P02 城下の一画にて
全てを動かす歯車は、神のみぞ知るその意思のままに静かに動く。
「…よし、大体こんなもんか」
買い物メモの内容を改めて見直し、買い忘れがないかどうか確認する。ヘイがくれた四次元ポケットならぬ亜空間バッグのおかげで、実際に買った量からは考えられないほどに椋の腕にかかる負担は少なかった。
終着点は結局一昨日も有耶無耶になった、彼との言いあいをふと思う。
どうして自分を売り込まないんだと、その知識をきちんと役に立てるための道を自分で開けと、ヘイは言った。
「やっぱ痛いな、正論って」
小さく呟き、椋は苦笑する。正直を言えば、今のただ停滞しているだけの、酒場の従業員のひとりとして日々を食いつないでいるだけの自分が椋は決して「好き」ではなかった。
もちろん、あのクラリオンという酒場で働くこと自体は嫌いではない。もともとあの酒場、クラリオンはそれなりの場数を踏んだ「きちんとした」冒険者しか入れないのが信条の場らしく、あそこにいるのは店員も客も、誰もかれもが陽気で剛毅で、気の悪くない人間ばかりだった。
この世界ではかなり珍しいという黒髪黒眼の珍妙な男を、あの「奇人」ヘイの口添えがあったとはいえ「そういうもの」として新たに受け容れてくれるくらいには皆、寛容で優しかった。
クラリオンでの仕事、それ自体は決して嫌いではないのだ。自分がどちらかと言うならば、確実に恵まれた環境にいることも椋は承知している。
しかし同時に今の椋には、絶対的に、欠乏しているものがあった。なぜならかつては当然の権利として享受していた環境には満ち溢れていた何もかもが、今の彼にはまったく何もない。
勉強がまったく、できないのだ。
己の行く先が、目指すものが全く見えなくなっているのだ。
否、勉強することそれ自体は勿論、できる。なにしろ書かれている文字それ自体はまったく分からないのに、なぜかこの世界の本、文章はどんなものであろうと問題なく「読めて」しまうことを既に椋は知っていた。
しかし現在の椋がどんなに勉強をしてみたところで、それは明確な先のない、ただの道楽としてのものでしかない。
魔術がまったく使えぬ椋が、どんなに治癒魔術を学んだところで、…無意味なのだ。
「ったく、どうするかな…っと、ん?」
いつものように、にぎわう多くの店が立ち並ぶ城下の一画。その中に、少し前のほうに、ちょっとした人だかりがあった。
しかもなぜかその人だかりは、どうしてか道の真ん中を中心にして山が形成されているように椋には見えた。何か珍しいものでも露店で売っているのか、それとも命知らずな冒険者が、何かと理由をつけてこんな場所で、決闘でも始めようとしているのか。
なんとなく興味を引かれてそちらへ二歩三歩と歩みを重ねたとき、どこか張り詰めた、余裕のない男の声が不意に椋の耳朶を打った。
「どうした、大丈夫か、…ピア!」
「……っ、…!!」
「ピア、おい、しっかりしろ! …誰か、治癒魔術を使える人間はいないか!」
聞こえたのは場に良く通る、誰かの名前を呼ぶ若い男の声。そしてその声が紡ぐのは、治癒魔術の使い手を探す言葉だった。
治癒魔術ということは、誰か怪我でもした人がいるのだろうか。
何とも自分の思考的な意味でタイムリーな話題に、ちくりと痛みめいたものを胸の奥に感じて椋は苦笑した。しかしそんな苦笑の間にも、明らかに焦った男の声は止まない。
さらにその彼の声に応じてか応じずか、人垣をなす市井の人々はただ、どこか所在なげにざわめいているだけだ。なんとも状況が理解できず、わずかに目を細めてひょいと椋はその場で軽く背伸びをした。
椋の身長は、現在179センチある。それなりに背の高い部類に入る椋にとっては、人垣の先にある状況を確認するにはそれだけでも十分なのだ。
何しろ百聞は一見にしかず、である。ざわざわと勝手に喋っているだけの人々の声を聞いているだけでは、よく分からなさが増すだけだ。
「ん、」
もう一歩更に前へと進んだ上で、背伸び。
いくつもの人の頭越しに見えたのは、道の真ん中で苦しそうにあえいでいる白い服の女の子と、その子を抱きかかえている浅黒い肌をした若い男の姿だった。あの子どうしたんだい、誰か祈道士様を呼んできておくれよ、でもここからじゃ、教会にはどんなにも急いでも五分はかかるぞ…。
人々の言葉は、ただ三人称的に彼女を心配し遠巻きにするだけだった。誰が明確に動く様子もないのに何ともいたたまれないような気持ちになるが、しかしだからといってこの状況で、女の子を抱えている彼が、まさか動くわけにもいかないだろう。
あの女の子の彼氏かそれとも兄かは知らないが、諸々の事情を鑑みれば彼は絶対にここから離れられない。何しろ城下町にいるのは良い人間ばかりではないのだ。弱々しく倒れ込んだ女の子に、無体な仕打ちを加えようとする馬鹿がどこから、現れるとも限らないのである。
ううむと、喉奥で小さく椋は唸った。
目線を左右に流して見るが、ひどく苦しそうな呼吸を繰り返す彼女へ、そしてそんな彼女を悲痛な表情で見下ろす彼へ手を貸そうとする人間はどうやら、いないらしい。
「……うーん」
突然、人の多い往来で倒れた若い女の人。一緒にいた青年の腕の中で、何度も何度も、明らかに通常回数以上の上下を繰り返しているのが遠目にも分かるその胸。
ちらちらと椋の目前を過るのは、頻出であるがゆえに何度も問題集や過去問でも目にしたある疾患だった。遠巻きに眺めている現時点においては、女の子が今のような状態になっている理由が椋にはひとつしか思いつかないのだ。
頻呼吸、低二酸化炭素血症、呼吸困難に手足のしびれ。
該当疾患と、主症状として挙げられるもの。当たり前のように驚くほどの短時間でそれらが意識に浮上してくることに、そして多少なりとも椋は驚いた。
「………」
勿論現時点では患者の状態が良く分からないので、確実に「そう」だと断言することは椋にはできない。だが、状況と患者の様子を考えれば一番に思い当たるものは、それだ。
ふっとひとつ息をつき、もう一度右、左と椋は視線を滑らせる。やはりまだこの場には、祈道士しかり治癒術師しかり、彼女の状況を好転させてやれる人間はいないようだった。
ついた息を、次には大きく椋は吸った。ちょっとした覚悟を、決める。
行くぞ、…行くぞ、水瀬椋。
自分に改めて気合を入れて、そして場のざわめきに負けない精一杯の声を椋は出した。
「すみません、ちょっとどいて。…すみません、ごめんなさい、通して!」
緊張は、声を張り上げる一瞬前までだった。
なぜなら声を上げてしまえば、スイッチを入れなければならないからだ。いまだ完全なわけもない、自分の中の「医者」としてのスイッチを。
一気に場の視線が自分へ集まるのが、分かった。しかし椋は足を止めない。声に言葉に目前へ開かれた道を、手足が震えているように見えないことを祈りながら進む。
座学でしか医学を学んでいない椋に、実際に患者の前に出た経験などほとんどなかった。
実習で同級の友人たちと一緒に白衣を着て患者さんと向き合ったことはあっても、こんな実地に立った経験などまったく、椋にはない。…しかしそんなことを、今目の前にいる彼女が、患者がもちろん知るわけもないのである。
そして自ら声をあげた以上、それを言い訳にすることも椋には許されない。許してほしいなら最初から声なんてあげてはいけない。
ぐっと奥歯を噛んで、わずかに口角を上げる。笑って見えなくとも良い、ただ、自分に自信がないような、どうしようもなく情けない顔をしていないならそれでいい。
彼女ら二人のすぐそばまで行くと、目の前にかかった影に気づいたのだろう男の方が顔を上げた。わずかに怪訝そうな顔をされる。
「祈道士か?」
「……学生です。診せてもらっても?」
「ああ」
言葉は決して嘘ではない。実際に椋は学生である。…魔術学院のではなく、とある大学の医学部の、であるが。
誰何の声に応じれば、こちらが見やすいようにだろう、すっと男は身体を後ろに引いた。さりげない気遣いに小さく頭を下げてから、彼の作ったスペースに椋は膝をついた。
彼の腕の中の少女は、やはりひどく苦しそうにぜいぜいと胸をあえがせている。椋の声と気配に気づいてだろう、視線をちらりとこちらに向けるも、女の子の苦しそうな様子には変わりがなかった。
まずは、ざっと「全体」を見てみる。かなり線の細い、綺麗というより可愛い、と表現する方がしっくりくる感じの女の子だった。着ているものが上等そうなのも、ここ一カ月強の実体験で何となくではあるが見て取れる。
怪我はない。湿疹や色素斑が出ている様子もない。頸部血管の怒張もない。そしてこんないかにもお嬢様な女の子が、何か呼吸器系の病気があるにもかかわらず市井に出るとも考えづらい。
とするとやっぱりなあ、…過換気だよな、これ。
考えつつ、こちらを見やってくる彼女の視線に、にっこりと椋は笑顔を向けて見せた。
「大丈夫ですよ。ね」
ゆっくり、決して聞き取れなかったり、意味が通じなかったりすることのないように。一語一語を丁寧に発音するように心がけつつ、絶対に驚かせないよう、そっと女の子の手を握る。
力なく道の上に投げ出されていた細く小さい手は、確実にこの一連のせいでだろう、ひんやりとひどく冷たかった。
驚きと不安がないまぜになったような表情を向けてくる彼女の手を、自分のもう一方の手も添えて包み込むようにする。さらに目をひらいたその子から、視線をそらさずにもう一度同じ言葉を椋は口にした。
「大丈夫です。あなたは大丈夫」
「まじゅつ、がくいんの、がくせい、さん、?」
「ええ、そんなものです。…だから、大丈夫ですよ。もう大丈夫、安心して」
―――私ね、特急に乗ってるときに過換気の患者さんを診たことがあるんですけどね。
遠巻きに驚愕する人々のざわめきを、向けられてくる遠慮のない奇異と不審の視線を無視する。じっと顔を見あげてくる、女の子の顔が本当に人形のように可愛らしく整っていることに気づいてもさらに無視する。
現実に対する内心の動揺を必死に水面下で抑えつけながら、少しでも落ち着いた態度と笑顔、穏やかな声だけを目前の患者さんへと向けるべく椋は努めていた。背中に妙な汗がつたう感覚があるが、気にしない。気のせいだ。…気のせいにしたい。
そしてそんな椋の脳内に蘇るのは、かつて救急の授業にて、担当教員が実際に言っていたことだった。
過換気についての講義において、彼が自分の経験として話していたことだ。
「…は、ふ…」
過換気と言えば、少しその話をかじったことのある人間ならすぐに「袋を口に当てさせその中の空気を吸わせる」という対処が頭に浮かぶことだろう。
実際にドラマやマンガにおいても、そんな対処がされた例をいくつか椋も知っている。…けれど実際は違うのだ。違うんだよと先生は笑っていた。
その時、私が何したと思います? 考えてみて。
「…あったかい」
ふわりと、小さく女の子が笑った。両手で包み込んだ彼女の手が、椋のそれをわずかにだが握り返してくる感覚があった。
先ほどよりも、徐々にだが呼吸が落ち着いてきていた。胸の上下する回数が減ってきている、顔色の悪さも収まってきているし、手の指にも少し、彼女の熱が戻って来たようにも思えた。
そう、その担当教員が実際にやったことというのは、患者の手を握って「大丈夫ですよ」と声をかけること。
それだけです。それだけでちゃんと、患者さんは回復したんですよ。と、そのときの彼は驚く学生たち(無論椋もその中に含まれている)を前にして笑って言っていた。
「はい。大丈夫ですから」
だから椋も今、それにならってみたのだ。緊張を隠して張り付けた笑顔がそろそろ微妙にひきつって痛い気もするが敢えて無視する。
過換気、…今回のより正確な病名をいうなら過換気症候群とは、特に若い女性に多い、ほとんどが心因性の病気だ。
何らかのストレス環境にさらされることにより、発作的に浅く速い呼吸を繰り返した結果、けいれんや呼吸困難、手足や顔のしびれなどが生じるものである。つまりその過換気、呼吸数の過剰の原因であるストレスさえ取り除いてあげられれば、ちゃんと回復できる病気なのだ。
今はもう、ペーパーバック法、つまり袋を口に当てて呼吸をさせる方法はあまり医者はやらない、のだという。下手にこれをやらせると、今度は患者が酸欠を起こしてしまうこともあるらしい。
そんな知識を今、この女の子に実践してみた椋なのであるが。
どうやらそんな実践は、ちゃんと成功してくれたようだった。
「…ありがとう。もう大丈夫です」
にいさまも、心配かけてしまってごめんなさい。こちらへの礼に次いで、ずっとその背を支えていた男の方を見上げて彼女は謝罪を口にする。
確かに発作はもうおさまっているようだし、顔色の悪さや手の冷えももう見られない。うん、とひとつ首肯を返し、そっと彼女から椋は自分の手を離した。
軽く膝のよごれを払ってその場に立ち上がれば、まだじっとこちらを見てくる二人分の、いやこの場を囲む全員の視線が刺さる。
今の自分が行ったことが「常識的」ではないことは分かり切っていたので、少しでも早くこの場を離れようと、ふたりに向かって小さく礼をした後椋はすぐにこの場を離れようとした、のだが。
「待て」
まあ、やはりと言っておくべきか椋の計画はあっさりと失敗に終わった。
完全に二人に背を向けるより前に、男の方が声を発した。連れている女の子の身なりや挙措、そして彼自身の見た目から言っても明らかにこのふたりは庶民ではない。そして椋は残念なことに、ごく普通の何の変哲もない、何の特徴もないただの庶民でしかなかった。
従って彼に待てと言われて、椋が待たない道理は成立しない。
何となくため息をつきたくなるのを堪えて振り返ると、椋と同じく立ち上がったらしい二人がまっすぐにこちらを見ていた。
「先ほど、学生だと言っていたな」
「え?」
発された言葉の意図が俄かには分からず、気づけば素っ頓狂な声を椋は出してしまっていた。
そんな椋の行動にか表情にか、わずかに笑みめいたものを口の端に浮かべて青年は言葉を、椋にも分かりやすいものへと変えて続けてくる。
「名前は。所属はどこだ。…俺は、妹の命の恩人を無下にするような人間ではない」
つい先ほどの疑問にはそれで納得がいった。しかしさらなる疑問が彼の言葉によって椋には生じた。
所属ってなんだ。魔術学院の何年生でクラスはどこでってそういう、…というか今この人、妹の命の恩人、って。
あんまりな事実の誇張に、思わず椋の口の端は引き攣った。
「い、命の恩人なんてそんな、大袈裟な」
「いいえ! 大袈裟などではありません。本当にありがとうございました」
あんなに苦しかったのに、もうどこも苦しくないんだもの、と。
しかも否定しようとすれば、さらなる否定を即座に返された。血色の戻ったかわいらしい満面の笑顔は、椋が否定を持続するのを、諦めさせるに十分な破壊力を持っていた。
困ったなあ、と内心思う。自分から場に出てしまった手前今更引くこともできないのだが、もう一つ言えば出たことそれ自体は別に後悔してはいないのだが、…今「何もしていない」にもかかわらず彼女の発作が治まった理由を、この世界の常識と照らし合わせた上で説明しろと言われても正直、無茶なのだ。
そんなことを思考する椋は果たしてどんな情けない顔をしていたのか、ふっと男の方が苦笑を浮かべた。
「そう畏まるな。俺たちはただ、おまえにこの礼を返したいだけだ」
「は、…はあ」
「せめて、お名前だけでもお聞かせいただけませんか。恩人に無礼を返すなど、ルルド家の名折れですもの」
可愛らしい女の子のおねだりというのは時に罪である。しかも確実に目の前の彼女は、絶対に己の可愛らしさを計算などしていないがゆえに余計にその罪は際立つ。
仕方がない。本日二度めの腹をくくって、ひとつ息をついて椋は二人へ名乗った。
「リョウと、いいます。…リョウ・ミナセ」
「リョウさま?」
「様付けなんてやめてください、俺はただの庶民です。…もし俺をまた尋ねてくださるつもりがあるなら、クラリオンという酒場に俺は、いますから」
「わかった。必ず訪ねよう」
「ほんとうに、…本当にありがとうございました、リョウさま。このご恩は必ず」
男の方は目礼、女の子の方は深々とお辞儀をしてこの場そして椋から背を向けた。お忍びなのだろうがしかし、明らかに服の質が庶民のそれと違う二つの背中をながめながら、ふと二人があまりにも似ていなかったことに椋は気づく。
男の方は、浅黒い肌に短い砂色の髪、緑の目でどことなく無骨で硬派な顔立ちをしていた。対して女の子の方は、透けるほど真っ白な肌に金髪碧眼、写真にとってこれは人形だぞと言われても、普通に信じてしまえそうな可愛らしさだった。
なんかちょっと、不思議だな、それも。
考えて、…そして。
「…そういえばあっちの二人の名前、聞いておくの忘れてたよ」
何とも間抜けな自分に気づき、小さく椋は苦笑した。しかしまあ、基本的に結構にむさくるしいあのクラリオンでなら、おそらく彼は入ってきた瞬間に明らかに場から浮いてしまうだろうからそう気にすることでもないか。
ひそひそと喋るのをやめない人々の視線を声を振り払うように、椋もまたその場から歩き出す。本当はそのままの道を直進すれば家へは帰れるのに、今日はあえていくつも曲がり角を面倒に曲がって裏道を通って、帰る。
ありがとう。
ひとりのたった一言が、こんなにも嬉しいと感じている自分に、…笑う―――。