P2-02 誰も知り得ぬ翳語
「別にそれは構わないけど、…でもクレイ、お前何かものすごく俺を買いかぶってくれてないか?」
「どういうことだ?」
「俺は患者を見ただけで、どうすればいいのか一瞬で分かってそれを実行に移せるような超人じゃない。その見習いの心配をするなら、まずは医者に行け…じゃなくて、きちんとした祈道士か治癒術師に見せるべきだと思うぞ、俺は」
「それができるなら、俺だってとっくにそうしている」
「は?」
「怪我が治らない人間?」
クレイから話を聞いた翌日、クラリオン二階のとある一室にて。
非常に怪訝な声と目線で問い返してくるカリアに、昨日の自分たちの会話を思い返しつつ椋は頷いた。
「何かそんな感じの話、カリアは聞いたことない?」
「怪我人…オルグヴァル【崩都】級の討伐に加わっていた団員で怪我をした人間のなかで、ってことでしょう?」
「うん。何しろほら、クレイの持ってきた話だからさ。ちょっと気になって」
彼女に続けた椋の言葉に、カリアは少し眉を寄せて顎に片手を当てた。
相変わらず目前の友人は、どんな表情でどんなポーズをしていても当然のように美少女である。考え込むカリアの前に本日のおやつを出してやりながら、椋は本日の目の保養をしていた。
ちなみに現在の椋とカリアがいるのが、クラリオンの一階ではなく、色々な細工の施された二階の一室であるのには一応、わけがある。立場が椋にもクラリオン周囲の人々にも大々的にばれてしまったカリアが、最後まで譲らなかったわがままと実益の天秤の結果がこれ、らしいのだ。
カリア曰く、建前的には些細なことでも逐一直接、椋がカリアに言えるような環境を作っておいた方が「変異」の察知もしやすい。非公式にこちらに協力してもらうような算段になるような状況にも持っていきやすい。
そしてついでに本音的には、屋敷と王宮の往復だけでは身も心も腐る、ということだった。
ややあってふっとひとつ息をついたカリアは、興味深げに本日のおやつを眺めてスプーンを手に取った。
「少なくとも私が今思い出せる限りでは、そんな報告は聞いてない、と思うわ」
「そっか」
「でも確かにあのクレイトーン・オルヴァの言葉なら下手に疑うのも逆におかしいし、そもそも直近であんな事件が起こってしまった以上、易々ありえないと断言はできないわね」
「だよなあ」
無論あんな事件というのは、二十日ほど前にようやく、というより唐突に終わりを告げた奇病、アイネミア病に関連する一連の事件のことである。
誰もが経験したことのなかった、過去の事例にもなかったという正体不明の奇病、アイネミア病。ひどく特殊で使える人間もかなり限られるという呪いがその本態であったというかの病は、幾人もの命を奪い大勢の人間の肉体的、精神的、そして社会的な生活レベルを大幅に低下させた。
原因の根本である呪いが消えた今もまだ、何かしらの症状が残っている人間も決して少なくはない。幸いなのは患者の誰もが、確実な回復への経過を辿っていることだろうか。
きちんと食べて、規則正しい生活をしていれば絶対に治るよ。
そんなあたりまえの言葉に、心底からの感謝を椋がされるようになってからもまた、今日でだいたい半月ほどである。
「それで? 明日はクラリオンがお休みだから、リョウはその「怪我の治らない人」を見に行くの?」
「うぇっ?」
つらつら考えていたら目の前がおろそかになっていたらしく、完全なる不意打ちを椋はカリアから喰らった。思わずヘンな声が出てしまい、ぷっとそれにカリアが吹き出す。
カリアがさらりと言い放った言葉は、明日の椋の予定をまさにそのまま言い当てていた。あんまりにもあっさり言われてしまったそれに、思わず椋は笑ってしまう。
「まあ、うん。そういうことだね」
さすがにこれはバレバレか、まあそうだよなと椋自身思う。
笑ったままひょいと肩をすくめた椋に、どこか面白そうにカリアもまた笑った。
「だって別にリョウ、隠そうともしてなかったでしょう?」
「まあね。オルグヴァル【崩都】級の討伐には確か第四魔術師団の人たちもいたって聞いたから、カリアだったら、もしかしてそういうことも聞いてないかと思ってさ」
さらにさらりと、カリアへ椋は応じる。明日の椋がやろうとしていること、それは未だに傷が治らず起きることもままならないという、第八騎士団所属のとある騎士見習いを訪ねることだ。
その見習いという人物が、本当に危険な状態ならそれこそ椋が行ったところでどうにもならない。と思うのだが、実際何度もそう言いもしたのだが、なぜか頼む、どうしても、の一点張りで譲らないクレイに、最終的に椋の方が折れたのだ。
そして更に聞いてみれば、どうやらその見習いと似たような症状を呈している人間は一人ではない、らしい。
だからこそ「団長」たるカリアにも、一応と思い訊ねてみたのだが。少なくとも彼女にまで届くような情報として引っ掛かるような人間の中には、そんな奇妙な症状を呈している人間はいないようだ。
「正直俺が見に行くより、祈道士とか治癒術師呼んだ方が良いとは思うんだけどさ」
「アイネミア病みたいなことが起きているならともかく、ただ怪我が治らないというなら確かにそうね。そういうこと、リョウは言わなかったの?」
「言ったよ勿論。それも何度も」
「でも結局は押し切られた?」
「そ。ま、明日はどうせ予定もなかったしなあ」
もう一度笑う。そこまで言うならまあいいか、別にいいやと思ってしまうくらいには、クレイの攻勢は終始揺らがなかった。
その勢いで祈道士か治癒術師を連れてくればいい話じゃないのかとひっそり思った椋だったが、一応そこは口には出さずに内心だけにとどめておいた。奴は奴なりにそれなりによく分からない部分でいろいろ大変なのだろう、きっと。
軽く言葉を返した椋に、わずかに眉をくもらせてカリアはスプーンを置いた。見上げてくる。
「あの魔物を倒したのは陛下だから、それこそまず、ないとは思うんだけど、…リョウ、」
「ああうん、またヘンな事態になってそうだったらすぐ、カリアには知らせるよ」
言われるまでもないとばかりに、あっさり彼女に向かって椋は頷いた。それは先日出会ったこの国の王様、アノイから直々に何度も言い含められたことでもある。
何か少しでも奇妙だと思うことがあれば、すぐにそれを上奏せよ。そしてその上奏の相手には、まずカリアを選べと彼は椋へとのたまった。
あの病一連のことで椋の異常性およびその情報の正当性をある程度であれ理解してくれている相手のほうが、下手な連絡係を作るよりもよっぽどやりやすいだろうから、とアノイは言った。笑ってきっぱり言い切った王様と、どこか苦虫をかみつぶしたような顔をしていたカリアの表情が対照的で、今でも妙に椋の心象に残っている光景だ。
そもそもアノイに関しては出会い方からしておかしかったしなあなどと思いつつ、椋は再度口を開く。
「でもまあ」
「?」
「本当にそんなことが起きてるんだったら、既に俺じゃなくて国中の治癒職の人たちが大わらわしてると思うんだよな。確実に」
「それもそうね」
「あと、ヨルドのおっさんとアルセラさんが、二人揃って俺に突撃してきそうな気がする」
「そうかも」
敢えてひょうきんな調子で口にする言葉に、またくすりとカリアは楽しげに笑った。テーブルに置いていた本日のおやつ、パンナコッタとスプーンへ再度手を伸ばし、またその中身へとカリアは手をつけ始める。
いかにもおいしそうに幸せそうに食べてくれる彼女の様子は、いつものことながら眺めていると非常に和む。
やや華に欠ける酒場での視覚的な癒しをもらっていると、じっと見られている理由をどう解釈したのかカリアはまた顔をあげた。中身の減り具合を見るに、今回のおやつは彼女の舌にとっての結構な「当たり」だったようだ。
さりげなくを心がけつつ、顔を上げわずかに首をかしげるカリアへと声をかける。
「おかわりしたかったら、まだあるよ」
「そうなの?」
「おかわりというか、実は俺の仕事後のおやつだけど」
「あら。それは是非、なんとしても貰っておかなきゃいけなそうね」
「わー、カリアひどーい」
「ひどくないわよ。ちゃんとお金は払うもの」
くだらない、些細なやり取りをお互いに楽しむ。
きっちりと何日に一回と決められた訳ではなく不定期だが、それは確かに椋にとって有意義で楽しい時間だった。
しかしそんなお気楽タイムは、今日はあまり長くは続いてくれずに途切れることとなった。
『…、リョウ、リョウっ!!』
「?」
妙に切羽詰まった声が、室内に備え付けられたとある魔具、店内からの連絡用であるそれから聞こえてきて椋は眉を寄せた。
同じようにカリアもスプーンを進める手を止め、不思議そうに椋のほうを見上げてくる。しかし椋も理由は分からず、彼女の視線に肩をすくめた。
そんなことをしているうちに、椋の知るトランシーバーのような機能があるそれから、流れてきたのは救援要請だった。
『客が突然倒れたんだ! …俺たちじゃ何したらいいか分からない、頼む、来てくれ!』
この世界は、酒に強い人間の割合が非常に高い。
ごくたまに弱い人間もいるにはいるのだが、そんな人間に出会う確率は特に、酒場などという場においては決して高くなかった。
が。
「……おいおい」
恐慌めいたざわめきを抜け、辿りついた先にいたその人物の姿に思わず、椋は眉間に深い縦じわを刻んだ。
酒瓶もグラスもぐしゃぐしゃに、一緒くたに彼はうつぶせで床に倒れていた。グラスが割れた拍子に切れたのだろう、全身あちこちに小さな切り傷と出血が見られる。
このままでは何をしようにも、ガラスのかけらでこっちが危ない。ひとつ椋は息をついて、椋の肩越しに状況を見守る同僚たちの名前を呼んだ。
「アリス、ミーシャ。ちょっとそのへんのテーブルどかして下に毛布か何か敷いて、この人寝かせられる場所作ってもらっていい?」
「え、っあ、うん!」
「わかったわ」
「で、ケイシャ、ヨキ、おやっさん。とりあえずこの人を移動させたいんで、ちょっと手貸してくれるとありがたい。破片で怪我しないように気ぃつけて」
「お、おうっ」
「わかった」
「しゃあねえ、了解だリョウ先生よ」
テキパキ調えられた急ごしらえの場所に、合図とともに人手を借りてその客を移動させる。
どこか揶揄めいて楽しそうなリョウ先生という形容が気になったが、今は残念なことにそれをのんびり指摘していられるような場合ではない。
「もしもし。おーい! 大丈夫ですかっ」
改めて患者の肩を叩き、声をかけて反応を見てみる。移動させる際に一切抵抗がなかったことからも予想していた通り、何のリアクションも彼からは返ってこなかった。
衆人環視の状況の中、ひとまず頭部後屈と顎先挙上より患者の気道を確保し、呼吸と脈拍を椋はみる。
呼吸も脈も一応はあるが、首の血管に触れているにしては脈の触れ方が弱い気がする上に呼吸数が明らかに少ない。指先に感じる体温は低いし、そして何より非常にこの客、酒臭い。
意識障害、呼吸抑制に血圧低下、体温下降。
…完全に、典型的な急性アルコール中毒の症状だった。
「……誰か、この人に無理やり酒呑ませたりしなかったか?」
ぺろっと口にした言葉に、びくりと身をすくませたのが数人いた気がするがそこへの注意はひとまず後だ。少し思案した結果、いつもの亜空間バッグから、治癒術師の治癒魔術が込められた腕輪を椋は取り出した。
つまるところエタノールの急性中毒である急性アルコール中毒は、現代においても死者が出る、救急性を必要とされる中毒の一つである。ついでに言えば、さきほどの救援要請を聞いたその瞬間に真っ先に、椋が思い浮かべてしまったものでもあった。
急性中毒の治療の基本は、呼吸や循環など、命にかかわる要素を極力安定させたうえで、中毒物質を体内から取り除くことである。
しかしこの世界では道具による胃洗浄や、薬の投与でエタノールの体外排泄を促進させたりといったことはできない。
アルコールは肝臓で代謝されるものなので、そのあたりの代謝を促進してエタノールを分解することも椋は考えた。が、分解が間に合わずに患者が手遅れになっては困る。
従って椋が選んだのは、治癒術師の治癒魔術によって血中のエタノールを除去する方法だった。
「リョウ、大丈夫か? 大丈夫なんだよな」
「んー」
肯定とも否定とも取れる返事をしつつ、左腕にはめた腕輪へ椋は指をかけた。すらりと軽く上から下へと、その表面を撫でおろす。
椋の腕の太さに対しある程度の余裕を持って作られたそれは、椋の指の動きに従ってくるりとスムーズに腕周りを回転しはじめた。撫でおろす動作を二、三度続け、回転を次第に速くする。
腕輪に埋め込まれたアンビュラック鉱、魔術発動の核となる鉱石がちかりと光るのを確認し、椋は患者へと両手を向けた。一連の動作により患者へ発動した魔術が光として顕在化し、魔術発動の証たる術式紋を、患者の体表へ描き出す。
誰もが息を呑んで見守る中、患者が光に包まれる。
随分魔術発動の反動がなくなったなあと、確実に周囲の人々とは違うところで椋は妙な感動を覚えていた。
「……っと」
次第に患者を包む光は弱まり術式紋は薄まり、やがてはその二つともが消えた。
ふっとひとつ息をついて、椋は患者へ向けていた両手を脇へと下ろした。恐る恐るといったていで、遠巻きに状況を見守っていた同僚ケイシャが問うてくる。
「あの、リョウ? その人は」
「ん? うん。多分もう大丈夫だと思うよ」
「すまんなリョウ、逢引の邪魔なんて野暮なことしてよ」
「まったくですよ。…まあこの国の人はなんかみんな凄くお酒強いみたいだから、こんな事態が起こるのはそれこそすごく珍しいのかもしれないですけど」
続いてきたおやっさんの声に、苦笑して椋は肩をすくめてみせた。カシャンという音とともに腕輪を外し亜空間バッグへ放り込みながら、先ほどの椋の言葉に身をすくませた人たちの方へと彼は向き直る。
唐突に自分たちへと向けられる黒の視線に、更にあからさまにびくつく彼らへと椋は容赦なく声をかけた。
「さて、そこの人たち。多分この人のお連れさんだと思うんですが」
「は、はいっ!」
「酒場で酒を楽しんでくれるのはもちろん大歓迎ですが、とりあえずもうこの人には、酒は無理に飲ませないようにしてやってくださいね。実は酒って飲み過ぎると、下手すると本気で死ねますから」
「え、…っし、死っ!?」
「んで、もし今回この人が自主的に飲み過ぎたっていうんだったら、次からはちゃんと抑えてやるようにしたほうがいいと思いますよ。酒で酔って倒れた~なんて、冗談じゃ済まないことになりかねません」
「わ、わっ分かりましたっ!」
極力軽くさらーりと、を心がけつつ発した言葉であっても、どうやら彼らには威圧感十分だったらしい。椋の目線の先の彼らは、完全に直立不動になっていた。
そういえば下級生にも確か急性アル中で運ばれたやついたっけなあと思いつつ、くるりと再びおやっさんの方へと椋は顔を向けた。
「そんじゃおやっさん。俺、戻っていいですか?」
「ああ。すまんなリョウ、この分はまた給料に上乗せしてやるからよ」
「はは。楽しみにしてますよ」
ひらひらとその言葉に手を振って、この一階へと椋は背を向けた。
正直一階全体からの視線は結構に痛かったが、そのすべてを今は強いて無視する。今更意識したところで、どうしようもないものでしかない。
ようやく二階へ続く階段へと辿りつき、階段へ足をかけようとしたところで。
階段の影に隠れるように、身をひそめてあの場を見守っていたらしい金色の瞳と真っ向から視線が、合った。
「あ」
「……あー、ええと」
どこか悪戯の見つかった子どものような、ばつの悪そうな光を浮かべたその目に椋はたじろぐ。どうしてそんな目を向けられるのか少し考えて、そう言えばカリアは、この魔具を使う様子を見たことがないのだということに不意に椋は気付いた。
今まで誰も、制作に成功しなかったという「治癒魔術」を発動させることができる魔具。
魔具に込められる魔術の威力はその魔具の大きさに比例するらしく、従って椋が現在使っている治癒魔術の魔具四つに込められているのはごく平均的な、魔術師団に入れるかどうか、最終選考まで残れるかどうかくらいの平凡な魔術師が使う魔術程度、らしい。本物の、それこそ位階持ちの治癒術師や祈道士には、まったくもって威力は及ぶべくもないとヘイは唸っていた。
しかし誰もできなかった、到達できなかった領域に彼が手を伸ばしたのは事実なのだ。
あの一件以来、さらにさらにとこれら治癒魔術の魔具の改良にヘイは常に余念がない。一方その使い手である椋も、そう頻繁にという訳ではないが魔具を使い、患者を治療するケースに遭遇するようになってきていた。
これで病気は治ると嘯き、患者たちの一大事には一人として来はしなかった魔術師たちと、半ばなりゆきと偶然とヘイの努力の結果とはいえ、重症患者を死の淵から救った椋。
理屈は分かる。椋とて治療を受ける側の立場だったなら、どちらを信頼するかどちらに診てほしいかなど明白だ。
しかし彼らは知らないのだ。椋が不完全であることを。治療の経験などなにもない、まだ臨床にまともに出たこともなかった患者との接触などほぼ皆無に等しかった、ひよこもいいところなただの医学生でしかないことを。
あのとき自分が動いたこと、その行動自体は椋は、後悔はしていない。
しかし行動の結果生じた、医療不信にも似たここ周囲の住民の感情と椋への信頼のあまりの高さには…正直、ひどく戸惑っている。
「…うえ、もどろっか」
「え、…ええ」
いつまでも、こんなところに二人で顔を突き合わせていても仕方がない。小さく笑ってカリアへ声をかければ、未だ動揺は収まらずといったていで彼女は頷いた。
分からない。分かるわけもない。自分がどう行動することが誰にとってどう正しいのか、まったく椋には分からなかった。
彼がこの世に描こうとした、物語はまだ始まっていない。
そんな場所へ勝手に、放り込まれた水瀬椋という異端。いったい俺は何をどうすれば、最終的にどこへ向かい、どこに辿りつき、どこに帰ることができるのだろうと。
自分に続く少女の足音を聞きながら、既に何度考えたかもわからない事柄を今もまた、まんじりともせずに浮かない顔で椋は考えた。




