P04 来訪と襲来2
らぴりしあ、だいよんまじゅつしだんちょうかっか。
俄かに変換が追いつかない彼の言葉に、ぴしりと音がしそうな勢いでその場の空気は完全に凍りついた。場末の酒場にはあんまりにも不釣り合いで、関係も普通はありえないようなものの羅列だったからだ。
しかしそんな氷結の中、最初に動いたのは椋だった。
理解不能の状態に他と同じく凍りついたままの店主へ、いつもと変わらないからりとした声を張り上げる。
「ごめんおやっさん! 俺の上客だ、ちょっと二階貸して!」
「…っ、リョ、」
いつもと何も変わらない椋の声に、もろもろを分かりかねる表情をしたカリアが名前を呼びかける。もう一方の椋を訪ねてきた「彼」はといえば、この場の雰囲気に自分の失言を感じ取ったらしく状況の静観を決めたらしい、無言だ。
ラピリシア、そして魔術師団、団長。それはここに来て間もない椋のような人間でも名前だけなら知っているような、この国においてそれなりに特別な意味を持つ名詞たちだった。
だからこそ椋は今、場所を移し他人の目を遮断するための声を上げた。そのそれぞれの内容は、詳らかにするにしてもしないにしても、こんな人目の多いところでさらっと世間話のように話すようなことではない。それくらいは分かっているからだ。
それなりの腕を持つ冒険者たちが集うクラリオンでは、特に古株の店員を指名して情報や依頼のやり取りが行われることも決して珍しいことではない。
そのためにこの酒場には、二階および地下にも、防音その他、情報漏洩を防ぐ様々な策が施され様々な設備もきっちり整った個室が複数、用意されている。そのうちのひとつを自分に貸してくれとそして、今の椋は店主へ言ったのだ。
とはいえ、まだここに入って一カ月と少ししか経っていない椋にはそれは、普通ならば舞い込まないはずの類の仕事だった。
しかし椋の声と表情から何かを感じ取ってくれたらしい店主は、妙に不敵な、面白がるような表情で椋に笑って頷いて見せた。特殊な加工の施されたカギを、無造作に椋へと向かって放ってくる。
「今空いてる部屋はそこだけだ。さっさと行け、んでさっさと帰って仕事の続きしろよ? リョウ」
「サンキュ…じゃなくてありがと、おやっさん」
ぽろっとこぼしてしまった通じない言葉を言いなおし、二人へ向かって椋は目くばせする。
相変わらず、凍りついたままの酒場全体の視線は椋たち三人へと向けられたままだ。…明日以降の常連さんらがホントに怖いなとひっそり内心で笑ってしまいつつ、使用許可の下りた部屋へ向かうべく椋は厨房から階段へと向けて足を踏み出した。
最低限の明りしか使われていない階段は、当然のことながら全体的に薄暗い。薄暗い階段に三人分の影と足音が、決して新しくはない木造の階段に響く光景は微妙にホラーチックだった。
まあそんな光景にも、この一月強の中である程度椋は慣らされてしまったのだが。
「リョウ」
「ん、ああ、ここだ」
改めて、渡されたカギの番号と辿りついた部屋の番号とを確認する。この二階では一番上等な部屋を、まるで何もないような口調で平然と放ってくるおやっさんは、まあ最初から分かっていたことではあるが、どうも普通じゃないよなあとしみじみ思ってしまう椋である。
扉を開き、先に「客人」であるふたりを中へと入れた。
自分の常連、と言っていいくらいクラリオンに通ってくれているカリアはともかくとして、緑の目の男のほうはよく、何の文句も言わずにあっさり従ってくれているものだと不意にそのとき、椋は思った。
「どうぞ。座って楽にして下さい。何か飲み物などの注文はございますか」
「………」
微妙に所在なげな二人に椅子を勧め、従業員としての対応マニュアル通りの言葉を椋は告げる。この類の行動に変に手慣れてしまっている自分に、奇妙に過ぎるはずの現在の状況にも慣れてきてしまっていることを今更ながらしみじみ思い知る。
しかしどうやら、椋のそんな「如才ない」態度は対:冒険者へのものであり、今実際に彼が目の前にする貴族二人に対して行うようなものではなかったらしい。
何とも言えない微妙な空白ののち、ふっと男の方が不意に笑った。
「昼の一件からして普通ではないとは思っていたが、本当に妙な男だな、おまえは」
「そうね。見た目も含めて彼くらいに変な人間を探すのって、王都広しといえどかなり難しいと思うわ」
結構に失礼な形容に、カリアまで笑って乗ってきた。というか続いたカリアの言葉のほうが確実に色々と失礼である。
やれやれといつもの調子で椋は肩を落としたが、一方の「彼」ははっと、彼女の前でその居住まいを正す。ごく当然といった調子の「彼」の挙動に、浮かべた笑顔をわずかに、どこか諦念めいたものにカリアは変えた。
その表情のまま、うーんと一つ彼女は伸びをする。
あーあ。軽い声が軽く残念そうに、響いた。
「折角今まで、ただのお客でいられたのにな。…ま、仕方ないわよね」
「…閣下、」
「別にあなたのせいじゃないわ。今まで誰にもバレなかったのが奇跡みたいなものだったのよ」
小さく、あまり見ていて気持ちの良いものではない薄い笑顔をその綺麗な顔に貼りつけながら、パチンと場違いな軽やかさをもってカリアは指を鳴らした。
唐突な彼女の行動の意味が分からず、わずかに椋は首をかしげた。そして次の瞬間には、己の両目をほぼ限界まで椋は見開いていた。
音が室内から消え去ったときには既に、彼女の外見には驚くしかないほど、絶対的な変化が起きていた。
「銀の髪に、金の目…?」
何を考えるよりも前に、言葉が口をついて出ていた。この城下町にはそれなりにありふれた茶色をしていたはずのカリアの髪と目は、指を鳴らした瞬間に鮮やかに美しい、まじりけのない銀と金へと変化していたのだ。
―――その人物は銀の髪に金色の瞳、白皙の美貌を持った壮絶なまでの美少女。
勝手に脳内に鳴り響く、音と文章の連なりにそのとき、椋の心臓は奇妙にひとつ跳ねた。
どこかで疑念は持ちながら、まさかと否定していた事柄と目前の事実が重ねられ一致していく感覚。心臓の跳ねが一度でおさまらない、二度三度、五度六度と重なっていくそれは既に―――動悸だ。
ともすれば呼吸することすら忘れそうになって、奇妙な息苦しさが頭痛めいた痛覚のかけらを意識の端にひっかける。強いて意識しないようにしていた疑念が、椋自身は意図しないうちに勝手に取り払われてしまう。
ただ愕然と言葉を失うしかない、椋の様子を果たしてどう思ったのか。
金と銀とを宿す少女、カリアは困ったように曖昧に、笑った。
「ごめんね、リョウ。だますとか、そんなつもりじゃなかったの」
あんまりあなたが、私に普通にしてくれるから。だからつい甘えちゃったのよ、と目前の少女は苦笑う。
どう年齢を上に見ても絶対に二十歳どころか十八にも届くかというところだろうに、自分より年上の男に当然のように閣下と呼ばれ敬われる少女が謝りの言葉を述べる。本人としては何ともないような様子を装いながら、彼女の様子を見る男の方は、何か途轍もないものを目にしているかのような表情をしていた。
それはつまり要するに、このカリアという少女の地位は「簡単に他人に謝罪などしてはならない」ような高いものだ、ということに他ならないわけで。
彼女の色が変わったことそれ自体には、「彼」がさしたる驚きの様子を見せていないことからすると、彼女本来の持っている色彩というのはこの、綺麗かつものすごく珍しいとしか言いようがない金と銀だという、ことなわけで。
「閣下、あなたはなぜ、…ここに?」
静かに、「彼」が口を開く。
その尋ねる言葉も口調も、ひどく丁寧で物腰も低く、控えめだ。つい先ほどまで椋が彼女に対して取っていたものとは、比べ物にならないくらいの丁寧さだった。
緑の瞳をした浅黒い肌の「彼」に、なにか納得したような表情をわずかにカリアは浮かべた。
「なるほど。リョウに助けられた貴族令嬢というのは、ルルド家のピアレティス嬢のことだったのね」
庶民に対してもきちんと礼を守る騎士なんて、そう数は多くないものね、と。
静かに微笑む彼女に、低頭して彼は言葉を返す。…どうやらこの男、騎士と呼ばれる集団の中において、それなりに名前を知られている存在であるらしい。
「はい。本日の午後、私たちは、彼の存在に助けられました」
きっぱりとそう言い切り、やはり今でもどう見ても貴族である男は椋へと向かってわずかに微笑む。
向けられる表情はどこまでも真摯であり、目の光に澱みや打算は一切何も見えなかった。しかしそうであるがゆえに、どこまでも椋にとっては混乱の材料にしかならなかった。
そもそも「団長」にも名前が通っているような人間が、おいそれとこんな場末の酒場に、ただ一般人に、平民に礼をするだけのために自ら足を向けるなんてこと普通はあるのだろうか。
少なくともこの一月と少しで椋が得た見聞には、一例たりとてそんなことはなかった。むしろ宮廷直属の騎士、魔術師というのはその誰もがプライドが高く傲慢で、下手に触ればこちらが要らない怪我をすると誰もが苦笑するものの代名詞、ではなかったか。
実際に椋も、実際に要らない怪我を受けたことはなくともそんな光景にはち合わせてしまったことは一度ならず、ある。…よって、どうしても昼間と同じような否定を、また懲りずに彼は口にしてしまうのだった。
「い、いやあの、…俺、本当にぜんぜん、なにもしてなくて」
「ねえリョウ、さっきも言ったでしょう? あなたの言うなにも、は、まったくもって全然当てにならないのよ」
「うぁ」
しかし必死の否定の言葉は、あまりにもざっくりとカリアに切って捨てられた。
思わず零れた椋の情けない声に、彼女はまた、どこか楽しげに相好を崩す。カリアいわく騎士らしい緑の目の男も、極端に表情は変わっていないものの、どこかその瞳の光は面白がっているようにも見えた。
なぜか庶民な自分の前に、騎士、らしい男と団長、と彼から呼ばれるような立場にあるらしい少女が目の前にいる。
何とも妙な展開に口を開けずいる椋に、もう一度ふと笑ってカリアが口を開いた。
「改めてここで名乗るわ、リョウ。…私はカリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシア。第四魔術師団「シーラック」団長にして、アイゼンシュレイムの名を戴くこの国の筆頭貴族の一つ、ラピリシア家の現当主よ」
「………」
「そう言えば俺も、名乗っていなかったのだったな。…第八騎士団「リヒテル」第六位階騎士、クレイトーン・オルヴァだ。今日のことに関しては、本当にいくら礼を尽くしても尽くし切れない」
カリアという名前、第四魔術師団「シーラック」、この国において特別な意味を持つ、ラピリシアという苗字。
さらに彼の、砂色の短い髪と緑の目、浅黒い肌とその名前、第八騎士団「リヒテル」、騎士。
椋は言葉を失うしかなかった。半分は驚愕、半分は奇妙なまでの、事実が事実として腑に落ちる感覚ゆえのものだった。
第四魔術師団シーラック、第八騎士団リヒテル。それらはいずれも、このエクストリー王国の宮廷直属エリート組織が冠する名前だ。
入団条件も昇進の条件も共に非常に厳しく、それゆえに保持される一定以上の精鋭兵力によって、エクストリー王国の平和は過去から現在に至るまで保たれているのだという。目の前の二人はそして、自分たちはそんな場所の人間なのだと告げたのだ。何の惜しげもなく。
しかもカリアに至っては、その諸々非常に厳しいはずの組織の、若き団長様であると来た。団長であるだけに留まらず、この国に五つしか存在しない筆頭貴族、王から「アイゼンシュレイム」のミドルネームを授けられた大貴族の当主でもある、という。
ついでに言うならオルヴァというのも、確か「レクサス」のミドルネームを与えられた貴族家じゃなかっただろうか。
妙な眩暈と耳鳴りを覚え、思わず椋は己の顔を片手で覆った。
与えられた情報に、どうにも思考がついて行ききれずにいた。
「…リョウ、」
こちらを心配する一方で、どこか腫れもの、壊れものに触れようとするかのような。不安げな揺らぎに縁取られた声が、椋の名を呼ぶ。
なんともまあ。当然のように示された二人の事実に、変に笑いたくなってきてその衝動を押さえこむのに多少の苦労を要した。
やっぱりここは、「そう」なのか。他のどんな場所でもなく、あいつの描いたあの世界なのか。
自分の中に渦巻く驚愕と衝撃が、不釣り合いに身分の高い人間に丁寧な態度を取られたためのものと思われることを願いつつ椋は沈黙した。なんとか自分の中身を立て直そうとする。事実を、事実として受け止め整理しようとする。少しでも。
ただ衝撃を受けていても、事実を拒絶しても何にもならない。
ぐっと一度目をつむり、改めて顔を上げ二人へ向けるとともに目を、ひらいた。
「……俺みたいな何の変哲もないやつに、過ぎた言葉を、ありがとうございます」
「リョウ?」
「あれは昔、少しだけならった知識を使っただけなんです。知ってさえいればほんとうに、なんでもないことなんです」
自分にとっての、嘘は言わない。だが同時に、事実もすべてを口にはしない。
少し驚いたようなカリアをよそに、ただ静かに椋は緑の目の騎士、クレイに向けて言葉を発した。最終的に何もないままこの場を収めるために、感情の伴わない笑みを浮かべてさえ見せる。…その笑みが、それなりにきちんとした笑顔に見えていることを祈りながら。
正直なところ、自分でも何を言っているのか分からないような言葉を、口にする。
「だからクレイさん。もし俺に何かして下さるつもりだというなら、これからもこの酒場を贔屓にしてやって下さい。値段の割に量は多いし味もいいって、このあたりじゃ結構評判なんですよ」
軽薄な笑顔というのは多分、今の自分の表情を指す言葉なのだろう。
妙な疲労感を覚えつつ、しかし口先を滑り出た言葉は少なくとも、椋自身が聞いて考える分にはそれなりの筋が通っていた。折に触れてただのバカとしか思えないような質問をするような新米従業員にしては、店のためを考えた悪くない発言だと、思う。
しかしそんな椋の言葉に、やや怪訝そうな表情で彼は目を細めた。
「具体的な褒賞は何も、要らないと?」
いや俺、そんな守銭奴に見えてたのか。
若干突っ込みたくなったが、しかしそんな些細な思考は無視して変わらない表情で椋は頷いた。はい、と。
「過ぎたるは及ばざるがごとし、とも言いますしね。…それに」
「!」
そこまで彼と話してようやく、椋はこの場にいるもう一人の方へと改めて視線を向けた。
それはどう考えても大貴族の当主様に対する態度ではなかったが、しかしそれを受ける当人であるカリアは椋を怒るどころか、何かを恐れるかのようにびくりと小さくその細い肩を震わせた。
「凄く偉いっていう事実を知っても、俺はまだ、きみをカリア、って呼び捨てにして、いいのかな」
「…リョウ」
いつものように笑って見せた椋に、何か憑きものが落ちたかのようなほっとした笑顔をカリアが浮かべた。
椋としても、彼女のような美少女が自分の作ったものをおいしく食べてくれる日常を失うのはあまりに惜しい。何しろ酒場に訪れるのは大半がおっさんなので、やはりどうしても目の保養は欲しくなるのである。
そしてさらにただの目の保養以上に、カリアは一人の人間としても椋には非常に魅力的だった。頭の回転が速く知識も豊富で、かつ、いかにも奇妙で訳ありな椋に対して過剰な追及は一切してこない。
ひとりの客として、それ以上に友人として。
椋にとってはとてつもなく、彼女はありがたい存在、なのだった。
「リョウ」
「はいはい」
「今日はあなたも含めて、ここで飲ませて」
金色の瞳が、綺麗に明りをはじいて光る。こんな状況で彼女のお願いを断れる人間がいるなら是非とも紹介して欲しい。
更に空気が読めるらしい、クレイもまたカリアの言葉にさらりと乗ってくれた。
「その支払いは全額、私がいたします。…リョウ、それでいいか」
「…はい。わかりまし―――」
た、と。
久々に普通に酒を飲んでも怒られなそうな機会の到来に、多少の嬉しさも感じつつ返事をしようとした、そのときだった。
「!」
それまで穏やかだった二人の表情から、一瞬にして甘さという甘さがすべて抜け落ちた。
その変化に椋がまともに驚く間もなく、邪魔になったらしいフードとマントを乱雑にその場にカリアが投げ捨てた。バン、と物凄い勢いで部屋のドアをクレイが開く、次の瞬間、階下から響いてきたのは声―――悲鳴だった。
「きゃあああああっ!!」
しかもその声の主は、滅多なことで動揺などしないはずの、下手をすれば椋よりずっと肝の据わっているはずの従業員の一人の声。
何が何だか分からない椋を置いて、険しい表情を浮かべた二人は階下へ向かって走り出した。