P28 崩壊の序曲にかき消され
王都北部。
貴族がそれぞれ贅の限りを尽くした豪邸が軒を連ねる、一般庶民には下手な立ち入りも許されない区画である。完璧な整備のなされた道を現在、馬車に揺られながらカリアは己の邸宅へ戻るべく眺めていた。
昨日、今日と何をしていてもふと気づけば考えてしまっているのは、あの不思議な黒の青年に関することだ。
現在王都を襲う謎の病、アイネミア病を調べるためになぜか王都の詳細な地図を欲した、それがなければ調査ができなければ、今より多くの人が死ぬのだと必死な声で叫んでいた、男の。
「お嬢様? どうかなさいましたか?」
「…いいえ、」
少し憂鬱になった彼女を察してか、傍らの傅役、ニースが声をかけてくる。
その声に首を横に振りかけて、しかし少しの逡巡ののちカリアは彼を呼んだ。
「ねえ、ニース」
「はい」
「私は結局、情に流されて間違ったことをしたのかしら」
それは特定の何を、指しての言葉でもない。しかし他の誰でもない、このニースならば間違った解釈などしないとカリアは事実として、知っていた。
そして実際少しの沈黙ののち、眼鏡の奥の深海色の目をわずかにやわらかく細めて彼は、カリアに向かってふと優しく笑ってくれた。
「或いはそうかもしれませんが、しかし現在彼について動いているオルヴァ第六位階騎士の報告によれば、明日。中間報告のための時間をいつでも良いから取ってほしいと、彼は言っていたということですが」
「そうなの?」
「はい。さきほど彼からの使者が、お嬢様に伝えてほしいと私の元に」
「そう、なのね」
予想してなかった彼の返しに、つい一度二度と無駄に瞬きをしてしまう。
やはり適切にカリアの意を汲み取った彼は、ただ事実を淡々と彼女の前に並べることによってカリアが昨日行った独断に関する「正当性」を彼女へと示して見せたのだ。無論それは昨日の段階で彼にカリアが期待していたことではあるが、しかしまだ、昨日を入れても調査の開始から二日しか経ってはいないのに。
予想をはるかに上回る彼の動きに、知らず苦笑がもれていた。
「そう、か。…こちらが呼ぶより先に、彼から動いてきたということは」
「何がしかの発見を、アイネミアに関して彼がした、と考えてまず間違いはないでしょうね」
「そう、…よね…」
どんな知識人がどれほど考えてみたところで、具体的な解決の方法はおろか、その糸口さえも見つけだすことができずにいた事件を。
たった二日で覆してみせる彼とは、本当に一体、なんなのだろうとカリアは考えてしまう。
「すごいわね、彼は」
「お嬢様?」
「あのヨルドとアルセラが気に入るのも、分かる気がするわ。…ほかのどんな治癒職の者であっても、あんなにはっきり患者を救いたい、そのためなら何だってする、なんて言い切れる人間を私は見たことがない」
「…お嬢様」
俺の、何を信じなくてもいいよ。
でも、これだけは疑わないでほしい―――どこか悲しげですらある顔でこちらを真っ直ぐに見据えた黒の瞳が、落ち着いた声で揺るがずに紡がれた声がどうしても頭から消えない。
カリアより七歳も年上のはずなのに、なぜかあの時の彼はどこか、途方に暮れた子どものようにも見えた。
しかしそんな表情で、彼は確固たる己の意志を紡ぐのだ。誰に言われたのでもなく、自分で考えた結果として導き出した仮説、推論に基づいて彼は動くのだ。
それをただの夢追い人の、くだらぬ世迷言と切り捨てることも無論、あのときのカリアにはできた。あえてそれをしなかった、…できなかったのは、つまるところそれほどに、ただの一般人の事実無根かもしれぬ推論にも縋りたくなるほど、彼女が追い込まれていたということに他ならない。
彼女の下した特例に対し、驚いたようにその瞳を見開いたリョウの表情は今でも、ありありと思い返すことができる。
どうしても胸が痛くなる、ひどく、かなしい彼の純粋さだ、それは。
「彼を…そんな人間を手足として使っている自分が、嫌になるわ」
「お言葉ですが、お嬢様。それは結果論に過ぎません」
眼鏡の奥の瞳を苦笑の形にゆがめ、誰より長くカリアの傍にあり続ける傅役の青年はカリアへと言葉を向けてくる。
胡乱な瞳を彼へと向ければ、苦笑の表情のまま、どこか噛んで言い含めるような口調でニースは続けてきた。
「彼とあなたの利益が一致している以上、一方的にお嬢様が彼を使役しているということにはなりませんよ」
「そうね、…そうだと、いいのだけれど」
それも分かっているけれど、未だ未熟な感情はどうしても事実に、ついていけない。
ふと、やや自重めいた笑みとともに馬車の外を見やる。
彼女の屋敷へと続く、少し暗い通りへと馬車は差しかかっていた。十年ほど前まではある大貴族の一派の屋敷が連なっていた場所だが、今は取り壊されて廃墟になり、何でも幽霊が出るなどという噂もあって未だに買い手がついていない土地だ。
この北の区画においても決して小さいとは言えないその派閥の跡付近を、馬車はゆっくりしたスピードで進んでいく。
順調に進んでいたはずの馬車がぐらりと不自然な揺れとともに唐突に停止したのは、何か赤いものをカリアが馬車の窓越しに、目の端で捉えたような気がしたその瞬間だった。
「…どうしたの? なにか、」
なにかあったの、誰かの指示でもあったの、と。
そう前方へと向かって問おうとした、その瞬間だった。
「お嬢様!!」
「っ!!」
ぞわりと、一瞬で全身を覆い尽くす怖気とともに響くニースの声。全身を鋭く打ちすえるようなそれに、何を考えるよりも先に身体がまず反応した。
馬車のドアを内側から無理やりに破り、その勢いのまま道路へと落下する。
彼女の体が地面へと衝突したその瞬間、バキンという凄まじい音とともに、馬車の中央に何か、途轍もなく太い何かが真っ直ぐに突き立った。
ぱっと前方に散った気がする、何か赤いものはもしかせずとも御者のものか。あまりに理解不能の状況に呆然と状況を見るしかできないカリアの目前で、ぐいっとばかりに「それ」とともに引き上げられた馬車は、「それ」が生える根元に向かって物凄い勢いで引き寄せられていく。
二頭立ての、それなりの大きさはある馬車だ。訳の分からない事態に混乱し、宙づりになった状態から逃れようと暴れる馬たちに向かい、五月蠅いとばかりにまた何かが同じように鋭く突き立った。
途端に全身を真っ赤に染められ動かなくなった馬たちに、まるで満足したかのようにばくりと、なにかがそのとき開いた。
「…っ、」
息を、呑んだ。不気味極まりない赫色に染まっているその虚無―――口らしき場所に、ぽいと馬車はあまりにも無造作に放り込まれた。
阿鼻叫喚も何もなく、ただ、その底知れない虚無へと無音で。
先ほどまで彼女らを乗せていた馬車は、何一つ抵抗することもできずにただ呑み込まれていった。
「これは…!?」
「お嬢様、ご注意を!」
「…分かってる…!」
すぐさま防御の術式を、声による詠唱をすべて省略して展開。薄い暖かな一枚の膜が、全身をつつみこむようないつも通りの感覚に息を吐く。
腹の底からこみ上げてくる怖気と吐き気とを、すべて無理やりに飲み下してカリアは己の前方にある「それ」を真っ向から見据えた。恐怖の声をあげずにいるのは、傍らにニースがいるからだ。…主がこの程度の異常事態に、従者の前で情けない声をあげるわけにはいかない。
彼女らが目前にするそれは、おおよそ三階建ての邸宅ほどに巨大な一体の魔物だった。
生まれたばかりの醜い鳥類のヒナに、それはよく似ていた。違うとするなら本来なら足が生えているであろう付近に、何か球根のようなものがはりついていること、そしてその球根、および頭部には何本もの、数え切れぬくらいに多数のうねる触手を生やしていることか。
うごうごと不格好に動くそれの傍には、じわりと大地へ不気味に溶けだしつつある、何かの殻のようなものが転がっていた。
…何かの、殻のようなもの?
先日のラグメイノ【喰竜】級よりも更にありえないはずのその事態に、愕然とカリアは限界までその金色の目を見開いた。
「まさかあれ、オルグヴァル【崩都】級の卵!?」
「お嬢様、今すぐ最上級の結界の展開と、騎士団と魔術師団への増援連絡を! ここは私が何とかしますから、…早く!」
理解がまったく追いつかない事態に、がくりと両膝が奇妙に震えた。
今目の前にする人たちのさまを、現実だと認識するのを頭のどこかが拒否していた。
しかしいくら拒否したところで、事実は事実で変わらない。ともすれば吸えなくなりそうな息を、無理やりに胸を動かして椋は吸い込んだ。…明らかに変な場所へと入りこんだ空気は、ただ場違いな痛みを椋に認識させる結果にしかならなかった。
病状の経過、それ自体はそう急激ではなかったはずの患者たちが。
これがただの貧血ならば、普通はありえないはずの症状―――ショックを起こし、倒れていた。
「……っ、」
なんで? どうして? 疑問符だらけの椋の思考に、しかし明確な答えなど誰も出してくれるはずがない。
あの奇妙な地震から、おおよそ五分ほどが経過したころ。もう夜も更ける、普通なら皆寝入るくらいの時刻に唐突に、ヘイの家の裏口の戸が猛烈な勢いで叩かれはじめた。
ヘイではなく椋を呼ぶその声に尋常でない気配を感じて応じてみれば、突然アイネミア病を患っていた患者数人が倒れた、明らかにただ気を失っただけじゃない様子がおかしい、とにかく来てくれと矢継ぎ早に、詰め寄ってきた数人にまくし立てられたのだ。
半ば以上彼らに押されるようにして、ヘイともどもクラリオン近辺へとやってきた椋が目にした惨状がそして、…これである。
「…おい、リョウ」
「………っ、」
「リョウ、オイ。しっかりしろ」
言葉もなくただ絶句する椋に、きつく眉をひそめたヘイが横から声をかけてくる。
深く早い呼吸、血圧の低下により手首では脈が触れず、首に触れることでしか脈は感じられない上に不自然に速い。皮膚は冷たくじっとりとして、意識レベルにも明らかな低下がみられる。
典型的なショックの症状だった。そしてアイネミア病の患者「だけ」がこんな状態になってしまっている以上、その理由などただひとつしか椋には考えようもなかった。…即ち、全身の血液の過度の減少だ。
しかし、だからこそ彼には分からなかった。確かに寝たきりになってしまっている、重症の患者は複数人いた。少しでも動けば息が切れめまいがするということで、寝たきりにならざるを得ない人なら何人も知っている。
だが、どうしてそれが急に、ショックを全員が同時に起こすような事態になるのだ。そもそも先ほどのあの地震はなんなのだ。どうしてあの地震が起きた直後に、まるで示し合わせたかのようにアイネミア病の患者たちに、悲惨なまでの症状の増悪が起こったりするのだ。
呪い―――患者たちにかけられた、可能性が非常に高いと中間的な結論が出ているアイネミア病の原因。
己の推論が、ぎりぎりと喉許を締め上げていくかのような感覚が現在の椋にはなぜか、あった。
「リョウ!!」
「っ!!」
声とともに頬に炸裂した爆ぜるような痛みに、一気に何かが割られたように、わっとすべての音が椋の耳へと戻ってきた。
加えられた力のあまりの強さにぐらぐらする視界を己の前方へと向ければ、ひどく険しい顔をしたヘイがじっと椋を見据えていた。その片手が上がっているところを見るに、どうやら彼に思いっきり横っ面を張られたようだ。
痛みと全身を打ちすえた声に、ようやく現実を現実らしく、椋はわずかでも第三者として認識することに成功する。
吐きたくても吐けずにいた息をようやく吐いた椋を、その表情のまま見下ろしながらヘイは続けてきた。
「リョウ、いいか。これは俺でも分かるくらいの緊急事態だ」
「…っ、ああ」
「だから非常に不本意だがなァ。仕方ねえからリョウ、使え」
「!」
ざらりと目の前にかざされたのは、つい先ほどその使用を取りつく島もなく拒否されたはずの「試作品」たちだった。
しかもひとつではなく複数。呆然と、椋は決して大きくはないそれら―――治癒魔術の込められた魔具を見つめた。
「持ってきてたのか…それ」
「手持ちはそれぞれの種類が十個ずつ。いいか、ひとつの使用上限は指輪が三回、腕輪は一回だ。それ以上使ったら、おまえも患者もどうなるか俺は知らねェ保証も一切できねェ」
「ヘイ、おまえ、」
展開についていくことができず、呆然と目前のオレンジ髪の男を椋は見上げる。彼の言っていることは分かるが、それと自分の現状がどうしてもうまく重ならないのだ。
ここ数日、それらを作り続けるヘイを見ていた椋は知っていた。彼は指輪に神霊術、腕輪に治癒術師の治癒魔術を込めていた。
ちゃんと使用して効果があるなら、確実に誰かの役に立てた方が。
それこそつい先ほど椋自身が口にした言葉が、無造作に目の前に差し出されるそれらの宿す光にぎらりと、蘇る。
「いつまでもボケた顔してンじゃねえ。いいか、リョウ」
いつになく鋭いヘイの声に表情に、ごくりと思わず生唾を呑んだ。飲み込み方が悪かったのか、奇妙に食道あたりに痛みめいたものを覚えた。
椋の目を、覗き込むようにしてさらにヘイは続けてくる。
「俺はこれから家に戻って、これと同じモンを作ってくる。…リョウ、お前の言い分じゃどうせ、全部必要な訳じゃねェんだろ」
一番必要なのは、どれだ。
言外に問われる。問いかけられる。―――アイネミア病患者たちが現在起こしているショック、即ち循環血液量減少性ショックにおいて、必要な治療はなにか。
俊敏な回転を拒絶する思考を、それでも必死に椋は回す。足りているはずもない十分なはずがない知識を、引っかき回すようにして考える。
何らかの理由により血液が減少すると、身体はその血液の減少分を、血管外に存在する水分を血管内へと引き込むことで補おうとする。
だからこそこのショックに必要とされる治療は、…治療は。
「細胞外液補充液の、輸液。…体液循環の、正常化、…神霊術の、真ん中の部分の魔術だ」
間違ってはいけない。絶対に間違ってはならない。
ここでひとつでも間違えば、患者を救うことはできない。…救急の教科書が欲しいと、今まで一度も考えたことがなかったようなことをそのとき椋は強く思った。
オールマイティーに何でも治療できるという面で言えば、治癒術師の魔術を選ぶという選択もありだろう。しかし仮に同じ力を注げるとしたとき、差し迫った患者の危機を、最も迅速に解決できるのは治癒術師の治癒魔術ではない、はずだ。
なぜなら治癒術師の治癒魔術では、体への作用を明確に指定できない。
アイネミア病が免疫異常に関連する病気である以上、そちらを正常化することに力が注ぎこまれてしまう可能性をどうしても、否定することはできないのだ。
「わかった。…おい、しっかりしろリョウ。もう大概の祈道士はそれぞれのお家に帰っちまってる頃合いだ、こいつらを助けられンのはテメエしかいねェんだぞ!」
「…っ!!」
強い語気の声に、分かり切っていたことを言われているだけなのにもかかわらず体が震えた。
祈道士とは、教会に連なる職業のひとつではあるが、決してその身をすべて捧げねばならないものではない。
祈道士であっても結婚はできるし、自分の家庭を家を持つことも自由だ。…椋の知る修道士とは違うそんな部分が、まさかこんなときに途轍もないデメリットとして作用するなど、最初にアルセラからそのことを聞いた時には、椋は予想だにしていなかった。
既に教会へ助けを求めに走った人間もいるそうだが、しかし夜の教会にいる人間、それも祈道士の数などたかが知れている。
しかも祈道士は、万人への慈愛の心を説く教会に連なるものとはいえそのほぼ全員が貴族だ。果たして一般市民の危機に、こんな夜更けに快く応じてくれるのかどうか。
がくがくと、みっともなく奥歯が震えるのを止められない。鬱陶しい音を立て続けるそれを必死で食いしばり、どうしても前を向けずにいた首を無理やりにぐい、と前方へと椋はあげた。
きつい表情で見下ろしてくる、ヘイの瞳と交錯する。
震える手で彼の差し出す魔具を受け取り、目線でどれがどれかと、問うた。ヘイが応じてくる。
「まず、指輪が神霊術、腕輪が治癒術師の魔術なのは分かってンな。発動の方法もそれぞれ、前に教えた通りだ。覚えてンな」
「…ああ」
「んで、指輪はおまえの言う通り三種類、真ん中に嵌めてあるアンビュラック鉱、要するに魔力の供給源の色を変えてある。この青いのが上、赤いのが真ん中、下は白だ。覚えたか」
「青が上、赤が真ん中、下が白、…だな」
どこかの国旗でありそうな取り合わせだ、と、ひどくどうでもいいことがふと瞬間椋の頭には浮かんだ。実際にあるものなのかどうかは知らない、それがただの現実逃避めいた思考でしかないことも分かっている。
ともすればふるえそうな声を何とか叱咤して言葉を絞りだせば、ひどく険しい表情のままヘイは椋へと頷いた。
「リョウ、テメエが言ったんだからな。分かってるな?」
「…ヘイ、?」
「自分のできることを、自分のできる限りやってみせる。…忘れたとは言わせねェぜ?」
「……くっそ」
こんなときだというのにニヤリとこちらへ笑って見せる彼が、不本意にも非常にカッコよく見えてしまう。
経験やら年やらの差を見せつけられたような気がして、思わず椋は小さく毒づいた。毒づく声もまだ震えていたが、にっとそんな彼へ向かってヘイはもう一度不敵の笑みを向けてくる。
笑えるほどの悔しさに、ぐっと強く己の両拳を椋は握りしめた。
口角に力を入れる。鳴りやまない奥歯を噛み締める。表情筋を必死で動かして見せる、…笑って見せる。
不器用な表情と不格好な声で、精一杯の見栄を椋は彼へと張った。
「やってやるよ。…ああ、やってやろうじゃないか」
「おう。期待してんぜ」
すっと目の前に差し出される彼の手を、すかさずぱちんと勢いよく弾いた。
すぐさまヘイはこちらへ背を向ける、一心不乱に彼の家へと向けて走り出す。
あまりに唐突でわけのわからないその行動に彼を止めようとする周囲の住民を抑えながら、椋はひとつめの赤い指輪を己の中指へと嵌めた。




