P2-03 奇跡の破片へ向けるのは
当然のように、彼が魔術を使った。
件の酒場から帰ってきた、主の表情は心なしか沈んでいた。
他の場所へ行っていたならともかく、あの場所へ向かった帰りに浮かべるものとしては随分珍しい表情である。決して明るくはない思案に暮れているのであろうその顔は、ひどく真剣であると同時にどこか苦しげだった。
少しでも彼女が落ち着けるよう、特別に配合したハーブティーを御前に差し出しつつ、彼女の傅役でありこのラピリシア家の家令でもある青年ニースは主へと声をかけた。
「どうぞ、お嬢様」
「……ニース」
声に応じるようにこちらを見上げてくる彼女の瞳には、やはりとも言うべきか覇気がない。途方に暮れている子どものようにも、ニースの目には見えた。
そんな顔をしている彼女が、しかし自分から何か言いだすことはないと既にニースは知っている。高い矜持を持ち、常に上に立つ者として、容易には気安さを己に許さない――彼女をそう育てたのは、他の誰でもない傅役のニースだ。
敵は多く味方の少ない、この世界で彼女という存在が少しでも揺るがないものと、なるために。
「いかがなさいましたか、お嬢様」
彼と喧嘩でもしましたか、と。
従ってニースは、主従本来の分別を脇に置いて自分から口を開く。少し冗談めいた響きとともに笑って声をかければ、どこか苦笑めいた笑みを彼女もまたニースへと返してきた。
「してないわよ。そもそもあの人と、どんなケンカをしろというの?」
「では、どうされました」
「ん、…ちょっと、ね」
苦笑の表情のまま彼女、カリアは己の口許へ軽く手を当てる。それは躊躇い、言葉を選びかねているときに見せる彼女の癖だ。
少し前に直したはずのそれがまた出てきているということは、それだけのことが今日あの場において起こったということなのだろうとニースは推測する。しかし動揺すれば癖が出てしまうということは、まだこの癖は、残念ながら完全には直っていないのか。
思考しつつそっと彼女の手を取り、膝上へと戻す。ニースの所作に、はっとしたようにカリアは金色の瞳を見開いた。
見つめてくる混じりけのない金色に、静かに笑みを浮かべたままニースは淡々と告げる。
「おっしゃりたくないのであれば結構ですが、もし本当に何かあるのでしたら、言って下さらなければ私には分かりません」
「…わかってる」
こちらの向ける言葉に、再度カリアは苦笑を浮かべて頷く。苦悩し足掻き、もがくその姿は、扱うのは焔であるのにその内面は氷のようと、事あるごとに口さがなく揶揄される少女と同一のものとは俄かには思えないほどだ。
だからこそあらゆる危険を承知しながら、最終的にニースは折れたのだ。彼の唯一の主たるこの銀と金色の少女に、年相応の少女らしい感情を表情を浮き沈みさせてやれるのは、良くも悪くも彼しかいないのだから。
知るべきものを知らず恐れるべきものを恐れず、彼我に取る距離の感覚が完全にズレている青年。己の持つ特異を異界故のものとそう言った、黒の瞳に嘘の色は見受けられなかった。
無論あのときの彼の言は、容易く信じられるようなものではない。
しかしそうとでも考えなければ、納得のできないものは既に少なくない数、あった。
「ニース」
「はい」
そこまでニースが考えたところで、不意にカリアが彼を呼んだ。
すぐさま彼女へ応じれば、何かを思いきろうとしているらしい金色の瞳がまっすぐ、ニースを見上げていた。
「調べてほしい、…というより、改めて調べ直してほしい人物がいるの」
「調べ直してほしい、ですか?」
「ええ。あなたから一度は、ひととおりの調査の結果は私も受け取った人物だもの」
まっすぐこちらを見据えながらも、一言一言を紡ぐたびに彼女の瞳の光は揺らぐ。
カリアの言葉の行き先が分からず、ニースは己の主の言葉を静かに待った。彼女はいったい何を考え、何を口にし、何を実行に移そうとしているのだろうか。
一度瞳を閉じた主は、ゆっくりとその目を開いて、言った。
「あなたに調べてほしいのは、彼の居候先の家主。――流れの魔具師だという、あの男のことよ」
「彼に関しては隣国ネルデからの流れ者であり、現在はこの国の国籍を取得し王都の東部にて店を開いている、ということであったと思いますが」
「分かってるわ。だからこそもう一度、もっと詳細に彼を追って欲しいの」
「もしそれを実行に移すなら、以前よりさらに多くの人員を割くことになります。理由を伺っても?」
「異世界」の黒の青年を、この世界において最初に発見し拾い、受け容れた男。
男は半ば道楽のように、奇妙でガラクタめいた魔具ばかりを店に並べている流れの魔具師だった。ここエクストリー王国に隣接する三国のうちの一国ネルデにおいてもこの国においても、突出した才能があるわけでもなくとりわけて珍しい魔具を作るでもなく、ごく普通の凡百の魔具師として日銭を得ている人間、というのが彼に関する過去の調査結果だった。
それを主は今一度、ひっくり返して別の事実を探せと言う。
何故かと問いを向けてみれば、ふっとひとつ重たげなため息をニースの主は吐いた。
「彼、……治癒魔術の発動ができる魔具を、制作することに既に成功しているわ」
平板に、しかしどこか重苦しく告げられた言葉に。
さすがのニースも一瞬、理解が追いつかなかった。
「治癒魔術の、魔具、ですか?」
「リョウが魔術を一切使えないことは、あなたも知っているでしょう。そのリョウが今日、当然のように治癒魔術を使っていたのよ。しかもあれは術式紋からいって、治癒術師の扱う治癒魔術の基本だった」
「……なるほど」
ニースの問いに返してくる、主の言葉はどこか淡々と適切だった。
治癒魔術の発動が可能な魔具。それは有史以来、一人として創り出すことのできなかったおそらく唯一の「基礎魔術」の魔具だ。
魔術の才能のあるものは、八歳になる年に最寄りの学院へと集められ魔術師となるための教育を受ける。そして彼らの受ける教育の中で、初めに教わり使えるようになることを求められる魔術を「基礎魔術」と呼ぶのだ。
魔術の系統は大分して、火、水、風、大地、光、闇、時空そして治癒の八つ。八つの系統には須らく基礎が存在し、魔術師たるためにはこの八つの基礎を使いこなすことが絶対条件となる。
逆に悪しざまに言ってしまえば、ある程度の魔力を持ってさえいれば絶対に使えてしまうのが基礎魔術なのだ。
しかしその「使用の容易い」はずの八つの基礎魔術の中、唯一どんな魔具師を持ってしても魔具に込めることのできない、魔力を持つ人間にしか使うことのできない魔術があった。
「“癒しの力は、人が人に使用するからこそ発動するもの”」
「……」
「私たちは長く、そう教わり、またそう教えてもきました。……本当にそんな魔具が存在するとすれば、これまでの魔術の常識はおろか、メルヴェの教義まで覆りかねませんね」
「ええ。教会の力が強くなり、今や冒険者のパーティには、祈道士が欠かせないとまで言われているこの時代に、ね」
冒険者とは、世界中に跋扈し暴虐の限りを尽くす魔物を、個人あるいは村、町、国の依頼を受けて倒すことによって日々の暮らしの糧を得る者たちを指す言葉である。
扱いが難しく消費魔力が膨大な上、効果も大したことがない治癒術師の数は、治癒は祈道士が行うべしと教会が全面に押し出しつつあることも加わって今や風前の灯だ。したがって治癒の術が欲しければ、人はまず教会を、祈道士を頼ることになる。教会を頼る、ことになる。
しかしそれは、あくまで他に治癒の方法が存在しなければ、の話だ。
「今のまま行けば確実に、そう遠くないうちにあの人、教会から目をつけられるわ」
やはり淡々と紡ぐカリアは、ひどく苦い、嫌そうな表情をしていた。
生来曲がったことが嫌いで、婉曲が嫌いで、不正不当、虐げるなどということに関して異常なまでの拒否感を隠すことなく示すのがカリアという少女だ。彼女という「個人」にしてみれば、現在の状況は不快以外の何も、覚えられるようなものではないのだろう。
しかも、と。
苦み走った表情のまま、カリアは言葉を続けてくる。
「彼の持ってた魔具、びっくりするくらい小さかったのよ。魔術師ならばともかく、何も知らない平民たちならば、彼が発動させる魔術を「彼が己の魔力を消費して起動させたもの」と思ってしまうくらいにね」
「制作者は教会の目もその異端も見越して、それでも魔具を作った、ということですか」
更にと連ねられる言葉に考えを述べれば、複雑に歪んだままの表情でカリアは肯定を返してくる。
かつて調べたところによれば、その男は周囲との付き合いもほぼない、そもそも他との干渉それ自体をほぼ行わない変人、奇人、というのがもっぱらの周囲の評だった。そんな変人ではあるが、魔具師として市井の人々が頼れるくらいの腕はあり、よって彼は今でも食いっぱぐれることなくこの王都に居を構え続けているのだと。
王都に住む魔具師の数は決して多くはないが、しかし彼のような生活をしているものも皆無、というわけではない。
だからこそ当初はニースもそして彼の主も、そういうものとして彼の存在を流していたのだが、…これは。
「それらがすべて、真実ならば、……彼のみならずその男も、まず只者ではないのでしょうね」
「……」
事実として積み上げるしかないニースの言葉に、カリアは言葉なく短く嘆息して頷いた。
以前に一度、偶然とは重ならないものだと彼女へ説いたことがある。
ただでさえ普通でない彼のもとに、更に更にとまた奇妙な事象が重なってしまっては、…いくら彼自身には一切の悪意は見えないといえども、何かの介在を疑わずにいられないのは仕方のないことだろう。或いは何か、それこそ大いなるものの意思、とでも呼ぶべきか。
かわいた苦笑を浮かべた彼女は、ふわりと両手で顔を覆った。
「本当にこういうとき、自分が嫌になるわ」
守るために、護るために。そうせざるを得ない己を、既にこの主は理解している。
しかしようやく年相応の動きを取り戻した、自身の感情との折り合いを未だに、カリアはうまくつけられないままでいるのだ。或いはどこかで折り合いをつけることを、拒絶していると言い換えてもあながち間違いではないのかもしれない。
背負った多くのもののため、彼女は動かなければならない、見て見ぬふりをすることは、できない。いくらそれが純粋に、誰かが誰かを助ける、それだけのために願ったものであったとしても、だ。
カリアは泣いては、いないだろう。多少声は震えているが、彼女はこの程度ではもう、泣かない。
涙は遠い昔に彼女と、そして自分とが流すことを禁じた。
それまで泣いてばかりだった彼女に少しでも前を向かせるため、最初に取り交わしたそれは二人の、約束だった。
「お嬢様」
だから今、ニースにできることはただ相手を呼ぶことだけだ。強いてゆっくり、やさしく口にする呼び声に主は、ややあってゆっくりと手の内から顔をあげた。
どこかかなしげな表情で、彼女はニースに、あえかに笑んだ。
「ごめんなさいニース、……お茶、淹れ直してもらっていいかしら」
これで話は終わりだと。しばらくは一人にしてほしいと。
言外にそうほのめかす主の言葉に、ニースが否やを唱えるわけもなかった。
「かしこまりました。すぐに」
丁寧に一礼し、御前を下がる。
彼が現れてからというもの、まったく気の休まる隙というものがない――。




