P33 暗闇切り裂き駆ける先
「は…っは…っ!!」
今この瞬間にも、なくなっていっているかもしれない人のことを思う。
自分が元々存在していた世界に、当たり前のように存在していた様々なもののありがたさを椋は、改めて感じずにはいられなかった。電波の届く範囲内ならば、どこにいても相手との自在な通信ができる電話。きれいに整備された広い道に、人間の足よりずっと速く走ることができる自転車、バイク、車。
息を切らして走りながら、何一つ手に入らない、どころか存在すらしないそれらを椋は思う。
それに何より今の彼が実感しているのは、病院と救急医療システムのありがたさだった。
そのどちらもないこの世界では、患者はあちこちにばらけて重症度も様々にただ日々を暮らし、唐突の増悪にも対抗する手立てを持たない。急患や患者の病態急変に対応するための策は取られておらず、その結果として起こるのが現在の絶対的な人手不足だ。結局椋が治療を行っている間、ただの一人の祈道士も治癒術師も、クラリオンを訪ねてきたりはしなかった。
その内訳がほぼ貴族である魔術師たちが、力も財産もない平民のため、わざわざこんな夜に動くことなどまずないだろうと。憤る椋に対し、クラリオンに集った人々は苦笑して言った。
むしろ俺たちはまさかお前が、こんなにも俺たちのために尽くしてくれて怒ってもくれることに驚くよ、と。
「くそ、」
悪態をつかずにいられないのは、現在の椋を取り巻く事態がそれだけではないからだ。
自分のやるべきことのために、一人で置いてきてしまった少女がいる。自分のやるべきことをやれ、自分の必要とされる場所へ行けと言い、この魔物は私が何とかするから、だから早く行けと椋の背を押してくれた、ひとりの女の子が。
頭に渦巻く悔しさが、何に向かってのものなのかも既に椋にはよく分からなくなっていた。
無力なことにか、戦う力がないことにか。何一つまともな技術など持っていないからか、ちっとも速くなんて走れないせいか、テキストでの確認などできるはずもないから、結局は薄くなっていく一方の、己の曖昧不完全な知識のせいか。
いや、多分そのどれか一つという訳でもないのだ。きっと、すべて。全部。
少なくとも水瀬椋という人間は、そんなに完璧に色々、なんでもこなせてしまうような器用で優れた人間などではない。凡人だ。
それは動かしようもない、否定しようとも思わないただの、事実―――
「…っ、と、うわっ!」
「ンァ!?」
やや暗めの思考に耽りつつ走り続けていたせいか、そのときの椋は完全に前方への注視を怠っていた。
結果、目前に唐突に現れた「なにか」に、勢いよく椋は身体をぶつけてしまった。自分ではない声がしたところを見ると、どうやら角を曲がって出て来た人に気づかないで思いっきり正面からぶつかってしまったようだ。
すかさず顔を上げて謝罪の言葉を述べようとした、椋の唇はしかし、相手を目にした瞬間凍りついた。
「…ってぇなあ! どこ見て歩いてんだこのボケ!」
まずい、このタイプは確実にまずい。
いかにもガラの悪そうな、崩れた衣服につり上がった目。あちこちにきっと、喧嘩で負ったのだろう傷痕のようなものも見え隠れしている。椋がぶつかってしまったらしい、その男の後ろで同じく椋を睨んでいる男二人にしても同じようなものだ。
ともすれば縮こまって出てこなくなりそうな舌を必死で動かし、ぺこりと頭を下げて何とか椋はその場を通りぬけようとした。すみません、言葉を紡ぐ。
「すみません、本当にごめんなさい、…でも俺、急いでるので…っ」
「オイコラ、アニキに向かってそんなぞんざいな謝罪ぽっきりで済むと思ってんのか」
彼らを何とかすり抜けようとした、椋の腕をがしりと取り巻きの一人が掴む。
容赦なく掴まれた腕に痛みを覚え、思わず椋はわずかに眉をひそめた。力の加減がわざとであろうことは、なにしろ目の前の相手が相手だ、想像するのはあまりにも容易い。
ニヤニヤと、恰好の獲物でも見つけたような目でもう一人の取り巻きが笑って言った。
「アニキ、肩大丈夫っすか?」
「いやぁ、痛ェなあ。骨折したかもしんねえなあ」
うざったい笑顔に同じ種類の顔で笑うと、ひらひらと「骨折」したらしい腕をわざとらしく椋へと向かい、男は振って見せる。
肩を骨折した人間が、そんなに簡単に腕を振れるものか。
なにかが確かにそのとき、自分の中でかちんと妙な音を立てたのを椋は感じた。
「…すみません。でも、俺、ホントに急いでるんで。離してください」
「あぁ? テメェこそふざけんな、痛ぇんだよ、ちゃんと片ぁつけろや、あぁん?」
腕を掴む、相手の腕が増える。三人から両腕そして肩を掴まれた状態になり、掴まれた部分から感じる容赦ない痛みとその笑みの下品さ、隠そうともしない下卑た感覚にさらに何かが妙な音を立てた。
ぐっと、強く奥歯を食いしばる。なんで俺は今、こんなところでこんな奴らに絡まれなきゃならないんだ?
勿論先ほどの前方不注意は、確かに椋自身の責任である。しかし、何もこんな時にこんなところでこんなやつにぶつかることはないじゃないかと、自分の不注意と不甲斐なさと運のなさに、さらに椋はイラッと来た。
ため息をつきたくなるのをこらえ、強いて淡々とした口調で相手へ口にする。
「あんたらみたいなのに付き合ってる時間はないんだ。どいてくれ」
「はぁ? どくわけねぇだろ、バカじゃねえの」
「な…っ」
「そうだなあ、どうしてもどいてほしいっつーなら、…ルペア金貨四枚。それで治療代ってことにしてやるよ」
提示された金額にも、卑劣にすぎる最低な笑みにも眩暈がした。
ルペア金貨とは、この国の貨幣の中で最も価値のある硬貨である。だいたい金貨一枚が、この王都での平均的な月賃金なのだそうだ。
ちなみに椋が、今までクラリオンで稼いできた金額は金貨二枚とだいたい半分。ルペア金貨四枚など、現在の椋の手持ちはおろか全財産を合わせても、とてもではないが足りない大金だった。
彼らがやろうとしているのが、ただの当たり屋、相手へ難癖をつけてのカツアゲでしかないことなど分かり切っていた。
しかし他のどこでもなく、なぜ今ここで椋に対してそんなことをしようとするのか。考えずにはいられない。
「………」
「どうだ? あとあとまで痛い思いすること考えりゃ、ハハッ。安いもんだろォ?」
下らない最低な相手の言葉が、椋の思考を上滑りする。
男らの一言一言を、耳にするたび下っ腹が奇妙な熱さを帯びていくのを感じる。今ここで足止めされている時間をすべて、あのまま走ったと仮定すればたぶん、既にヘイの家に椋は着けていた。
ゆっくりゆっくり、はらわたが煮えくりかえっていく。
何も知らずに何もせずに、ただただ他人を恐喝し、おそらくそれなりの暴力を付け加えて日々をへらへらと笑って暮らしているのだろう目の前の男たち。
猛烈に、今まで感じたことがないほどの怒りを椋は覚えた。
「ざっけんな」
「あぁ?」
そしてそんな怒りは気づけば、声となって冷たく確実に大気を震わせていた。
両の拳を握りしめる。こんなところで止まっていられるような時間は、今の椋には絶対にないのだ。
「患者がいるんだよ。行かなきゃいけないんだよ」
「はあ? なに言っちゃってんのおまえ、バカ?」
「バカはどっちだ。何も知らない何もしない、おまえら世間に何か一度でも、貢献とかそういうこと、したことあんのかよ」
言葉を続ければ続けるほど、声のトーンはどんどん下がり舌鋒はさらに鋭く、相手へ向ける言葉の配慮も一切なくなっていく。
椋は怒っていた。どうしようもない理不尽があまりにも悔し過ぎて、唯一自分ができるはずのことへの道を当然のようにへらへらと笑って塞ごうとする目前の男たちに壮絶な嫌悪感を覚えた。
嫌悪と唾棄の感情のまま、ぎっと男たちを睨み据えた椋はさらに、さらにと声を張り上げる。
「どけ。俺を止めるな、邪魔だからそこをどけ!! …おまえらが俺を止めてるせいで、今この瞬間にも人が死んでるかもしれないんだ!!」
「ンな…っ黙って聞いててやれば、この野郎!」
留めていた腕の代わり、とばかりに向かってくる複数の拳も無視して、椋は先へ進もうとした。どんな痛みがあるかも分からない、更に仲間を呼ばれて、立ちあがれなくなるくらいぼこぼこにされるかもしれない。ちらりとそんな考えは過っても、それは現在の椋の行動を止めるには決して、至らなかった。
水瀬椋という存在が、現在最も嫌だと考えること。それは自身の持つ知識が、他人に伝えられなかったがために死に至る人間がひとりでも増えてしまうことだ。
その途轍もないまでの苦痛と比べれば、ただのチンピラの鍛えてもいない拳などまったくもって何のこともない。拳が迫る、避けるつもりはない。決してこの身体は貧弱ではない、一発二発くらいなら耐えて、その間に走って走って走ってあいつの家にまでたどり着ければ、あとは―――。
しかし椋の予想した、痛みはどうしてかいつまでも訪れなかった。
怪訝に思い己の後方を振り返れば、なぜかチンピラ達は椋へと拳を振りかぶった状態で、ぴたりとそのままその場に硬直してしまっていた。
「……?」
しかも彼らの目はなぜか、この場を通り過ぎようとする椋ではなくどこか別の方向を凝視している。
視線をなぞるようにしてその方を見やれば、途端に目に入ってきた鮮やかなオレンジ色の髪に椋は限界までその目を見開いた。
「いーい啖呵、切るモンじゃねェか、なあ? 俺ァちょっと感動したぜ、リョウ」
カツカツと靴の音を響かせて、こちらに近づいてくるオレンジ髪の長身男。
その人物が誰であるかを、椋は非常によく知っていた。彼が今どこにいて何をしているのかも、予想していた、つもりだった。
絶対こんな場所には、いないはずの椋の居候先の家主が。
一体何がどうしてか、椋たちの目の前に不敵な笑みを浮かべていま、立っていた。
「…ヘ、」
ヘイ。
思わずその名を呼ぼうとした椋に、ニヤリといつものように笑って彼は応じてくる。ここは俺に任せとけ、テメエはよくやった。蒼と銀色を混ぜたような色をした彼の目は、言外にそんなことを告げているような気がした。
おもむろにチンピラ達の方へと向き直ったヘイは、ぎらりと眼光も鋭く彼らを容赦なく睨みつけた。いつもより確実に数段低い声で、口を開く。
「とッととどっか、失せろクソガキ。こいつァ俺の友人だ」
「ひ、ヒイ…っ!!」
彼という人間をそれなりに知っているはずの椋ですら驚くヘイの剣幕は、所詮暴力に酔っただけのチンピラでしかない男たちにとってはひとたまりもなかったらしい。もう一度ぎらりと街灯の下で光った彼の眼光に、その場から転がるようにして三人は泡を食って走り去っていった。
知らない間に詰めていた息を、思わず深々と椋は吐きだした。休んでいられる暇などないのは分かっているのだが、何しろヘイが場に割り込んでくるなど、まったくもって想像だにしていなかったのだ。
自分より十センチ以上高い場所にあるその目を見上げ、何とも表情を作りかねつつも椋は言葉を発した。
「なんでおまえ、いんの?」
「おっま。それがピンチに現れたヒーローってヤツに対する言葉かァ? リョウ」
「い、いや。…確かに凄い助かったんだけど、ホント助かったんだけど、それ以上になんというか、…驚いて」
途端に呆れかえった表情をするヘイに、自分の発した言葉のまずさに気づいて慌てて椋は取り繕おうとした。しかし結局のところ椋の思考をあの瞬間で占領してしまったのは、何よりもまず、彼という存在に対する驚愕だったのだ。
家で魔具を作り続けているとばかり思っていたヘイが、まさかあんなタイミングで椋を助けに現れるとは。
何度でも考えずにはいられない椋に、やれやれとどこかわざとらしくため息をひとつついてヘイは応じてきた。
「一応頼まれたもんが十五個できたからよ、どうせおまえに取りに来るような殊勝な時間なンざねェだろうし、届けてやろうかと思ったンだよ」
「じ、十五個? …早いな」
「一回作っちまった魔具を、また作るくらい楽な作業はねェからな」
ま、俺様の手にかかれば何だってそんなもんよ。
ニヤリとひどく得意げな表情で笑ったヘイは、次にはその笑みをどこかそっけないものへと変えて首をかしげた。
「で? そんなおまえがなんで、あんなバカ共に絡まれてたわけだ?」
「西に、行こうと思って」
「西?」
繰り返される言葉に首肯を返す。一刻を争う事態なのだ、他の誰でもないヘイに、遠慮も隠し事もする必要などまったくどこにもない。
わずかに怪訝な表情を浮かべたヘイは、ややあって納得したような光をその目に宿した。
「…あー、そういや西でもアイネミア病、出てンだったか。しかもこっちより重症のが」
「ああ。おまえもさっき、ショック起こした患者見ただろう? ああいう人間が多分、向こうじゃもっとたくさん発生してる。それに今はこんな時間だ、人手が、全然足りてないんだと」
「はァん、なるほど」
なんつうかまあ、この事件で一気に動き出したテメエらしい考え方だわな。別に馬鹿にするのではなくただ事実を並べる言葉として、ヘイは言って頷いた。
だから俺は西に行くよ、指輪渡してくれないか。
そう言おうとした椋の言葉は、しかし声になる前にごそごそと唐突に懐を探りだしたヘイの珍行動に止められてしまった。ンあぁ、どこだァ? そんな言葉を口にしつつ自身の懐をまさぐる大男という光景は、なんというか本当に、珍妙という以外の何でもない。
そしてようやくお目当てのものに行きあたったのか、さらにごそりと自身の懐をさらったヘイの手は次には何か、妙なコンパスのようなものが乗っかっていた。
「そんじゃま、いっちょ行くとすっかね」
あァ、言っとくがちゃーんと指輪は全部持ってきてやったからな、感謝しろよリョウ。
不敵にニヤリと笑ったその表情に、何か決して良くないものをそのとき椋は覚えた。いや、指輪は正直かなり嬉しい上に個数も予想以上でびっくりなのだが、いやでも行くとすっかねって、…おまえ一体なにをしようとしてるんだ!?
そんな椋の思考も読んでいるのか、更に楽しげに笑みを深めるヘイ。
いや、いやいやちょっと待て。…ここに来てから約二カ月、こんな顔をしたヘイに付き合ってろくなことがあったためしがない!
「ちょ、…ヘイ、おい!?」
「【転移。ロンザート】」
ロンザートって確か、あっちでラグメイノ【喰竜】級が現れた地点のすぐ近くにあった道具屋の名前じゃ。
椋が思考した時には、既にそれは実行された後だった。




