P29 希望の色彩は白黒へ
「私が何とかしますから、…か」
自分で発した言葉を、今ほど頼りないと思ったのも彼、ニースにとっては初めてかもしれなかった。
いくら王宮直属の魔術師のひとりとして第二位階を戴いているといっても、それは所詮、ただの文面形式上の称号にすぎない。目前で途轍もなく醜い声をはりあげる、名前とその概論しか聞いたこともないような魔物の姿にニースは、その背を何かぞっとしないものが走るのを感じる。
こみ上げてくる弱気を押さえ込むように、ぐっと己の「左目」へとニースは力を入れた。彼の意に従い、すぐさま彼の目の前に存在する魔物の走査が開始される。
ほかにもいくつかの能力を持つ、それはニースの義眼の能力のひとつだった。
<魔物等級:オルグヴァル【崩都】級>
<攻撃:触手(伸縮および軟化・硬化自在)/腐敗毒(即効性・強毒性)/嵐風(最大風速50テナ*)/爆葉(有効範囲4.5テナ*)/地下茎>
<留意:オルグの開花を阻止せよ>
固有に保有する攻撃のいずれもが、凶悪なこと極まりない。が、それらよりニースの気を引いたのは、滅多に出現することのない「留意」の項目だった。
オルグの開花。その意味が思考に浸透した瞬間、今度こそ紛いない壮絶な怖気が、一瞬にしてニースの全身を駆け抜けていった。
この魔物を、オルグヴァル、都を崩壊させるものと言わしめる原因はそこにある。目前にする魔物の球根のような部分は、時間の経過に従って徐々に、醜いヒナのような体部へと芽を吹き葉を茂らせその茎を枝を幹を伸ばし、そしてやがてその頭部までをも覆いつくし―――その頂上へと巨大な「花」をつける。
花のつぼみが開くとき。それがこの。エクストリー王国王都・アンブルトリアが崩壊する瞬間だ。
なぜならつぼみが開いた瞬間、無数のオルグヴァルの【種】が、宿主など決して選ぶことなく全方位へとはじけ飛んで、いくのだから。
「【凍てつく零度の絶対者、世へと仇なす彼の楔たれ】」
詠唱の合間にも絶えず、びちみちとおぞましい音を立ててうねる幾本もの触手がニースを狙い澄まして襲いかかってくる。一体何の事態だと様子見に出てきたのだろう、どこかの家の使用人が魔物に驚愕してその場で腰を抜かした。
同じように幾人か様子を身に来たまま硬直している人物はいるが、正直なところを言えば欠片の力もない弱者がこんな場所にいくら集おうともニースには邪魔なだけだ。むしろ彼らを守りながら戦わなければならない分、目前の魔物それ自体に集中できなくなる。
この背中を守り共に戦えとまでは言わない、せめてまともな防護結界が張れる魔術師は、貴族は誰かこの近くにいないのか。
わずかに眉をひそめつつ、ニース目がけて殺到する幾本もの触手をその手にした鋭利な氷刃で、一瞬にして彼は完膚なきまでに叩き切った。
「【零度よ吹雪け、絶え間なく。この声、力は彼を留め、やがては砕く詠なり】」
ギアアァアアアァアアアア、と。
完成した魔術にごっそりと魔力を持っていかれた瞬間、鼓膜がしびれそうなほどにおぞましい悲鳴をオルグヴァル【崩都】級があげた。
彼の主が張った、最上級の防護結界があるとはいえこの大爆音だ。まずここ周辺の住民は何が起きているか理解しているだろうに、相変わらず誰一人として支援に来る気配はない。そんな現況にニースは苦笑するしかなかった。
ニースの戴く位階、魔術師および騎士の第二位階とは、このオルグヴァル【崩都】級と一対一でまともに渡り合うことができると認められた人間にのみ、少なくとも本来ならば与えられるべき位階である。彼とて時間をかけさえすれば、ひどい消耗を前提とするならこの魔物を倒せる勝算は立てられた。
しかしそのような悠長さなど、残念ながら現在彼が目の前にする、オルグヴァル【崩都】級の討伐においては決して許されない。
今しがた彼の使った魔術は、オルグヴァル【崩都】級の「成長」の根源たる、球根に似た部分を凍りつかせその成長を遅らせるためのものだ。だが少々大規模な、己のでき得る限りの魔術を使用したところで、今も巨大な氷の中で、遅々たる速度になってはいるが球根めいたそれは脈打ち、うごめいている。何をしたところで、オルグヴァル【崩都】級の成長そのものを停止させることはできないうえ、その「開花」による被害を封じ込めることもまた不可能なのだ。
だからこそ。
「…まったく」
教本にはこう、書かれている。オルグヴァル【崩都】級の討伐において必要になるのは、絶対的な大火力および、せめて第六位階以上の位階持ちの騎士もしくは魔術師であると。
降り注ぐ触手を回避すべく、助走なしに瞬間、高くニースはその場に跳躍した。その高さを維持したまま、手にしていた氷刃を勢いよく、叫び声をあげながら、ともすれば邪魔ものであるニースの隙をつき触手を傍観者たちにまで突破させようとするオルグヴァル【崩都】級の顔面へと投擲する。
身体を弓なりにそらせ、手を離す瞬間さらにもうひとつ魔術を上乗せして打ち放ったそれは、勢いよく魔物の頬、にあたるであろう部分へとぶつかり、
…わずかなへこみを残して、その場で粉々に砕け散った。
「……この程度ではやはり、だめか」
到底良いとは言えない状況に、ニースは思わず苦笑する。しかしオルグヴァル【崩都】級の成長を遅らせる魔術を持続使用している以上、今魔物にぶつけた魔術以上のものを使用することはおおよそ不可能だ。
せめてあと一人だれか前衛に立って、触手を捌き、いずれ猛威を振るうであろう暴風と爆発の大部分を請け負ってくれればまだ、ニースとていくらでもやりようはあるのだが。
ないものねだりをしても仕方がない。新たに作り出した氷刃で再度襲ってきた触手数本をまとめて斬り払い、おそらく風を起こそうとしているのだろう、不格好な羽ばたき動作を始めた魔物へ向けニースは時間稼ぎの術式の詠唱をはじめた。
「【静寂のうちにさざめく氷華、舞い散り狂え、はらはらと】」
「―――【華は転じて風となり、咎なるものを切り刻む】」
「!」
己のものではない声と術式が、ニースが本来形作ろうとしていたものとは異なる魔術を完成させる。
思わず目を見開いたニースの視線の先、二重に展開された術式が魔術成立の証拠たる術式紋を描く。ばさりとひときわ大きくオルグヴァル【崩都】級がその翼もどきをゆるがせた瞬間、その両翼に煌々と浮かび上がったのは、彼の見たことのない蒼緑色の術式紋だった。
氷の飛礫を孕んだ風が、暴風を生まんと羽ばたく翼の上を縦横無尽に痛めつけてゆく。ぶしゅりと傷口から噴き上がった体液は、まともに左目で「視」ようとすれば狂うと断言できてしまうほどに、おぞましいまでに穢れ切った呪詛と怨嗟に塗れていた。
己が身体に傷をつけたモノを許さないとばかりに、それまでとは比較にならない量の触手が次の瞬間、ニースを目がけ上から下から一斉に伸びる。
しかしそれは彼が防護の術式を展開させるより前に、彼よりさらに後方より生み出された炎が消し炭すら残らずにすべて焼き払った。
「ご無事ですか、フォゼット副長閣下!」
「…遅いんだよ、まったく」
呟く声は、決して小隊一斉にこちらに向かってくる彼らに直接向けはしない。なぜ小隊員をすべて揃える前に単騎であっても増援に来ないのかと、愚痴る声は決して彼自身以外の誰にも届きはしない。
更に更にと一斉に打ち込まれる炎の魔術が、先ほどの混成魔術により大傷の開いた翼の部分を焼け焦がし抉っていく。さらなる壮絶な絶叫が大気を打つ、到底あれ一体からすべて生えているとは思えないような数の触手が、ただひたすらの破壊衝動のままに無機物有機物の判別すらなしに襲いかかった。
それらが市民へ届くより前、すべて切り払うのは騎士団員の研ぎ澄まされた剣。
どうやら貴族たちは「団」を率いこの有事を収めたという既成事実を欲しているらしいと、大きくひとつ吐いた息とともにニースが完全に理解したのはそのときだった。
「…っはぁーっ…」
緊急事態における騎士および魔術師の呼出においては、ある特殊な魔術を使用することが許可されている。
団長しか展開術式および操作法を知らないその術を使い、最後の一人への通信をようやくカリアは終えた。通信を切った瞬間、久々に魔力消費過多時特有の症状に彼女は襲われた。身体から何もなくなってしまったかのような、ひどい虚脱感に意識までぼんやりする。
ここは自分に任せろというニースの言葉通り、一定距離を離れてしまえば、オルグヴァル【崩都】級の触手はもうカリアを追ってくることもなかった。
頭が酷く、痛むし重い。今でもあの場所の結界を張り続けているのに加え、立て続けに特殊かつ大規模な魔術を使い続けた反動として、荒くなった息がどうにもおさまらない。
どんな魔術が施されているか分からない貴族の邸宅に身体を預けるわけにもいかず、道に立つ街路樹の幹にその背を預けたままカリアは己の胸を押さえた。
「……っ、き、つ…っ」
被害を最小限に食い止めるために彼女があの場に張った結界は、一切の魔物およびその攻撃手段を結界内に封じ込めることができる代わりに、それを張り続けようとする限り持続的に莫大な量の魔力が消費され続けるものだ。がりがりと自身が削られていくような感覚に、己の胸、心臓あたりを掴んだままカリアはわずかに苦笑した。
どこか開けた何もない場所であれを相手取るならともかく、こんな貴族の邸宅が密集するような場所でそのまま戦闘になれば、様々な意味で甚大な被害が出る。
それを考えれば他に取れよう策などないのだが、しかしやはりきついものは、欠片の容赦もなくこんな緊急事態であってもきつい。
「は、…っはあっ」
上がった息が戻らない。そもそも先ほどまで使い続けていた通信の魔術自体、本来ならば多用が利くような魔術でもないのだ。
相手の魔力の波動に完全に同調することで相手が気を失っている以外の状態であればいつ、どこであろうと呼びかけることが可能なその魔術は、波動の完全同調が必要になるが故に、一回の消費魔力が馬鹿馬鹿しいくらいに膨大なのである。それなりに大きな魔術の乱発にも慣れているはずのカリアですら、容赦なく疲弊させるほどに。
しかしさすがにあの結界構築に加えて通信十三連続は、いくらなんでも我ながら無茶だ。
無理もいい加減にしておけよと、いつだったか大怪我をしたときにヨルドにかけられた言葉がふと、脳裏をよぎる。
「……あ、」
目の端で、ニースの扱う氷の魔術とは異なる赤や黄や緑の光を捉える。おそらく最初の方でカリアが連絡をつけた団の部隊が、ニースの支援として到着したのだろう。
よかった、と、少しだけ彼女はその胸をなでおろした。なにしろあまりに魔力の消費が酷過ぎる。おそらくはしばらくここから動けないだろうと、現在の自身の状況をカリアは判断した。
無論あともう少しでも魔力が回復すれば、いくら身体が嫌がろうとも動かなければならないことは理解している。完全なる結界を構築し全員へと迅速に連絡をつけなければ、どこの団だけ贔屓にしているといわれのない中傷をされ、かといってこの魔力消費程度で魔物の討伐それ自体に参加ができないようなことになれば、また他の団長やら貴族やらといった人物の顰蹙を買うのだ。
己の立場が存在が、ひどく微妙なことであることをカリアはよく知っていた。だからこそ何に隙を見せてもならないことも、同時に彼女は理解していた。
だからこそカリアはひとまずは、少しでも早く魔力が回復するよう安静に努めていた。
だが。
「……は、…」
弾んだ息は、どうしてかいっこうに戻る気配がない。心臓の動悸がおさまらない。
それはいわゆる、胸騒ぎというものにどこかで似ているような気がした。いつものように魔力の使いすぎだけならば、たとえ結界展開を続けているとはいえこんなにまで回復が遅いということは、カリアにはありえない感覚だったからだ。
不穏な動悸に、息が苦しい。心臓が喉許にせり上がってくるかのような錯覚に、言い知れぬ不安を感じてカリアは己の唇をかみしめた。
何が彼女を掻き立てるのか、彼女自身が分からなかった。
「は、…っは、ふー…っ…」
深呼吸すらままならない、己の荒れ具合に少し、呆れる。巨大に大きくとぐろを巻く、それの理由はやはり分からない。
既に全騎士団、および魔術師団の団長との連絡はつけた。しばらくは魔力消費の大きさからしてまともに魔術は使えないカリアに代わり、他の団の者たちがニースの助太刀をしてくれる。
相手がオルグヴァル【崩都】級とあっては、団長自ら出向くことはないかもしれない。が、それでも第三位階以上の魔術師および騎士数人と第六位階以上の魔術師および騎士数十人での数と火力で短期決戦に持ち込むことができれば、基本的に本体はその大きさゆえに愚鈍であるオルグヴァル【崩都】級は、決して倒せない魔物ではないのだ。
分かっている。それは事実だ。過去の先達が何度も何度も、その通りに討伐を成功させているのがオルグヴァル【崩都】級だ。
確かに分かっているはずなのに、それなのに。
どうしても何か言い知れない不安が恐怖が、…胸から、消えない。
――――嬢ちゃん!!
「!?」
脳髄を直接打ち据えるような、よく知った男の声が響いたのはそのときだった。その声が良く知っている人物のものだと、判別がつくまでに少し時間がかかったのはあまりに、その声が切羽詰まっていたからだ。
聞いたこともないような、何もかもかなぐり捨てるかのような男の声に、さらにばくりと奇妙に心臓が跳ねるのを感じつつその「声」へとカリアは応じる。
「ヨルド?」
―――嬢ちゃん、そこにリョウはいるか!
さらに続くその声もまた、常日頃カリアが耳にする、どこかのんびりと掴みどころのないいつもの彼のものとはまったく違っていた。
これほど鬼気迫る彼の声など、今まで一度もカリアは聞いたことがなかった。魔術による通信を行っている現在相手の顔は見えないが、おそらくは今の彼はその表情にしてもまた然り、なのだろうことは容易に想像がつく。
しかしどうしてそんな声で、ヨルドがリョウを呼んでいるのか。
やはり分かるはずもなく、さらに怪訝にカリアは整った眉をひそめた。
「リョウ? どうして」
―――どうやって処置をすればいいのか、俺らには分からない患者が突然大量に出た。
喉奥から絞り出したかのようなその声を言葉を、一瞬カリアは本気で理解することができなかった。
「処置の方法が、分からない患者? …あなたと、…アルセラ、が?」
そうだと、苦虫を数十匹単位でかみつぶしかねない声で相手が応じてくる。ふと気づけば奇妙に目の前が小刻みに揺れている、それが自分の膝が震えているからだと、理解するのにまた妙な時間がかかった。
しかも先ほどの彼の言葉は、まるであの黒の青年ならば、その患者たちを救命するため行うべき処置を知っているとでも言っているようだ。
リョウが奇妙なことは知っている、視点が突飛なことも知っている、…でも、もしかするとヨルドたちにとっては、彼はそれだけでは済まないような途轍もない人間なのか?
返す言葉を失うカリアに、更に衝撃的な言葉をヨルドは続けてきた。
―――このままじゃ、相当な数の死者が出る。
「…!?」
―――何しろ絶対的に手が足りなくてな。こんな時間だからな、ほうぼうに手をやっちゃいるが治癒術師、祈道士どちらも集まりがすこぶる悪いんだ。
告げられた内容の衝撃に息を呑んだカリアに、さらに畳みかけるようにヨルドは言葉をついでくる。
ばくばくと静まらない心臓がうるさい、まるで耳元で絶えず、大音量でがなりたてられているかのようだ。
「ヨルド、あなたいまどこにいるの?」
―――西だ。半月前、ラグメイノ【喰竜】級が出たあのあたりだよ。
何とか息を少しでも整えて発した言葉に、返してきたヨルドのそれにまた反射的に息が詰まった。
声が、出せない。うまく息が吸えない。この唐突なオルグヴァル【崩都】級の卵の出現および孵化と半月前のラグメイノ【喰竜】級の出現、そして原因不明の病であるアイネミア病。
頭ががんがんする。痛い。それらには何か、関係がある。もうここまできてしまえば、関係があるとしか思えない。
あなたはそれを知っているの、リョウ?
ここにはいない青年へと、気づけば内心でカリアは問いかけていた。
「じゃあ、…まさか」
―――おそらくあいつは東にいるはずだ。…カリア、
「…っ!!」
すべて言われるより前に、彼女はその場から駆けだしていた。
息が苦しいことも眩暈がすることも、現在の彼女自身の状態などすべて放り出してカリアは走りだした。
*1テナ=1m




