P30 無情の刻む時の中
「――――っ…」
三回目の使用を終えた赤の指輪―――全身の体液循環を正常化させる魔術が込められたそれを、容赦なくのしかかってくるものすごいまでの疲労とともに椋は外した。
今現在椋がいるのは、同じ症状の患者はまとめてしまった方が良いからと無理やり、おやっさんに開けてもらったクラリオンの中だ。机やいすを並べて作った即席のベッドには、決して少なくない数の人間が、それぞれの家族に付き添われてぐったりと寝ている。
その状況の何が怖いかと言えば、懸命に患者の世話をしようとするその家族もまたほぼ、例外なくアイネミア病に罹患しているということだ。
日ごろから溜まっていた疲れが重なってか、それとも先ほどのあの奇妙な地震が関係しているのか。
最初は家族がショックを起こしたと言ってクラリオンへ患者を担ぎ込んできた人間が、少し目を離したすきに今度は、自分が心労とアイネミア病が重なり倒れるという事例も既に、一度や二度ではなかった。
「リョウ、にいちゃ、」
「だいじょうぶだよラニ。もう、だいじょうぶだからな」
たどたどしく椋の名を呼び、顔を見上げ、服の裾を握ってくる少年へと無理やりに椋は笑顔を作って見せた。
本当は今も、小刻みな指の震えが止まらない。今しがた外した指輪は、バッグに放りこむより前に指の震えで床に落としそうになった。明らかな異常事態に緊迫する空気やその中心に自分を置かなければならない状況もあいまって、泥のような疲れが速度を増して、全身に蓄積していっているのがいやというほどに分かる。
しかし、だからといって休みたいような気持ちにもまったく、椋はなれなかった。今少しでも動くのをやめれば、それきり動けなくなってしまうような気がした。
おそらく現在椋の体内では、ありとあらゆる昂奮物質が過剰分泌されている状態にある。頭が奇妙に冴えわたり、同時に妙にどこか酩酊したかのような感覚は、正直あまり気持ちの良いものではない。
先ほどから遠まわしな休憩も何度も申し入れられているのだが、しかし休憩などしたら、その瞬間に思いっきり吐いてしまいそうな気が、した。
「…あと二個」
亜空間バッグを見やり、まだ使える赤の指輪の残りを確認する。
魔具の起動に必要なのは、特定の動作を行うことで、魔具の動力であり中心である、アンビュラック鉱のロックを解除することだ。ロックが解除されることで魔具にあらかじめ込めてある術式へ魔力の供給がなされ、結果、魔具に込められた魔術は発動する。
それだけだ。それ以外は何の知識も、言葉も、魔力も必要とは、しない。…新しい指輪を取り出し指にはめていると、すっと横からひとつ、飴玉が差し出された。
「…ケイシャ」
「休憩したくないのは分かったから、せめてこれくらい、な」
そういう彼も十分すぎるほどひどい顔をしているのだが、しかしそれを指摘するのは控えた。もしこんな状況でも暢気な顔を続けられる人間がいるなら、絶対にそんな人間とはお近づきになりたくないと椋は思う。
ぽいと飴玉を口に入れれば、その甘さが妙に心地いいことに椋は苦笑した。分かってはいるがやはり、相当にいろいろと疲弊してしまっているらしい。
外面はどうあれ内心では完全にテンパっている椋を思ってだろうか、さらにケイシャは椋へと声をかけてきた。
「なあリョウ、聞いたか? なんか、北の貴族区の方でとんでもない魔物が現れたらしいぞ」
「………」
こちらを思って、かと思ったが、どうやら微妙に違ったらしい。
正直なところ、割ける思考の余裕が一切ない新情報だ。取捨選択を即決する、椋は首を横に振った。
「知らない。…それよりケイシャ、今ここに運ばれてきてるのって、全部で何人だっけ。で、俺何人治療したっけ?」
「え、っと。今ここにいるのは、患者だけで確か二十一人だ。家族も含めればたぶん、その三倍はいるんじゃないか?」
お前の治療人数は、さすがに知らないよ。
言葉をかける相手を間違えたと察したのか、彼はどこか申し訳なさそうに苦笑した。思わずつきそうになるため息を何とか呑み込んで、そっか、と一言、そんな彼に椋は応じた。
今椋に話しかけている彼もまた、他の人間と同じようにアイネミア病に罹患しているのだ。
他の人たちよりはまだ症状は軽いから、動けるからと言って、自分から進んで現在のケイシャは椋を手伝ってくれているのだった。
「二十一、…か」
ショックを起こし、ここクラリオンに運ばれてきた患者は二十一人。さらに患者の家族が時間差で倒れた例が確か七件、ショックを起こしたために、二次的に骨折などの怪我を負ってしまった例が六件。
試作品の名の通り、ヘイに預けられた魔具たちは確かに完全ではなかった。発動成功のサインが分からなかったり、発動それ自体が失敗してしまった例もあり、使える魔具の残りは既に指輪が二、腕輪が四しかない。
見たところ新患が来ている様子はないし、ここに患者を運んできた家族たちの容体も落ち着いているようには見える。しかしだからといって、油断はできない。
なにしろ椋には、彼らが唐突にショックを起こした原因がさっぱりなのだ。何が増悪因子で何が寛解因子であるのかわからない以上、油断は絶対の大敵である。
「しっかし、リョウよぉ。…ここ最近何だか随分頑張ってくれてるとは思ってたが、おまえ、すごいやつだったんだなあ」
「おやっさん」
心底感心した声音で、後ろからかけられた声に椋は振り返った。ほれ飲みな、と無造作に差し出されるのは、椋がここでバイトをしていた一カ月と少しの間、たった一度しか飲ませてもらえなかった、おやっさんいわく「とっとき」の飲み物―――エルネードという、作り方自体はレモネードに似た飲み物だった。
しかし彼の言うことには、水から何からすべて他とは違うのだそうで。実際に一度飲ませてもらった時には、さわやかな甘さと酸味に加えて身体の疲労が吹っ飛んでいくような感覚に椋は大層驚いたものである。…そんなものを、当然のように今、椋の前へと彼は差し出していた。
何となく受け取りを躊躇しかける椋に、何遠慮してんだおまえは、とおやっさんは更に笑った。
笑ったかと思うと、ひょいとばかりに椋の手を取りエルネードのグラスを半ば無理やりにその手に握らせてしまった。
「え、ちょっと」
「馬鹿、遠慮すんなリョウ。おまえは俺らの命の恩人なんだ、それくらいさせろよ」
「…んな大袈裟な」
彼らの気持ちも確かに分かるが、しかしどうしたところで、椋には苦笑するしかできない。
そもそも椋が今こうして患者を救うために動けているのは、この世界には存在しない知識が結構に彼の頭の中には存在しており、なおかつそれをある程度ではあるが理解し、椋の希望にできるだけ沿ったものを作り出してくれたヘイという協力者がいるからこそだ。もしこの世界に魔術も魔具も何も存在しなかったとしたら、点滴の打ち方ひとつわからない椋は、ショックの患者を目の前にしても何もできなかっただろう。
しかしそんな事実を口にしたところで、誰も理解してくれないだろうことも椋は同時に知っている。
半ば仕方なくエルネードを口にした椋をやけに満足げに見やって、しかしなあ、とまたおやっさんは口を開いた。
「妙なやつだとは思ってたがなあ。まさか、魔術師だったなんてな」
「ちがうよ。魔術師なんかじゃない。魔具を使ってるだけだ」
その言葉にまた椋は驚いた。確かに患者の治療中はおおよそ、傍目には魔術を使っているようにしか見えないかもしれないがそれは、違う。
ヘイが、まだ彼曰く試作品段階でしかないというこれをあえて今、危険を承知で預けてくれたからこその現在の椋なのだ。そこを間違えられるわけにはいかないと否定する椋に、しかしなぜか向けられたのは、どこか呆れ笑いのような表情だった。
「おまえなぁ。どっちにしたって、人を助けられるんだ。凄いことに変わりはないだろう」
「まあ、俺じゃなくてこの魔具が凄いことは否定しないけど」
「リョウ。謙遜って、しすぎると鬱陶しいのよ」
「え。鬱陶しいってひでぇ」
おやっさんと同じく、ショックを起こし指輪の力でなんとか回復させたもう一人の従業員仲間アリスのざっくりした言葉に思わず笑ってしまう。そしてふと気づけば、クラリオン内にいる誰もがこちらを、椋のことをやわらかい視線で見ていた。
妙に照れくさくなってきて、徐々に熱がのぼってくる顔を隠すようにぐい、とエルネードをあおる。
おいこらリョウ、もう少し勿体無く飲めよ! そんな言葉も今は、聞いてやる気はない。
「まあ、さ。…あとはショックがここにいる人たちだけで、おさまってくれてるならいいんだけ―――」
ど。
あくまでも個人的な希望を椋が口にしようとしたその時、恐ろしいほどの勢いでクラリオンのドアは開かれた。
「―――リョウ!」
大声で彼の名を呼ぶよく響く声は、どう聞いても椋の知っている少女のものだ。
開け放たれた扉の前に、ぜえぜえと苦しげに肩で息をしながら立っているのは、…そして。
「!?」
比較的和やかな雰囲気に包まれはじめていたはずのクラリオン内は、まさにその瞬間完全に、ぱきりと凍りついた。
思わず椋は、目を見開く。
彼の視線の先にあったのは、その見事な金と銀の色を隠そうともしないひとりの、少女の姿だった。
そのときまともに彼の名を呼べたのは、カリアにとっては奇跡と言っても決しておかしくなかった。
それほどぼろぼろに疲弊した彼女の身体は、驚愕に目を見開いた黒の青年を目にした瞬間どさりとその場に足から崩れて倒れ込んだ。
「カリア!?」
叫ぶように名前を呼んで近づいてくる彼の存在がなぜか、妙にぼやけて見えた。
まるで身体がどこも自分のものではないように重く、床に身体を叩きつけたはずの痛みもひどく遠い。
なんでこんな、ことになってるんだろう、どうして、こんなふうになっちゃってるんだろう。
ぼやけにぼやけた思考では、彼女は問いに何一つとして、答えを出すことなど、できなかった。
「ちょ、…か、カリア。カリアって。おい、ホントにどしたの大丈夫!?」
「…っ、ぁ…」
「え、ええとアリス、とりあえず水! 水持ってきて!」
「え!? あ、わ、わかったわ!」
聞こえる言葉のどれが誰なのか、それすら判別が曖昧な自分が少し怖い。そもそも私はどうしてこんなところまで、ずっとろくに魔術も使わないで走り続けて来たんだっけ―――?
くっきりとしない思考の中でそれでも分かるのは、床へと倒れ込んだカリアの身体を抱き上げて支えてくれている誰かのあたたかな体温だ。カリアとは骨格の作りが違うしっかりした身体が、どうにもどこにも力が入らないカリアの肩を優しく、抱いて上半身を起こしてくれていた。
ほらリョウ、水よ。誰のものか分からないそんな声が聞こえる。ありがとう、それに応じた声はカリアの寄りかかる胸を震わせて響いた。
ゆっくりと、目の前に透明なグラスが差し出される。
「カリア、水。飲める?」
「………、」
差し出されたコップに指を伸ばそうとするも、相変わらず力が入らない腕はまったく、カリアの言うことを聞いてはくれなかった。
どうしようもなく途方に暮れて己の上方を見やれば、やわらかく苦笑した黒色の瞳がこちらを覗き込んでくる。
「じゃあ俺が手、添えてるから。慌てないで、ゆっくり少しずつ飲んで」
「……っ、ん…」
降ってくる言葉に頷けば、唇に軽くグラスのつめたさが触れた。少しだけ開いた唇に、ゆっくりとこぼさないように少しずつ、グラスが傾けられ中身が口の中へと流れ込んでくる。
そういえば随分の間まともな感覚がまったくなかった喉が、こくんと音を立ててわずかに動いた。
決して大きくもないグラス一杯の水を飲み干すのに、かなりの時間がかかったような気が、した。
「……は、…っ」
「大丈夫? まだほしい?」
「も、…だいじょうぶ」
思わず大きくため息をつけば、やわらかく降ってくる声が静かに訊ねてきた。小さくその声に首を振って、自分の力で上半身を起こそうとし…まだだめだったらしい身体は、もう一度ぽすんと彼の腕の中へと逆戻りする。
嫌な顔ひとつせずに当然のように彼女を受け止めてくれるその体温は、カリアのすりきれたあちこちに少しずつ滲んで、しみていくような気がどうしてか、した。
「リョウ」
「ん?」
黒の髪と目をした青年の名を呼べば、カリアへと応じる彼の声が視線が返ってくる。
その名前を呼べば少しでも自分の動かない身体も動くようになるような気がして、さらに続けてカリアは彼の名を呼んだ。
「リョウ」
「うん、いるよ」
「リョウ」
「ん。どした?」
「リョウ…」
優しい声はあまりに耳に心地よくて、どこかまどろみに似たゆるやかさと穏やかさをカリアへもたらす。
けれど気持ちは良いけれど、私はいつまでもそんなことをしていて、いいの? ちくりと刺さる棘のように浮かんだ理性の思考に、思わず一度二度とカリアはゆっくり瞬きをした。
彼女が、ここまで一心不乱に駆け抜けてきた理由。ある人の口から発された、解決への可能性として示された彼の名前。
王都の西、半月前のラグメイノ【喰竜】級出現地点あたりで、死人が。
その言葉が思考に浮かんだ瞬間、ぱちんとすべてが弾けるように彼女の感覚は一斉に戻ってきた。
「…っ、あ…!」
「カリア?」
愕然と目を見開く、未だ身体を自力で起こすことはできない。しかしそれまでとは何か違うカリアの様子に、怪訝の表情を浮かべてリョウは彼女を見下ろしてくる。
やはりまだまともに力が入らない指先で、ぎゅっと彼の上衣をカリアは握りしめた。かたかたと小刻みに震えているそれは、無理に無理を重ねた結果として途轍もない量になってしまった疲労によるものか、それとも。
ひゅっと、自分の吸える限りの息を瞬間カリアは吸った。
彼に伝えねばならないことを、途切れる声でそれでも必死に、口にする。
「リョウ、…西で、ヨルドが」
「え?」
「前に魔物、出た、……死人が今、かなり、って…!」
「っ!!」
その言葉にはリョウだけでなく、この酒場に集っていた全員の顔色が一斉に消えて失せた。
そんな彼らの反応を見て、そしてカリアは確信した。
リョウは確実に、今回の一連の事件に対して何かを掴んでいる。ヨルドの言っていた言葉の通り、どうすればこの奇病、アイネミア病が治療できるのかを彼は分かっている。
それはどうして、なんのため。
これが全部終わったら、…あなたは私に、教えてくれる―――?




