P24 明けし後の三景 A/B
ぐるぐると先ほどから、同じ事柄ばかりが頭の中を巡り巡っている。
嵐にも似たそれが終わった、後。なにもかもがあまりに予想外に過ぎた場の展開に、クレイの思考は今でも飽和状態にあった。
「…どうぞ」
「え?」
何に手をつける気にもなれず机でぼんやりとしていると、不意に横から、ふわりと柔らかな湯気の立つ一杯の紅茶を差し入れられた。
いつの間にか、うなだれるように下げてしまっていた顔を上げる。
挙げた瞬間に交錯したのは、夏の日の高い空に似た蒼色の双眸だった。
「…ジュペス」
「お口に合うかどうかは分かりませんが、もしよろしければ」
「ありがとう。いただこう」
わずかな笑みとともに差し出されるそれを、受け取る。大きく息を吐いてその香りを吸い込む、口をつけた当初は味など全く感じられなかったが、ゆっくりと同じ動作を繰り返していくうちに、徐々に手にする紅茶の香りや、味もクレイのもとへと戻ってきた。
誰が淹れても大してうまくならない、この場に備え付けの紅茶が喉をすべっていく。
二人のほかには誰もない場の中、ごくりと自分の喉が動く音だけがわずかに、鳴った。
「なにも、聞かないんだな」
ぽつりとクレイが口にしたのは、うまくない紅茶のカップをほとんど干してからのことだった。
おそらく彼以外の騎士見習いがあの場にいたなら、既に様々な意味で先ほどまでここにいた「奴」のことは噂になってしまっていただろう。何しろ非常に印象に残りやすい、黒髪黒眼という珍しい色の男だ。…その内面は見た目以上に、本人無自覚に凄まじいが。
しかし何も尋ねない、決して興味がないわけではないだろうに、その意識を欠片も出さないこの騎士見習いはやはり只者ではないと、クレイは思う。
沿岸部に出没する、性質の悪い海賊の討伐に第八騎士団が遣わされたとき、副長が地元の警備隊から見つけてきたのがこの少年だ。目端が利き、頭の回転も速く、さらに魔術も若干癖が強いものの、非常に強力なものが使える。剣の腕も並以上で、団長がいないのをいいことに、己の独断で副長が彼をそこから引き抜いてきたのである。
さらにもう一つ言うならば、他の誰であろうと基本的には蔑み軽んじる無魔たるクレイを、この少年は差別しない。
指南役は誰が良いかと問われたとき、なぜか彼は他の誰でもなく、クレイを真っ先に指名してきたのだ。俺は構わないがお前はそれでいいのか、俺は魔術は教えられないぞと事実を告げれば、今の僕に、絶対的に足りていないのはそちらですからと彼は笑い、深々とこちらへと頭を下げた。
「気になってない、訳じゃないんだろう。…聞かないのか?」
ぼんやりとその時のことを思い返しつつ、目前の少年、ジュペスへとクレイは問いかける。
彼の言葉に、少年はただ静かににこりと笑っただけだった。
「話して下さるのであれば、勿論お聞きしたいです。ですが、僕の方から無理にとは」
「…そうか」
分を弁えた、礼儀正しい受け答え。笑顔とともに紡がれるそれに、つられるように思わずクレイもまた笑ってしまった。
しかし先ほどのやり取りを見ていて、既に決めてしまった己の明日からの身の振り方についてのこともある。他の誰には語らずとも、この騎士見習いにはある程度話しておいても間違いはないだろう。
くいとカップをもう一度傾け、わずかに残っていた紅茶をすべて飲み干す。
空になったカップをソーサーの上へ戻し、ふっとひとつ息をついて、改めて彼の方へとクレイは向き直った。
「さっきの黒髪…リョウは、俺の妹の命の恩人だ」
「妹御の?」
「ああ。実際に本人に言うと、物凄い勢いで否定されるが」
「なぜですか?」
「何もしていないから、だそうだ」
…何に関してもそうだがな、あいつの場合は。
そのやりとりは、何度繰り返しても結局同じ所にしか収まらない。あんなの知ってれば誰でもできるんだよと、いつもリョウはどこか曖昧に笑うばかりだ。
意味が良く分からないのだろう、ややぽかんとした表情でこちらを見てくる彼にまた、クレイは小さく笑った。
「あいつはあの顔そのままに、誰に対しても緊張感のない随分のんびりした奴だ。かなりの変わり者ではあるが、悪い奴じゃない」
「………」
「だから、だろうな。…まさか、ああもリョウに怒鳴られるとは」
さすがに思っていなかった、と。
言いさして、わずかにクレイは目を細める。そもそも彼がこんな場所にまでやってきた、それ自体に既にクレイは驚いていた。
基本的に開放的な作りになっているこのエクストリー王国の王宮は、訪問しようとさえ思えばここまで訪ねてくること、それ自体は決して難しくはない。王宮の一般への開放は先代及び今代の国王の意向であり、国あるいは人間に対し何がしかの悪意を持っているようなものでなければ誰であれ、入廷を拒まれることはないのだ。
しかしその事実を知っていて尚、彼の訪問はクレイにとって非常に予想外だった。
さらに言えば訪問の理由は、それ以上に予想外であるにも、ほどがあった。
「……その言葉は、僕も聞きました」
どこか苦くも取れるような、曖昧な笑いを彼が口許に刻む。黒の青年が紡いだのは、確かに絶対的な事実であると同時に今や、ほとんどだれもがと言っても過言ではないほどないがしろにし、無意味とあざけるものだった。
言葉に何も言えなかったのは、リョウのあまりの必死さと真剣さに対する己がひどく滑稽に思えたからだ。
多分に奇妙なところはあれ、基本的には一般市民である彼でさえ動こうとしているのに。
俺はいったい、この場所であんな紙切れを相手に、今まで何をしていたのだろうか、と。
「ラピリシア団長閣下にではなく、是非ともうちのあの団長閣下に聞かせたい台詞だったな、あれは」
彼の叫びを聞いたのは、最年少にして最強とも言われる、地と火の魔術を得手とする第四魔術師団長。年若いが故に敵も決して少なくないとは聞くが、部下たちの信頼はあつく、領民たちの評判も上々のもの、領地の収支も先代から引き続き非常に安定しているという。
一方クレイたちの所属する第八騎士団の団長オルヴェル・ローガニルトは、常に前線は団の他の騎士たちに任せきり、部下に稽古をつけることも滅多にない。常に豪遊に耽り周囲に女をはべらせ、最近では本当に団長たる実力を持っているかどうかも密かに部下たちの間では疑問視されているという、まるで駄目な人間の見本のような人物だ。
実際に口にはせずとも暗にそれを示すクレイのいいざまに、わずかにジュペスは眉をひそめた。
「クレイトーン様、…それは」
「冗談だ、気にするな。今ここには、俺とおまえしかいないしな」
「………」
さらりと加えたその一言に、目の前の少年はまた小さく笑った。そうですね、頷くその表情にわずかに困ったような色があるように見えるのは、おそらくクレイの気のせいという訳ではないのだろう。
益体もないことを言うのはそれくらいにしようと、クレイは改めて目の前の彼の名を呼んだ。
「ジュペス」
「はい」
すぐさま応じる彼の目を見る。どこか年不相応にも思える落ち着きを宿す蒼穹の瞳に、静かに笑みかける。
あのやりとりをすぐそばで眺め、遠慮のない激しい語調の言葉をぶつけられ。目の前で特例のおりる瞬間を見聞きし、当然のように自分一人ですべてをやるのだと言いきったあの黒頭に対して。
結果として、今己の最もなすべきとクレイの考えた事柄はひとつだった。己の本音と建前を両立させられる策は、ただひとつのみが存在していた。
既に、リョウにはそれを告げた。明日彼を迎えに行けばほぼ確実に本当にそれでいいのか、そこまで本気かなどと言われることだろう。…クレイの知ったことではないが。
騎士は国を護るため、国の、人を守るための存在というのなら。
確かにその言葉を違えず、動いてやろうと、思ったのだ。
「―――俺は明日から、リョウと行動を共にしようと思う」
さらりとごく当然のように、既に決定した事柄として相手へと告げた彼の言葉に。
にわかには訳が分からぬように、きょとんと目前の騎士見習いの少年はその目を丸く見開いた。
「はっはァ? 随分早ェお帰りだと思ったら、そんなことか」
「そんなことじゃないだろ、まったく」
窓から見える空の色は、ようやく太陽も沈みきり、夜はこれから、という頃合いの宵空である。
しかしそんな時間に見合わず、既に体内に蓄積した、主に心理的な疲労にげんなりと椋は深い溜息を吐いた。あからさまに疲弊した椋の様子に、テーブルの向こう側に行儀悪く座る家主はくくっと楽しげに喉奥で笑った。
現在晩飯としてテーブルの上に並んでいるのは、もはや椋に作る気力もなかったので、城からの帰りがけに買ってきた市場のお惣菜、の残骸である。
冷たいだのこれは嫌いだのこの味は俺はいらんなどとさんざんだだをこねられたが、あんまりワガママ言うとデザートのプリン抜くぞという椋の一言でそれなりに静かになった。
胃袋とはつくづく偉大だと、変にしんみり思ってしまいつつ。本日のデザート、クリームたっぷりのショートケーキにざくりと椋はフォークを刺す。
現在ヘイの食べているプリンとともにそれを買った時、妙にほほえましい視線を向けられたのが印象的だった。…まさかあのお菓子店のお姉さんも、それが子どもにでも彼女にでもなく、野郎二人がデザートに食べるためのものとは思いもしなかったことだろう。
大きめに切った一口分を口に放り込めば、べたべたに破壊的なまでの甘さが一瞬で口いっぱいに広がる。
なんとなく、そういうものが食べたい気分だったのだ。明日に何もないなら酒が飲みたかったが、ヘイの酒癖のはんぱない悪さを危惧してあらかじめ危機回避の策を椋は取ったのだった。
「現時点でもういっろいろやっちまっといて、なンだなンだ。辛気臭ェ顔しやがって、今更なァにを言ってンだ、リョウよ」
もしゃりとさらに一口ショートケーキを崩して口の中に放りこんだとき、既に二つ目のプリンに取り掛かったヘイが笑う。
あからさまに呆れるような声音と表情が、現在の椋に対して意味することなどひとつしかあるはずもない。―――どう見てもこの家主、いつものことではあるが完璧に椋を面白がっている。
「前にも言ったろ? テメエの常識は非常識だ、ってな」
「……はいはい」
気のない声を返しつつ、さらにとショートケーキのかけらを放りこむ。
甘いなあと当たり前すぎる感想を抱きつつ、ニヤニヤしているヘイへと椋は苦笑した。
「他の誰でもなくおまえには言われたくないんだけどな、それは」
「ハッ。真っ向から否定してこねェ時点でもう認めてんじゃねーか、おまえ」
「否定してどうこうなるような問題だったら、そもそも俺だってこんなに騒がない」
再度の苦笑とため息。それぞれの価値観および常識とするものの、差異というのはしみじみ恐ろしいと椋は思う。
中でも何が一番恐ろしいかと言えば、その差異に、本来ならば当然として受けられるであろう治療をあたかも「当然」であるかのように受けることのできない人々がいること、それに耐えきれずに勝手に動いてしまう己がいることだ。
後者のどうしようもなさと譲れなさ、その爆弾性は今日、クレイを怒鳴りつけたときにほぼ初めて分かった。結局こんな世界の中で、こんなにも水瀬椋という人間はただひたすら、…愚かなまでに医療者になることだけを求めている。
そんなことは分かっていた。分かっている、つもりではいたけれど。
まさか己の医者へと向かう感情が、そこまで強いものだと一体、誰が予想できたと、いうのか。
「で? 明日からどーすんだよ、テメエは」
そのまま黙りこんでしまった椋に、いつの間にかテーブルに行儀悪く頬杖をついたヘイが言葉を促してくる。
対する椋もまた頬杖をつき、随分残りも少なくなってきたショートケーキをまた一口ぽいと放りこんだ。もしゃもしゃと甘さを感じつつ、口を開く。
「なんか、二人で調査することになった」
「ふたり? なんだ、その、クレイってやつがおまえのお目付役か」
「なんかまあ、…そういうことらしい」
ラピリシア閣下からの特例が下りた以上、そして俺がその証人となった以上。
俺にはその運用が真っ当なものであるかどうか見守り、その正当性を見定める義務がある―――。それがカリアの去った後、椋がごくごく当然のような口調でさらりとクレイに告げられた事柄だ。
その時のクレイの表情やら言葉やらを思い返すと、もはや椋には苦笑しか出てはこない。
反射的におまえはそんなに俺が信用できないのかとそのときには言いそうになったが、しかし少し考えれば、クレイがそうしようとする理由などあまりにも明確だ。
なにしろ椋は明日から、「国家機密」を片手にここ周囲をかけずり回ることになるのだから。
「騎士を引き連れる庶民、ねェ」
相変わらずに楽しそうなヘイである。実際椋に連れられることになる彼の内心はとにかく、実態としてはそうなるのだから下手な否定もできない。
結果的にカリアが発してくれた「特例」により、欲しかったものは確かに椋の手に入った。
ついでに色鉛筆(ヘイ作)も入手した。準備はおそらく、すべて整った。…だというのにどうにも椋の気が晴れないのは、自分の無意識と当然が、果たしてどこまでどう影響を及ぼしていくのかまったくわからなくなってきているからだ。
だからといって、それでは動くのをやめるかと言われれば椋は絶対に否定しか返さない。
結局いくら考えたところで、そんなことには最終的な意味など何もないのだろう、が。
「…なんか、大事になってきたなあ」
ついつい重くため息をついてしまうことは、せめて今日くらいは正直許してほしいと思う椋である。
彼がぐだぐだしているうちに、どうやらヘイは買ってきたプリン三つを平らげてしまったらしい。カチンとカップにスプーンが当たる音がしたかと思うと、ぐしゃりと容赦なく上から頭を乱雑にかき混ぜられた。
「なンだなンだ、ホントに今更怖気づいたかァ? リョウ」
「ちょ、ヘイおま、痛い!」
「たァく、なっさけねェ顔しやがって。そんなに悪ィことばっかやってんのか、アァ? うちの居候は」
「してない。…と、思う」
相変わらず上から頭を押さえつけられたままの会話は、なかなかにそのままの意味で息苦しい。ついでに言えば語尾が弱々しいものになってしまうのはもう、どうしようもないことだと思う。
そんな椋の答えにフンッとヘイは鼻を鳴らし、そしてあまりに唐突に彼の頭から手を離した。あまりに唐突に肺に入ってきた空気に、反射的にむせてしまったのもまたどうしようもないことだと思う。
げほごほ涙目になりつつ前方の人物を見やれば、オレンジ髪の家主はどこか憮然とした表情でこちらを見ていた。
そンなら別にイイじゃねェか、と。椋を見据える銀めいた蒼色の目は、どこか剣呑な光を宿している。
「悪ィコトしてるンでもねェんなら、ふつうに胸くらい張っとけ、リョウ。どうせどうあがこうとテメエは外れモンだ、奇天烈にヘンな大バカだ」
「さっきも言ったけど、そういうことホントおまえには言われたくないぞ俺」
「話は最後まで聞きやがれ。だからなァリョウ、俺が言いたいのは」
「なんだよ。言いたいのは?」
「テメエはな、なァんも知らねェ、ヘンな知識ばっか詰め込んでるその頭でっかちな黒頭、べっつに使いたきゃ使いたいだけ使えやイイってこった」
「………」
やはりどこか、憮然と剣呑な表情で言い切られた内容の予想外さについ、椋は言葉を失った。
一度二度とヘイの言葉を脳内で反芻し、徐々に更に不機嫌そうになっていく彼に、…思わず、笑ってしまった。
「なんだそりゃ。慰めてくれてんの?」
「は、精々感謝しやがれ。そこまで腑抜けた、家主に不味い料理しか食わせねェ居候なんぞ普通なら一発で追ン出されるとこだ」
「否定はしないのか。そいつは光栄だな」
「言っとくがな。褒めてねーぞ。リョウ」
「分かってるよ。…ま、その発破に応えられるくらいには明日から、頑張ってくるさ」
さらにさらにと不機嫌になる表情は、どうやら照れ隠しらしい。ぎろりと睨みつけてくるヘイは生憎ちっとも怖いとは思えず、ただただそのおかしさに椋は笑ってしまった。
向ける言葉は虚勢にすぎない。確定された事実など何一つなく、あるのは蓄積していく仮説と、その仮説のさらに上に積み重ねられる疑念と推論だけだ。
けれどそんな状態であっても、やはり何もしないよりはずっと、ましだと思ってしまうのだから。
結局現在の椋にとって、やるべきものごとなどたった一つしかあるはずも、ないのだ。




