P03 来訪と襲来1
「今日は随分ご機嫌なのね、リョウ」
「えっ?」
今日も今日とて指定席に腰をおろし、カウンターに肘をついた美少女は不意にそんな言葉を口にした。思わず顔を上げた椋と、ひどく楽しげに目を細めたカリアの視線が真っ向から合う。
たった今言われた言葉を反芻すべく、一度二度と椋は瞬きをする。
随分ご機嫌なのね。今彼の目の前で笑っている彼女は、そう言った。
「リョウ、お鍋から変な音がしてるわよ」
「え、…っわ、焦げる!」
彼女の指摘に意識を戻せば、水気のなくなった鍋が不穏なジジジジという音を立てていた。
慌てて火を消し、中身をすべて皿にあける。見たところ何とか焦げる寸前で火は消せたようだが、下手にそのまま放置しておくと余熱で中身が鍋底に貼り付いたりするからだ。
やれやれ、と肩を落としつつ、フロア担当の店員を軽く手を挙げて呼ぶ。すぐにこちらへやってきた彼へ複数の皿を託し、はあ、と椋は大きく一つため息をついた。
「珍しいわね、他の誰でもなくてリョウがそんなことするなんて」
「はは…俺、そんなに分かりやすいかな」
楽しげなカリアの言葉と表情に、椋は苦笑するしかない。
確かに久々に、妙に気持ちが晴れ晴れとしている感覚はあった。そんな感覚がもたらされた原因などそして椋にはひとつしかあるはずもなく、結局「そこ」に行きたくてたまらない、「そう」ありたくてならない自分を、改めて確認させられるような気がする。
小さいころからどうしてか、ずっと医者になりたかった。
けれど幼いころからの夢は、完全に叶うより前に非常に理不尽に木っ端微塵に砕け散った。
「リョウ、…ね、リョウ」
「ん、あ。ごめん、何?」
「何があったか、聞いてもいい?」
「ん? あぁ、うん、ちょっとね」
ぼんやり思索にふける間に、名前を呼ばれていた。応じれば予想通りの質問が返ってきて、何と説明したものか椋は迷ってしまう。
城下でも特ににぎやかな一角で過換気を起こした女の子、おそらく貴族を見かけたので、心因性のものだろうと判断して大丈夫だよと声をかけて手を握ってました。
椋自身の感覚からすれば状況説明はこれで十分なのだが、しかし生憎この世界ではそんな椋の感覚など通じはしない。そもそも過換気という言葉どころか、人体構造の云々すらはっきりとは解明されていない世界なのだ。ここは。
従って椋が言えるのは、事実を随分とあやふやにした一言だけだ。
―――久々に、やりたかったことが本当に少しだけど、できたから。
「何よ、随分曖昧なのね。教えてくれないの?」
「別に全然、大したことじゃないからさ。カリアに聞かせるまでのことでもないよ」
さらりと軽くカリアへ応じつつ、フライパンの上、ふつふつと小さな穴が空き始めたそれをひょいと椋はひっくり返した。今日の彼女へのおやつはパンケーキだ。…主に昼の一件のせいで買い出しにいつも以上の時間がかかってしまい、何かそれなりに凝ったものを作っておけるような時間がなくなってしまったためである。
椋の返答に、しかしなぜかカリアはやや不満げな声を発した。
「そうかしら」
「カリア?」
出来上がったパンケーキを皿の上にのせ、バターの小さな塊とはちみつ、ジャムの小瓶をつけて彼女の前へと出してやる。良い匂いね、いつものように嬉しそうに楽しげにカリアは目を細めた。
器用にナイフとフォークを使って出来たてのパンケーキを切り分けながら、何気ない口調で彼女は続けてきた。
「街の噂で聞いたんだけど、今日、街中で倒れた貴族のお嬢様を助けた人がいたんですって」
「…へー」
「しかももう少し詳しく聞いたら、その人物は若い男で、この辺りでは滅多に見ない黒髪黒眼で背が高かったんだそうよ」
「……カリア」
何でもない与太話をするような口調で、もくもくとパンケーキを平らげていく目の前の美少女、…確実にその人物を分かり切っていて、あえてこんな言葉を言っている。
妙に馬鹿馬鹿しくなってきて、若干声を低めて椋は相手の名を呼んだ。しかしそんな彼の反応も予想のうちだったのか、おやつを食べる手を止めないカリアの表情はけろっとしたものだ。
「いいじゃない。悪いことをしたならともかく、誰かを助けたことを隠す必要なんてないわ」
「ほんとうに、何もしてないんだよ」
「リョウ、知ってる? あなたの言う何も、は、あんまりあてにならないの」
「……はいはい。ほら、サービスでアイスつけるから、今日はこれで勘弁してよ」
「ふふ。やった」
営業終了後に自分が食べようと思っていたアイスを半分、冷蔵庫から出してパンケーキの皿に載せてやる。嬉しそうに、どこか幼い表情をして笑う彼女に、やれやれと椋もまたつい笑ってしまった。
大きさも形もその配置も、完璧に整ったカリアの容姿はただ傍から見ているだけだと硬質的、無機的にさえ見える。しかし椋と椋手作りのおやつを前にして、椋を相手にくだらない軽口をたたく彼女は、非常にきれいなだけのただの女の子だった。…非常にきれいな、という時点で若干普通ではないのかもしれないが。
一月ほど前、初めて彼女と出会った日のことを思い出す。
あのときからカリアはこの場所に、誰も何もを拒絶するように背を向けてうつむき、精一杯に身を縮めて誰からもその存在を消そうとするかのように座って、いた。
「…早いんだか遅いんだか、だよな」
「え?」
「いーや。なんでもないよ」
一月半。違う場所にある程度慣れてしまうにはそれなりの時間だが、すべてを諦め或いは別の希望を見つけ出し、先へと進もうとするにはまだ短い。
そもそも椋は、ここに来てから決して消えない、ひとつの仮定についての結論がまだ出せないままでいた。
その原因となっているのが、自分が動いていないからか、それともただ、まだ「時間ではない」というだけのことなのか―――現在の椋は知らない。
いつもと何も変わらない、酒場「クラリオン」にさざ波が立ったのはカリアの来店から、おおよそ二十分ほどが経過した頃合だった。
「すまない。人を探しているんだが」
カランというドアベルの音ともにドアが開き、聞き覚えのある低音がそんな言葉を紡ぐ。既に酒場内には相当数の冒険者たちが詰めており、いつもと変わらぬどんちゃん騒ぎを繰り広げているにも関わらず、その声は店奥で作業を続けていた椋にも届いた。
ふと顔を上げ目線を向ければ、既に一番ドアに近い位置にいた店員がその応対を開始していた。
何となく頬が赤いように見えるのには、まあ目をつむっておいてやることにする。…彼氏いるんじゃなかったかなあの子、おかしいな。
「人探し、ですか? 他の方からは、そのようなお話は伺っておりませんが」
「いや、俺はここに、依頼や会合に来たのではない。リョウという男が、ここにいると聞いたのでな」
ジャッと、適当量切り刻んだ野菜をフライパンへとぶちまける。何となく無言になってしまうのは、本当に来たのか、しかも居場所を告げた当日に「ここ」を探し当てたのかという、椋にとって二重に予想外な事実ゆえだった。
唐突にその口に出された椋の名に、ややきょとんとした表情で「彼」の対応をしていた店員がこちらへ視線を向けてくる。「彼」もまた彼女に倣うように椋のほうへ視線を向け、手際良く料理を作り続ける椋の様子に、少し驚いたようにひょいとその眉をあげた。
ふっと、椋は苦笑を洩らした。初めてカリアがここに来た時と同じく、また数日あることないことで騒がれるだろうことが容易に予想できたからだ。
しかし既に「彼」が椋の名を堂々と口にしてしまった以上、どの人の口に戸を立てれば良いのやら、といった状態だ。実際に好奇心のかたまりな酒場の常連たちは、それなりの喧騒を保ちつつも完全に、意識を「彼」と椋の方へと向けてきている。
決して「彼」に対する拒絶ではない椋の様子を受けて、こちらへどうぞ、そんな定型句とともに店員は「彼」をこちらへ案内しようとする。
だがそんな彼らの行動に、ひとり予想外な反応を示した人間が椋の目の前にはいた。
「…え、っ」
「カリア?」
その声は、自分のした悪戯がばれてしまった時の子どものような響きをどこか帯びていた。明確な焦りと、それでも隠そうと必死に足掻くような声色だ。
やや訝しく目前の少女を見やれば、するりと流れるような仕草でカリアはスツールを降りていた。脱いでいたフードを被り直しマントの留め具を留め直し、どこか不自然な笑みを椋へと向けてくる。
「ご、めんなさいリョウ、このアイスは明日もらうことにするわ」
「え、…あの、カリア?」
「お金も明日、まとめてちゃんと払うから。絶対に踏み倒したりなんてしないわ、でも本当にごめんなさい、だから今日はこれで、」
失礼するわ、と。
最後までカリアの言葉が続くより前に、案内の先導で顔を突き合わせて会話ができる距離にまで近づいてきた「彼」の声が椋の耳朶を打った。
「こんなところにいたのか。本当にここで働いていたんだ、な…」
「ええ。まさかこんなに早く来てくれるとは思ってなかったんで、驚きました。…あの、何か?」
さらりと平凡な言葉を返そうとして、しかし妙なところで妙な場所に向かって凍りついている「彼」の視線に、次には椋は気づいた。
言葉を発する前までは確かに椋へと向けられていたはずの視線はなぜか、今はフードとマントで全身を隠すようにしてフロアのすみっこに非常に所在なげに丸くなっている彼女、カリアの方へと向けられている。
「……、」
「なに、してんの? カリア」
「カリア?」
さっぱりその意味が分からずに彼女の名を呼べば、なぜか彼女自身より前に目前の「彼」の方がその名前に反応した。
「彼」の声に呼ばれる名に、びくりとカリアの肩先が震える。手元と目前の光景とに意識を半々にするのも徐々に面倒になってきて、ひとつため息とともに椋は自分の預かる厨房スペースの火を止めた。
まるで救いを求めるような、縋るような瞳をカリアは椋へと向けてくる。
もはやこの場の誰の一挙手一投足をも見守るべく、完全に誰もが沈黙してしまったクラリオンの中。
明らかな驚愕をにじませた「彼」の声が、どこか呆然とつぶやくようにひとつの、別の名前を口にした。
「………ラピリシア、第四魔術師団長閣下?」