P2-00 欠片落とし
第二節です。時系列的には間奏Aにて掲載しております「金と銀とに潜んだ光」の直後からのスタートとなっております。
先に「金と銀と~」をお読みいただければ、より内容は分かりやすくなる、かも。
――…、…椋。
どうも聞き覚えのありすぎる、随分聞かない声がした。
椋の名を知って呼ぶ声に、ふっとわずかに、目を細めた。
――……なあ椋、椋って!
もう一度同じ声が椋を呼び、同時に目の前が不意に開ける。
「自身」の視界は確かにあるのに、現在の椋の視界の先には二つの影があった。ひとつはしみじみ腐れ縁になってしまった男のもの、もうひとつは生まれたときから当然のように付き合い続けているが故に、逆にその実際を第三者的に目にすることなど皆無な人物――椋自身のものだ。
広くなどないマンションの一室、傍らには夕飯の材料とともに押し掛けてきた幼馴染と、当然のように机や本棚に乱雑に突っ込まれ積まれた本とプリントの山。
「現実」から遠い光景に、遠いと認識できてしまう自身に。
思わず椋は、苦笑した――。
「そっとねっ、そーっと」
「そろー、ろーっ」
ぼんやりと浮いたような意識にふと、子ども特有の高い声がひびく。
おもむろに両目を開き首を上げた椋の視界に入ってきたのは、掛布を両手いっぱいにひっぱった姿勢で硬直している小さな子どもの姿だった。驚愕に目をまんまるに見開いたその子は次の瞬間、唐突に勢い余って思いっきり後ろにつんのめった。
どてっと鈍い音がして、そこで完全に椋の思考は覚醒した。
「あ」
「ふぇ、っ」
慌てて手を伸ばすも当然間に合わない。盛大に尻餅をついてしまったその子はくしゃりと顔全体をゆがめた。
見る見るうちに両目に涙が盛り上がり、手にしていた掛布に半ば埋もれるようにしてその子は泣きだした。
「うぇえええええぇえっ」
「ああもう、ルーニはっ」
目覚めた瞬間椋の視界に入ったもう一人の子ども、ルーニのお姉ちゃんであるアルダが声を上げた。いたくないのっ、泣かないのっ、泣き喚く妹へと向かって、たたいているのか撫でているのか微妙に判別に困る動作をしながら声をかけている。
きゅっと強く眉を寄せ、ふいにアルダは椋を見上げてきた。
「リョウおにいちゃん、あのね」
いっしょうけんめいなアルダの顔は、見ているだけで何ともほほえましい。アルダは五歳でルーニはもうすぐ三歳だそうだが、アルダはいつもお姉ちゃんとしてルーニに全力投球している。
今目の前にいるこのアルダとルーニの姉妹は、つい最近椋が知り合った子どもたちのうちの二人だ。一家そろってアイネミア病に罹患して、その関係で知り合い妙に懐かれた姉妹である。
徐々にクリアさを増す思考が、今までの状況を椋に思い出させる。
そうだ、今日は元アイネミア病の患者さんたちのお見舞いをしに王都西区画まで来て、一通り見知った顔には挨拶をして話もした。
確か皆の顔も見て、よかったら昼食を一緒にと言われて、昨夜のクラリオンでめんどくさい酔っ払いの団体を追い出したせいでか妙に眠くて、…だから――。
「にーちゃ、おきちゃやーぁっ!」
「えっ」
さらに続けようとした思考は、まったく予想だにしないルーニの声にざくりとぶった切られた。
彼女の手が今もしっかりと両端を握っている掛布や目覚めた瞬間のルーニの恰好を見るに、どうやらうたた寝していた椋に、彼女はかけるものを用意してくれようとしていたらしい。しかしそんな心遣いは、唐突に椋が起きてしまったことで無駄になってしまった、と。
椋が起きることなどルーニは予想していなかったから、びっくりしてその拍子に転んでしまった、というのがおおよそのところなのだろう。
思わず笑ってしまいつつ、わうわう泣き喚くルーニの頭へと椋はそっと手を置いた。
「ごめんごめん。いきなり起きたからびっくりしたな」
「ふぇえぅっ」
「お尻ぶつけてたろ。いたくないか? ルーニ」
「うぅっ」
よしよしと頭を撫でてやると、徐々にルーニの声はぐずるようなものへと変わっていく。
この子は泣き虫で困るとお母さんが言っていたのを、ふと思い出してまた椋は笑ってしまった。泣き虫なくせに妙に気は強かったりするから、余計にしょっちゅう泣くことになったりもしているらしい。
頭を撫で続けてやれば徐々に泣きやんでくるルーニに、姉であるアルダがほっとしたような顔をする。
ぐいと椋の顔を見上げて、そしてまたアルダは口を開いてきた。あのね、と。
「あのね。リョウおにいちゃん、ごはんたべてーって、よびにきたらね、おにいちゃん、ねてたの」
「んー、そうかー。ちょっと昨日おそくまで起きてたからなあ。ごめんなアルダ、ルーニ」
「びっくり、したもんっ」
「ん、ごめんな。それにふとん、ありがとうな、ルーニ」
「んっ」
「ルーニっ、ありがとうって言われたら、どういたしまして、でしょっ」
「んんっ」
口を思いきりへの字にして、ぶんぶんとルーニは首を横に振る。さりげにぺそっと掛布を床に落として椋に向かって腕を伸ばしてくるところを見ると、微妙にお姉ちゃんに反抗したい時期、なのだろうか。
もたれかかっていた木の幹から背を離し、椋はひょいとその場に立ちあがった。よっこいしょと片腕でルーニを抱えあげ、そんな妹の姿に少し羨ましそうな顔をしたアルダも、もう片方の腕でひょっと抱えあげてやる。
正直それなりには重いが、まあそれなりには、無理ではない。
「きゃーぁっ」
「わわわわっ」
途端にぐずりを止め上機嫌になるルーニも、慌てたように目を白黒させるアルダもどちらもちびっこらしく非常に可愛い。ルーニに関しては若干してやられた感もなくはないが、まあいいかとひとつ笑っておしまいだ。
さらには椋がうたた寝していたのが広場の木の下だったというのもあり、二人の声を聞きつけて、このあたりの他の子どもたちまでもがこの場所に集まってくる。
「あーっ、ルーニ、アルダ、いいなああっ」
「リョウにーちゃん、おれも、おれもっ!」
「ぼくも! にーちゃんっ!」
「あたしもーっ!」
「あーはいはい、ってこらっ、服引っ張るなっておい、伸びるだろ!」
ちなみに大人たちはというと、基本的には遠巻きに笑って子どもたちにもみくちゃにされる椋を見守っている。
基本的に子どもは好きだし、周囲に何かとちびっ子の多い環境だったせいで椋は多少ならず、子どもの扱いには慣れていた。
だから子どもの相手をすることそれ自体は別にいいのだが、あちこちから手を伸ばされ過ぎて服が伸びるのは少々困る。腕の二人を降ろして若干鬼ごっこ風味にズボンやら袖やら裾やらにまとわりつく子どもたちを払っていると(当然きちんとは振り払えず椋は子どもたちの遊び台になる)、こちらに近づいてくる人影がひとつあった。
「リョウさんを困らせるでないよ、おまえたち」
「!」
決して大きくはない、かすれた声が聞こえた瞬間、あっちこっちからめちゃくちゃにかかっていた力がぱっと一斉に離れた。
コツン、コツンと杖をついてゆっくりこちらへと歩いてくる人影へと椋は身体を向けた。ゆったりしたローブに身を包み、目深にフードをかぶったその人物はこの辺りでは「ババ様」と呼ばれ、皆から尊敬され頼りにされている老魔術師だ。
彼女が車椅子ではなく自分の足で外に出ていることに驚きつつ、そういえば今日彼女にはまだ会っていなかったことにも気づきつつ椋は口を開いた。
「こんにちはロロイーさん。具合、随分よくなったみたいですね」
「こんな老骨にも、皆はよくしてくれるでの。ようやっと、一人で歩けるようになった」
「そうですか。よかった。……みんなは、ちゃんと自分からおとうさんとか、おかあさんのお手伝いしてるか?」
一応「ババ様」、ロロイーと話をしていることから遠慮はしているものの、まだ椋の足元をうろうろしている子どもたちへと質問を投げてみる。
ここにいる子どもはほぼ全員、先ほどのアルダとルーニを含め、アイネミア病で一度は死にかけたことのある子どもたちだ。この国の王様アノイの帰還により唐突に終焉した一連の事件が、ここ西区画で人々に起こした波紋は冗談抜きに、甚大だった。
何しろここ西区画では、アイネミア病にかからなかった人を探す方が大変なほどにアイネミア病に罹患した人間が多かったのだ。あのオルグヴァル【崩都】級の孵化の日或いはその前までに、片親もしくは両親を、失ってしまった子どもというのも相当数いる。
しかしひとたび病気の治った、動き走り回れるようになった子どもというのはやはり、元気なもので。
「してるよっ。リョウにーちゃん、おれ水くみ毎日やってるんだぜ!」
「おれだってっ、とーちゃんの手つだいいっぱいやってるし!」
「あたし、おばあちゃんにおくすり習いはじめたのっ」
「あのね、おりょうりできるようになったの! じゅってするの!」
「わ、わかったわかった、一気に言うなって! 聞こえないだろ」
複数人の子供に同じ質問を向ければある意味当然か、一斉にわっと言葉を向けられあっという間に椋の脳は解析力のキャパシティオーバーを起こした。残念ながら椋は聖徳太子ではないので、二人以上の人間に一気に喋られるとその内容は中途半端にしか脳内で処理できないのである。
そのさまに、ふふっと楽しげにロロイーが笑った。
「おまえさんの住んでいる東でも、いつもこんなさまなのかい? リョウさん」
「ええ。もともと子ども好きですし、色々あって知り合いも増えましたしね」
椋もまた彼女の言葉に、笑って応じる。むしろ西側よりもさらに個人的な馴染みが深い東区画の人たちのお見舞いに行くと、毎回確実に色々な意味で、しかも大人からも子どもからも椋はもみくちゃにされるのだった。
現在椋がこの王都西区画を定期的に訪れる理由であり、一カ月ほど前まで王都において、決して少なくない数の患者が存在していた奇病、アイネミア病。
表向きには既に、この国ではアイネミア病の患者はもう「いない」ことになっている。なぜならアイネミア病の禍根は全て、反則級の力を持ったこの国の王様の手によって負の連鎖を断ち切られたからだ。
しかし病気の原因が消え、確かにアイネミア病の「悪化」に苦しむ患者はいなくなったとはいえ、まだ全てが終わったという話でないことを椋は知っている。
何しろアイネミア病の本態は貧血なのだ。患者の血を喰らい尽くす「呪い」はアノイの手で一片の例外もなく消し潰されたが、そうすることで失われた血液までもが患者の身体に戻ってくるわけではない。
だからこそ椋は元・アイネミア病患者たちの経過観察をすべく、三日おきに王都の東と西とに「お見舞い」に訪れているのだった。
「のう、リョウさん」
「はい?」
不意にまたロロイーに声をかけられ、首をかしげて彼女に椋は応じた。
わずかに彼女は目を細め、椋を見上げて続けてくる。
「少しばかりこの老骨に、これから付き合ってはもらえぬかの。どうにも気になっていることがあってな、リョウさん、おまえさんの手を借りたいのじゃ」
「手を貸すのは別に構いませんけど、また誰か病気の人ですか?」
訪問診療もどきをずっと続けていれば、元アイネミア病患者以外の病人やけが人を診ることも既に、一度や二度ではなかった。それだけここ西区画の、より症状の深刻だった西側のアイネミア病患者たちも、状態が改善してきたということだ。
現在の椋ができるのは簡単な診察をして、本当に症状の重い患者には魔具を使っての簡単な治療を行うくらいだが、そんな椋の行動はおそらく、無意味ではない。
勿論自己満足的な面がそれなりにあることも承知しているが、西区画の住人たちが椋に寄せる信頼の高さに多少ならず動揺を覚えないでもないが。しかしやらない善よりやる偽善、という言葉もある。
偽善と言われるならある意味、アイネミア病に関連した椋の行動はすべて偽善だ。別にそれでいいと思う。実際に見に行くこともなく患者たちはどうなったのか大丈夫なのかと一人で悩むより、自分の目で患者の様子を見て話を聞き、少しでも力になれることを探す方がずっと有意義だからだ。
さらに言うなら現在の椋は、アイネミア病関連の諸々のせいで結構に懐にも時間にも、対人的な面においても余裕がある。
水面下ではそれなりの変化があったものの、戸惑いもひそかに覚えているものの。
表向きにはほとんどなにも変わらない環境の中で相変わらずの毎日を、クラリオンという酒場の一従業員として椋は、過ごしているのだ。
「いいや、ちがう。おまえさんに手伝ってほしいのは、もう少し別のことじゃよ」
そんな「相変わらず」の椋に、小さく笑ってロロイーは首を横に振った。
別のことって何だろう。指先やら膝やらにひっついてくる子どもたちの体温を感じつつ適度にそれらをあしらいつつ、特に断る理由もないので椋はロロイーへと頷いた。
「構いませんよ。俺に出来る範囲のことなら」
過去の現実を夢見たその日、青年は謎めいた予言と可能性を手にする。
彼の向かう先にあるのは、果たして現か、或いは夢幻か――




