P2-01 過去から来る影
中心のない世界の中で、夢を見られぬまま生きる。
必ずどこかにいるはずの、紡ぎ手は今も見つからない。
「どうした、リョウ。浮かない顔だな」
「ん?」
改めて声をかけられて、どうやらまたぼんやりしていたらしいことに椋は気づいた。
目の前にいる友人は、わずかに怪訝そうな顔をして椋を見上げている。ふと彼の前へと視線を落とせば、出してやった彼の夕食はほとんどまだ手をつけられていなかった。
ついでに言うなら浮かない顔だと、椋に向かって指摘するクレイの方こそ、非常に浮かない顔をしているように見える。
椋のそれはほぼ間違いなく今日の昼にあの「ババ様」からもらったとあるものとその解釈が影響しているのだが、クレイは一体どうしたというのだろう。
――おまえさんは随分と、何かを懸命に探しているのだね。
もらったものは、実際に何を言った訳でもないのにあまりに的確に、椋の現状を捉えた言葉だった。彼女が皆に「ババ様」と呼ばれる所以である、今まで一度も外れたことがないという卜占が、導き出したという意味深な言葉だった。
予想だにしない混乱に襲われた今日の昼の記憶をひとまず思考の片隅へと押しやり、椋は肩をすくめて笑った。
「いやまあ、ちょっとな。…というか、そういうおまえこそどうしたんだよ。全然食べてないじゃないか」
「俺は、別に」
「なんだ、嫌いなもんでもあったか?」
そう問いかけてそこで初めて、クレイの好きなものや嫌いなものをよく知らない自分に椋は気づいた。甘いものより辛いものが好きらしいのは、一カ月ほどの付き合いでなんとなく知ってはいるのだが。
椋の問いに、クレイはゆるゆると首を横に振った。
「別にそういう訳じゃない」
「じゃあなんだよ。味覚でも変わったか?」
「違う」
「おいこら、クレイ」
なかなか口を開こうとしない彼に、少しだけ語気を強めて名を呼ぶ。クレイには確か以前も言ったような気がするが、基本的に椋はまどろっこしい、迂遠なやり方は苦手な上に好きではないのだ。
そんな椋の性質を知るクレイは、どこか疲れたようなため息をひとつついて苦笑した。ぼそりと、口を開く。
「……少し、気になっていることがあってな」
「気になってること?」
さらに問いを投げてから、ふと水分不足気味になっていた自身の喉と、クレイに水を出していなかったことに椋は気づいた。コップ二杯に水を汲み、ひとつを自分へ、もうひとつをクレイへと差し出す。
クレイがコップを受け取ったのを確認してから水を呷り、喉を潤して椋は首をかしげた。
「俺が聞けることなら聞くけど、どうなんだ?」
「むしろお前以外の誰も、言ったところで信じないような話だと思う」
「俺以外?」
「そうだ」
目前の友人との会話を続けつつ、同僚から回ってきた注文票を椋は受け取った。ざっと内容に目を通し、ちょっと材料取ってくるな、と一言クレイへ断りを入れる。注文の品を作るべく、必要とされる幾つかの材料を、厨房奥で椋はボウルに無造作に投げ込んだ。
それなりの重さになったボウルを持って自身の定位置へと戻り、ざっと野菜を水洗いし野菜の皮むきをはじめる。
ひょいと顔をあげ目線で話の続きを促せば、クレイは椋の意図をくみ取って頷いた。
「先日、王都の北でオルグヴァル【崩都】級の卵が孵化した話は知っているだろう?」
「え? いや、そりゃまあ知ってはいるけど」
唐突と言えば唐突な言葉に、一瞬驚いたものの椋は頷く。
今から一カ月ほど前の夜。突如王都の北に現れた魔物の卵が孵化し、複数の騎士団と魔術師団を巻き込んでの大騒動になった。
その一連の顛末といえば、城下では今一番の流行り歌だ。まさにお伽噺の英雄のごときタイミングで現れたという王様は、もはや誰もが間に合わないと絶望したオルグヴァル【崩都】級の「開花」を阻止し、一撃にて魔物を退治、同時に城下の東西で、原因不明に流行していた奇病「アイネミア病」をも根絶した。
まず話だけ耳にすれば冗談だろうと思うような内容であるが、幸か不幸か、椋はその全てが事実だということを知ってしまっている。
「忘れたくても忘れられるようなもんじゃないな、あの日のことは」
「……リョウ」
苦笑する。あの夜のことは、今でも時折夢に見ることがあった。
倒れる人々、使いきってしまった道具。死なせないための方法は知っていても、それを実行に移すための手段がどこにもなかった。
一人、二人、三人四人。
為す術もなく失われていく、消える光に、感じた、絶望――
「そうよねー。あのとき、私なんてうっかりリョウに惚れそうになったもの。……カッコよかったんですよ、あのときのリョウ。ほんとうに」
「へ? あ、アリス?」
「きみはそれだけのことをしたってことさ、リョウ。どうもきみは今でも、ぼくらの恩人なんだっていう意識が薄いみたいだけど」
「ケイシャまで」
ぽんと優しく肩を叩かれ、慌てて振り返ればそこには二人の同僚、アリスとケイシャが笑っていた。ふたりの表情の優しさについつい返す言葉を失う、もう一度パシン、と今度はもう少し強めにアリスは椋の肩をたたくと、やはり優しい表情で笑ってすっとごく自然に場から離れていった。
持ってきた皿と入れ替えに新しい料理を手にしたケイシャにしても、やはりこちらへ向けてくれる視線は優しい。ひらひらと手を振る彼に、なんだかもう笑うしかない気分になりつつ椋もまた応じて手を振った。
どこか、妙に納得したような息をクレイが吐いたのはそのすぐ後だった。
「ああ。そういえばこの近辺では結局、一人もアイネミア病の死者は出なかったんだったな」
「何一人で納得してるんだ、クレイおまえ」
「いや? 改めて、おまえは妙な奴だと思っただけだ」
「うっわ。なんだよその言い草は」
しれっと遠慮のないことを言い放つクレイに、また椋は笑ってしまう。その詳細については突っ込んでこようとしないクレイのさりげない気遣いに、同時に少しほっとした。
しばし二人で笑ったあと、ふとクレイはその表情を真剣なものに戻し改めて椋の顔を見上げた。
「おまえがそうだというならなおさら、聞いてほしいことがある」
「…いまいちどころか全然話の展開が読めないけど、まあいいか。何だ?」
「あまり気にするな。話というのは、その一件に関することだ」
「え?」
まさかクレイに大々的に話題にされるとは思っていなかった一件に、虚を突かれて椋はきょとんとしてしまう。絶妙なタイミングで、ぽろりと手から剥きかけのジャガイモが床に落ちた。
思わずうわっと声をあげ、床からジャガイモを拾い上げ改めてその表面を水で洗う。
何でそんなに動揺する、とでも言いたげなクレイの怪訝な視線に、再度の皮むきを再開しつつ椋は肩をすくめた。
「いや、だって。おまえが持って来るあの日関係の話っていえば、魔物討伐云々の話じゃないのか? そんなの相談されたって、完全に俺、専門外なんだけど」
「俺だって別におまえ相手に、魔物の討伐そのものについての話がしたい訳じゃない。おまえに聞いてほしいのは、あのとき少なくない数出た、怪我人たちについてのことだ」
「怪我人?」
「ああ」
今度は椋から向ける怪訝の視線に、こくりとクレイは頷く。
ヨルドとアルセラを呼ぶべく何度も交信がなされ、両手では終わらない数の死者も出たらしい魔物の討伐だ。確かに重傷度もおそらく様々に怪我人も出たことだろう、それは分かる。
分からないのはなぜクレイが今、それを敢えて一般人の椋に言ってこようとしているのかということだ。
確かに中途半端ではあるが椋には医学的な知識があるし、今はかなりの改良がなされたヘイ作の神霊術および治癒魔術の発動が可能な魔具も持っている。しかし魔具の性とも言うべきか、魔術そのものを見ると残念なことに、発動できるそれぞれの魔術は「一流」の祈道士および治癒術師のものよりそれなりに、劣るのだ。
そんな自分に何の用だと、さらなる疑問を抱きつつ椋はクレイへ言葉を向けた。
「それこそ祈道士も治癒術師も、ほぼ総出で治療にあたってたんだろ、そっちって」
「そうらしいな」
確認のような椋のそれに、また短くクレイから肯定を返される。ある意味ではそちらの――貴族の集う場に大多数の治癒職が向かってしまったということも、王都西区画、今日の昼椋が出向いたあの近辺で、多くの死者が出たことに関しては原因の一つであろうと、椋は思っている。
勿論貴族を治療せず平民を治療しろ、自分たちが大変なのだから自分たちをこそ優先しろ、などということを言いたいわけでは、ない。
ただ、少しだけ理不尽で虚しいと思うだけだ。医学生ならば誰でも最初に教え込まれる、数千年も前からその根っこは偉人たちより提唱されていた「医療の平等」が、ここではおそらく、というよりほぼ確実に、今のままでは決して実現され得ないことが。
人種身分の分け隔てなく、誰に対しても最善の医療を。患者本人の意思を尊重し、本人にとって一番の医療を提供する。
無論それが理想論にすぎないことなど分かっているが、未だ椋は学生である。
まだ現場にまともに出られない未熟な学生の分際で、おきれいな理想を追い求めていったい、何が悪い。
「とりあえず、話というのはな。その時に出た怪我人の中で、未だに怪我からの回復が叶わない知り合いのことだ」
そこまで椋が考えたくらいの頃合いで、ぽつりと落とすようにそんな言葉をクレイは椋へと向けてきた。
俄かには理解も解釈にも困る言葉に、思わず椋は眉を寄せた。
「怪我から回復できてないって、つまり治ってない、ってことか? 治療を受けたのに?」
「前半の質問に対しては是、もうひとつに対しては俺にも分からん。正直なところを言えば、奴が一度でもまともな治療を受けたのかすら、俺は把握できていないような状態だからな」
「……なんだそりゃ」
さっぱり訳の分からないクレイの言葉に、さらに椋は眉を寄せた。実際に誰かの治療を受けたか受けないかなど、書類やデータはなくとも本人に直接問いただせば、すぐに分かることではないのだろうか。
怪訝だらけの椋の視線に、ふとひとつ息を吐いてクレイは続けてきた。
「そいつは平民上がりの騎士見習いでな。副長が気に入って地方から引き抜いてきたひとりで、近いうちの騎士昇格は確実と言われていた実力の持ち主だったんだが」
「が?」
「あの魔物が王都の北に現れた日、俺の代わりにあいつは怪我をした。奴に言えばまず間違いなく否定されるだろうが、少なくとも俺はそう考えている」
「ん…おまえをかばった、ってことか?」
「いや、違う。以前にも言ったと思うが、俺は無魔だ。そしてあの魔物、オルグヴァル【崩都】級の触手は切り落とす際、討伐の途中から、魔術でその活動を完全に停止させなければならなくなった」
「え?」
「ただの得物で触手を切り落としたとしても、次の瞬間には切り落としたその触手が単体で動き始めるようになってしまったんだ」
おそらく強いて淡々と、とんでもないことを告げるクレイの表情は浮かない。
ふっとひとつ息を吐いて、椋のほうではないどこか遠くへ目線を放って彼はぽつりと言葉を落とす。
「ひどく、嫌な光景だった、あれは。……あのせいで使いものにならなくなった騎士も、あの場で何人も俺は見たしな」
どうやら椋が地獄を見ていたとき、クレイもまた椋とは別の場所で、別の地獄と相対することを余儀なくされていたらしい。
今更ながら、あのときの話をそんなにクレイと交わしていなかった自分に椋は気づいた。あのめちゃくちゃで長い長い、終わりが見えなかった夜の記憶はどう足掻いても美化など決してできない。だからこそ、どこかで思い出さないようにしようと、もしかするとお互いにどこかで無意識のうちにそんな感覚が働いていたのかもしれない。
しかし今、敢えてクレイはそんな「地獄」の光景について椋へと口にしようとしている。それはつまり本気でその、知り合いだという騎士見習いのことを心配しているということなのだろう。
自分が見た壮絶の光景を追い払おうと努力しつつ、クレイの告げてきた言葉の内容について自分なりに整理してみる。魔術で停止しなければならなかった奇妙な触手、魔術が使えない騎士クレイ、そしてクレイの代わりに怪我をしたという、騎士見習い。
事実を三つ並べてみれば、何となくだがクレイのその表情にも納得がいくような気が椋には、した。
「話が読めた気がするぞ、クレイ」
「そうか、ならば話は早いな」
おおよそ推測したと告げれば、帰ってくるのはわずかな笑みだ。
切り終えた材料を順に鍋へと放りこんで炒めていきつつ、出来るだけ空気が重くなりすぎないよう気を払いつつ椋は言葉を発した。
「魔術を使えないお前のサポート…援護をしてくれてたのが、その怪我したっていう見習いだったじゃないか?」
「ああ、その通りだ」
ジャッという、油と野菜の軽快な音がする。
わずかに落ちた沈黙ののち、そしてクレイは、椋へと続けた。
「リョウ、時間のある時でいい。……奴に、ジュペスに一度、会ってやってくれないか」




