クレイ、トーン、様…?」
黙って進み続けていた、クレイの足がふいに止まった。部屋の片隅、こちらに向かって背を向けた形で横になっている一人にクレイは声をかける。
返る声は、かすれていた。もそりとひどく億劫そうに、ゆっくりとその相手が身体を動かし寝がえりを打つ。
クレイに対する不敬を思ってだろう、彼は上体も起こそうとしていたが、それは彼がやろうとした時点でクレイが止めていた。そんなさりげない所作だけでも、クレイがいかに、指導役をしているらしいこの人物を大切にしているのかが分かるような気がした。
何か眩しいものでも見るかのようにクレイを見上げた彼は、そのすぐ後ろで手持ち無沙汰で佇む椋の姿にわずかに、怪訝そうに眉を寄せる。
まっすぐにこちらを見据えられ、彼の――少年の瞳がびっくりするほどに蒼いことに椋は、気づいた。
「……ええと」
男同士だんまりでいつまでも見つめ合うのもどうかと思いつつ、しかしうまい言葉を見つけることもできずに椋は頬をかいた。
それにしても本当に驚くしかないほど、こちらを見上げてくる少年の瞳はどこまでも蒼い。肌や髪はばさばさにくすんでしまっているのに、その瞳の色だけはこのうす淀む空間にあっても見事に真っ蒼だった。
蒼い瞳、そして、少年。
何かが頭の隅に引っかかるような、わずかな妙な感覚を椋はそのとき、抱いた。…が。
「あなたが、…リョウさん、なんですね」
「ああええと、はい、どうもはじめまし…てっ?」
何か眩しいものでも見るかのように、相変わらずその瞳を眇めこちらを見上げたまま告げられた言葉。半ばその言葉の意味も理解しないままに、椋は何の変哲もない初対面の挨拶を目の前の少年へと返そうとした。
しかし自分の予想していた相手からの言葉と、実際に鼓膜を震わせたものはまったく違っていたことに自分の言葉の途中で椋は気づいた。
今しがた目の前の少年が口にしたのは、初めて会う相手への挨拶の言葉ではない、自己紹介でもない。椋の耳やら脳やらが間違っていなければ、間違いなく今この少年、名乗ってもいない椋の名を普通に口にした。
結果として非常に不自然に上がってしまった語尾に、ふと笑いをこらえるようにクレイがあからさまに顔を脇にそらした。
むしろそういう行動をされる方がこちらは居た堪れないということを、さりげに年下のこの男は学ぶべきだと思う。




