P25 明けし後の三景 C
「ようこそ嬢ちゃん。急に呼びだしちまって悪いな」
「別に予定はなかったし、私はむしろ歓迎よ」
鷹揚な迎え入れの声に応じ、下賜名持ちの貴族のものにしては、質素で小さい屋敷へと足を踏み入れる。
堂々と表門からではなく、相手の誘導に従い三階の小窓から屋敷へ入ったのは、これが非公式な、秘密裏の会談であるからだ。彼以外のもう一人の手により、手早く小窓が閉じられるのを見やった後、ふっとひとつ、少女―――カリアは息をついた。
もはや使用が常態化しつつあるフードを取り去り、ふるふると小さく彼女は頭を振った。小窓を通り入った先は、随分と狭いが不思議なぬくみのある、まるであつらえられたかのような個室だ。
否、その形容はおおよそ正しくはないのだろう。
この部屋は今夜のような事態を、誰に目をつけられることもない少人数での会合を開くことを想定して作られた、おおよそ神経質なまでのありとあらゆる遮断技術の施されたものなのだから。
「珍しいね、ニースは連れてこなかったのかい? カリアちゃん」
「今日はニースは留守番よ。ちょっと面倒な来客があって、その後処理」
「後処理とはまた。容赦のないこった」
「別に嘘は言ってないわ。…それで? 今日はどうしたのヨルド、アルセラ?」
軽口の応酬は早々に終わらせ、ざっくりと彼らへとカリアは切りこんだ。
そんな遠慮のない言葉も、彼女らにとってみればいつものことでしかない。小さく笑って、アルセラが肩をすくめてきた。
「どうしたというかね。少しばかり、あんたに忠告をしておこうと思って」
「…忠告?」
「思い当たる節があるなら誤魔化さんでもいいぞ、嬢ちゃん」
怪訝に眉を寄せたカリアに、まったく調子を変えずにざらりとヨルドが続ける。
彼らに少なからず関係することで、カリアが忠告を受け得るような事柄など今日でいえばたった一つしかあるはずもない。さすがとも言うべきであろう情報の速さに、内心でカリアは改めて彼らに舌を巻いた。
おそらく目にか表情にか、わずかに浮かんだ納得の光を見透かされたのだろう。
わずかにその目をすいと細め、先ほどとは少しだけ趣の違う笑みをアルセラが形づくり、そして、口を開いた。
「カリアちゃん。変わった調査に乗り出すつもりらしいね?」
「随分情報が早いのね。どこからそれを?」
「今朝一番に、あの坊やがあたしたちにそういうことを言ってきたからさ」
「え…?」
数多い報告書の中に織り交ぜた、王都全体の詳細図の模写に対する使用許可。
てっきり情報の元はそこだろうと思っていただけに、予想外な彼女の言葉と、唐突にその内容に登場した坊やという単語にわずかにカリアは瞬きをした。しかし当然とも言うべきか、この場にいるもう一人であるヨルドは、アルセラの言葉に何の疑問も抱いているような様子はない。
疑問を抱くどころか、むしろふっと、どこか底知れない笑いを浮かべて彼は、こちらに向かって腕を組んだ。
「まあ正直、王都の地図は俺たちの名前で引き出されるモンとばかり思ってたからなあ」
だから嬢ちゃんの名前を見たときには、さすがにちょっと驚いたな、と。
つづく言葉にまたわずかに思考を停止させられそうになり、しかしその「坊や」が今朝がた彼らに告げたという言葉、そして第八騎士団の本部にてのカリアの見聞。それらをつなぎ合わせれば、正当性のある図柄は確かに、カリアにもまた見えた。
強い光に透かして見なければ本当に真っ黒な髪と目をしながら、その中身はびっくりするほどお人よしでのんびりな青年の姿が、浮かぶ。
二人に現在「鍛えられている」という、彼。…小さく、カリアは苦笑を洩らした。
「…彼があなたたちの名前を出したのは、そういうことだったのね」
「俺たちは元々、そういうつもりで名前を貸したからな」
「本気で師事しようとしない相手は、身分がどうあれ容赦なく切り捨てるようなあなたたちがそんな、…珍しいこともあるものね」
本当に苦笑しか出てこない。きっと彼は分かってはいないのだろう、他のどの下賜名持ちでもない、彼らヘイル夫妻がその名を許すということの希少さをそれこそ、これっぽちも。
そんなカリアの思考など彼らには当然のように読まれているのだろう、どこかひょうきんな仕草で、ヨルドは彼女へ向かって肩をすくめた。なにしろなあ、笑う。
「なにしろ俺らはここ数日、理論立てた証拠も実績もない、ただのぽっと出のどこの馬の骨とも分からん坊主にいっろんなことをこてんぱんに言い負かされっぱなしなんだ」
「本当にね。ここまでぐうの音も出ないまでにされちまうと、もういっそ爽快なくらいさ」
「こてんぱん、って、…ぐうの音も出ない、って」
あなたたちが、リョウを教えているのではないの、と。
彼の異常性を知ってはいても、さすがに俄かには信じられないような言葉の羅列に、思わず口をつきそうになった言葉をしかしカリアは飲みこんだ。脳内を一気にめぐるのは今日の昼間の彼に関する記憶。さも当然のように奇抜な言葉をさらりと口にし、奇策としか言いようのないような調査法を提案し、―――それが実行できなければ、更にあの病で死にいたる患者の数は増えると、そう確かに彼は言い放ったのだ。
彼らの名を借りたことといい、何の冗談でもなく虚言でもなく、おそらく本当に彼らを言い負かしてしまったのだろうことといい。
どこまで分からないひとなの、あなたは。
あなたがわからないと、私と違うと言うといつもどこか寂しそうな顔をして笑う彼の表情を思考の隅に、今はただ一つの事柄に対する確認の言葉だけをカリアは空気にのせた。
「あの調査法はあなたたちが背後にあってのものでは、…ないのね?」
その言葉に対し、二人から返るのは沈黙。しかしこんな場面での沈黙が、肯定以外の何も示すわけがない。
再び、小さくアルセラがふとこちらに向かって笑った。
少し考えれば分かるだろう? と。
どこか語り、言い含めるかのような語調で、口にする。
「賢いあんたのことだ、言うまでもないとは思うんだけどね。…あの坊やがやろうとしていることは、とてもじゃないが貴族や騎士、…平民に対する、優越の感覚を持った人間が行おうとするようなものじゃない」
「それは分かってる。だから驚いたの、最初に彼の考えを聞いた時から分かってたわ。…だって考えもしなかったもの、私、あんなこと…きっと、あなたたちだってそうだったんでしょう?」
「そうだな、その通りだ。なにしろあいつ、リョウの目には、俺たちにはまったく見えちゃいないもんが当然のように見えてるらしくてなあ」
是非ともそれを全部俺たちには打ち明けて欲しいところなんだが、どうも妙な遠慮というか、壁みたいなもんがまだあいつにはあるらしくてなあ。
まったく今どきの若者は難しいと、口先では笑いながらもその実、ヨルドの表情は真剣そのものだ。その目に宿る怖いほど強い光は、それだけ彼の叩き出す推論、仮説が、彼らに印象深く穿たれているという事実に他ならなかった。
私だって全部、知りたいとカリアは思った。だって彼はあまりにも分からない。あまりにも当然のように異質で当然のように誰にも平等に優し過ぎて、時折意識というよりも、次元そのものがずれてしまっているような感覚すら抱くことがある。
彼は自分を、「異者」だと言った。
それがどんな意味を持つのか、カリアにはどうしたところで今は分からないけれど、…だからこそ。
「彼は、…何なの?」
だからこそ、きっとこんなにも彼を知りたいと思う。
彼、リョウ・ミナセという存在に対して動く己の心が、決して恋情や何かといった可愛らしく綺麗なものではないことなど知っている。なぜなら彼はあまりに分からない、あまりに異質で、彼という存在がそのうちに含んでいるものは、あまりにこちらの采配一つでどうとでも使え得るのだ。
そして今、己の分からぬことを目前の二人へとカリアが問えば。
ふっとわずかに笑ったヨルドが、腕組みをして、こう言った。
あれは俺たち、治癒職に就く者にとっての、間違いなく最強の劇薬だろうな、と。
一個人を形容するにはあまりに毒々しい言葉に対し、しかしもう一人からの反論はついぞなかった。
そうだねと。彼の妻はほとんどすぐさま、ヨルドの言葉を肯定して見せたのだった。
「あれを真っ向から受け入れてきちんと考察できる人間なんて、この国はおろか全世界的にもきっと、数えられるくらいしかいないだろうと思ってるよ。あたしたちはね」
「それ、どういう」
「おやおや、ここまで聞いておいて、今更分からないって訳じゃないだろうカリアちゃん。…でもまあ、あの子の異常性を際立たせるもう一つの話をしておこうか」
静かに淡々と語るアルセラの笑みが、ひどく底知れない。
ごくりと奇妙に、己の喉が鳴るのを瞬間カリアは感じた。思わず両手を握りしめる、うつくしい菫色をした彼女の瞳になぜか、…ぞっとしないものがすうっと、背筋を走りぬけていった。
あの子はね、と。
ゆっくりと言い含めるように、柔らかですらある口調で彼女はもう一度口を開く。
「リョウはね、今まで誰も分からなかった、祈道士と治癒術師の差異に対する、…少なくともあたしとヨルドには反論の余地がないくらい、完璧な仮説を立てて見せたんだ。たった数日、あたしとヨルド、それにあたしらの弟子たちの施術を見学しただけでね」
「…なによ、それ」
「そんでもって、俺たちはそんな仮説を無邪気にあいつに真っ向からぶつけられたわけだ。…なにしろ神やら魔術の起源やら何やらを引き合いに出されるよりずっと筋が通ってるもんでなあ、真っ向からメルヴェの教義とは対立する仮説なんだが、これを捨てると何しろ、アイネミア病から回復しない、結果的に悪化して下手すれば死に至る患者が激増する可能性が非常に高い」
「っ!?」
さらりと当然のように言い切られた言葉に、半ば弾かれるようにしてカリアは頭をあげた。思わず改めてまじまじ凝視してしまう目前の夫妻は、しかし今しがた自分たちが発した言葉を撤回どころか、訂正すらしようとする気配は欠片もない。
ただくすくすと、どこか楽しげにアルセラが笑っただけだった。
「何しろあの子は、初対面のあたしに向かって言い放ったからねえ。神霊術ではアイネミア病は治らない、って」
さらに続くとんでもない台詞に、今度こそカリアは完全に言葉を失った。この人たちは何を言っているのだ。神霊術の初歩は、今や魔術学院の卒業認定にも必須とされる万能のもの。それに込める力を更に強く、術式を複雑にできれば、治せぬ病や怪我はないという―――。
そのはずの術が、今城下に発生しているあの奇妙な病気を治せない、と?
呆然と思考停止した唇は、半ば勝手に意味もなく彼女の言葉をまるきりそのまま反芻した。
「神霊術は、…アイネミア病を、治せない?」
「ほら、嬢ちゃんでも知らなかったろう。考えたこともなかっただろ? 残念ながらな、事実なんだ」
まあ教会の方が厳密にそのあたりの情報は秘匿してるからな、仕方ないと言えば仕方ないんだが、と。
ヨルドは軽く笑い、アルセラの方は一瞬苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。彼らはごく普通に反応しているのに、未だにカリアだけ思考が戻ってこない。治らない病、治せない病、…誰が、誰にそんなことを言ったと、彼らは言った?
からりとひどく奇妙な具合に、己の喉が渇いていることにそのときようやくカリアは気づいた。
しかし目前に用意されたティーカップに手を伸ばす気も起きず、実際手を伸ばしたところで指の震えが確実にティーカップを割ってしまうだろうと、思った。
「……そんなことを、リョウは自分の力だけで事実だと断じたということ?」
「ああ、そうだ」
水分なくかさついたカリアの言葉に、あまりにあっさりと返されるのは端的な肯定。
結局底知れなくなっていく一方の彼の不可解さに、知らず吐息もため息めく。次から次へと息つく暇もなく、怒涛のように叩きつけられた情報にもはや目が回りそうだった。
けれどこの恐怖じみた酩酊にも似た感覚こそが、彼らが今日こんな夜遅く、わざわざカリアをこんな面倒な手段を持って呼び出した理由であることは想像がついた。一見のんびりのほほんとした顔のあの黒の青年が、どこまでも分からない劇薬であるということ―――それをきちんと事実としてわきまえて使えと、ふたりは言っているのだ。
ぞくりと、どこか怖気のような冷感が背筋を走り抜ける。
今更ながらそんな途轍もないものに、とうの昔に己は手を出してしまっているのだと。
本当に今更、もうどこにも引き返せなくなったような頃合いで彼女は、思い知る。
「俺たちくらいの歳になればな。ああいう激流に呑まれようと、俺たちなりの処世ってもんが一応はできるようになってくるもんだ。…だが」
「でもね、カリアちゃん。あんたはまだ若い、感受性や器の広さなんてものは、あたしたちとは比べるまでもなくずっと豊かなんだ」
だから、と。
それ以降の言葉はすべて空気の中に、カリア自らが読みとるべきものとして容赦なく曖昧に放出された。
「気を、…つける、わ」
そしてカリアは、それらを読み取れないほど幼くもなければ、それらすべてを第三者的に判断し受け取り受け流すことができるほど大人でもなかった。
彼女がそうであることを、知っているからこその二人の言動が奇妙に身に沁みるような気がする。どこか痛みじみてもいるそれは、刺さるという方がよりカリアの現況の説明としては的確であるのかも知れなかった。
あからさまに動揺しているカリアに、今度はどこか少し困ったようにヨルドが苦笑した。
「会話の大体は、自動筆記に写し取らせてある。出してやるから、あとでニースにも見せておいてやれよ、嬢ちゃん」
「ええ…」
応じる声すら曖昧になる、自分を情けないと思いつつもどうしようもない。
こんなときばかり、彼の笑顔がやけに脳裏には蘇って思考に刺さってくる。その他意のない表情に己を咎められているような気がして、わずかにカリアは唇を噛んだ。
そんな顔をするもんじゃないよ、と。
苦笑しながらアルセラの勧めてくれた、彼女手ずから淹れ直してくれたお茶は熱く、そしてひどく、苦かった。




