P23 明くる日の一景3
訪ねていけば、いつでもおいしいものを作ってくれて、この背に背負っているものが何かを知っても、結局態度は変わらずそのままでいてくれて。
けれどそんなことができる、彼が尋常ではないことなどとっくの昔から確かに、知っていた。
「彼をいじめるのも、そのあたりにしておいてあげなさい、リョウ」
扉を開きながら口にしたカリアの言葉に、弾かれるようにして彼はこちらを振り返った。
そしてカリアを目の当たりにした、その瞬間黒色をした彼の目はほぼ限界に近い大きさにまん丸に見開かれる。いつものカリアであればからかうところなのだろうが、生憎今は、とてもではないがそんなことができるような雰囲気ではなかった。
この時間にカリアが第八騎士団を訪れたのは、あくまでも偶然でのことだった。
騎士団・魔術師団の双方が行き詰まっている事件の捜査に、何か新たな手はないかとここの団長に尋ねに来たのである。実際に言葉を交わしたからと言って今更なにかいい案が出るとも思わなかったが、しかし紙面上の報告では伝わってこない、何か些細なことが解決の糸口ともなりえるのだから、というのは彼女の副官兼傅役の弁だ。
けれど。確かに先触れはしたはずだというのに、肝心の団長閣下は団の騎士たちとともに捜査に出かけているとのことで留守だった。
相変わらず仕方のない、と、ため息をつきたくなる気持ちをこらえて騎士見習いの青年へとお礼を言い、この場から彼女が去ろうとしたとき、だった。
―――ここの、王都全体の細かい地図が欲しいんだ。
確かに聞こえてきた声に、思わずカリアは目を見開いた。なぜなら彼女はその声を、つい先日別の場所で耳にしたばかりだったからだ。
いちおう個室となってはいるが、完全な防音はされていない休憩室からのそれは声だった。その声は彼女がここ最近に知ったとある青年のものであり、…その言葉は一般市民が口にするには、おおよそおかしいものであった。
騎士団本部という場所と彼という組み合わせがどうにもしっくり来ず、カリアはおもむろにその扉近くへと寄っていった。
そして行為の結果として、中で交わされる漏れ聞こえる会話をそれ以降すべて、彼女は耳にしてしまったのだった。
「…カリア、どうして」
「ラピリシア、団長閣下…」
呆然と彼女を呼ぶ二人の姿に、小さくカリアは苦笑する。
ロングブーツのヒールが立てるカツカツという音が妙に場に響くのを感じつつ、彼ら二人のもとへと彼女は寄っていった。
「あなたでも、あんな風に声を荒げたりするのね、リョウ」
「あ、…えと、いや」
先ほど彼が、緑の目をした浅黒い肌の騎士へと投げた言葉に対して言えばどこか、リョウはばつの悪そうな顔で視線をあちこちへと彷徨わせた。
まさか言葉をぶつけた当人以外に、聞かれているとは夢にも思わなかったのだろう。その目がやや潤んでいるように見えるのは、今は無視することにする。
―――おまえらが国の人間を守らないで、誰が人を守るっていうんだよ!!
響く言葉に、耳が、痛い。
決して厚くもないドア程度ではその一言一句たりとも曖昧にすることなどできなかった彼の叫びは、カリアの鼓膜そして胸をも強く強く打った。
そして同時に彼の叫びを、ただ椅子にふんぞり返って部下の報告を待つだけの貴族たちに聞かせてやりたいものだと心底からカリアは思った。税を納め、労働をする民なければ貴族など決して成り立つはずもないのに、そんな基本的なことすら忘れて己の地位に胡坐をかいている人間の、どれだけ多いことか。
けれど同時にその言葉は、やはり彼が普通の人間でないことをカリアに証明するまたひとつの証拠となった。
いくら中身が正しくとも、ただの一介の平民が、位階持ちの騎士を相手にして口にできるような言葉であるはずがないのだから、それは。
「リョウ。条件があるわ」
「え?」
だからこそ唐突に切り出したカリアの言葉に、何を言われているのか分からないといった顔でリョウは瞬きをする。一方のクレイは既に自分の出る幕ではないと、場を乱さぬ静観者となることを決めてくれたらしい。
ドアを開き彼の顔を見るまでは、いったい誰に向かってリョウは話をしているのだろうとカリアは思っていた。しかしドアを開いた瞬間、彼女は納得してしまった。
なぜなら彼が相手にしていたのは、他の誰でもないクレイトーン・オルヴァだったからだ。
この第八騎士団において、無魔であるにもかかわらず位階を得たどころか、魔術を使うことのできる他の騎士たちと比較しても目覚ましい速度での昇格を果たしている稀有な存在。しかしその優秀さと無魔という、本人にはどうにもならない理由により彼は、基本的に団の誰からも疎まれていると聞いた。
先だっての彼の昇格にしても、団の雰囲気が乱れるなどと渋る第八騎士団団長を、国王陛下がなだめるような形で実現したものなのだ。本来ならば華々しく名乗ることのできるはずの下賜名「レクサス」も、オルヴァに連なる者たちの中で唯一、無魔の彼だけは名乗ることを許されてはいない。
魔術師たりえる、学院を卒業した者たちの無魔に対する優越感情はとにかく根強い。
しかしそんな彼であっても、この黒髪黒眼の青年は何も知らない顔で、そうかそうか、だからどうしたとあっさり受け容れてしまったのだろうとカリアは、思った。
「条件って、…何に対して、の?」
「あなたの望みに、対しての。…この王都の詳細な地図が欲しいと、そう言っていたでしょう?」
「…!」
だからこそ少しだけ、今から彼に対して口にすることにカリアの胸は痛みを訴える。それ以外に方法などないことは分かり切っているからこそ、痛いのだ。
彼の望みを繰り返してやれば、驚愕に再度リョウはその目を見開く。
感情を強いて押さえ込むように努めつつ、静かな声音でカリアは言葉を続けた。
「今は教えてくれなくていいわ。…そうね、今回の事件の片がすべてついたら」
「カリア?」
呼ばれる名前が、少し痛い。痛い、けれど、自分に他に何ができるともカリアには思えない。
無論これが、彼のために何かしたいという単純で明快できれいな感情による行動ではないことなどカリア本人が一番よく分かっている。完全に行き詰まりつつあるカリアたちの捜査に対し、あまりにあっさりと彼は、別の方向からの捜査方法をこちらに提示してみせたのだ。
カリアを含む誰一人として、現場の住民一人一人に着目して調査をしようなどという人間は今まで、いなかった。むしろ現場周囲に居を構える貴族らは、今回の病をとにかく気味悪がって病人は全員牢獄にブチ込めさっさと隔離しろなどという訳の分からないことを言いだし、彼らに対するぎりぎりの妥協案として、一定期日内の確実な解決を何とかカリアたちが取りつけたというのが正直なところ、なのである。
しかし何とか妥協案を通させたとは言っても、明確な捜査の方向付けもできぬまま日々は無為に過ぎていった。
設定された刻限は、今日を含めてあと、五日。…もう、形振りなど構っていられる余裕はカリアにはまったくなかったのだ。
それに。
「ねえリョウ、教えて。あなたは何なのか。あなたの突出した異質さは、どんな理由があるからなのか」
「………」
「部外者であるあなたが内部に喰いこもうとするなら、あなたはそれなりの情報と有用性を私たちに見せる必要がある。…あなたならわかるでしょう?」
「……そうだね」
「だから教えて、リョウ。あなたは「何」なのか」
知りたかった。この黒い青年は「何」であるのかを。どうして当然のように、カリアをそしてクレイを、更にはヨルドたちをも己と対等であるかのように扱ってしまえるのかを。
彼の「過去」がないことは、ニースからとうに報告として聞いてカリアは知っていた。この国の誰のものと比較しても決して引けを取らないであろう、ニースの情報網をもってしても分からない彼の詳細に、カリアは強く興味があった。
ふとした瞬間、こちらとの思考する方向の違いとその深さとを垣間見せる青年。
彼は何を持っているのか、分かるのならば、知りたかった。
「…だよ」
「え?」
つらつらと考えているうちに、不意に発された彼の言葉をカリアは聞き逃した。
いつの間にか彼から外していた視線をもう一度向ければ、ふわりと小さく、どこか困ったような顔でリョウは苦笑した。
「俺は、医者だよ」
「…いしゃ?」
「というか、医者になるために育てられてた人種、って言うのが正確だな。医学生だったんだから」
「リョウ?」
知らない言葉を、口にされた。
しかし彼の口にした、いしゃ、という言葉は妙に、すとんと胸の中に落ちるようにしてカリアの心に決して弱くはなく、残った。
「カリア、クレイ」
「…なに?」
「何だ?」
静かに呼ばれる名前に、カリアとクレイとが応じる。
やはり小さく苦笑したまま、黒の青年は二人へ続けた。
「俺の、何を信じなくてもいいよ。でも、これだけは疑わないでほしい」
どこか、ひどく寂しげでもある目で。
お願いだからと、苦しそうに笑って彼は言葉を紡ぐ。
「俺はこの、アイネミア病って病気を何としてでも治したい。一刻も早く原因を突き止めて、一人でも死ぬ人が少なくて済むようにしたいんだ」
「…リョウ」
「だから、お願いします。どうか、…ラピリシア、第四魔術師団長閣下」
「………っ…」
ラピリシア、第四魔術師団長閣下。
初めて彼に呼ばれるその名に、最初にその立場で彼へ言葉を向けたのは彼女自身だというのにもかかわらずカリアの息は一瞬、詰まった。深々と下げられる頭が苦しく、どうしようもなく哀しかった。
できるものなら、今すぐにでもその顔を上げさせたかった。そんな頼み方なんてしなくていいと、協力ならいくらでも惜しまないと、そんなきれいなことばを向けてあげたかった。
しかし動かしようもない、現実としてカリアに許されるのは。
彼に対するあまりに冷たい、たった一つの言葉、だけなのだ。
「分かりました」
「…閣下!」
驚いたように声をあげるクレイに、小さくカリアは首を横に振った。
ここに踏み込むと決めたときから、この展開は既に予想していたことだ。
「いいのよ。…リョウ・ミナセ。あなたの申請を、奇病アイネミア病に関する特例として受理します」
「…!」
「ただしこの許可により一時的に下賜される一切を、本件以外の用途に用いることは固く禁じます。少しでもおかしな行動を見せれば、いつその首が飛んでもおかしくないと思いなさい」
「わかっ…分かりました」
確かに砕けて、うちとけていたはずの彼の声が、言葉がかたく丁寧になる。胸が痛い、かなしい、…でも、この他にカリアに、どんなやりようがあるわけでもない。
そしてカリアはもうひとつ、言い置いておかねばならない言葉を口にするため大きく息を吸った。
「もうひとつ。この特例に関する責任の一切は、第四魔術師団「シーラック」団長、カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシアが負うものとします」
「!」
「第八騎士団「リヒテル」所属、第六位階騎士クレイトーン・オルヴァ。この特例に対する、証人はあなたです。異論は?」
「…いいえ。閣下の御心のままに」
やはり敏感にこちらを察してくれる彼は、すぐさま姿勢を正してその場に膝を折った。もし彼が無魔でなかったなら、今すぐにでも第四魔術師団に引き抜きたいところだ。
そしてよくせき彼という、リョウ・ミナセという青年は普通ではないのだなとしみじみ、カリアは思った。
カリアにクレイに、ヘイルの二人。
面子を揃えて並べるだけで、明らかに普通でないことが誰にでも分かるような名前たちだ。
「…やっぱり、あなたはただの従業員なんかじゃなかったのね、リョウ」
半分以上、その苦笑を特に普通でない自分に向けつつカリアは言った。はじめから普通じゃないとは思っていたけれど、まさかここまでとは流石に、考えもつかなかった。
しかしそんな彼女の言葉に、同じような苦笑を浮かべてリョウは首を横に振る。
「ちがうよ」
「え?」
「一応クレイにも言っとくけど、俺は、ただ医者になりたいだけのふつうの医学生だよ」
また先ほどの、カリアの知らない言葉をリョウは口にして笑った。何度も繰り返すその言葉は、きっと彼にとって通り一遍ではない意味を持つものなのだろうと何となく思った。
黒を宿した青年は、小さく笑って、そして、続けた。
「俺は何も、特別なことなんてないよ。
…ただ、少しでも患者のためにやれる限りのこと、やりたいって思ってるだけの…ふつうの、男だ」




