P19 見守る宝玉に触れる黒
目の前にする相手の、左目あたりに浮き上がっていた術式紋がふと、消え去る。
いつにも増しての脱力感を感じながら、大きく息をついてどさりと、クッションをきかせた自分の椅子へとヨルドは倒れ込んだ。
その音を合図にふと目を開いた青年、ニースへ声をかける。
「なあ、ニース」
「なんでしょう」
海底の色をした彼の双眸は、ぱっと見にはただの普通の目にしか見えない。
しかし目を凝らしてよくよく見てみれば、その左目だけが全体的にうっすらと白く濁っており、瞳孔の奥には複雑な術式が幾重にも描かれ組み込まれていることが分かる。幼いころにとある事件により左目を失った彼の、それは非常に精巧な義眼であった。
その白濁を治してやれないことに内心嘆息しつつ、ヨルドは彼へと向かって腕を組んだ。
「前から再三言ってることだがなあ。本当にそろそろこの義眼、外さないとお前の身体、やばいぞ」
「ご忠告痛み入りますが、仕方がありません。今の私には、これは必要不可欠ですから」
にっこり。テーブルの上へ置いていた眼鏡を手に取り、元あったようにそれを顔にかける彼が笑う。
ほそい黒縁のその眼鏡は、彼の持つ非常に特殊な義眼を普通の目と変わらぬよう、偽装するための装置のようなものだ。この国に存在する魔具師の誰もが匙を投げずにいられなかったほどの、精巧かつ多様な能力を、視力の代わりのように有するそれを偽るための、である。
義眼が全体的に白く濁ってきているのは、それなりの使用年数を経てきていることによる義眼それ自体の劣化が原因であろうことは誰にも予想がつく。
更に言えば使用する魔具の劣化は、使用者へ明確な悪影響を及ぼすとも言われている。
しかしそれは分かっていても、誰一人として劣化を取り除く方法はおろか、少しでも劣化を食い止める方法すら今まで、見つけることはできずにいるのだった。
「それにしてもだ。…嬢ちゃんがあんな顔するところなんて、初めて見たな」
「奇遇ですね。私もです」
どれほどその義眼の使用を止めろと言ったところで、互いの言葉が平行線しかたどらないことは今までの経験上分かり切っている。会話の中心を彼女へと変えて振ってやれば、あっさりとした同意を返された。
嬢ちゃん。「あの」カリアスリュート・ラピリシアをそう呼ぶことが許されているのは、おそらく王からの下賜名を持つこの国の大貴族の中でもヨルドと、彼の妻であるアルセラくらいのものだろう。
下賜名とは、一定以上の功績をあげた貴族に対し、国王から与えられる特別な名前。この国の貴族にとって下賜名を与えられることは、国王自らがその貴族を国家の運営という大事に関し、重要な人物であると全面的に認めた証に他ならなかった。
なお下賜名には位階があり、ヨルドおよびアルセラの下賜名は第三位の「キュアドヒエル」。…そしてあの金と銀の少女、カリアがその父母から受け継いだ下賜名は最高位の「アイゼンシュレイム」である。
彼女がラピリシアの当主となって既に三年が経つが、国王はその下賜名を、今は彼女が筆頭として冠するそれを取り消すつもりは毛頭ないと常に笑っている。それだけの価値が彼女にはあると、カリアの若さゆえの絶対的な未熟さを常にあげつらう貴族たちに対して王は言い切るのだ。
そんな、あらゆる意味で常に途轍もなくあらねばならない彼女が。――あの黒の青年を前にして、まるでどこにでもいるごく普通の少女のように驚き、笑っていた。
やれやれと、色々な意味で再度ため息をついてしまわずにはいられないヨルドである。
「まったく。…なあニース、頼むからあいつは俺たちんところに置いとかせてくれよ」
「他のどなたでもない、あなたがそんなことを仰いますか」
「あいつの知識と着眼点は、ただ誰かに聞いたとか教わったとか、そんな程度で収まるような簡単で単純なもんじゃない。もっと異質な、…そうだな、本質たる真実を知ってるからこそ指摘できるような、そんなことばかりを俺たちに言ってくるんだよ、あいつは」
いったいどこでどれだけ、どんな知識を誰に叩き込まれればあんな思考が可能になるのか。
苦笑交じりに昨夜アルセラが言っていた、言葉のその意味を今日、ヨルドもまた痛いほどに身にしみて実感していた。彼のような黒髪黒眼をした民族なら、この国にいる絶対数こそ少ないが実在することをヨルドは知っている。しかし噂に聞くその国は、どちらかと言えば文化の遅れた、したがって魔術の発達も遅い部類に入る国であると彼は聞いていた。
しかし、あの青年、リョウは違う。
そもそも自分が無魔だと言い切りながら魔術に、しかも一般の魔術にではなく治癒魔術に多大なる興味を示すなど。さらにはふたつの治癒魔術の、人体に対する作用機序を、ふたつ存在する治癒職それぞれの治癒魔術の差異を明らかにしようとするなど、どう考えても常人の考えることではない。
だからこそヨルドとアルセラは、ともすればこちらが呑み込まれてしまいそうな気配を感じつつも彼を、自分たちのもとへと引き込んだのだ。
こちとらそんな苦労をしているにもかかわらず、あの絶世の美少女一人の力であっさりとあの頭脳を思考を持っていかれてしまっては、本当にまったく、たまったものではない。
「…彼が只者でないことは、私も既に存じております」
そんなヨルドの思考を読んだのかどうなのか、ふと笑ってニースが口を開く。
眼鏡の奥の双眸は、相変わらずに相手に感情をどうにも、読ませない。…しかしヨルドはその感情を読ませない笑みに笑い返して見せた。まったく小さいひょろいガキだったこいつが、随分可愛くなくなってしまったものである。
「なんとなく想像はつくぜ? あれだろ。カリアの嬢ちゃんがどんな子か知ってもあの坊主、全然普通にあの態度崩さなかったんだろう」
「ええ。お察しの通りです」
「まあ、嬢ちゃんが夢中になっちまうのも分からなくはないな。そんだけあいつは、本当に妙だ」
「ええ」
ため息めいた同意の声は、どこか嬉しげにも困っているようにも取れた。
カリアの現在ある立場の特殊性を考慮すれば、まあそれも無理はなかろうとヨルドは思う。
なにしろ相手がいいところの貴族だというならともかく、あのさっぱり訳の分からない妙ちきりんな黒の青年なのだから。
「なあ、ニース。どうせお前のことだ、あいつの過去についてはもう調べられる限りは調べてあるんだろう?」
「そうですね。結局どんなに手を尽くしても、どこにもなにも、ありはしませんでしたが」
疑問の形をした確認に、あっさりとニースは肯定を返してくる。
しかし確認への肯定に続いた、その後の内容はおおよそヨルドの予想だにしなかったものであった。思わず目を見開く。
「ちょっと待て、ニース。…何もなかった?」
「はい。言葉通りに取っていただいて構いません」
「おまえ。そんな人間を、俺たちはともかくとして嬢ちゃんの傍に置いといて本当にいいのか?」
「そんな得体の知れない人間であるからこそ、他の誰でもなくお嬢様が彼を見ていらっしゃるのですよ」
この海底色の目をした青年が、まだ三十にも満たないながら、彼女の副官として傅役として、家令として非常に優秀な男であることをヨルドは知っている。彼の持つ捜査網の緻密さおよび広さも、よく分かっている。
だからこそ、何もなかったという彼の言葉には驚愕しか、ヨルドは覚えることができなかった。
意図的に隠しているのか、ただ文面および他人の記憶に残されるものとしての過去が存在しないだけなのか。分からないが、あんなとんでもない男の過去がどこにも存在しないなどというのはあまりにも、おかしい。
そして危険でないのかと言えば、危険だからこそ接触を続けているのだとニースは返してくる。
また、深いため息がついつい口を突いて出た。これだから貴族というやつは面倒なのである。
「あいつがどこの間謀だろうとそうでなかろうと、使える限りは目いっぱい使ってやる、ってことか。…嬢ちゃんは最初からそのつもりであいつに近づいたのか?」
「お嬢様が、彼を見つけたのは偶然です。ですが少なくとも最初のうちは、彼の異端性を確かめるためにお嬢様はあの青年のもとへと通っておられました」
少なくとも最初のうちは、ということは。今は必ずしもそうとは言えない、ということだ。
しかしそれは言われずとも、リョウを目にした瞬間の彼女の表情を見ればあまりに明らかだった。
年不相応に冷たく冴えた感のあるあのカリアの顔が、彼を目にしたあの一瞬でふわりと柔らかく、あまりにも簡単に崩れてしまったのだから。
「…ま、嬢ちゃんに限っては滅多にそんなことはないだろうが。もし嬢ちゃんが万一あの坊主に対して下手を打ったところで、嬢ちゃんのうしろにはニース、おまえがいるからな」
「はい。今後の経過如何によっては、お嬢様にお辛い目をお見せすることになるかもしれません」
「…少なくとも俺が見ている限り、あいつ自身がそんなに危険だとは思えないがなあ」
「彼自身は、でしょう?」
「まあな。…なにしろあいつはあまりに、この世の理ってやつを当然のようにぶっ飛ばして物事を考え過ぎる」
無知であるということは、こと研究、追求という分野においてはある意味最強の武器だ。
知識による先入観が一切存在しないからこそ、事象を眺める視点は何の制限を受けることもない。制限のない彼の思考は、新たな事象を前に立ち尽くし、倦怠停滞していたヨルドたちへとあまりに鮮やかな、新しい視点を持論を示して見せた。
それがあまりに異端なことを、普通ではないことを果たしてどこまで、彼は理解しているのだろうか。
異端は常に全体より打たれ消される方向へと動くのだと、その脅威を果たしてどこまで彼は分かっているのか。
それともそれすらすべて承知で、彼は姿を見せたというのか。
アイネミアという未知の病に、苦しむ人々を救う、そのために。
「まったくもって、困ったもんだな」
「…ええ」
少し耳を澄ましてみれば、ドア越しの楽しげなやりとりは容易くヨルド達にも聞こえてくる。
この先何がどうなるかと、考えてしまわずにはいられないのは若者を見守るがゆえのいわゆる、老婆心などというやつなのだろうか。
…こののちしばしの躊躇いの後、二人へ声をかけたヨルドに椋たちが壮絶にびくついて慌てて互いの身を離したことは言うまでもない。




