P32 白焔導く道へ征く
居心地の良い場所を手放す、どんな痛みよりも。
自分は確かな手があるのに、知っているのに誰かが助けられない―――それが信じられないほどに本当に嫌なのだと、知った。
「もう少しあそこで休んでてよかったのに、カリア」
ヘイが現在籠るあの家へと向かって走りつつ、自分のすぐ傍らをついてくる少女へ苦笑して椋は言葉を向けた。経験などしたことのない異常事態の数々のおかげで、既に椋の全身は非常に重い。しかしそんな、大した速度は出せていない椋にも遅れる程度の速さでしか、カリアは走れていないのだ。
そんな彼女の、調子がいいはずがない。それでもクラリオンに飛び込んできたときのあの異様さを思えば、短時間で随分回復したと言うべきなのかもしれないが。
しかしそんなことを考えての椋の言葉に、返ってきた彼女の言葉はあまりに、あっさりきっぱりとしたものだった。
「イヤ」
「えっ」
そのままの肯定でも否定でもなく、ただ一言きっぱり「嫌」と来た。
前だけ見て走っている現在、傍らのカリアがどんな顔をしているのかは椋には分からない。しかしきっとこちらを真っ直ぐに見上げているだろうその瞳に宿る、光の種類には結構に容易く想像がつく。…絶対に頑固に譲らない人間の目だ、それは。
きれいに予想外な彼女の言葉に、一瞬の思考フリーズの後に思わず椋は笑ってしまった。
「嫌って、カリア」
「いやよ。絶対にいや。…だって」
「だって?」
蓄積していく疲労を誤魔化すため、意味があるのかどうかも分からない会話を続ける。どうやら現在の自分が一人でいたくないらしいことを、一人でいなければどうしようもならない現況の中で願っているらしいことに、言葉を彼女と交わすごとに思い知らされるような気がする。
やっぱりまだホント、ガキだなあ、ダメだな、俺。
そんな感覚は内心で押さえこみつつ聞き返せば、どうしてかふと、何かためらうようにカリアは沈黙した。しばし二人分の、走っているともいまいち形容しがたい速度の足音だけが小さく場に響く。
ややあって、ふっとひとつ少しだけ重たい息をカリアが吐いた。
小さな声でそしてぽつりと、彼女は言葉を、口にした。リョウ、名前を呼ばれる。
「…リョウ、さっきあなた、自分がどんな顔してたか分かってる?」
「え?」
先ほどと同じくやはり想像していなかった彼女の言葉に、今度は思わずカリアの方を椋は振り返ってしまった。視線の先のカリアの表情は、決して身体的なものだけではない、苦痛めいたものにわずかに、歪んでいた。
金色の瞳が、どこか泣きそうに揺れる。
だって。見上げてくるその目が少し、眩しい、
「だって、さっきのあなたは、」
あなたは。
何らかの言葉をきっと、その言葉は椋へと向けようとしていた。
しかしカリアのそれが、実際に声にされることは結局、なかった。
「っ!!」
唐突に目の前の彼女の表情が変わったと思った瞬間、驚くほど強い力で自身の左側へと椋は突き飛ばされた。あまりに突然の衝撃にうまく受け身を取ることもできず、彼の身体はまともに背中から道端に叩きつけられた。
刹那、本気で息が詰まった。声も出ない、容赦のない痛みが、瞬く間に脳内をめぐって暴れ回った。
しかし、それらの知覚の直後。
背筋が凍るほどにおぞましい、不協和音の声が容赦なく椋の鼓膜を、ふるわせた。
「カリア!?」
「大丈夫だからっ!」
思わず彼女の名を呼ぶ、すぐさま返る言葉はしかしこんな状況ではどうしたって信用できない。だってそんな、おぞましくいびつな声が、おおよそ人のものであるはずがない。
衝撃と同時に姿が見えなくなった少女の、何かを必死に堪えるような小さな呼吸音が咆哮の隙間、わずかに聞こえた気がした。
いや、それは本当に気なのか。ぼたりと何か、液体のようなものが地面へ落下したのは。
その手でわき腹を押さえる彼女が、きつい瞳でまっすぐに、その目前に、見据えて、いるのは。
「…な、」
半ば無意識に彼女のそれを追った椋の目は、次の瞬間ほぼ限界に近い大きさにまで見開かれた。それはひどく不気味な、子どものような姿形をした「なにか」だった。
だらしなくべろりと開いたままの、明らかにそのからだの大きさからすれば不釣り合いに大きい口から零れる唾液は、地面へと落ちた瞬間ジュッと音をさせてひどく嫌なにおいを周囲に蔓延させる。普通なら二本しかないはずの腕は、左右両方の肩から三本ずつ生え、その生える向きもてんでバラバラ。さらには、その頭にはまるで、ラフレシアのような不気味に巨大な黒赤い花がでかでかと咲きほこっていた。
同じく頭上に花の周囲を囲むように、ぼうぼうに生えた雑草の先には何か、ちらちらと奇妙な小さいものが見える。月明かりと決して多くない街灯の下ではそれが何なのかは椋には分からないが、しかしそんな彼にであっても、これが絶対に「良くないもの」であることは一瞬にして、見て取れた。
何かを必死で、押し込めようとするように歯を食いしばったカリアが声を上げる。
「リョウ!」
「…カリア、」
鋭い呼び声に、ぞっとする。キケケケケケ、閉じる気などないのだろう口から発される奇声に、まるで頭蓋骨の裏側から頭を引っかかれているかのようなひどい不快感を覚えた。
彼女の手のひらが赤いことに、既に気づかぬ椋ではない。
しかし傷を押さえたまま、カリアはさらにと声を上げるのだ。
「行きなさい、リョウ! いいからここは私に任せて、早く!」
「い、いやでも、…カリア!」
おまえ、そんなひどい怪我して、それにまだあれから体調だって全然ちゃんと回復できてないのに。
必死に言い募ろうとする椋の、すべての言葉を拒絶するような。
鋭い、ナイフのように尖った彼女の声が、更に更にと容赦なく彼を、打ち据えた。
「あなたはここじゃ足手まといよ! あなたは、あなたの必要とされる場所に行きなさい!」
「――――っ!!」
告げられる言葉に息を呑む。言葉を失う、それは厳然たる事実だった。
魔術どころか剣すらにぎったことのない椋には、魔物を倒すための術など何一つとして持ってはないのだ。
しかしそれでも、動けない。こんな状態のカリアを放って一人で進めなどあまりに酷だ。足が動かない、呼吸が疾走の結果としてだけではなくおかしくなっていく、自分の無力さと未熟さが全身を容赦なく苛む。
結局椋を動かしたのは、ダメ押しのように発されたカリアの、もはや絶叫にも似た懇願の声だった。
「早く行って! 早く! …お願い、私に人を、一人でも多く守らせて、リョウ!!」
「……っ、くそっ!!」
彼女の手のひらに、炎が生まれる。常人には決して扱うことのできない烈火、猛火、劫火。暗い夜道を鮮やかに照らし出すその真紅は、椋には決して手出しのできない異世界に存在するものだ。
幾重にも連なり絡まる鎖を引きちぎり、おそろしく重い足に幾つもの罵倒の言葉を吐きつつ椋はカリアに背を向けた。走り出す。再度、今度は二人ではなくたった、一人で。
何から何まで何も知らない、自分が痛くて、たまらなかった。
息苦しさも何もかも、振り切るように全力であの家へと向かって椋は駆け出した。
生物がぶすぶすと焼けただれる、特有の悪臭が容赦なく鼻を突く。目前の魔物は絶叫を上げながら、しかし焼けただれたそばからその焼けただれた部分―――巨大な赤黒い花を再生する。
じくじくと疼くように痛む己のわき腹を押さえ、カリアは小さく苦笑した。
現在、彼女の目の前にいるのは、おおよそ今まで一度も見たことがない形をした魔物だった。もしかするとどこかの変種報告には掲載されていたのかもしれないが、しかし少なくともカリアが一度でも目を通したことのある報告には絶対に、こんなものはどこにも載ってはいなかった。
もしもカリアの体調が万全であり、決して近くない場所で大規模な結界の展開などしておらず、場所がこんな狭い路地でなかったなら。
彼女は己の持てる焔すべてを総動員し、完膚なきまでにこの魔物を一瞬にして焼きつくすことができただろう。すべてを浄化するものとして存在する「しろがね」の焔を、ラグメイノ【喰竜】級を倒したあの時と同じように、彼女は呼ぶことができた。
しかし現在のカリアには、およそ本来の第一位階を名乗れるような魔力も体力も存在してはいない。
あの黒髪の青年を守るため負った傷、脇腹からの出血もいっこうに止まる気配がなかった。自分があの時とっさに取った行動それ自体を後悔する気持ちは微塵もないが、しかしニースなどに知られれば確実に長尺の説教へまっしぐらだろうと、カリアは思う。
これの級は何なのか、どのような攻撃を誰に対し仕掛けることのできる魔物なのか。注意すべき点は何であり、どう戦っていけばいいのか。
ここまで何も分からないのは、もしかすればカリアにとっては物心ついてからというもの、初めてのことかも知れなかった。
「【焔火、燈ノ火、現れ踊れ。暗き奥底の住人に、光を以て楔とせよ】」
いつもなら、容易に詠唱など破棄できるはずの術式を声にする。防護の術式が即席のお粗末なものでしかないことも、体の芯に染みついて消えはしない強い疲労も結界維持のために垂れ流され続ける魔力も、痛み続ける傷の鬱陶しさも。すべてを振り払い、ただ今は目の前の魔物の討伐だけに、集中する。
負けるわけには、いかないから。
守らなければ、ならないから。
「【集い焔は劫火となりて、悪しき穢れを打ち払う】…!」
術が完成し術式紋が現れた瞬間、完成した術の炎に魔物が絶叫する。
縦横無尽にこちらへと、驟雨のごとく飛ばしてくる魔物の葉を花びらをすべて、呼びだした炎をもってカリアは受け止めた。その醜悪な口が垂れ流すよだれを見るに、この魔物が巻き散らすすべては、周囲への何らかの影響があると考えた方が良いと判断。
守ることは、勝つことより難しい―――。分かり切っている事柄を不完全にもほどがある状態で今、カリアは実行に移す。
護身のため、常に持ち歩いているナイフを彼女は鞘から抜き、構えた。
刃に刻まれた術式をそっと撫でれば、ふわりと舞いあがるのは蛍火のようなきらめきと揺らめき、徐々にその刀身に纏いついていくのは白色の焔。無茶苦茶に策もなしにこちらへと突進してきた魔物の腕の一本、その関節部へと鋭く突きを入れる。
「はッ!」
気合一閃。交錯の瞬間、炸裂するのはその腕を食らいつくさんと、雄々しく燃えあがる美しい白の焔。
間近で劈く魔物の絶叫に、その醜悪さに思わず眉をひそめながらもカリアは目前の魔物の中心へ思い切り蹴りを入れた。ボグッと鈍い音とともに、瞬間的な魔術による強化を加えたカリアの足が魔物を、彼女から優に三テナ(三メートル)は離れた位置へと突き飛ばす。
ギイ、ギイと、痛みに叫びのたうち回る魔物を注意深く観察する。今カリアが手にしているナイフで斬り落とした腕が再生してこないことを見ると、おそらくこの魔物はラグメイノ【喰竜】級よりもう一等級下、アルナフィア【滅師】級の魔物なのだろう。
しかし常の彼女ならともかく、今の満身創痍のカリアにはそのアルナフィア【滅師】級の相手もそう容易くはない。
再度彼女へと狙い澄まして放たれる葉と花弁の波状攻撃をとっさに己の右方向に身体を転がすことで躱し、それが地面へ打ちつけられるほんの刹那だけ前に完成させた魔術により、放たれたすべてを、焼き払う。
「…守らせてって、言ったのよ」
―――おまえらは騎士なんだろ? 国を守るために、力を授かった人間なんだろ?
それは直接カリアに向けられた言葉ではないが、しかしおそらく、直接その言葉を向けられたあの青年以上にカリアの、心の奥深くに突き刺さった。動かない他人に辟易し、上がらない効率に眉をひそめ、何のために力を欲したのかすら、分からなくなりかけていたカリアにはその言葉は、あまりに痛かった。
幼いころからずっと、本当に守りたいと思うもの、自分の大切だと思うものはすべて、絶対に自分の手で守らなければならなかった。
だから強くなりたかった。強くなることを、強く強く望んだ。がむしゃらに、貴族の、それも脈々と受け継がれる第一位の下賜名、アイゼンシュレイムを戴く大貴族の子どもはまずやらないだろうと思われるような訓練すら、自分から進んで幾つも行った。
その結果としてある己を、しかしよりにもよってカリアは、忘れかけていたのだ。
「守らせてって、…言ったの」
―――おまえらが国の人間を守らないで、誰が人を守るっていうんだよ!!
力を得たのは、守るため。失わないため。護るため。…誰も泣かせたくないと、そう願ったから。
彼が、苦しむのは嫌だ。つらいのを隠して無理に笑おうとするその笑顔が嫌だ。なんの躊躇いも遠慮もなく、ただの一人の人間として、カリアを扱ってくれる彼が泣くところを見たくない。
たとえそれが自分のもたらした因果の結果であったとしても、それでも心底嫌だとカリアは思うのだ。不思議な黒を宿したあの規格外の青年は、どうしようもないほどに誰に対しても当然のように優しい。
彼が、笑える場所を願った。
誰もが彼を彼として、一緒に笑っていた場所に、戻りたかった。
「だから」
ナイフの焔が渦を巻く。恐ろしい勢いで自分の中から魔力が吸い取られ失われていくのが分かるが、今はそんなの知ったことか。
振り回される、残り五本になった腕を避ける。交錯と同時に、白の焔が渦巻くナイフをその頭部へ向けて切りつける。
切りつけ、その結果として葉の部分へと刃が触れた、その瞬間一気に膨張した焔は魔物の頭部どころか全身をも包み込む勢いで燃えあがった。グギャアアアアアアア!! 至近距離での絶叫に鼓膜がわずかに痺れる。おかげでキン、と頭の中で奇妙な音がするのは、無視だ。
討伐のための、術式を紡ぐ。長い時間と手間とをかけ、ともすれば傷の痛みに疲労の強さに集中を途切れさせられながら。
白の火達磨になりながらもこちらへ噛みついてこようとする、その鋭い歯を避け切れずにわずかに肘先がその口周辺をかすった。途端にジュッというひどく嫌な音とともに激痛。思わず目線を遣れば、服どころか肘周辺の皮膚が、完全にその瞬間で溶け落ちてしまっていた。
先ほどの脇腹、そして今の肘。二か所に増えてしまった傷を抱えながらそれでもカリアは笑う。
ああそうだ、笑って見せるとも。だって私は彼に言った。自分ならできるからと、この場を去る彼の背を見送った。
だから。
だから、私は。
「だから私は、…守るの…!」
ようやく完成する術式に応じ、浮かび上がる術式紋がまばゆく光り輝く。下手をすれば目も焼き切れそうな煌めきを宿すナイフの刀身は、まるで彼女の手の内で光る星のようにも見えた。
魔物が絶叫する。彼女もまた最後の一撃のために叫ぶ。
その手からひと息に放たれたナイフは、まるで流星のように鋭く、魔物の中心へと過たずまっすぐに突き刺さった。
白焔が爆発する、魔物が燃滅する。
―――その光景を目にした瞬間、カリアの意識は深い暗がりへと一気に引きずり込まれた。




